地獄列車
電車で私の身体を触ってくる人がいる。
彼は普段、朝は7時。夕方18時の電車に乗っている。
例外はない。
そんな私は、友達と楽しく外食をしていて18時発の電車に乗ってしまったのだ。
全く気づかなかった。彼が対面上に座るまで。
ああ、同じ車両に乗っている。
こわい。
ずっと視線を感じていた。
彼はきっと狙っているのだろう。私の隣の席が空くことを。
「もう助けて……」
汽笛がなり、電車がゆっくりと動き出す。
混み具合は普段より少ない。つまり私の隣の人がいなくなれば、そのまま彼が隣に来る可能性が高いということだ。
緊張で震えた手で、額の汗を拭いながらただひたすら祈る。
彼との出会いはいつだっただろうか。
そうだ。二年前、友達の少なかったた私は親切な親友に紹介してもらったんだ。
それからというもの彼は私をとても気に入ったようで、出会う度にひたすら自分の話をしてくる。
大きな身体で私に触れて、興奮した息をもらして。
そんな彼の行動パターンを抑えた私は常日頃から注意してきたというのに……不覚だった。
もっと早い時間、もっと遅い時間の電車に乗ればいいだけの話である。ただ、それだけなのに。
なぜ私はテストよりも大切なことを忘れてしまったのだろうか。
「あ、あぁぁぁ」
呼吸が乱れてきた。
やばい、こわいよ。
お母さん、助けて。
震える手でメッセージをうつ。
『たすけてください。あの人がいます』
メッセージ送信。
意味などない。ただ、私のピンチを誰かに伝えたかった。
祈るような思いで返信を待つ。
目的の駅に降りるまで所要時間は30分。
その30分を乗り越えさえすればいいのだ。
時間にしては短い。しかし、この状況に出会った身としては何時間もの苦行にしか感じなかった。
隣の人はスマホをずっと弄っている。
お願いします。私が降りるまで弄っていてください。
緊迫した空気が流れた。
ただの移動手段でしかなかった電車が、彼がいるだけで一気に地獄へと変わる。
私が降りるまで通過する駅は全部で8つ。
つまり8つの試練を乗り越えることが私の勝利条件だ。
絶対に前を向いてはいけない。
彼と目を合わせるということは、彼にとってアピールになるからだ。
目を合わせてしまったら最期。彼は興奮した自身を抑えきれずに私を襲うだろう。
そう考えていると、すぐに1つ目の駅に到着した。
対面からガサガサと音が聞こえる。もう待ちきれない様子なのか。この獣め。
お願いだ。隣の人ーー降りないでくれ!
停車。座っていた人は次々と立ち上がり、夜の街へ消えていった。
彼女はーー変わらずスマホを弄っている。
とりあえず1つ目の駅はクリアだった。
助かった……しかし問題はこれからである。
キィィィィと古めかしい音を立てて電車は再発。
安心は束の間であった。
次の駅はよく知っている。
一番人の流動が激しい駅である。つまり、この駅で隣の人が降りてしまう可能性が一番高い。
ーー大丈夫だ、変わらずスマホを弄っている。
電車を降りる準備はしていない。
やめろ、髪をいじるな。
スマホを弄る動作以外をひないでくれ。
ヒヤヒヤしてしまう。
彼女の動く気配はない。恐らく2つ目もクリアだろう。
しかし彼の鼻息はここまで聞こえてくる。待ちきれないと語っているようだ。緊迫した空気はいつまでも私にまとわりつく。
ーーキィィィィィィ
考え事をしていると電車が次の駅へ止まった。
今止まっている駅でかなりの人が降りていった。
開いたドアから吹く冷たい風が足元を冷やした。
隣の人はーー健在だ。
正直、ここで降りなかったことは大きい。
安心していいかもしれない。
再び電車は動き出す。
しかし油断してはならない。まだ折り返し地点ではないのだ。奴は諦めていない。ここで安堵の表情を見せてはいけない。
真剣にーー私もスマホを弄る”フリ”をしなければいけないのだ。
お願いします、神様。
ピコンっと軽快な音が鳴る。
『深呼吸深呼吸』
母からだった。ありがとう、もう大丈夫だよ。
意外にも早く電車は停車した。
彼女は変わらずスマホを弄っている。
なんとかして定期券やら切符が見れたら良いのだが……。
隣の人は降りなかった。
これにて3つの駅を突破である。
これから先はあまり降りる人がいない。
当初と比べて安心感は段違いだ。
あとは来ないように祈るだけ。大丈夫、母も応援してくれている。開いたドアからの風が私の頬を撫でた。そんな気がした。
電車は動き出す。
夜も更に深まり、辺りは真っ暗になっていた。
向こうに見える景色などもはや皆無だ。
ずっとスマホを弄っているからだろうか。私の身体は悲鳴をあげていた。ごめんね。でも我慢して。
油断して顔を見上げたものならば、彼から捕まってしまうから。あと少し……もう少しで折り返し地点……。
4つ目の駅に到着した。彼女は変わらない姿勢でスマホを弄っている。時折、髪をいじるのは心臓に悪いからやめてほしい。
ちらほらと席を立つ人が続出した。
吊革に捕まっている人はほとんど見えなくなり、あとは座っている人しか見えない状況である。
ああ、こらから人が増えることがないんだな。
痛いほど理解した。
これから帰る人がほとんどで、電車も終点へ向かっている。もはや人は減っていく一方なのだ。
すると、ドア付近で集まっている学生が選挙の話をしていた。今日から選挙権が持てるといった話だ。
すごく立派だ。彼にも教えあげたい。
ーーしばらくの停車だった。
彼の鼻息だけが聞こえてくる。本当に耳障りだ。不快で気持ち悪い。
早く動いてくれ。気が狂いそうだ。
隣の人はここまで私についてきてくれた。
降りそうな1つ目や2つ目の駅で降りないでいてくれた。神様、お願いします。もはや私の心は祈るだけしかなかった。
やっと電車は進み出す。
彼女はいつの間にか姿勢を前屈みにしてスマホを弄っていた。降りる準備じゃないよね。大丈夫だよね。
「どこで降りるんですか?」と聞いてしまいたい。そしたらきっと楽になれるのに。
お願い。私のことを守って。気持ち悪いあの怪物から私を守って!
電車は夜の街を走り続けている。
隣の人は足を動かしたり、ゆらゆらと揺れ始めている。嘘でしょう? もうここまでなの?
こわい。こわい。
先程の恐怖が私を飲み込んでいく。
やめてよ。降りないで。
やだ。あの人が来るじゃん。やだ。
折り返し地点は過ぎたんだからさ、最後まで私の隣にいてよ。気持ち悪い。吐きそう。
もはやスマホに映し出された文字には焦点が合わなかった。その動揺も彼は見抜いているのだろうか?
電車はゆっくりと停車の準備をする。
私はただ、自分の運を信じるしかなかった。
横目で確認すると彼は手をモジモジとさせていた。
落ち着きのない怪物である。
電車は停車する。アナウンスの声など聞こえなかった。髪を触る。脚をゆらゆらさせている。スマホを弄っている。お願いだ。これらの動作が、電車を降りる前触れじゃありませんように。
息が詰まった。
この数秒が無限に感じる。
「はぁ……はぁ……」
ーー降りなかった。
これで5つ目もクリアである。
奇跡だ。少しでも気が緩んだら泣き出してしまいそうだ。
しかしその人は、ずっと弄っていたスマホを閉まってしまった。次の駅でチェックメイトかもしれない。
かなりの時間、彼女は共に居てくれた。感謝することに間違いはないのだ。
ただ、ただーー
欲を言うならば、最後までいて欲しかった。
対面から彼のため息が聞こえる。
臭い息が共に伝わってきそうで目眩がする。
電車が動き出した。
次で6つ目である。彼女には畏敬の念を覚える。
隣の人というだけで、ここまで私を守ってくれているのだから。
もしいなかったら私はここまでの長い時間を彼と過ごしていたのだから。
最悪、最悪の話だ。
彼女が次の駅で降りたとしても、残りの時間は10分ほどしかない。
ーーしかし、耐え難い苦痛であるのは間違いなかった。
彼女は一瞬だけ前を向いた。
その動作を私は見逃さない。
そして、電車はゆっくりと停車を迎えた。
「ッーー」
彼女は再びスマホを眺めていた。
ありがとう。もはやその言葉しか見つからなかった。
いや、彼女だけではない。
他の誰もがこの駅で降りなかった。
あと少しだ。あと少しの辛抱である。
7つ目の駅から距離は近い。
だから、きっと彼女は降りないだろう。
お願いだ。最後までスマホを弄る手を止めないでくれ。終点までずっと弄っていてくれ。
電車はゆっくりと停車した。
頭では分かっていても緊張感で身体が震える。
「ーーえ?」
彼女は突然になって、空いた席に移動したのである。
嘘……でしょう?
そうか。私は彼女の意志を無視していた。
彼女自身もまた、隣に座られる人がいるのが嫌なのである。
すっぽりと空いた空席。
響きわたる鼻息。
もはや私の命は無いに等しいだった。
しかし電車は勢いよく走っている。
ここで立ち上がったら転ぶ可能性が高いだろう。
その懸念からか容易に彼は動かなかった。
ならばこちらのものだ。
すぐさま席から立ち上がり出来るだけ遠い車両へと移動する。
息を漏らして。もう誰も私を守ってくれる人はいないんだ。そう思うと涙が止まらなかった。
ーー神様。私は酷いことをしましたか?
祈るような気持ちで車両を移動していく。
一つだけ、たくさんの高校生が囲っている場所があった。
この辺りがいいだろう。
あとは電車を降りるだけ。
しかし、次に目を開いた時。
映ったのは衝撃の光景だったのだ。
ドアに反射して映っていたのは、ニヤけた彼の姿だった。
後ろを振り返ろうとする私の身体を必死に食い止める。
助けて、助けて。
ごめんなさい、助けて。
彼のニヤけた口からゆっくりと言葉が綴られる。
「ーーよぉ」
肩に手を添えられて。
「あ、あ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その瞬間。
私の頭は真っ白になった。