10. レッスン
自宅に通って絵を教える。
ベリー公にとって、好きな子と急接近できる絶好の機会だ。
レッスン初日。
ベリー公は胸を高鳴らせて、馬車に乗り込んだ。
行き先はもちろん、好きな子の自宅。
ランブリケ母子が暮らす家は、ヴェルサイユ宮殿の近くにある。エルネスティーヌは、そこからプチ・トリアノンに通っているという。
好きな子が暮らしているのは、どんな家なのだろう。ベリー公は想像をふくらませた。
馬車の窓から見えるのは、宮殿周辺に広がる町並み。走る速度に合わせ、景色が前から後ろへ流れていく。
ベリー公の目は、窓の外に見える一軒一軒を追うのに忙しい。
前方から、広い庭付きの家が見えて、少しすると後方に消えてしまう。どの家も、ベリー公と兄が暮らす館に似ている。
どれが好きな子の家なのか、気になって仕方がない。
それなのに、馬車はなかなか停まらない。
しばらくすると、景色が変わってきた。
こじんまりとした建物が、肩を寄せ合うように並んでいる。庶民が暮らすような一帯に入り込んだ。
やがて馬車が停まり、扉が開かれた。
到着したという。
ベリー公は思った。好きな子は、実は貧乏なのかもしれないと。
だからといって、彼女への想いは冷めない。次からは、今日乗ってきたものより質素な馬車で来ようと心に決めた。
馬車から降りると、お目当ての彼女がこちらに駆け寄ってきた。プチ・トリアノンで見た時のような軽装だ。
「でん下、ようこそおいでくださいました」
会って早々、殿下と呼ばれた。
言葉遣いや振る舞いは、小さな女官だ。
ベリー公は従者を一人連れていく。馬車は時間になったら迎えに来るよう、言っておいた。
改めて、目の前にある庶民の家を眺めた。
庭とも呼べないような前庭に、一軒家と思しき建物。
王族であるベリー公の目には、家というより、何かの小屋に見える。プチ・トリアノンの建物の方がまだ大きい。
小屋もとい家の前には、何人かの大人が並んでいた。
その中で一人、一歩手前に立つ女性。ベリー公の母と同年代に見える。
彼女がランブリケ夫人。
他の人々は、この家で雇っている使用人だという。
夫人も含めて、大人たちはかしこまり、どこか緊張している様子。
ベリー公もまた落ち着かない気持ちだった。なにせ、初めて好きな子の家に入るのだ。
客間とおぼしき部屋に通され、ソファに座った。
続き部屋の扉が開いており、好きな子の話し声が聞こえる。
誰がベリー公にお茶を持っていくか、ランブリケ夫人と話しているようだ。
その姿を眺めながら、ベリー公は思った。
(いいなあ、親子がいっしょに住むのって)
プチ・トリアノンに泊まった時は、こんな気持ちにはならなかった。
あそこは王妃や従妹弟が暮らす場所だが、従妹の姿を見ても、うらやましくなるどころか、大変そうだなと思うだけだった。
それはそれとして、今一度、自分がいる部屋を見回した。
ここは好きな子の自宅。
どんなに狭くて貧乏くさい家であろうと、ベリー公にとっては、とびきり素敵な空間。
部屋の匂いまでもが、特別なものに感じられる。
ここぞとばかりに堪能しようと、思いきり鼻で息を吸った。
ちょうどその時、
「お茶をお持ちしました」
吸った息が、鼻から逆流した。
どうしたのかと彼女から尋ねられるが、何でもないと言ってごまかした。部屋の匂いを嗅いでいたと、正直に言うのは恥ずかしい。
ひとまず、彼女が持ってきたカップに口を付けた。
味は普通だが、彼女が運んできたというだけで、これは極上の紅茶だ。
「レッスンを始める前に、おねがいしたいことがあります」
彼女はベリー公の正面に座り、改まったように言う。
「何?」
「前にお話しした絵を、見せていただけないでしょうか」
しまった、と思った。
来賓を描いた例の絵。持ってくるつもりでいたのに、すっかり忘れていた。画材道具は持ってきたのだが。
どうしようと悩むも、すぐに良案が浮かんだ。
「それは次回持ってくるから、今日は君の絵をかくよ」
「わたくしを、ですか?」
彼女は驚いたように目をまたたかせる。
「そうさ。ぼくの絵のモデルになるのが、記念すべきレッスン一回目。座ったままでも立ってもいいから、好きなポーズになって」
彼女はすぐに動かない。
ベリー公が催促すると、慌てて立ち上がった。
「正面を向くより、少しななめを向いた方が可愛く見えるよ」
どの角度から見ようと彼女は可愛い。
そう言葉にしたいが、まだ口にする勇気はない。
彼女は少し斜めに体を向け、両手を胸の下あたりで重ねた。
このポーズにするという。
ベリー公はスケッチブックを広げた。
好きな子を好きなだけ観察できる嬉しさで、にやにやした顔にならないよう気をつけなくては。
「そういえばさ」
話しかけながらも、鉛筆を動かし続ける。
対して、彼女は微動だにしない。
「そんな石像みたいに固まらなくても大丈夫だよ。もっと楽にして」
声をかければ、表情が柔らかくなった。
「君って、女官みたいになったり、そうじゃなかったり、どうして話し方や態度が変わるの?」
「これは、おしばいです」
「お芝居?」
「こうしていれば『にわかきぞくの娘が王女を気取っている』と言われません」
本人の前で言わなくても、陰で言う宮廷人はいるだろうに。
だが、それを今ここで指摘するのは、エルネスティーヌに悪い気がした。
自分の好きな子が、誰かから陰口を言われているかもしれない。
想像すると、腹が立ってくる。
けれども、その気持ちはすぐ追い払った。
今は好きな子と一緒に過ごす時間。楽しむことだけを考えよう。
「ぼくと二人きりの時は、お芝居なんてしなくていいよ。プチ・トリアノンで話した時みたいにしてほしいな」
正確に言うと、二人きりではない。
この部屋には従者が控えており、また隣の部屋から、ランブリケ夫人が様子をうかがっている。
ベリー公にとって、大人たちはすでに背景の一部だ。
「それに、君から『でん下』ってよばれると、いつもどおり絵がかけなくなる」
「そ、それはこまるわ!」
彼女は両手を離してポーズを解く。
だがすぐ我に返ったように、ポーズをとり直した。
こちらが冗談半分で言ったことを本気にし、困って慌てる。
そんな姿まで、ベリー公の目には可愛く映るのだった。
■■■
テレーズは、母に乗馬を教えてほしいと頼んだ。
「どうしたの突然」
母の顔から陰りが消え、いつもの表情に戻った。
「今日は、ティニがもういない日です」
「テレーズったら、ティニをベリー公に取られて寂しいのかしら」
そのとおりだ。
いつもなら、まだ親友がいる時間。だが今日は、もう自宅に帰っている。
「あなたも一緒にレッスンを受ければいいのに」
「はじめは、そう思いました」
「あら、じゃあどうして」
「ティニは、自分でやりたいことを決めて、お父様にたのみました。わたしも自分で決めて、自分でおねがいします」
「そこまで言われたら、王妃が直々に指導するしかないわね」
母が嬉しそうに笑う。
その笑顔が、テレーズの心を軽くした。
近頃、母は元気がない。理由はテレーズにも察しがついていた。
シャルルが生まれたばかりの頃は、母からよく報告を聞いた。
おすわりが出来た。つかまり立ちが出来た。わんぱく過ぎて、世話をする女官たちを困らせているといった話を。
揺りかごの中にいる弟に、毎日会いに行けた。
テレーズや親友の背丈では、揺りかごの中がよく見えないので、父に抱き上げてもらった。
ところが、ソフィは違う。
成長報告もなければ、顔を見たいと頼んでも断られてしまう。
『もう少し大きくなったら、ソフィもお前たちと一緒に遊べるだろう。それまでの辛抱だ』
と父は言うが、父の表情もまた暗い。
さらには、妹の体調に引きずられるかのように、ジョゼフはずっと寝込んでいる。
家族が明るさを取り戻すにはどうすればいいか、テレーズは考えた。
そして思いついたのが、乗馬のレッスンだ。
テレーズが父と会える時間は、あいにく一日のうちでも限られている。ならせめて、母にだけでも笑顔になってもらいたい。
加えてテレーズ自身が、親友のいない時間の寂しさを埋められる。まさに一石二鳥だ。
そういうわけで、約束は取りつけた。
ただ事前に準備が必要だというので、レッスンは日を改めることになった。
後日、親友がまた早く帰ってしまう日。
親友を見送ったテレーズは、乗馬用の服に着替え、外へ出た。
レッスンのために用意されたのはロバ。
テレーズは初心者で子供なので、馬よりも小さいロバで練習するという。
ロバの背中を見て、テレーズはあることに気がついた。
自分が知っている鞍とは少し形が違う。
「女性は、男性のようにまたがらないで、両脚を片側に寄せて乗る。それが貴婦人の乗り方よ」
そう説明され、疑問が湧いた。
「お母様も、男の人みたいに乗ってませんでしたか?」
母は目を丸くする。
だが、すぐにっこりと笑った。
「よく覚えてるわね。でも、あなたはまだ習い始めだから、この鞍で練習しましょう」
母が言うのなら、そのとおりにしよう。今日の母は、乗馬の先生なのだから。
「馬もロバも生き物よ。大丈夫、怖くないわよって、自分にもロバにも語りかけるようにして乗るの」
「動物にフランス語が分かるのですか?」
「言葉は分からなくても、気持ちは通じるのよ」
ロバのつぶらな瞳を見つめ、テレーズは語りかけた。
大丈夫、怖くないわよ。
言葉が分からなくても、気持ちが通じるように。
「だいじょうぶ、こわくないわよ。だいじょうぶ、こわくないわよ」
合言葉のように何度も声に出しながら、鞍に腰を下ろした。
しばらく練習をした後、休憩をとった。
激しい運動ではなかったものの、疲れた。
だが疲労感のおかげで、そよ風が冷たくて心地よい。
芝生に椅子を置き、母と並んで座った。
「最初から上手く乗りこなせる人はいないわ。あなたのお父様だってそうだし、馬車を操縦する御者、戦場で馬に乗る軍人も、誰でも練習を重ねて上手になるのよ」
「お母様もですか?」
「もちろん。私が乗馬を始めたのはヴェルサイユに来てからだったわ。こんなに楽しいものだと知っていたら、あなたくらいの歳から始めたかったけど、お母さまに止められていたでしょうね」
「おばあ様に?」
「ええ。落馬すると危ないから、だめよって。それだけ、私のことを心配していたのよ」
ウィーンにいた祖母マリア・テレジア。テレーズが幼い頃に亡くなっている。
話をしながら、母が空を見上げる。
頭上に広がるのは、テレーズの一番好きな色。
「あなたのお父様と仲良くなりたいと思ったの。何かきっかけを作りたくて、乗馬を始めたのよ」
テレーズは椅子に座ったまま、身を乗り出した。
母の口から、父との馴れ初めが出てくるのは初めてだ。
「そのお話を、もっと聞かせてください」
「知りたい?」
「もちろんです」
母はすぐに答えてくれない。テレーズのことを焦らす。
「上手に乗れるようになったら、教えてあげるわ」
「ええ!?」
どんな答えが返ってくるかと思いきや、拍子抜けもいいところだ。
「教えてくれないのですか?」
「テレーズの頑張り次第よ」
「もう、お母様ったら!」
テレーズの気持ちをよそに、母はおかしそうに笑うのだった。
【10. レッスン】




