第二話 「希薄な轍」
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鯨の座標日から約一週間が経過した朝に、腐れ縁である霧端菫から電話がかかってきた。
午前6時頃だ。まだ外も暗く、自室の締め切ったカーテンからは仄かな街灯しか入っては来ない時間帯。そこで鳴り響いた携帯からの液晶は、太陽のように眩しく、音は鳴り止むことのない鳥の囀りのように感じられて、すぐさま取り上げた。霧端菫と表示されている名前を睨む。
鯨の座標日から一週間経過した。連絡があったのは両親と一週間前に仕事場で上司と揉めた後に不思議と声を掛けてきた女性だけだった。
なぜだかその女性は「残念でしたね。後藤部長は無事ですよ」と知らせてきた。
なんで僕の携帯番号を知っているのか、教えた覚えはないぞ、と問いただしたかったが、災害が起こった後では詮無いことだな、と気にしないように努めた。
「それを僕に知らせて、意味がありますか」
「意味なんて関係あるんですか? どう思うのかなと思いまして」
「特に、何も。僕はあの人を好んではいませんし、良い上司とも思ってはいません。死んでも生きてても特段何の感情も湧きませんよ」
「あ、そうなんですね。やっぱり、加賀さんとは付き合えないと思ったのは正解だったかも。生真面目というか、面白味がないというか。普通の会話ができていないというか。あの人に何も感じてない人が、何で殴ったりなんかしたんですか」
それが最後の言葉となり、電話は一方的に切れた。
その電話を貰ったのが、座礁日から2日経過した時だった。
同じくその日に、両親からは安否を心配された。片田舎で暮らしをしている両親も無事だったが、隣の園田さんという年金暮らしをしていたご年配の方は鯨の下敷きになったという知りたくもない情報を父さんに聞かされた。
「がはは! あの爺さんはよく色んな人に偉そうにしていたから罰があったんだろうな! 最近だとコンビニでな『いつものをくれ』って言っててよ。接客をしていたのが、新人さんだったな、確か。その『いつもの』って言葉が何を指してるかわかってなくてな、わかってないから園田の爺さんがキレたんだよ。『俺を誰だと思ってやがる』ってな。ただの爺さんだろって言ってやったよ。面白がって歳下に怒鳴るんじゃねえよってな」
元気そうで何よりだよ、と言うと「お前もな!」と馬鹿笑いをしながら電話を切られた。何でそこで切るんだよ、と宛のない突っ込みをする。
そしてあの災害から連絡を寄越した3人目は小学校から大学までを共に生きて、それ以来なぜかあまり顔を合わせていなかった霧端菫という男だった。
映る名前を睨み、携帯の液晶に触れて通話状態にする。
「なあ、真人。世界を切り取りにいかないか。真実を見つけに行こうぜ」
僕の周りにはマトモな奴がいないのか、と再認識した瞬間だった。
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素直に菫の「久しぶりに会おうぜ」という申し入れを受け入れてしまった僕は、元仕事場の近くにある喫茶店に向かっている最中だった。
こんな時に営業しているのかは、甚だ疑問だったが、あそこの珈琲を飲むのは三度の飯よりも、と月並みな言葉で褒めてしまうのも申し訳ないほどに好物だから仕方なく向かっている。なぜか僕がその喫茶店を好んでいることをアイツが知っているのは釈然としなかった。
変わり果てた街に視線を向ける。
あちらこちらで警察や消防隊が非難できていない人を捜索または消火活動を行っている。もしくは暴動を起こしている民衆を鎮圧していた。
所構わず散乱しているのは、鯨の内蔵やその内部から零れている捕食していたであろう死骸。
前まであったはずの、煌びやかな都市としての尊厳や都市機能は著しく欠如しており、人通りは殆んどない。今ではこんな生魚の匂いと腐乱した臭いが混在した場所にわざわざ来る人物はいないだろう。
「こんなところでどうしたんだい?」
背後から僕に声を掛けてきたのは男性警察官だった。やたら柔らかで溌剌とした声音に少しばかり驚いて僕は脚を止めて、振り返る。
本当に警察官何だろうか? 普通は心配をして誘導なり、何かを促すものではないのか、と思ったが制服を着こなしている姿が腑に落ちてしまう。
声が若い。丸い双眸に満ちた正義感と茶髪で整った髪型には自分より若さを感じさせる。尚且つ眉目秀麗な男性である事にも、感嘆した。
身長は僕よりも少しばかり上で180センチと少しありそうだった。僕はというと173センチだ。僕なんかよりも恰幅がよく、頼もしさがある。
「仕事帰りか何かなのかい?」
彼は僕の服装を眺めて、そう言った。
そう聞くのも無理はない。僕はいつも通りのスーツ姿で菫と会うつもりであり、それ以外に着るものがまともにない。それにしても、こんな終わったような世界で仕事だと思い込んでしまうのは、眼の前の人物は変わっている気がした。
「珈琲を飲みに行くだけですよ」
「こんな終わっていく世界で珈琲を飲みにかい?」
「世界が終わってしまうからって、逃げだしたり、犯罪に手を出してしまったり。僕にはよくわかりません。世界が終ろうとも、僕は珈琲を飲みたいだけなんです」
周囲では盗みを平気で働いている人もいる。遠くでは叫び声まで聞こえ始めた。
「そうか。君は真っすぐなんだね。とても赤い色をしているよ」
「赤い?」
「いや、何でもないんだ。ただ、君は嘘をついていないんだなってわかったんだ」
「嘘、ですか。どうしてわかるんですか?」
「恥ずかしいんだけれど」と彼は照れくさそうに笑っていた。その照れている素振りを誤魔化すように、制帽を目深に被る。
「私は、嘘の色が視えるんだ」
「嘘の色、ですか」
「大抵、信じてはもらえないけどね」
「信じろ、という方が難しいとは思います」
「確かに、そうだね」
若い空気感を彼自身が持っているのに対して、物言いが達観しているように感じた。基本的に僕は霧端菫以外には敬語で対応するが、これだと僕が年下のように感じられる。とはいっても、詳しく年齢を聞こうとは思わなかった。
「信じて貰いたくて話したわけじゃないんだ。君は、僕と似た色をしているから話してしまったんだ」
「似た色、ですか」
「燃える様な赤い意思を持っているけれど、どこか靄がある。突き進むべき道は確かにあるはずなのに、今は見失ってしまっていて、希薄な轍の上にいる気がする」
「希薄な轍、ですか。……すみません、これは占いだったりしますか。警察官の占いだったり」
もう少しで高額な商品でも売りつけられるのではないか、と考えてしまう。
「違う違う」と彼は笑う。端正な顔立ちに白い歯がよく似合う。空は曇っているというのに、彼の歯が太陽のように感じられてしまうほどだ。
「気にしないでもらって大丈夫だよ。信じて貰いたい訳じゃない。私は、私なりの正義で行動しているだけなんだ。君が終わってしまう世界で珈琲を飲むのと同じで、私は終わってしまう世界で自分の正義を見つめ続ける。ただ、それだけなんだ」
それじゃあ気を付けてね、と彼は去っていく。
「進むべき道……希薄な轍」
どうしてか、彼の言葉が蟠りを残す。
いつの日か振るった拳の感触が生々しく、再生される。
定時の鐘が脳裡で響く。
どうして僕はあの時、殴ったのか今振り返ればわからなかった。