第八話「」
7
「ただの鯨が人を殺したって事じゃないよな?」
誰もいない砂丘の中でポツンと建てられている黄緑色のキャンプ用テント。その中で菫が唯さんに問いかけていた。
タオルで水滴を拭い、簡素な出で立ちに戻っている。白い染み一つないシャツに、ジーンズ。寒くないのか、と声を出してしまいそうなほどに簡素で季節違いな服装だった。だが、その姿が何よりも爽やかなのは間違いない。冬の曇天が埋め尽くした陽射しが顔を出さないこの世界で、唯さんは夏の照り付ける様な存在性を感じる。
濡れた髪にタオルを被せ、かき上げて、座る。
「それだと今の惨状と変わりがないだろう? 菫君」
「だよな」
最初に会った時と変わりない達観する物言いに、どこか要領の良い教師が諭しているような空気感が彼にはある。それに対して、何故か菫も要領の良い生徒のように頷いている。
「だが、的を射てないわけでもないよ。これを話す前に私からも質問をさせてくれないかい?」
「ああ、それは構わないぜ。答えられる事がオレたちにあれば、答えたい」
僕はどうやら蚊帳の外と言ったところだな、と傍観者に徹する。
「君たちはどうしてここに? 私は調査だけれど、こんな状況でこんなところに来る人間は何かしら目的がないと、少しばかり可笑しい気がしてね。狂人の類なら疑う余地はないさ。狂っているのだから、疑っても仕方ないからね」
「オレたちは、狂人の類ではあるだろうな」
「いや、僕を仲間に入れるな。狂人の仲間に」
少しばかりの反論を示す。
「目的は簡単だぜ。砂の鯨を探しに来た」
「やっぱり、そうなんだね」
「それでオレも質問したいが、砂の鯨が人を殺したのか?」
僕は蚊帳の外で、別の世界にいるのではないか、という錯覚が襲う。砂の鯨という単語を、何の疑問もなしに唯さんが受け止めていたからだ。僕だけが知らないのは、僕が世界に追いついていないだけなのだろうか?
そんな一抹の不安が過る。珈琲が飲みたい。
「可能性として私はそう見ているだけだよ。見ただろ? あの連中を」
おや? と僕は脳裡で首を傾げる。「あの連中」と唯さんが口にした瞬間に先ほどまで柔和な表情を浮かべていたのに、そこには影ができているような気がした。太陽が見えた空に、急に雲で陰ってしまったように、見えた。
「連中?」
「向こうの方で叫んでなかったかい? 殺せとか」
「あれはその事件の被害者なのか?」
「被害者だと助かるんだけどね」
「唯さんは、警察官なんですよね」
「アンタ、警察なのか?」
僕は蚊帳の外である事に我慢できず、問いかけてしまった。直ぐに警察官という事柄に、菫は興味を示していた。
「警察官だよ。正真正銘のね」
そう言ってバックから警察手帳を取り出す。
「これを見せたところで、証明できたなんて思っていないさ。今の時代、偽物なんてのは本物よりも多く出回っているからね。重要なのは、私が警察官という証拠ではないさ」
「ほう」
菫はより興味が湧いたのか、腕組みをして、真剣な眼差しで聞いている。
「私が本当に誰かを救えるか、という事だよ。証拠がなくてもあっても、私のやるべきことは決まっているんだ」
「なるほど。それがアンタの真実ってことだよな」
「ああ、そうだね。これが私の真実だ。勿論だが、誰かを救わない覚悟も出来ているとも」
「面白いな。オレが求めていた真実を、アンタは持っているみたいだ」
「それは光栄だね」
握手をしている二人は、どこか別の世界から来訪した者たちだと断定し始めていた。
「あ、そうだ」と唯さんがバックパックに手を入れて、何かを取り出した。
僕は唯さんの手にあるものを視認すると心が躍った。思わず「あっ」と声が出ていた。
「君を救済してくれるのは、珈琲だったよね。一杯どうだい?」
珈琲は僕の心を救ってくれた。
―――
息を吹きかける。暖かさは逃がさない。
丸いアルミ製のカップから伝わる温度は、孤独さをも埋めてくれる事だろう。
傾けて、珈琲を口に運ぶ。
液体の温もりは、喉を通して、身体全体を包み込む。
僕は自ずと微笑んでいた。この液体が揺らいでいるのを眺めるのもまた好きだ。
「とても美味しそうに飲むんだね」
「え?」
唯さんが僕に声を掛けてきた。
三人が同じアルミ製のカップを持って、珈琲を飲んでいる。
「こいつは昔からこうなんだよな。何か嫌な事があっても、珈琲さえあれば笑顔になるんだよ」
「本当に珈琲が君を救うのか」
「珈琲以外に、こんな可笑しい奴は救えないな」
「お前には言われたくない」
世界を切り取るだの、真実がどうだの言っている奴よりは遥かにマシではないか。
「さて」と三人が飲み終えた所で、唯さんが何かを言おうとしていた。
「君たちはこれからどうする? 私は今からあの集団を調べようと思うけど」
「殺人の件で、か?」
唯さんは頷く。飲み干したカップを袋に入れて、収納した。
「殺人って、砂の鯨が人を殺したってことで良いのか?」
「それは可能性としての話だね。それも含めて私が派遣されたんだ。砂の鯨が人を支配圏に置いて、人と人が殺害させているのかわからないからね」
「……唯さんって、警察の人なんですよね」
僕はまた我慢ならず、質問をする。唯さんは屈託なく笑ってくれている。
「そうだけね。警察だ」
「さっきも聞いたじゃねえかよ、真人」
「いや……何だか、浮世離れした会話なんだ」
砂の鯨だとか、殺人だとか、どこか浮いている気がしていた。そこに脚がついていないような、砂上の楼閣のように感じてしまう。ここは現実なのか? そう問いかけてしまいそうなほどに、今話している二人の会話には追いつけない。
「何で僕はここにいるんだ、菫」
「珈琲戦士だからだな」
「だからそれは――――」
「真実を知りたいんじゃねえのか、真人」
その時、菫の瞳の色彩が何重にも重なった気配を感じた。錯覚なのかもしれないし、単なる気のせいかもしれない。一瞬の出来事だったので、僕自身もそれに言及できるほど観察はできなかった。けれど、今の菫は「真実」というひとつの言葉を乱用して、不躾に僕を振り回す様ないつもの彼ではなく、どこか胡乱な存在として切り替わったように思えた。
「真実って、何なんだよ」
「お前の中の」菫は言いながら、拳を僕の胸に当ててきて「答えだろうが」と口にする。
「僕の中の」
「真人にはあるんだ。ただ、見失っているだけなんだよ。それを探す旅路だぜ、真人」
くしゃり、顔を崩して彼は笑っていた。先ほど見た変化はとうになる、いつもの彼に戻った。ように感じる。
「それはお前の押しつけだろ。僕は求めてない、真実なんて」
「求めて現れるなら苦労はねえよな、真実って奴は。だから無理やりにでも連れてきた」
「ありがた迷惑っていうんだ、そういうの」
「オレは他人の視線気にして、迷惑を掛けないように、と無理難題な呪いを自分にかけて生きていきたくはねえな。それがそいつの真実っていうなら止めねえけどよ。それでも人間なんてどこかで迷惑かけてんだよ。迷惑だ、と感じる狭窄しちまった心の狭い奴にオレは止められねえよ」
「何だよ、それ」
「まあ、逃げるなら止めえねえよってことだぜ、真人」
「そうだね。菫君の言う通りだ。止めはしないよ」
僕たちの会話を待ってくれていた唯さんは、優しい声でそう言ってくれた。
「逃げたくはない」
「なら、こいよ。止めはしねえ」
正直、僕はわからなかった。珈琲戦士だとか、砂の鯨だとか。でも、世界が終わっていくのは、わかっているつもりだった。冬には雪だな、と口にする程度には当たり前で、今では終わりが日常だ。けれど、ここにいる意味はわからない。ただ、逃げたくはないな、と感じてしまう。何でなんだろう、と考えても答えは霞んでいた。今はまだ、見えない。
「仕方ないから、行くよ。これでいいのか」
「さてな、お前が見つけるんだぜ。決めた先の真実をな」
「はいはい。わかったよ」
溜息を吐いた。長く、肺に溜った空気を全部吐き出すように。
「それにしても、もう裁判何て意味を成さないのに、頑張るんだな、お前は」
菫が話を戻した。唯さんに問いかけている。
「誰かを裁きたい訳じゃないよ。ただ、許せないだけさ」
「許せない?」
「面白さだけで判断してしまう愚かさを、許せないだけなんだ」
その時、僕の心はいつもより激しく、一瞬だけ脈を打ったように感じられた。
唯さんの今の言葉になのか、先ほど飲んだ珈琲のせいなのかは、判断できなかった。
「それもまた真実って奴だな。よし、オレたちも行くぜ」
「君たちがいてくれるなら、安心だね」
「じゃあ、決まりだな」
逃げ道は経たれた。逃げる道は、毛頭ない。
―――
「殺せ! 殺せ!」
細波と微かな声が辺りを包んでいたはずが、怨嗟に似た群衆の声が大きくなる。
集団の近くまで来た僕たちは、その光景を眺めていた。
菫は楽しそうに、唯さんは真剣に、そして僕は呆れながら見ている。
誰もいない海へ彼らは「殺せ」と叫んでいる。叫びに対し、返ってくるのは荒々しい波打ちだけだ。しかし、その虚しい返答だけだったとしても、群衆は言葉を止めはしない。どこか面白がっているようにも見える。いや、全ての人間がではないのだろうが、ざっと三十人程度いる群衆の中では真剣に訴えている人物の方が少ない様に感じられた。
「そうだ!」と哄笑しながら怨嗟の訴えに便乗する女性や男性が目立つ。
彼らは誰に向かって訴えているのだろうか。素朴な疑問だ。何故、訴えているのだろうか。そこが僕にはわからなかった。菫なら、わかるのだろうか、と彼の方に視線を向ける。
「これも真実だと思わないか、真人」
視線を菫からそらした。
「唯さん、彼らを取り締まるんですか?」
視線を唯さんに向け、質問をしてみた。彼は肩を落とす。
「私ではあの数を取り締まるのは至難の業だろうね。何か武道の達人であったのなら、話は別だけれどあいにく私は合気道を嗜む程度なんだ」
「そうなんですか」
少し残念な気持ちを感じたが、確かにこの人数をどうにかするのに三人では非力だ。
「それに取り締まるつもりはないさ。そうしてしまうと、もっと過激な事が起こってしまう可能性があるからね。抑制は暴発に繋がるから」
「じゃあ、誰かに話を聞いてみますか?」
「女性に話をかけるなら任せろよ。ナンパは得意だぜ」
「菫君なら誰でもついていきそうな顔立ちだね」
「照れるぜ」
「コイツをおだてなくていいですよ、唯さん」
ははっと軽く笑みを浮かべて「統率者を探したい」と唯さんは提案する。
「統率者、ですか」
僕はそう言いながら、群衆に眼を向ける。不思議とそうした指揮を取っている人物はいないように思えた。群衆は叫んでいるだけだ。そこで見守っているなどをしている人はいなかった。
誰かが先頭に立っている訳でもなく、扇動者がいるわけでもない。
「いない感じだな」
菫は僕と同じで一通り見渡したのか、そう口にする。
「そうだね。もう少し様子を見ようか。群衆が集まるときは、誰か率先して集めた人がいないとおかしいからね」
確かに、と僕は頷いて彼らの叫びを聞いている。
群衆の叫声に僕の全身が粟立つ。
どうしてこうも、面白がっている人物がいるのか僕にはわからない。
「殺せ」という言葉は面白いのか?
この惨状が面白いのか?
僕にはわからなかった。
気が付けば、彼らの狂気じみた行動はぱたりっと突然止んでいた。それに気がついたのは、菫が肘で僕を小突いてきたからだ。
「そろそろお出ましじゃないか? 統率者が来るんじゃないか?」
「部外者かな」
背後から年配の、熟した声が聞こえてくる。若者ではなく、どこか偉そうな声だった。
「教祖様が来てくださったぞ! 整列しろ!」
群衆は軍隊さながらの隊列を作り、背筋を伸ばしている。僕たちの方を向いて、眼が合った者の中には怪訝そうな顔をする者もいれば、どうでも良いような空気で無視をする者もいた。特に、率先して声を上げた眼鏡をかけて優等生な印象を受ける男性は、睨んでいる。
先ほどまでの楽しさというものはまるでなかった。どこかそうしていないといけない、と空気感を感じてしまう。何かから逃げているのか、僕には未だ判然とはしなかった。
「困る。非常に困る。何をしに来たのか、君たちは。年寄りを困らせないでくれよ」
粘ついた言葉が再度、耳に届いた。
僕たち三人は振り返る。菫は気怠そうに、邪魔が入ってきたな、と珍しく面倒くさそうだった。唯さんは、姿勢の良いまま振り返る。男前だな、と僕は場違いに思ってしまう。
僕も振り返り、眼を疑った。
「後藤、部長」
鯨が空から座礁した日を想いだす。僕がその時に殴った人物を想いだす。
脳裡で、定時の鐘が鳴った。