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96. 確かな想い

「マリ神父は、誰かに恋をしたことはないのですか?」


 束の間、マリ神父は呼吸を忘れた。


「そんなに驚いた顔をしなくても」


 会衆席の隣に座る彼女。その愛くるしい瞳は、マリ神父の心を見透かしているのだろうか。


「唐突に、どうしたのですか」

「気になったので、尋ねてみたくなって」


 彼女の質問に他意はない。マリ神父は聖職者として、そう解釈しなくてはならない。

 だが男としての本心では、


(女という生き物は、男を知ると変わるというが)


 彼女も変わってしまったのだろうかと、低俗なことを思った。


「質問の答えですが、ありません」

「本当ですか?」

「ええ、本当です」

「信じられません。恋をしたことが、これまで一度もないだなんて」

「ダグー夫人」


 本当は、この名前で彼女のことを呼びたくない。


「のろけ話を聞かせる相手なら、他をあたってください」

「まあ」


 彼女は明るい声で笑う。

 それから、こちらが尋ねてもいないことを語り始めた。ダグー子爵のことが好きだの、結婚相手が彼でよかっただの。


 のろけ話は止めろと、たった今言ったのに、聞いていなかったのだろうか。


 あの男、ダグー子爵はミタウに到着してすぐ彼女と結婚式を執り行い、この宮廷で仕え始めた。

 アングレーム公や他の若者と同じように、戦場にでも行ってくれればいいものを。


「妃殿下の前だと、どうしてもこうした話は出来なくて」


 公妃を相手にのろけるのは忍びないと、彼女は思ったようだ。だからといって、何故マリ神父を話し相手に選ぶのか。


 彼女の無邪気さが、憎いとさえ思う。

 それなのに、突き放せない。

 愛おしい女性を独占していられる時間は、何物にも代えがたい。


 そこで、彼女が話を止めた。

 礼拝堂に人が来た。姿を見せたのは、ユー男爵。


「マリ神父、陛下がお呼びです」


 思いがけない第三者の登場。

 苦しみから解放される安堵と、彼女を手放さなくてはならない寂しさが同時に押し寄せる。


「話の途中になりますが、私は外します」

「では、私も妃殿下の元に戻ります」


 彼女が席を立ち、出ていく。

 それからマリ神父も礼拝堂を後にした。



 王の元へ行く途中まで、男爵と連れ立って歩いた。


「ダグー夫人と仲がいいですね」


 道すがら、男爵から言われたことに心臓が止まるかと思った。


「……そう見えますか?」

「はい。この宮廷に仕える人の中で、若者といえばダグー子爵と奥方くらい。私たちとは親子ほども歳が離れているせいか、彼らと話をしていると世代の違いを感じます」


 男爵の話すことが、マリ神父の耳には、ただの音としてしか入ってこなかった。



 この春に執り行われたショワジー嬢の結婚式。

 マリ神父にとっては、まさに悪夢だった。


 夜が更けると苦しみは増し、嫉妬で気が狂いそうになった。

 彼女は今頃、あの男と同じ寝台にいる。

 あの男の前で肌をさらしている。

 あの男のものになっているのだ、と。


 悪夢はその一日だけで終わらない。今も続いている。

 彼女は昨夜、夫婦がなすべきことをしたのか。

 今夜は……といったことを、毎日のように考えている。


 もう以前の自分に戻れない。

 恋に堕ちる前の自分を、思い出せない。




■■■




 テレーズが、彼から初めて手紙をもらったのは、今から四年前。

 内容は、当時の亡命先スコットランドでの話。現地の天候や住民がどうとか。

 求愛の言葉はひとつも書かれておらず、これから友人になりたがっている相手に宛てて書いたようなものだった。


 当初は、純朴な青年が書くような文面。

 それが恋文めいたものになるのに、時間はかからなかった。

 情熱的な言葉がつづられた手紙を読みながら、テレーズの胸にわき起こったのは、むずがゆい感情。それは照れくささ。


 落馬事故の以後は、手紙の内容が変わった。熱烈さがなくなり、落ち着いたものに戻った。

 テレーズは少しだけ寂しさを覚えたが、薄情な親戚にほだされてはいけないと、自分を叱った。


 あの頃は、素直に受け止められなかった気持ち。

 だが今なら、過去のしがらみを取り払い、きちんと向き合うことが出来る。


 アングレーム公に二度目の恋をしている。


 初夜の時、テレーズは感情的になり、彼に酷い言葉を浴びせてしまった。彼の書いていた手紙は、王か王太子の考えた文章だなどと言って。


 仮に、あの手紙の内容が彼自身の言葉でなかったとしても、それならそれで構わない。

 テレーズが大事にしたいのは、過ぎたことではない。

 今この胸にある、夫への想いなのだ。



 アングレーム公は今イタリア北部にいる。コンデ軍がそこで戦っているという。


 彼が軍で活躍している話は、まだ耳にしていない。

 王家の若い世代では、アンギャン公が頭角を現しているという話は、戦場から遠く離れたミタウの宮廷にも届くのに。


 かといって、彼宛ての手紙に、武功を立ててきてとは書かない。期待をしていないのではなく、危険な目に遭ってほしくないのだ。

 彼は今や、王太子に次いで王位に近い立場。

 何より、テレーズの夫なのだから。


 もっとも、恋にうつつを抜かしてばかりもいられない。

 ブルボン王家の置かれている状況は、かんばしくなかった。


 フランス国内では、恐怖政治が終わった後も政情は安定していないようだった。

 ヴァンデをはじめ国内で起きた反革命の蜂起は、革命政府によって鎮圧され、残虐な報復によっておびただしい血が流れたと聞いている。

 彼らの死に、テレーズたちは報いることも出来ていない。


 そうした中で、あのコルシカ軍人が権力を手中に収めた。

 エジプトから戻ったのちクーデターを起こし、今や第一執政という名の新たな支配者になっているという話だ。


 フェルセンとオルレアン公の訪問、ブルボン王家が置かれている状況、相も変わらない王による精神攻撃。

 こうしたものに苦しめられる中で、アングレーム公から届く手紙が、テレーズにとって大きな慰めだった。



‘王族である私が戦地を離れたら、軍の志気に影響します。ミタウに戻ることは出来ません。

 そこで、ナポリかトスカーナの領地に妻の住まいを提供してもらえないか、あちらの君主に打診しようと考えています。


 陛下は、テレーズを手元に置いておきたい。そのお気持ちは私も重々承知しています。

 ですが私とて、妻とこれ以上離れたままでいたくありません。

 神が結び合わせたものを引き離してはならないのですから’



 これは先日、彼から王宛てに届いた手紙。

 王は呆れ顔で、テレーズにこれを見せた。自ら戦地に行くと言い出した者がこんなことを書いてくるな、とこぼしながら。


 コンデ軍が今いる場所からミタウまでは、あまりにも距離がある。テレーズがイタリアかその近辺に移り住めば、夫婦は頻繁に会うことが出来る。


 彼のつづった一行一行を目で追いながら、テレーズは頬が緩むのを抑えられなかった。


 こちらの自惚れでなければ、夫婦の想いはすでに通じ合っている。

 ただ、その確信があっても、テレーズの想いは手紙につづっていない。大切な気持ちだからこそ、面と向かって直接伝えたかった。


 彼への確かな想いが、この胸にある。

 だからこそ、ダグー夫妻の結婚を心から祝福することが出来た。


『あなたの方が先に生娘でなくなったからといって、私に気を遣わないこと』


 ショワジー嬢改めダグー夫人に、テレーズはこう言った。

 強がりではない、本心からの言葉。

 彼女の人生の節目を純粋に祝福し、幸せな夫婦になってほしいと願っていた。


 この時点では。

 だが、今は違う。


 というのも、ダグー夫人はここ何日も、体調不良で勤めを休んでいる。テレーズの元で仕えるようになってから初めてのことだ。


 もしも悪阻だとしたら、彼女が妊娠しているとしたら、テレーズはこれまでどおり彼女と付き合っていけるだろうか。

 絶対に無理だ。


 子供が出来ていないでほしいと願っている。

 こんな気持ちを抱くのは、心が卑しい女のすること。だが自分の心に嘘は吐けない。


 不安な胸の内は、アングレーム公宛ての手紙に書けない。戦場にいる彼に心配をかけたくなかった。




【96. 確かな想い】


≪補足≫

 蜂起の一例にヴァンデを挙げました。詳しい説明は割愛しましたが、参考文献で挙げた『ヴァンデ戦争 フランス革命を問い直す』に詳細が書かれています。



≪今回の話で取り上げた手紙≫

 実際に書かれたものです。翻訳サイトで読んだものを、さらに意訳しました。

 出典は参考文献で挙げたこちら。

『Le duc d'Angoulême, 1775-1844』(P81-85より)


 史実のアングレーム公も、結婚式から一年しないうちに、主人公をミタウに残していきました。

 当時のアングレーム公の心情は、もちろん本人にしか分かりません。彼のことを否定的に書く文献では、心無い憶測もなされています。


 それでもこの手紙を読めば、遠い場所にいても、彼の心に主人公がいたことが分かります。


 ただこの時期のものに限らず、夫婦間でやり取りされた手紙は確認できるものが少ないので、作中では創作で補完しています。

 もっとも「確認されていないイコール存在しない」とは言いきれません。


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