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第一話 「鯨の座礁日」

 その日、上司と喧嘩をした。


「この企画は売れないし、面白くないな」


 企画書を持っていった僕に、上司は顎に手を当てながら口にする。まるで悩んでいるようだが、そうではないのが僕にはわかる。


 ただ椅子に座っているだけで、何故面白くないと断定できるのか、僕には理解ができなかった。ふくよかな腹部が服越しで、はちきれんばかりに主張をしている。その腹が重いということはわかっているのに、眼の前の上司の言葉には重みが感じられない。


 手渡した僕の企画書をずいっと戻してくる。僕はそれを受け取り、視線を企画書に落とす。何が悪い。これの、何が。


 「どうして、売れないとわかるのでしょう。これは、この会社ではまだ取り組んでないものですよね。確かに、取り組んでないものは売れる情報がありませんが、売れないという情報もありませんよね。挑戦しなくていいんですか。挑戦しないで人間と言えるのでしょうか。珈琲で、世界を救う気はないんですか」


 僕は反論をした。それに対し上司はまたか、と言いたげに大きなため息を吐く。懐からハンカチを取り出して、禿げた頭部に浮いている脂汗を拭いている。


 また、馬鹿にするつもりなのだ。珈琲で世界を救うとは何を言っているんだ、とよく笑われる。何を言っている。珈琲が世界を救わないわけがないだろう。


 「いや、わかる。わかるんだ。俺にはな。お前にはわからないだろう。いいか、年齢を重ねていくだろ? 人間は。そうするとな、何となくわかってくるんだよ。何となくってのが大事なんだ。売れるのか、どうなのか。どんな人なのか、とかな。例えばお前は、すぐムキになるだろ。自分の意見を通したがる」


 自分の意見を通すことの何が悪いのだろう。彼の口調からは、僕がまるで悪人のように語られているが、僕が一体何をしたというのか。


 「そしてこの企画書は、面白くない」


 「面白くない」


 「面白くなきゃ、売れない」


 企画はより専門性のある珈琲豆を栽培できないか、というものだ。ウガンダに作り上げた自社製の栽培施設。そこは稼働していながらも、生産している豆の売上が著しく悪い上に、人材が足りていない。


 それら全てを考慮して、改善などを練り上げ、専門性を上げていこう、という企画だが上司曰く「面白くない」。


 確かに、この企画では人件費は大幅に上がってしまう。彼の思考で言えば、それは面白くないのかもしれない。誰も望んでいない忖度(そんたく)が得意なふくよか上司には、面白くないのかもしれない。


 「さ、席に戻れ。あと少しで定時だろ。俺はさっさと帰りたい。構ってやる時間もない。社長も出張でいないことだしな。あ、そこのお前! お前だよ、冴えないお前。お前以外には頼めない。この書類片付けておいてくれないか」


 もう既に僕には視線をよこさず、冴えない顔の部下に輪ゴムで纏められた書類の束を投げていた。


 それを見て、僕も自分の企画を地面に投げる。


 そして、上司の襟首を掴む。


 思いっきり歯を噛みしめて、殴り飛ばした。


 定時の鐘が鳴る。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 殴って自分の席からそそくさと荷物を取る。そのまま退社手続きを行う為に入口に向かう。


 「企画部」と書かれた銀色のプレートが打ち付けられている出口直ぐに、設置されたタイムレコーダーに勤退カードを差し込み、承認された。上司を殴ろうが、仕事で失敗しようが、この機械はお構いなく帰宅の承認をしてくれる。


 近くにいた女性が「なんで、加賀(かが)さんって顔つきは良いのに付き合いたいとは思えないのかな、ってやっとわかった気がします。加賀さんってミステリアスすぎるんですよ。まあスッキリしましたけどね。誰も後藤部長を良い人だとは思っていませんから、偉そうだし」と直接言ってきた。


 なぜ、そんな事を僕に伝えてきたのかよくわからず、そのまま無視して通り過ぎる。僕には彼女や所帯などと言った誰かの望む理想にさほど関心もなかれば、自分が誰か共に生きる、という想像ができない。


 どうせなら、珈琲と結婚ができるのなら、そうさせてもらいたい。


 エレベーターを待つ。直ぐに到着し、開いて僕が乗る。


 何をされたのか一瞬戸惑っていた上司は、流石に顔を真っ赤にしていた。眼が合う。こちらに走ってくる。だが、足が絡み、こけた。


 先ほどの女性が笑っていた。扉は閉まる。


 一階に着き、広い廊下に革靴が響く。


 受付の女性に毎日のように「お疲れさまでした。お気を付けください」と言われながら会社出口の自動ドアを潜るというのは、とても偉そうに感じていた。僕が上司を殴って来たことをまだ知らない女性はいつもの「お疲れさまでした」を僕に届けてくれる。


 そうだ、と自動ドアを潜る前に受付嬢の所へ戻った。


 「ど、どうされましたか?」


 口を開かずに、鞄をごそごそとしていた僕に彼女は戸惑いの声を上げていた。もしくは心配の声かもしれない。頭は大丈夫ですか、と心配してくれているのかもしれない。


 「これ、どうぞ。あまりものですが」


 と言って、僕は缶珈琲を渡す。


 「僕の退職記念ですので、よかったら」


 そう言って、自動ドアを潜る。ここに戻ることはないだろう。


 冬場の冷気が、オフィスで暖められた僕の身体を急速に冷やそうとする。この感覚が苦手だった。僕が冷たい珈琲をあまり好んでいないように、僕自身を冷まそうとする寒気もあまり好きではない。


 自立型鞄に被せていたブラウンコートを羽織る。僕は少し進んで背後のビルを見上げた。先ほど、殴った上司がいるオフィスを見つめる。


 さらば、と声に出して歩き出した。


 ちらほらと他のビルからも人が群がってくる。皆、駅に向かっているんだろうな、と思いつつ、僕はどこへ行こうか、と考える。


 とりあえず、暖かい珈琲でも飲みたい。


 そう思っていると、鯨が名前も知らないビルに落ちてきた。


 その日、空から鯨が座礁してきた。


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