2. 宣戦布告
テレーズは幼い頃、よく母の部屋に侵入した。女官が扉の開け閉めをするタイミングで、扉の隙間から体を滑り込ませて。
時には、親友も巻き込み、二人で母に会いに行った。
テレーズたちが姿を見せれば、母はいつも嬉しそうにした。
いたずら好きな子たちね、と言いながら、両腕を広げてテレーズや親友のことを抱きしめた。
もっとも、それも今は昔。
テレーズも親友も、今年で八歳。幼い子供がするような遊びはもうしない。
しかしながら、今日ばかりは違う。
『今フェルセンが来ているの。アントワネット様のお部屋に通されたわ』
『まあ、お部屋に人を近づけさせたらだめね』
『お子さまがた、特にテレーズ様には気をつけた方がいいわよ。ヴェルサイユ宮殿にいらしている間は、あんなにおしとやかな姫様なのに、ここではちょこまかしてるから』
つい先ほど聞いた、女官の立ち話。
一昨日、父の悪口を言っていた二人だ。
(わるかったわね、ちょこまかして)
そう言い返したい気持ちは我慢する。
父は今日、政務が忙しくてプチ・トリアノンに来られない。午前中のうちに、父の遣いがそのことを知らせに来ていた。
こんな日に限ってフェルセンが来るとは、由々しき事態。
テレーズは昼食を急いで食べた後、女官たちや家庭教師の目を盗み、母の部屋に向かった。
親友も一緒だ。
「ほら早く、ティニ」
ティニというのは、親友の愛称。
服装と髪型は、テレーズとおそろい。
結い上げている髪は栗色。腰回りと髪に結ぶリボンの色はピンク。
「本当に行くの?」
親友は、これからすることを不安がっている様子だ。
「もうすぐピアノの時間よ」
「今はお母さまのことの方がだいじなの!」
午後の授業、科目は音楽。ピアノを習っている。
親友は、テレーズの母のことより、授業に遅れることを心配している。
テレーズにとっては、母のことの方が何十倍も何百倍も大事だ。
「あの男のわるだくみをあばくんだから、きけんはかくごのうえよ」
「でも……ね、ねえテレーズ」
「プチ・トリアノンは、わたしたちのすむ家なのに、わたしたちがお母さまのおへやに近づいたらダメで、ただの外国人きぞくは入っていいだなんて、おかしいわ」
「ねえってば」
「そこで何をしているのかしら」
「きまってるでしょう、フェル……」
テレーズは、ぴたりと固まる。
今の声は、自分が大変よく知る女性のもの。
嫌な予感がしつつ、おそるおそる後ろを向いた。
「お、お母さま……」
そこには母がいた。
フェルセンはいない。てっきり二人で部屋にいると思っていたのに。
「もう授業が始まっている時間でしょう。テレーズもティニも、早く自分たちの部屋に戻りなさい」
母からお叱りを受けた。
結局、テレーズは不機嫌なまま、授業を受けた。
母とフェルセンが今一緒にいるのだと思うと、授業どころではない。
おかげで課題曲の出来は散々。
同じ課題を出されていた親友は、テレーズよりもずっと上手に弾いていた。
授業の後、テレーズは親友と連れ立ってバルコニーに出た。
「女官たちが、おじさまのわるぐちを言ってたの?」
親友は、テレーズの父のことを、おじ様と呼ぶ。
「ええ。ちゃんとこの耳で聞いたもの」
自分の耳を、テレーズは人差し指でさし示す。
悪口を言っていたのは誰だったかも、確認済みだ。
「プチ・トリアノンに来るってことは、アントワネットさまと、なかよしってことよね?」
「あいつのほかにも、ここに来る男の人はいるわ。この前は、アルトワ伯が来てたもの」
「おじさまは、どう思ってるのかしら」
「分かんない」
「聞いてみたら?」
女官たちの悪口を聞いたのが一昨日。
父がここに来たのが昨日。その時、父に尋ねることも出来た。
だが、
「……なんとなく、聞いちゃいけない気がして、言えなかったの」
何故そう思うのか、自分でも分からない。
この胸に、黒くてモヤモヤしたものが居座っている。昨日両親と話をして一旦は消えたものが、今日また顔を出した。
頬を撫ぜるそよ風に乗って、黒いモヤモヤがどこか遠くへ飛んでいけばいいのに。
「テレーズの気持ちが、わたしには分かってあげられないわ。自分のお父さまのことを、おぼえてないから」
しまった、とテレーズは思った。
親友は早くに父親を亡くしている。今の話で、悲しい気持ちにさせてしまったかもしれない。
「でもわたしは、ここにいるみんなが好きよ」
気にしていないと言うように、親友は微笑む。
「エルネスティーヌという名前を付けてくれたアントワネットさま。わたしたちが知らないこと、いろんなお話を聞かせてくれる、おじさま。ジョゼフとシャルル、もちろんテレーズのことも」
胸にあった黒いモヤモヤは、そよ風ではなく、親友が吹き飛ばしてくれた。
本人が今言ったとおり、エルネスティーヌという名前は、テレーズの母が名付け親。その愛称がティニ。
本名はまた別にある。
実母は、王家の女官であるランブリケ夫人。
テレーズと同じ年に生まれた女の子を、幼友達として育てたい――母がそう望んで、ティニを迎えた。
ただ、親友はプチ・トリアノンで暮らしているわけではない。夕方になると、ランブリケ夫人のいる自宅に帰ってしまう。
また、丸一日会えないときもある。
ランブリケ夫人は体が弱く、よく体調を崩している。昨日と一昨日がまさにそうで、親友は自宅で付き添っていた。
会えない日があっても、生まれた身分は違っても、物心ついた頃から一緒にいる。かけがえのない親友だ。
だからこそ、こちらから話したいことも、相手から聞きたいこともたくさんある。こうして話をしていても話し足りないほどに。
それは家族の話題に限ったことではない。
「ねえティニ、まだできないの、好きな人」
親友は先ほど、ここにいるみんなが好き、と言った。
テレーズが今言った、好きな人、というのは恋する相手のこと。
「またそのしつもん?」
親友は呆れたように笑う。
また、と言われるが、テレーズは知りたいのだ。
「できた時には、ちゃんと教えるわ」
「ぜったいだからね。ティニのたからものも、聞きたいんだから」
宝物というのは、恋する気持ちのこと。親友同士で通じる言葉。
「なら、テレーズのたからものを聞かせてちょうだい」
テレーズは聞き返す。知りたい?、と。
「そうやって言うけど、本当は話したくてしょうがないんでしょう。アングレーム公のこと」
「だって好きな人のことだもの。どれだけ話したって、あきないわ」
一昨日の公式行事に親友は出ていなかった。その時の話をしよう。
テレーズが礼服に着替えてから、鏡の間へと移動する途中、想い人に声をかけられた。
言葉を交わした時間はわずかだったが、彼はテレーズにこう言ったのだ。
今日も大きなのを着てるな。服の方が大きいんじゃないのか、と。
服の方が大きい。テレーズ自身も、そう思っていた。
公式行事が始まると、想い人はこんなことは口にしない。緊張した様子で、決まりきった言葉を発するだけだ。
宮廷の大人たちは、彼がテレーズにこっそり話しかける姿をきっと知らない。母は知っているが、父は知らなかった。
ほとんど誰も知らない想い人の姿を、テレーズは知っている。
さらに、テレーズと彼は同じことを思っているのだ。テレーズ自身より服の方が大きいのだと。
「とくべつってかんじがするの! 気持ちが通じ合ってるんだって!」
想い人から特別な存在だと思われている、テレーズと彼は気持ちが通じ合っている。
そう感じた一幕を、テレーズは夢中で語った。
目をつむると、鮮明に思い出せる。
彼の表情や声を、はっきりと。
しばし甘い記憶に浸っていると、
「ねえ、テレーズ」
名前を呼ばれた。
目を開けると、不思議そうな顔をする親友がいた。
「それが、たからものなの?」
「そうよ」
「いつもみたいに、ニコリともしないで、ぶっきらぼうな言い方で?」
「ニコリとはしたわよ。少しわらったもの」
親友は、いつ聞いても分からない、とでも言いたそうにしている。
こうした反応をされるのは、テレーズにとって毎度のことだ。
「ティニも知ってのとおり、わたしがあっちに行くと、みんなして、わたしのことを大げさにほめるでしょう」
テレーズは、ヴェルサイユ宮殿のことを、あっちと呼ぶ。
「天使、花、ほうせき。ああいうふうに言われるの、すっごくイヤ」
着心地最悪な礼服を我慢して着ている。その姿を、裸の子供に喩えられても、テレーズはまったく嬉しくない。
花や宝石に喩えられると、まるで叱られている気分になる。花や宝石のように、少しも動くな、何もしゃべるなと言われているようで。
だがアングレーム公は、長々と褒め言葉を並べる宮廷人とは違う。それが、テレーズにとっての彼が特別な理由。
そう説明すれば、親友は納得してくれたようだ。
「今話したことを、本人に言えばいいのに」
「まだその時じゃないわ」
「そうだったわね。もっと大きくなって、りっぱな王女になるまで、気持ちはナイショにしておくのよね」
テレーズのことは話した。やはり親友の話が聞きたい。
「そうだわ、ティニ。好きな人がいないなら、あこがれをおしえて」
「あこがれ?」
「ええ、こんな人なら好きになるって。ああでも、あのバカフェルセンみたいな男なんてだめよ」
「テレーズってば、そんなにフェルセンのことがきらいになったの?」
「当たり前よ。あいつは、お父さまが今日来ないことを知っていて、だからここにやって来たんだわ」
「そんな……」
「もしかしたら、ほかにきょう力しゃがいるのかも。きっとあの女官たちよ」
「……」
「何て言うんだっけ、こういうの」
「……ちょ、ちょっとテレーズ」
「思い出した。グルになる、だわ」
そこでふと気づいた。
親友の様子がおかしい。その目は、テレーズの頭上を見ている。
「お話しのところを失礼します」
背後から聞こえた声に、テレーズは固まった。それこそ宝石か石像のように。
聞いたことのある声。
もしかしたら、あの男の声。
それでも、どうか本人ではありませんように。願いながら、おそるおそる後ろを向いた。
目の前には、ほっそりとした長い脚。
視線を上げれば、
「驚かせてしまいましたか」
紛うことなきフェルセン本人。澄ました笑みで、テレーズたちを見下ろしている。
「お二人の声が聞こえたので、ぶしつけになるとは思ったのですが、来てしまいました」
彼が何か言っているが、混乱しているテレーズの耳には入ってこない。
「ティニ、どうして言ってくれなかったの」
親友に向き直って文句を言う。フェルセンには聞こえないよう、小さい声で。
「だって、テレーズがずっとしゃべってるから」
「それはそうだけど」
すると後ろで動く気配が。
見れば、両開き窓の前でフェルセンが腰を下ろしている。
「なによ、いきなりすわりこんで」
「こうすれば、目の高さが近くなって、話がしやすくなります」
「あなたと話すことなんか何もないわ。それに、わたしはそんなにチビじゃないもの」
テレーズの父は大柄で、子供たちと話すときは、屈んで目の高さを合わせる。
そのことを思い出すと、テレーズは無性に腹立たしくなった。プチ・トリアノンで父と過ごす時間に、まるでこの男が割り込んできたかのようだ。
目の前にいるお邪魔虫から、テレーズは、ぷいっと顔を背けた。
「そういえば、お二人は背格好が似ていますが、背丈はおいくつなのですか」
「あなたになんか教えない」
ねえティニ、と言って、テレーズは親友に返事を求める。
親友が答えるより先に、
「でしたら、アントワネット様にお尋ねします」
こう言われたものだから、頭にきた。
「わたしをだまそうとしたって、そうはいかないわよ」
「だますとは、何の」
「しらばっくれないで!」
フェルセンの言葉を遮り、彼をにらみ付ける。
「いいこと?」
嫌いな相手に、人差し指を向けた。
「わたくしはフランス王女。ルイ十六世とマリー・アントワネットのむすめ。お父さまとお母さまのジャマをするものを、ぜったいにゆるさないんだから!」
フェルセンの澄ました表情が、ふっと消えた。
「行くわよ、ティニ」
テレーズは親友を連れてバルコニーを後にした。
がつんと言って、相手をぎゃふんと言わせることが出来た。
ちょっとした達成感に浸っていたが、
「おいかけてこないわね」
親友の言葉に、テレーズは足を止めた。
確かに、フェルセンは追いかけてこない。引き止める声もしない。
テレーズの胸にあった達成感は、悔しさに取って代わった。大人は子供の相手をしないと言われているかのようだ。
どうして母は、あんな男と仲がいいのか。
そして女官たちは、コソコソと二人を会わせようとしているのか。
大人たちのすることが、テレーズにはまったく理解できない。
■■■
ルイ十六世は、気分転換をするため外へ出た。
たそがれ時の庭園。
ヴェルサイユ宮殿は、じき夜の闇に包まれるだろう。
執務室に戻ったら、また政務のことで頭を悩ませる時間だ。
王の苦労を尻目に、他の王族や貴族たちは、ヴェルサイユやパリの界隈で乱痴気騒ぎに興じているのだろうか。
そうしたものに、王はまったく興味がない。
くだらない馬鹿騒ぎにいそしむくらいなら、太陽のサイクルに合わせて規則正しい生活を送った方がいい。
王妃である妻も、かつてはそうした宮廷人の輪に加わっていた。というより、輪の中心人物だったらしい。
今では、子供たちのことに夢中な母親だが……といったことを考えていると、向こうから見知った相手が歩いてきた。
王が立ち止まると、控えていた近衛兵も足を止める。
「来ていたのか、フェルセン」
「外においででしたか、陛下」
「息抜きをしたくてな。今日は会議が長引いて、つい先ほど散会したところだ」
「でしたら、お疲れでしょう」
「心配には及ばない。私は睡眠時間をしっかり確保したい性分だ。寝るまでには終わらせる」
「ならば言い方を変えます。あともうひと踏ん張りですよ」
彼らしい気遣いの言葉だ。
二人で歩きながら話をした。近衛兵は、こちらから距離をとって同じ歩調で歩いている。
「ところで、アントワネット様のことを伺いました。おめでとうございます」
まだ公式の発表はしていない。だがプチ・トリアノンに足を運んでいるなら、妻から聞いたのだろう。
「話を聞いた時は、私も驚いた。昨年シャルルが生まれたばかりなのに、もう次の子だとは」
「ええ。それと……」
フェルセンが何かを言いかけて口をつぐむ。
おもむろに立ち止まり、こちらに体を向けた。
「どうした」
「本日、マダム・ロワイヤルに宣戦布告をされてしまいました」
マダム・ロワイヤルとは長女が持つ称号。
長女がフェルセンに宣戦布告。何を言っているのか、王には分からない。
続けられた言葉が、その答えだった。
「私は、ルイ十六世とマリー・アントワネットの娘。お父様とお母様の邪魔をする者を絶対に許さないと」
王は息をのんだ。
昨日妻が言っていた。まだ小さくてもあの子だって女の子なのよ、と。
母親が娘を見る目は、確かだったようだ。
「フェルセン」
「何でしょう」
「今になって尋ねることではないが、君はつらくはないか?」
何がつらいのか。言葉にする必要はない。
この宮廷において、ハンス・アクセル・フォン・フェルセンという人物の名を知らない者はいないだろう。
宮廷では、夫も妻も配偶者以外の相手と深い仲になったところで、表立って咎められることはない。むしろ騒ぎ立てる方がまれだ。
子供が出来たとしても、みながそれなりに上手く対処している。たとえ愛人との間に出来た子供であることが、周知の事実だとしても。
それでも、
「四人目の懐妊が発表されれば、君はますます不名誉な形で注目を浴びることになる。王妃はまた愛人の子を身ごもったのかと」
大人たちが悪しざまに言われるだけなら、まだいい。
きょうだい同士で父親が違うかもしれない――そうした話が、長女や長男、エルネスティーヌの耳に入ることがあったら。
「ずるいお方だ」
こぼすように、フェルセンは言った。
「最初に言い出されたのは、陛下ご自身ではありませんか。それを覚えておいででも、そのようなことをお尋ねになるのですか」
「そうだな。くだらない質問だった。今のは忘れてくれ」
「いいえ、お気になさらず。あと質問の答えですが、誰に何を言われようと、耐え抜く覚悟は出来ています」
すでに日が沈んだ庭園。
暗がりでも、彼がまっすぐと王のことを見ているのが分かった。
【2. 宣戦布告】
ここに解説や補足などを書きます。
≪エルネスティーヌについて≫
架空の人物っぽいですが、実在しました。
ただしティニという呼び名は、作中オリジナル。
エルネスティーヌ ⇒ ティーヌ ⇒ ティニ
で、この愛称になりました。
史実の話をすると、主人公とティニは、双子と言われるくらい外見が似ていたこと。
またティニの実の親は、ポリニャック夫人のような「王夫妻のお気に入り」というわけでもなかったのに、娘が厚遇されていたこと。
以上の理由から、ルイ十六世のご落胤ではないかという、とんでもない噂も当時はありました。
もっとも、マリー・アントワネットは「あの人に限ってあり得ない」と笑い飛ばしていたようですが。
作中では、そこまでの話は盛り込んでいないので、主人公とティニは異母姉妹ではありません。
背格好が似ているだけで、外見もそこまで似ていません。
ティニの実の両親は、貴族の称号を得て年月が浅く、父親はすでに亡くなっているという設定。
なおティニが、ルイ十六世のことを「おじ様」と呼んでいるのは、歳の離れた親しい男性のことを、おじさんと呼ぶ感覚です。