第一王子はすべてを失い、姿を消す
「ふぅ、間に合った」
「ハルシオン殿下?」
「……ハルか」
現れたのはハルシオン第二王子だった。
まるで急いできたような様子で額の汗を拭う。
ハルシオンの登場にレベッカは驚き、クリスハルトの方はまるでその登場がわかっていたかのように落ち着いていた。
ハルシオンは呼吸を整え、クリスハルトに向き直った。
「兄上、今ならまだ間に合いますよ」
「……俺は撤回するつもりはない。愛に生きると決めたのだからな」
「はぁ……そうですか。なら、仕方がないですね」
クリスハルトの言葉を聞いたハルシオンは大きくため息をつく。
説得が不可能であると悟ったのだろう。
そして、懐から何かを取り出した。
それは一枚の紙だった。
ハルシオンはそれを高らかに読み上げる。
「『国王ロトス=サンライズの名のもとに、クリスハルト=サンライズの王位継承権を剥奪する』と……これで兄上は王族ではなくなりますね」
「「「「「っ!?」」」」」
ハルシオンの言葉に会場にいたほとんどの人間が驚いた。
驚いていないのはハルシオンとクリスハルトだけだった。
宣言をしたハルシオンが驚かないのは当たり前ではあるが、クリスハルトが驚かないことに誰もが怪訝に思った。
まるで王位継承権を剥奪されることがわかっていたかのように……
「俺は愛に生きると言っただろう。その程度、どうってことはない」
「兄上はそうでしょうね。ですが、他の人はどうですか?」
「何?」
ハルシオンの言葉に先ほどまで自信満々だったクリスハルトの表情が変わる。
言われた意味を理解できなかったのだろう。
だが、彼はその言葉の意味をすぐに理解することになる。
(ダッ)
クリスハルトの左側の人垣から何かが飛び出してきた。
ハルシオンの方に意識を向けていたクリスハルトはいきなりの出来事にとっさの判断ができず、反応が遅れてしまった。
そして……
「その汚い手を離せ」
(バキッ)
「がっ!?」
怒りの声と共にクリスハルトの左頬に鈍い衝撃が走った。
クリスハルトの右側にいた者たちは突然の乱入者の登場に気づいたため、咄嗟に回避行動をとることができた。
そのせいでクリスハルトは衝撃で吹き飛ばされ、その先にあったテーブルを巻き込んでしまった。
「ぐっ!?」
痛みに顔をしかめながら、クリスハルトはゆっくりと起き上がる。
なぜか視界がぼんやりし、体もふらついていた。
「「「「「ひぃ」」」」」
近くにいた者たちが短い悲鳴を上げる。
その表情はまるで化け物を見たような反応出会った。
(ポトッ)
「ん?」
真下に何かが落ちた音がクリスハルトの耳に入った。
会場のカーペットの色とは違う真っ赤なシミが一つできていた。
それを見たクリスハルトが少し痛みのある額の右側を触ると、何とも言えない生暖かい液体を触ったような感触があった。
先ほどの衝撃で頭を切ってしまったようだ。
額から血を流す人間を見れば、悲鳴を上げるのは仕方がなかったことなのかもしれない。
だが、今のクリスハルトにとって、そのようなことはどうでもよかった。
それよりも気になるのは……
「何者だ?」
自分を殴った者の正体だ。
まさか第一王子である自分が殴られるとは思わなかったのだろう。
そんなとんでもない行動をしでかす人間に興味が湧いたのだ。
その視線の先にいたのは一人の男子生徒だった。
男子生徒は血を流すクリスハルトの姿に驚いているようだったが、視線を向けられていることに気が付いて口を開いた。
「お、俺の名前はフィル=クラウド──セシリアの幼馴染だっ!」
「クラウド……クラウド商会の関係者か?」
男子生徒の素性を聞いたクリスハルトはすぐにその正体を知る。
クラウド商会とはサンライズ王国で有名な商会の名前である。
メインの客層は一般市民ではあるが、最近は貴族を相手にも商売することができるほど成長していた。
このままいけば、サンライズ王国一の紹介と呼ばれる日もそう遠くはないと噂されるほどである。
「俺は商会長の息子だ」
「つまり、次期商会長ということか? なら、こんなことをしていいと思っているのか?」
「何のことだ?」
「今、お前は誰の顔を殴ったのか、ということだ。わかっているのか?」
クリスハルトはフィルを睨みつける。
いくら大きな商会の息子といえども、クリスハルトの身分には敵わない。
圧倒的に身分が上のクリスハルトを殴ったことは明らかに不敬であると判断したのだ。
しかし、間違っているのはクリスハルトだった。
「王族の称号を失った、ただの平民だろう」
「っ!?」
フィルの言葉にクリスハルトが驚きの表情を浮かべる。
ここでようやくどうしてフィルが先ほどのような行動をとったのかを理解することができた。
たしかに、クリスハルトは先ほどまで王族であった。
王族を殴ろうものなら、一族郎党皆殺しにされるほどの不敬罪に問われてもおかしくはない。
それがわかっていたからこそ、先ほどまでフィルは行動することができなかった。
だが、クリスハルトが平民となれば、話は別だ。
「今まではあんたが第一王子だったせいでセシリアを取り返す事ができず、悔しがることしかできなかった。だが、今のあんたは第一王子じゃない。なら、こうやって取り返すことだってできるんだよ」
「……なるほど。セシリアに横恋慕をしていた、と」
フィルの言葉をクリスハルトは理解した。
だが、その理解すら間違っていた。
「横恋慕していたのはお前の方だ」
「何?」
フィルの言葉にクリスハルトが驚きの表情になる。
先ほどまでは身分を失っても余裕の表情を崩さなかったのに、今では言葉の意味が理解できずに慌てていた。
横恋慕していると思っていた相手から自分が横恋慕していると告げられたのだ。
理解できないのは当然かもしれない。
「俺たちはもともと将来を誓った仲だったんだ。それを権力を使って無理矢理引き裂いたのが、お前だ」
「ふんっ、何を言うかと思えば……自分がフラれたことを人のせいにしているだけじゃないのか? フラれた事実を認められないとは情けないにもほどがある」
「だったら、セシリアに聞いてみればいい。どちらの言っていることが本当なのか、を」
落ち着きを取り戻したクリスハルトの言葉にフィルははっきりと反論した。
彼の表情は自信にあふれていた。
自分の言っていることが正しいのだ、と信じているのだ。
しかし、そんなフィルの様子を見ても、クリスハルトは再び慌てることはなかった。
そして、クリスハルトはセシリアに問いかけた。
「セシリア、この男の言っていることは嘘だろう?」
「……」
「俺のことを愛してくれているよな?」
「……ないでください」
「え?」
「馴れ馴れしく話しかけないでくださいっ!」
「っ!?」
突然の大声にクリスハルトは驚いた。
いや、大声とよりはその告げられた内容に驚いていた。
自分が受け入れられると思っていたのにまさかの否定の言葉──流石に彼の表情から余裕が消えた。
驚き呆然とするクリスハルトにセシリアははっきりと告げた。
「今まではあなたが王族であるので、拒否することはできませんでした。ですが、王族でなくなった今なら言うことができます。正直、かなり迷惑でした」
「なっ!?」
「私が虐められていた? たしかにそういう事実はありました。ですが、その原因のほとんどはあなたなんですよ?」
「ど、どういうことだ?」
「王族であるあなたと近すぎるせいで周囲から嫌われていたんですよ。私から近づいたわけじゃないのに……本当に迷惑でした」
「そ、そんな……」
セシリアの言葉にクリスハルトは床に膝をつく。
両思いだと思っていた相手から迷惑だと言われた──これは男にとってかなり傷つく一言である。
そんなことを言われてしまえば、クリスハルトが立つことができなくなるのも仕方がない。
しかし、落ち込むクリスハルトを見ても、セシリアは言葉を止めることはなかった。
「レベッカ様は私のことをいつも気にかけてくれていました。平民出身の私が学院になじむことができるようにいろいろと手を回してくれました」
「私だって、それぐらい……」
「貴女がやったことと言えば、私を口説くために無駄に高価なものを無理矢理渡して毛じゃないですか。そんなことをされれば、学園で余計に私が浮くこともわからないんですか?」
「くっ!?」
セシリアの指摘にクリスハルトは言葉を詰まらせる。
自分の好意を示すためにやってきたことが、まさか裏目に出ているとは思わなかったのだろう。
しかも、先ほど自分が否定したレベッカにすら評価が負けている、その事実がクリスハルトの心を折る。
「私が貴方に迷惑をしていることを親身に相談に乗ってくれたのもレベッカ様です。そんなレベッカ様のことを悪く言うのは私が許しません」
「ぐ……」
「とりあえず、もう二度と私の前に現れないでください」
「……」
セシリアはたまりにたまった不満をすべてクリスハルトにぶつけた。
本当に迷惑に思っていたのだろう。
これ以上ないほど完膚なきまでの拒絶だった。
ここまで拒絶されれば、クリスハルトも諦め……いや、理不尽に怒りだすかもしれない。
そう気づいた者たちは警戒心を露わにする。
しかし、事態は予想外の方に進んだ。
「くっくっく」
「「「「「?」」」」」
いきなり笑い出したクリスハルトを見て、周囲は動揺する。
あれほど拒絶されたのであれば、怒りだすのが自然のはずだ。
それなのに笑い出すとは、気が狂ったのかと思ってしまった。
「なるほど……すべて俺の勘違いだったわけか。これほど滑稽なことはないな」
クリスハルトはようやく状況を理解したようだ。
しかし、もうすでに遅い。
取り返すことができないほどやらかしてしまった後なのだ。
覆水盆に返らず──もう元には戻らない。
「セシリア──いや、レイニー男爵令嬢。今まで済まなかったな」
「え?」
クリスハルトからの突然の謝罪にセシリアは驚く。
王族は基本的に頭を下げることはない。
国のトップという立場から頭を下げることが難しいからである。
しかし、クリスハルトはそれをためらわなかった。
これは彼が平民になったおかげだろうか?
「もう二度と君の前には現れない。そこの男と仲良く過ごせばいい」
「クリスハルト王子……」
「私はもう王子ではない。今の私はただの恋に破れた哀れな男だ」
「……」
クリスハルトの言葉にセシリアは何も言えなくなる。
自分が振ったとはいえ、とんでもない事をしてしまったという気持ちもセシリアの中にある。
クリスハルトの自業自得の部分が大半とはいえ、自分に恋をしてしまったせいで彼はすべてを失ってしまった。
そこには同情の余地があるのではないだろうか?
「さて、この国にはもう私の居場所はないな。邪魔者は立ち去るとするか」
そう言うと、クリスハルトは会場を後にした。
あまりにも自然に立ち去ったため、誰も止めることはできなかった。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─
「ふう……着いたか」
とある切り立った崖の上、クリスハルトはそこに立っていた。
学院から2時間ほど馬を走らせて到着したのは、この国でも有名な自殺スポットだった。
ここから落ちたらほぼ確実に命を落とす。
もし生き残ったとしても、崖の下の急流に飲み込まれて助かる見込みは少ないのだ。
彼の表情が絶望に染まっていたのであれば、確実に自殺を疑っていただろう。
しかし、その表情には一切の負の感情はない。
むしろ、晴れ晴れとした表情だった。
それもそのはず……すべては計画通りだったからだ。
「これですべてがうまくいくはずだ……俺さえこの国から消えれば、な」
彼は笑顔のまま呟いた。
そんな彼の言葉に呼応するかのように、勢いよく風が吹いた。
(ドボンッ)
何か重いものが川に落ち、激しく水しぶきを上げた。
だが、あまりの急流のせいで何が落ちたかはすぐにわからなくなってしまった。
そして、崖の上にはクリスハルトの姿はなかった。
それ以降、サンライズ王国で彼の姿は見なくなった。
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話が終わっているかのように見えますが、これはいわばプロローグのようなものです。
次回から婚約破棄の裏──各々の過去についての話になります。