1. フランス王女
『すべての女の子は、お姫様に憧れる』
この言葉は間違っていると、テレーズは思う。
すべての女の子、ではない。
フランス王女マリー・テレーズ・シャルロットがその例外だ。
ヴェルサイユ宮殿の一室、式典の準備で慌ただしい控え部屋。
テレーズは宮廷用の礼服、ドレスを着終えたところだ。
窓の外は、いい天気。
外に出れば、春の太陽が暖かく、そよ風が心地よいだろう。
それなのに、これから宮廷の公式行事。
憂鬱で仕方がない。
「テレーズ、着心地はどうかしら。苦しくない?」
正面の鏡に、母の姿が映り込む。
テレーズの背丈は、まだ母の腰あたりまでしかない。
「平気です、お母さま」
嘘を吐いた。
平気ではない。今すぐ全部脱がしてほしい。それくらい、この服は着心地が悪い。
しかし、本当のことは言わない。
ヴェルサイユ宮殿にいる間、とりわけ公式行事の時ともなれば、テレーズはお行儀のいい王女でいなくてはならない。
だからこそ、嘘吐きになる。
「そう、よかったわ」
微笑んだ母は、こちらに顔を近づけ、
「あなたは真面目な子ね、嘘吐きさん」
内緒話をするように言った。
母の顔は、まだ「フランス王妃の顔」になっていない。
そのことがテレーズを少しだけ安心させる。
多くの宮廷人の前に出ると、母は王妃の顔になる。
テレーズは、王妃の顔をしているときの母は、あまり好きではない。なにせ娘のことには見向きもしなくなるのだ。
母は、テレーズの嘘を見抜いても、この気持ちをどこまで知っているのだろう。
「やっぱり、この髪型はこの子に似合っているわ」
顔を離した母は、テレーズの頭へ手を伸ばした。
重く、もさもさした白っぽい頭。
これは地毛ではない。髪結師が作ったものだ。
近くにいた髪結師と、母は話をし始める。
大人たちの「おしゃれ談義」は、テレーズにはよく分からない。
宮廷人の髪型は、作り上げるのに時間がかかる。
入れ毛や仮髪を付け、その上から粉をふるって色を付けるのだ。
完成を待つ間、動くことは許されない。
少しでも頭を動かすと、ご辛抱ください、と髪結師から言われ、頭を掴まれて正面に戻される。
長い時間、辛抱強く待つ。
どんどん重くなる頭、見えなくなる地毛。
その末に完成するのは、こんなもさもさ頭。
鏡の向こうの世界にいる、もう一人の自分は、見るからに元気がない。
もっとも、今の状態のテレーズのことを「おしとやかな姫様」だと言って、養育係や女官たちは褒める。
「テレーズ」
髪結師と話していた母が、こちらに向き直った。
「アングレーム公も、きっとあなたのことを可愛いと思うはずよ。だから、いつもの笑顔を忘れないで」
母の口から出てきた、想い人の名前。しかも内緒話ではなく、周りにも聞こえるような声で。
鏡の向こうにいる自分が、ぼっと顔を赤くした。
アングレーム公爵。三歳上の従兄。
本名ではなく称号で呼ぶのは、王族のならわし。
彼は、テレーズが恋をしている相手。
あいにく、まだ片想い。
今日の公式行事には王族全員が出席するので、彼も来るだろう。
気持ちがふさいでしまう日でも、テレーズにとって唯一楽しみなこと。それが、想い人に会えることだ。
娘の恋する気持ちを、母は知っている。
だが他の人に教えていいと、テレーズから母に言った覚えはない。
「テレーズったら、耳まで真っ赤」
おかしそうに笑う母。
「からかわないでください」
「からかってなんていないわ。女の子は恋をしている時が一番可愛くなるものよ。ねえ、あなたたちもそう思うでしょう?」
悪びれる様子もなく、母はその場に控えていた人々に話しかける。
髪結師、テレーズたち姉弟の養育係、テレーズに重たい服を着せた女官たちが何人か。
みながそれぞれに答えて、おしゃべりの輪が広がる。
当のテレーズは、今この場にいる大人たち全員から、恋する気持ちをからかわれている気分だ。
「お母さまも」
テレーズが声を大きくすれば、母はまたこちらを向いた。
「お母さまも今日一日、すてきな女の人でいらしてくださいね」
「あら、あなたも言うようになったわね」
「だって、お母さまは王妃マリー・アントワネット。お父さまのおとなりに、ならぶ人なのですから」
その時、扉の向こうから声がした。
そろそろお時間です、と。
テレーズは年に何回も、重たい服を着て、公式行事に出席しなくてはならない。
パニエという幅の広い張り骨を装着し、さらにスカートを膨らませるため、下穿きを何枚も重ね着する。
その上からドレスを着る。
見た目は華やかだが、着心地は最悪。
テレーズの座る席は、たいてい両親のすぐそば。もっとも、ただ座っていればいいのではない。
歩くとき。
お辞儀をするとき。
食事をするとき。
話しかけられて、返事をするとき。
何をするにも王女らしい振る舞いをする。
着心地最悪な服を着て、もさもさの重たい頭で。
大人たちはみな、テレーズを前にして褒め言葉を口にする。
なんと愛らしい姫君。
この世の天使。
可憐な花。
まるで宝石のよう……とか何とか。
こうした言葉を聞きながら、テレーズは切に思うのだった。
(早くおわらないかしら)
さっさと公式行事が終わってほしい。
ここから解放されたい。
そもそも天使や花、宝石のようだと褒められても、テレーズはまったくもって嬉しくない。
どうせ褒めるなら、重たい服と髪型に耐えながら、頑張って長時間お行儀よくしていることを褒めてほしい。
テレーズの頑張りに気づき、声をかけてくれる人が、どれくらいいるだろう。
それこそ父と、王妃の顔になる前の母。
あとは、
「今日も大きなのを着てるな。服の方が大きいんじゃないのか」
と、こっそり声をかけてくれる想い人アングレーム公くらいだ。
想い人とは頻繁に会えない。
だからこそ、交わした言葉が一言二言でも、テレーズの心はぱあっと明るくなる。
本当なら公式行事の間じゅう、ずっと周りを見回し、彼の姿を目で追いたい。だが、そうした振る舞いは品がないので我慢している。
テレーズがおおやけの場から解放されるのは、夕方になる頃。
行事は夜まで続くため、両親は他の大人たちと共に、遅くまで会場にいるという。
想い人とまた会えなくなるのは寂しい。
けれども、こういうとき、テレーズは自分が子供でよかったと思う。
大人は礼服に重たい頭のままで、いつまでも会場に留まらないといけないのだから。
翌朝。
テレーズは、いつものように身づくろいをする。
着る服は白いモスリン生地のドレス。
軽くてふわふわ、着心地は抜群。
腰回りに結ぶリボンの色は、テレーズの一番好きな、青空の色。
髪は、髪結師が作ったもさもさ頭ではない。
地毛のウェーブがかったブロンドを結い上げ、リボンを結んでいる。腰のリボンと同じ色だ。
朝の支度を済ませたテレーズは、母の元へ挨拶に行く。
その後は、神へのお祈り、朝食、家庭教師の授業。
テレーズがそうした毎日を過ごす場所が、ここプチ・トリアノン。
ヴェルサイユ宮殿から馬車で数分の距離にある、とても小さい離宮。
王家が所有する宮殿は、ヴェルサイユ宮殿の他にいくつもある。
それらの中で、テレーズが最も長い時間を過ごし、なおかつ最も好きな場所。それがプチ・トリアノンだ。
この日、午前の授業を終えたテレーズは、弟の部屋へ向かった。
二人いるうち、まずは年かさの弟ジョゼフ。
ルイ・ジョゼフ、三歳下の弟。
体があまり丈夫ではなく、おおやけの場に出られないことが多い。
テレーズが部屋に入ると、ジョゼフの世話をしている女官に迎えられた。
弟は、枕を背にして体を起こしている。昨日よりも顔色がいい。
「何を見てるの、ジョゼフ」
寝台に乗ったテレーズは、弟の隣に腰かけた。
弟が膝の上で広げていたのは、テレーズもよく知っているもの。
「お父さまの地図ね」
フランス王国の地図。父が描いたもの。
地図の専門家が描いたものだと言えば、知らない人は信じてしまうだろう。
「もう地名はおぼえた?」
弟は恥ずかしそうにしながら、半分くらい、と答えた。
まだ覚えている途中らしい。
「あねうえは、おぼえたのですか」
「もちろんよ」
地図の上に、テレーズは指を置いた。
ヴェルサイユはここ、すぐ北東にパリ。
父が戴冠式を執り行ったランス、海沿いの町カレー。
海を挟んだ向こうは英国。
その近くにある国境の先は、オーストリア領ネーデルラントで、母の実家が治めている……というように、周りの国の説明もしながら、フランスを一周する。
言い終えて顔を上げると、そこには弟のキラキラした目があった。
「あねうえ、すごい」
弟から向けられる尊敬のまなざしに、テレーズは鼻が高くなる。
今言った中で、アングレームという地名を口にした時、嬉しくなった。
なにせ想い人の称号だ。
かといって、恋する気持ちは明かさない。
恋の話を聞いてもらう相手は、昨日と今日プチ・トリアノンに来ていない親友限定。そう決めている。
「わたしは、シャルルのところへ行ってくるわね。おべんきょうもいいけど、ちゃんと休むのよ」
「はい、あねうえ」
ルイ・シャルル、二人目の弟。
昨年の春に生まれたばかりで、すくすくと成長している。今年に入ってから一層わんぱくになり、世話役の女官たちは手を焼いているという話だ。
テレーズが部屋から出ようとした時、
「あ、ちちうえ!」
明るくなるジョゼフの声。
きびすを返したテレーズは、窓辺に駆け寄った。
一台の馬車が、建物の前で停まった。いつも父が乗ってくるものだ。
そこから降りてきたのは、
「やっぱり、お父さまだわ」
「やったあ!」
寝台の上にいる弟は、顔をほころばせる。自分も行きたいと言わんばかりだ。
テレーズは弟に言った。父はこの部屋にもちゃんと来るから、無理をして起き上がってはいけないと。
それから、一旦部屋を後にした。
シャルルの顔を見に行くつもりだったが、父の出迎えに急きょ変更だ。
裾を躍らせながら、正面入り口へと続く大階段を駆け下りる。
「お父さま!」
「テレーズ、慌てなくていい」
階段の下にいた父が、身を屈めて娘のことを抱き上げる。
一気に高くなる、テレーズの視界。
目の高さが同じになると、テレーズから父の頬に口づけをしやすい。父からも、お返しに口づけをもらった。
父とは、昨日はヴェルサイユ宮殿で顔を合わせた。だがその時には、こうも明るい気持ちにはならなかった。
プチ・トリアノンだからこそ、こうして嬉しくなるのだ。
「ジョゼフとシャルルも、まっています」
「ああ、今すぐ行こう」
すると、
「オーギュスト」
父をこの名前で呼ぶ女性は、テレーズが知る限り、ただ一人。
母がこちらにやって来た。
「トワネット」
母をこの愛称で呼ぶ男性も、テレーズが知る限り、父だけだ。
「昨日はご苦労だったな。疲れは残っていないか?」
「ええ、心配は要らないわ。あなたこそ、ゆっくりしていって」
両親の会話に耳を傾けながら、テレーズはあることに気づいた。
父が娘を抱き上げていると、両親は口づけがしづらい。テレーズは、とんだお邪魔虫だ。
お邪魔虫を腕に抱えたまま、父は階段を上がる。
そのすぐ後ろに母が続く。
「そうだわ、オーギュスト」
「どうした」
「そろそろ、子供たちにあの話をしようと思うの。いいかしら?」
父は、何か思い出したような顔をしてから、ふっと目を細めた。
「そうだな。いずれ、みなに知らせることだからな」
これ以上お邪魔虫にならないよう、テレーズは黙っていようと決めた。
両親が何の話をしているのか、気になっても尋ねない。
「テレーズにも話すわ。あとでのお楽しみよ」
母がウィンクをする。
何の話だろうかと、テレーズは首を傾げた。
そののち。
いつの間にか、テレーズはうたた寝をしていた。
寝台の上、隣にはジョゼフの寝顔。
窓から見える空は、まだ明るい。
弟は寝息を立てている。
先ほどまで、両親が枕元にいて、弟はとても嬉しそうにしていた。
きっと、はしゃぎ過ぎて疲れたのだろう。
弟を起こさないように、テレーズはゆっくりと寝台から降りた。
窓の外を見れば、建物の前に、まだ父の馬車がある。
ひとまず胸をなで下ろした。
たった今、夢と目覚めの狭間で、嫌なことを思い出した。
父と母の顔を見て、もっと安心したい。
部屋から出て、両親を探しに行った。
下の階に行くと、話し声が聞こえてきた。
よく家族で過ごす部屋に、父と母はいるようだ。
「テレーズが、アングレーム公を?」
父の声が、想い人のことを呼ぶ。
飛び上がらんばかりに驚いたテレーズは、自分の口をとっさに両手で押さえ、開いていた扉の陰に隠れた。
「ええ。あなたは気づいてなかったの?」
並んでソファに座る両親。テレーズがいる場所からは、二人の後ろ姿が見える。
「意外だな。昨日の集まりの時、あの子はベリー公と話してなかったか?」
「アングレーム公とも話をしてたわよ。ベリー公と比べて交わす言葉は多くないけど、二人兄弟それぞれと接するときは、テレーズの様子が全然違うもの。アングレーム公と話すときは、恋する女の子の顔をしてるの」
「トワネットは、よく見ているな」
「まだ小さくても、あの子だって女の子なのよ」
親しげに話す父と母。
その姿は、テレーズにとって何より嬉しい。
だが、そうした気持ち以上に、恥ずかしくて仕方がない。
恋する気持ちを、父にまで知られてしまった。母はどれだけの人に、娘の恋を言いふらすつもりなのだろう。
「子供の成長はあっという間だな。もう恋の相手がいるとは」
「実を言うと、最初は私も意外に思ったわ。二人兄弟のうち、明るい性格の方じゃなくて、物静かな方を好きになったんだから」
でも、と言って、母は続ける。
「しばらくあの子を見ていて気づいたの。一人の女の子として恋をする気持ちに、周りの大人が思うことは関係ないんだって」
「なるほど。ベリー公の性格は父親似だろう。子供時代のアルトワと似ていると、他の者も言っているからな」
父の弟アルトワ伯。
この叔父には息子が二人いる。兄の方が、テレーズの想い人であるアングレーム公。弟の方がベリー公だ。
「私が思うに、アングレーム公もまんざらではなさそうね」
「テレーズと想い合っていると?」
「ええ。顔には出さなくても、自分の弟とあの子の仲の良さを、ひそかに気にしてるのかもしれないわ」
テレーズはまた声が出そうになった。これは嬉しい驚きだ。
想い人は三歳上。
こちらの想いがどんなに強くても、彼から見たテレーズはまだ子供。このままずっと片想いかもしれないと心配していた。
だが母の言うことが本当なら、テレーズにも振り向いてもらえる可能性がある。
「それにしても、不思議なものだな」
「何が不思議なの?」
「アングレーム公が生まれた時、私たち夫婦にはまだ子供がいなかっただろう。あの頃の君には、つらい思いをさせた」
「……」
「その時に生まれた男の子が、今や私たちの娘が恋をしている相手だとはな」
「もう過ぎたことよ。今はテレーズたちがいるわ。ゆくゆくはジョゼフがあなたの跡を継いで、シャルルがそれを支える。そこに四人目の、この子も加わるのよ」
テレーズは想い人のことを考えるのに夢中で、両親の会話をもう聞いていなかった。
「ところで、そこにいるおちびさん。いつまで扉の陰に隠れているのかしら」
「ひゃあっ!」
とうとう声を出してしまった。
「テレーズ、いつからそこにいたんだ」
父は驚いた顔で、こちらを向く。
盗み聞ぎしていたのが、母にはばれていたようだ。テレーズは気まずさで縮こまりながら、扉の陰から姿を見せた。
「テレーズったら、モジモジしていないで、こっちにいらっしゃい」
明るく笑う母。優しく微笑む父。
大好きな人たちの笑顔が、テレーズの心を軽くする。先ほどまで抱えていた嫌な気持ちは、もう消えてなくなっていた。
両親の元に行く前、夢と目覚めの狭間で思い出したのは、つい昨日の出来事。
公式行事を終えてプチ・トリアノンに帰ってきた時、大人たちの会話を偶然耳にした。
話していたのは、母に仕える女官二人。
『今日のアントワネット様は、いつにも増して輝いていらしたわ。きっとフェルセンがいたからよ』
『でも人が大勢いる場だと、二人だけでお会いできる時間は作れないでしょう。見ていて、もどかしいったらないわ』
『アントワネット様が会いたいと望まれている相手は、フェルセンその人。彼とはほとんど会う時間がないのに、毎日のようにプチ・トリアノンへやって来るのが王だなんて、嫌になるわ』
『本当にそうよ。あんな野暮ったい大男は、お呼びじゃないっていうのに』
彼女たちは、父のことを悪く言い合っていただけではない。
母が会いたいと望む相手は、父ではなく、フェルセンだなどと話していた。
フェルセンという男のことを、テレーズは知っている。
ちょうど昨日も、ヴェルサイユ宮殿で会った。
鏡の間でテレーズの前にひざまずき、挨拶をした大人たちのうちの一人。
彼は、ただの宮廷人に過ぎない。
そんな男のことを、王妃である母が、どうして好きになるというのだ。
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