第六話「」
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「さっきのは冗談だぜ、真人。世界を切り取りに、真実を探しにオレは来ている。でもって、鳥取に来た目的は、鯨を探すためだ。この鯨の座礁日とか言われてる、奇怪な事件の核心を探しにな」
今しがた出たばかりのガソリンスタンドでは、「あざっした!」と頭を下げている男性店員が遠くなっていく。
数キロ先に、砂丘が目視できる。
「菫はこの現象に終わりがあるとでも思うのか」
僕は終わりがあるとは思っていなかった。それはまるで日本の政治のようなものだ。政治家が幾重にも変わろうとも、誰かが「あの政治家よりはマシだったな」と諦観のような物言いをしていたとしても、日本が幸福へと繋がることはないように、この現象にも幸福へは繋がらず、終わりというゴールに見通しはない。
「終わりはあるさ。何事にもな」
僕の意見とは真反対な言動を、彼は平然と言ってのける。海のさざ波のような男だな、と思ってしまう。僕にとって静かだが、広大な存在だ。だからと言って、煩い時は煩い判然としな人間でもある。
「じゃあ、その砂の鯨を殺したりするのか」
「殺す?」
「何かを終わらせるってことは、その対極にある物事を終わらせるって事でもあるんじゃないのか。だから、鯨が降った原因がその砂の鯨にあるなら、殺すしかないんじゃないか」
「随分、物騒な言動だな。小学校の頃にも、そんなこと言ってなかったか?」
「僕はそんな頃からそんなことを言っていたか?」
「夏だ。そう、夏休みだ」
「よく覚えているな」
「あったじゃねえかよ、夏休みに学校で遊んでた時に上級生のいじめっ子がいただろ?」
「ああ、確か林君だ」
そういえば、と僕は思い出していく。
「そうだ、林だぜ」
「その林君と何かあったか?」
「あったじゃねぇかよ。お前が珈琲で救っただろ。いじめられっ子を」
「珈琲で?」
「ああ、珈琲で」
僕は菫の言葉を、脳裡で反芻させる。まるでもう一度見たいワンシーンを見るために、チャプター選択をしている気分だった。
どれだっけ、これかな? と言った風にそのチャプターがある扉を開けては、閉める。
辿り着いたのは、この場面だ。
―――
「オラオラオラオラオラァ!」
僕はその時、びっくりしたはずだ。その方向を向けば、人が人を蹴っている。その行動自体に驚愕したのではなくて、最近読んだ漫画にそんな台詞を言いながら、格好良く相手を打ち負かしている主人公がまさか僕の近くにいるなんて、という想像に駆り立てられて驚いた。
けれど、そうではなかった。現実というのは、いつも想像の後方に位置するものだ。想像は現実の先にいつもある。
上級生の林君だということには、一瞬分からなかった。面識もないし、話したこともない。面識がないので勿論、顔なんて判別などがつくわけはない。
「あ、また林君がいじめてる」
その時、山田君が彼の名前を呼んでいるのに気が付いて自ずと「林君」とか細く口にしていたんだと思う。
いじめられている人物が誰なのかもわからなかったが、顔に両腕を持っていき、彼のキックを受け止めながら泣いていた。
ふくよかな腹部や足が目立つ子だった。その時の僕は、彼がいじめられている原因が何となくわかっていたのだと思う。
林君の周りでは嘲笑を浴びせる男がもう二人立っていた。林君とは同級生のような空気感がある。
とても楽しそうにしている三人組だ。
僕と山田君とそして菫の三人はサッカーボールが独りでに転がるのに対して、立ち止まる。
山田君は怖くて震えていた。
菫はというと「これも世界なのかもしれないな。真実なのかもしれないな」と口にする。
嘲笑が粘り気を孕み、耳に届く。雲が動く。砂煙が上がる。照りつける陽射しは蹲る彼を救うことはない。暖かさは人の心を必ずしも救う訳ではない。高々と人間を見上げるお日様もまた、助けてくれるわけはない。
誰が助ける。
そう思って、僕は近くにあった自販機に駆けだしていた。ちゃりんちゃりん、と小さなポケットに入っていた小銭は踊る。僕の胸の鼓動と同じ律動で。
「あ、真人君!」
背後で大声を上げながら裏返った声を出していた山田君。その声がその時の僕に届いていたのかは定かではない。
近くの自販機は全ての飲料が百円だった。
小銭を投擲する。その時の僕は、例え教員が飲むからという理由だけでセレクトされた缶珈琲だとしても、世界に感謝した。
誰かにとって何かを守る時に取る武装手段は、拳かもしれないし銃器かもしれない。
けれど、僕は誰よりもダサくて、誰よりも失礼なものを武装手段にしたんだと思う。
夏場なのに売っていたアツイ珈琲。当時の僕はそれがアツイとも感じずにただがむしゃらに、三つの缶珈琲を一本ずつ間近で勢いよく顔面へと投げつけたんだ。
「面白ければなんでもやっていいのかよ」
その時の僕の言葉は、どうにかしていたんだと今では思う。
―――
「あったな。そんな事も。でも、さっきの殺すと何が関係してるんだよ」
「全然違うか?」
「全く違う」
過去を想いだし、懐かしさに耽ってしまう。窓を眺めた。
気が付けば曲調が変わり、歌手も変わっている。いつの間に変わったんだ、と思いながら聞いていた。
透き通っていて、聞き取りやすい女性の平坦でありながらも、音自体を咀嚼できてしまいそうな声。
聞いていると心が落ち着く。次第に音がエレクトロと混ざり、現実に脚を着けていたのに、気が付けば幻想的な建造物の中にいる錯覚に陥る。
力強さも秘めていて、歌に乗ってくる表現力というものが心の中の琴線に触れる。日本語ではないが、意味が全部わかるわけもないというのにどこか調和する。音楽の素晴らしさを噛みしめた。
この世で素晴らしいのは珈琲と音楽だ。
思わずこめかみに涙が溢れてしまいそうだった。
感極まって菫に「この曲は何て曲なんだ?」と聞いていた。
「歌手も曲名も忘れちまったけど、確かゲームの曲だな。今度発売する予定だったけど、当然中止になった。やりたかったぜ」
これがゲームに収録されているのか、と僕は驚く。それほどゲームをやったことはないが、どんなゲームでこの曲はどこで流れるのか。それを想像するだけで、楽しくなってくる。
「ゲームを作ってる人の名前に監督がつくのがデフォでさ。生き方が格好いいんだぜ」
曲に夢中になって、菫の言葉は聞こえていなかった。
「そう言えば、あの後どうなったんだ」
「あの後?」
僕は先ほどの記憶を掘り返す。
「夏休みだ。林君の話。珈琲をぶつけたとこまでは覚えてる」
「もうそこまで想いだしたら、あとはしょうもないさ」
「しょうもない?」
「林が森の中に逃げただけだぜ」
「しょうもないな」
けどよ、と菫が笑顔を浮かべていた。それが懐かしさから来る笑顔であることはわかる。
「けどよ、あの時は確かに真人が誰かを、そいつの世界を助けたんだと思うぜ。珈琲で世界を救ったんだ。そいつにとっての悪い世界を切り取ったんだぜ、真人は」
「僕が救った訳じゃない。珈琲が世界を救っただけだ」
「今度も、その珈琲が世界を救うかもしれないぜ」
「どういうことだよ」
くつくつ、と不気味な笑顔を浮かべる菫に僕は呆れる。笑い方は昔と変わりがない。
「行けばわかるぜ、珈琲戦士」
ダサすぎるだろ、そのネーミング。