人間嫌い
源蔵が小学生の時、枯山水の説明をしていた社会科の田沼先生が、年齢を重ねると段々と人間嫌いになって、結局、こういうものが好きになるのだ、というようなことを言っていた。
その時はそういうものかと思っていたが、還暦を過ぎた今、源蔵も田沼先生の気持ちが少しわかるようになった。
「おっさん、見廻りの時間だぜ」
源蔵にそう言ったのは、同僚の白岡であった。同僚、といっても、年齢は親子ほど違う。
「おお、そんな時間かね」
「おれは仮眠すっから、シクヨロ!」
白岡の言いぐさが乱暴なのはいつものことだ。それに、源蔵が定年後の再就職先に選んだ警備保障会社では、白岡の方が先輩でもある。
だが、たまにカチンとくる。今もそうだった。それに規則では、一人が巡回している間、もう一人は仮眠してはいけないはずである。
源蔵が何か言い返そうとした時には、白岡は仮眠所に入ってしまっていた。
仕方なく、「では、行ってくるよ、先輩」と独り言のようにつぶやいた。
源蔵は護身用の警棒を腰に差し、大型の懐中電灯を右手に持って、詰所を出た。
この建物は数社のオフィスが入った雑居ビルで、源蔵たちのいる詰所は地下一階の通用口の横にある。荷物を積んだトラックなどが入りやすいように、車道より入口を下げてあるのだ。
そのゆるいスロープ越しに、外の様子が見える。通過する車のヘッドライトが、細かい雨粒を照らし出した。
(朝には晴れるといいが)
源蔵は明日、久しぶりに孫に会いに行く予定だった。できれば近所の公園で遊んでやりたい。
(まあ、雨なら雨で仕方ない。ゲームでも付き合ってやろう)
そんなことを考えながらエレベーターに乗り、最上階のボタンを押した。最上階から順に階段を降りながら見廻るのである。
最上階から二階分ほど下ったところで、源蔵は忘れ物をしたことに気付いた。緊急連絡用のトランシーバーを詰所に置いてきたのだ。
(しまった、わしとしたことが。一旦、戻るか)
面倒だが、何か突発的な事態が起きた時、一人では対処できない。エレベーターに向かおうとした、その時である。
源蔵の胸を、激しい痛みが襲った。
「うううーっ!」
あまりの痛みに、立っていられない。心臓麻痺、という言葉が脳裏をよぎった。
「だ、誰かっ!」
叫ぼうとしたが、それ以上声が出ず、源蔵の視界が暗転した。
「う、うーん、ああっ」
源蔵が目を開くと、そこは病院のようだった。
「気が付かれましたか?」
そう言ったのはベッドの横にいた医師だった。
「わ、わしは、どうしてここに?」
「急性の心筋梗塞ですね。発見時の処置が遅ければ、危ないところでした。見つけてくれたお仲間が、がんばってくださったようですよ」
「え?」
医者と入れ替わるように、白岡が顔をのぞかせた。
「おっさん、良かったな。寝る前にトイレに行こうとして、おっさんがトランシーバー忘れてるのに気が付いたんだ。なんかあった時困るだろうと思って探しに行ったら、ぶっ倒れてるのを見つけてビックリしたぜ。すぐに救急車呼んだけど、間に合わないといけないと思って、AEDってのをやったんだ。研修では習ったけど、実地にやるのは初めてだから、ちょっとビビったけどさ」
白岡はそう言いながら、照れくさそうに笑っている。
(田沼先生。わしはやっぱり、石ころや砂より、人間の方が好きだよ)
源蔵は毛布から手を出し、白岡の手を握った。
「ありがとな、先輩」