思い出しましたわ
旦那様が出て行った。
仕事で軍部に寝泊りしているのだと、使用人達は話していた。
いつ帰ってくるか、分からないらしい。
ニコライも、故郷に帰った。
元々短期の雇い入れだったそうだ。
カリンカの花を見に行こう、と言ってくれたのに、彼がいる間に行くことは無かった。
ぽっかりと胸に穴が開いたようだった。
ーーーこの消失感は、ニコライ? それとも……。
「たーしゃま?」
声の方を見ると、ドアの隙間から小さな顔が覗いていた。
「……マ、マーニャ?」
マーニャはお気に入りのぬいぐるみを抱えて、きょろきょろと何かを探している。
困った顔の侍女が、後からついて行くのが見えた。
お母様が「あーしゃま」なら、「たーしゃま」はお父様の事だろう。
「旦那様を探しているの?」
「はい。今朝から、ずっと探していらっしゃいます」
幼いとはいえ、さすがに十日間いないのは気になるようだ。
仕事でいない、と言って理解できるはずもなく、こうして全ての部屋を開けて、探して回っているらしい。
旦那様も、この子にとっては大切な父親だったのだと、少しだけ罪悪感を覚えた。
「……私も一緒に探しましょう。マーニャ、次はどこを探すの?」
「おにわ!」
そう言って、マーニャは私に手を伸ばす。
手を繋げ、という事だろうか。おそるおそる私も手を差し出して触れると、マーニャはにこりと笑った。
左手にはぬいぐるみを、右手には私の手を握りしめ、幼児らしく欲張った様子がなんとも愛らしい。
「……確かに、あなたは私に似ているわ」
そうして、二人で外の庭園へと出た。
庭園はいつ見ても綺麗だった。
マーニャの歩幅に合わせて、ゆっくり歩く。
「たーしゃま!」
白い花を見るたびに、マーニャは立ち止まり、声を上げる。
花と旦那様を間違えるのは、おそらくマーニャくらいだろう。
「あれは、カリンカの花よ」
最近植えられたのだろうか、カリンカの木はまだ小さく、花はマーニャの届く位置にあった。
マーニャは私の手を離し、カリンカの花をペタペタと触っている。
これくらいの子供は、好奇心が旺盛だ。
「庭園に、薔薇の花はないのね」
「ねー」
薔薇は綺麗だが、トゲがあるため、幼いマーニャには不向きだ。
もしかしたら、マーニャに配慮してわざと植えていないのかもしれない。
「だとしたら、マーニャはとっても愛されているわ」
そう話しかけると、マーニャはにこりと笑った。
その後も二人で歩き続け、庭園の奥にある池までやってきた。
ここまで来たのは初めてかもしれない。橋を渡ると、マーニャは再び立ち止まった。
「たーしゃま!」
「睡蓮の花ね」
池に落ちないように、気をつけながら下を覗く。
水面には、睡蓮の花が浮かんでいた。
「この花はね。寒いところでは育たなくて、お母様の故郷では咲かないの。
…………だから、マーニャのお父様が、特別に植えてくださったのよ。私を喜ばせようと、サプライズでね。お母様の宝物なの」
ふと、そんな言葉が口から漏れ出た。
「あれ、私……」
瞬時に、たくさんの思い出が蘇る。
睡蓮の花が開くように、閉じ込められていた記憶が溢れた。
見知らぬ土地に嫁いで、心細かったこと。
ゼリェーヌのために、躍起になって働いたこと。
努力は報われず、革命にあったこと。
その時に、側に寄り添ってくれたのが旦那様だったこと。
旦那様に愛されていたこと……。
「……マーニャ」
「!!」
「そのぬいぐるみは、お父様がマーニャのお誕生日にプレゼントしたものね」
ぎゅっと、マーニャを抱きしめる。
可愛い、可愛い、私と旦那様の子。
やっと思い出せた、もう忘れはしない。
「旦那様は、マーニャのことも、私のことも、愛していたわ」
「あーしゃま!」
「そうね。お母様は、お父様に謝らないといけないわね」
私は、愛されていた。
そして、旦那様を愛していた。
****
次の日の早朝、旦那様は家に戻って来た。
「たーしゃま!」
「マ、マーニャ!?」
旦那様をいち早く見つけたマーニャは、元気に飛びつく。
「だっこお!」
「マーニャ、お父様は忘れ物を取りに来ただけで、仕事にすぐ戻らないといけない」
と言いつつも、マーニャの可愛いおねだりに勝てるはずもなく、抱きかかえている。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「……書類を取りに来ただけだ。すぐに出る。害する事はないから、安心してくれ」
マーニャを抱き下ろし、旦那様は踵を返す。
抱っこされ足りないマーニャはとてとてと、その後をついて行った。
「お待ちくださいませ。お話があります」
「……何だ、別れ話でもする気か?」
旦那様は立ち止って、こちらを睨む。
記憶を取り戻した今なら分かるが、これは旦那様の目つきが悪いせいで、そう見えるだけだ。本当に睨んでいるのではない。
「旦那様…」
「絶対に、別れないからな」
「旦那様!」
「……分かった。どうしてもと言うなら、マーニャだけは置いて行ってくれ」
旦那様は警戒するように、ぎゅっとマーニャを抱き寄せた。
再びなされたお父様の抱っこに、マーニャはご機嫌だ。
「いいえ、旦那様。私、記憶が戻りましたの。本日は、お早いお帰りをお待ちしてます」
「…………帰ってきて良いのか?」
「ええ、お待ちしております」
微笑むと、旦那様はゆっくりと私に近づいた。
私の記憶が戻ったことが、まだ信じられないようだ。
「……俺を、名前で、呼んでくれないか」
「はい。グリェン様」
旦那様、ーーー改め、グリェン様は、私に名前を呼ばれ、泣き出しそうになっていた。
赤い瞳が、炎のように揺れている。
そして、私の存在を確かめるように、マーニャごと私を抱きしめた。
「……今まで、すまなかった。貴女が俺を忘れていて、腹立たしくて、…怖かったんだ。だから、あんな対応になってしまった。………愛している」
「ええ、私も愛しています」
微笑むと、今度は優しく、グリェン様は私に口付けた。
「でも、私、グリェン様のことを許しておりませんの」