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アヴァロンから来た女

天使の死 アヴァロンから来た女

作者: 美尾籠ロウ

 ユウカが殺された日、あたしは四人の客の相手をして、チップまでもらった。

 あたしもとっくに三十路を過ぎた。この仕事をいつまで続けられるかわからない。最近は、お茶を挽く日も多い。出勤しても一日中、デリバリー・ヘルス〈アヴァロン〉の「待機所」という名の三畳の空間で、ただ呼び出しを待ち続けてるような日が続くこともある。

 けれど、あたしはその夜、久しぶりにいい気分だった。一日に四人も客がつくなんてめったにないことだ。

 確かに、一日に四発もやると疲れる。若い頃なら、四人でも五人でも平気だったが、今はそういうわけにいかない。やっぱり若い子には負ける。だから、あたしには一日一日が大事。稼げるときに、たくさん稼がなければならない。

 あたしは、ユウカと同じように、昼十二時から夜八時までの「早番」勤務だ。夜には〈アヴァロン〉の事務所に戻って、その日のギャラをキャッシュでもらった。

 いつになく、重い封筒。あたしはバッグを抱えるようにして店を出て、まっすぐに電車でマンションに戻った。

 玄関でブーツを脱いでいると、バッグの中で携帯電話が振動した。けど、あたしにはブーツを脱ぐことの方が大事だ。早く何もかもすべてを脱ぎ捨てたい。誰かと話してる余裕なんか、ない。

 携帯は振動するのを諦めた。ちょうど、右脚が伝線したストッキングを脱ぎ捨てるのと同時だった。


 いつものように、熱めのシャワーを浴びた。今日一日のあいだにあたしの全身にこびりついた、すべての汚れを落とす――男どもの手垢、唾液、汗、精液、その他……を洗い流す。

 汚物のすべてが、お湯とともに、排水溝に渦を巻いて吸い込まれていく。それを、あたしは表情を変えずに見下ろしている――滑稽だ。いちばん汚れているのは、あたし自身なのに。

 シャワーから出ると、冷蔵庫から缶ビール――いや、正確には「第三のビール」――の五百ミリリットル缶を取り出し、プルタブを引く。くすんだグラスを適当に水ですすぎ、注いだ。あおった。苦い液体。喉元を過ぎれば、かっと熱くなる。全然、美味しくはない。

 ラッキー・ストライクに火を付けて、テレビのスイッチを入れた。よく理解できない「タレント」という肩書きの人間が、よく理解できないことをしゃべくって、なぜか客席(?)からは大笑いの声がする。

 いったい、誰が何に笑っているのだろう?

 あたしの住んでる世界とは全然違うシロモノが、ちっぽけなテレビ画面に映し出されていた。

 もう一本、ビールを取り出した。つまみも何もない。二本目もすぐに空いた。気づいたら灰皿に吸い殻が山を作っている。アルコールとニコチンが血管を通って、脳に回っただけ――汚れたあたしの思考を鈍化させてくれるのは、やっぱり汚物だけだ。

 携帯が鳴った――デジタルでわざわざでっち上げたベルの音。

 バカバカしくて、あたしは声に出して笑った。

 そのときになって、ようやく気がついた。「仕事用」ではなく、自分の携帯が鳴っていることに。

 あたしは二つの携帯を持っている。一つは〈アヴァロン〉から持たされている「仕事用」。もう一つは、あたしが自分で買った自分用の携帯だ。両方とも、いつもマナー・モードのまま。音が鳴ることはない。客との行為の最中に携帯が鳴ったら、あたしも客も興ざめだ。

 それに、あたしの携帯に電話をかけてくる友だちなんか、ほとんどいない。

 携帯を手に取った。表示されているのは、登録していない見知らぬ番号だった。

 イタズラ電話か?

 無視した。商売柄、こんな電話がたまにある。

 すぐにまた携帯が鳴った。が、たった三コールで切れた。

「死ね、ヘンタイ!」

 声に出して吐き出した。留守電にメッセージが入っているようだ。

 ため息を三つばかりついてから、留守電サービスにかけてみた。「1」のボタンを押して、メッセージを再生する。

「ゴゴ、ジュウジ、ニジュウ、ナナフン、デス」

 機械的な声が時刻を知らせ、そのあとにメッセージが再生された。

 ――ガツッ。

 何かぶつかるような音だけ。すぐに切れていた。

 不味い酒が、ますます不味くなる。

「くたばれ、バーカ」

 あたしはつぶやき、三本目の缶ビールを冷蔵庫に取りに行った。

 それが、ユウカの電話から最後にかけられたコールだなんて、わかるはずがなかった。あたしは酔っぱらってソファに倒れ込み、そのまま夢も見ないで眠った。

 その夜に、ユウカは首を絞められ、殺されたのだ。


 冷たい雨がフロントガラスを叩いていた。車のエアコンは効いているはずなのに、あたしの体が小刻みに震え続けていた。

 雨粒が無数にへばりついたウィンドウ越しに、無機的な五階建てのビルが見える。ビルには大きな電光掲示板が取り付けられていた。それは何の感情もなく、ただ機械的に文字を流している。

 ――2F 山科家通夜式場 3F 宮嶋家告別式場 4F 新田家通夜式場……

 死者がベルトコンベアに乗せられて、運ばれては消えていく。

「ほんとうに行くのかい? やめたほうがいいと思うがね」

 運転席の斎木さいきさんが外を見つめたまま言った。

 斎木さんは、〈アヴァロン〉のドライバーさんだ。あたしたちデリヘル嬢は、斎木さんたち、ドライバーに「仕事場」になるホテルや客の自宅へ送迎される。

 斎木さんは五十代後半だろうか。白髪が目立つが、髪はフサフサでダンディだ。〈アヴァロン〉の女の子たちからも、信頼が厚かった。

「だって、あたしが行かないと……」

「あんたに教えんかったらよかったかもな、電話のこと」

 あたしの言葉をさえぎって、バックシートのリサさんの声がした。振り返ると、いつものようにクッキーの袋を片手に、口をもぐもぐやっている。お気に入りは「カントリーマアム」だ。

 リサさんは、あたしたち〈アヴァロン〉の女の子たちの先輩で、あたしたちのよき相談相手だ。あたしよりずっと年上のはずだけど、あたしよりもずっと綺麗で、ずっと頭がいい。何年間この業界で働いているのか、よく知らない。リサさんなら、ほかの仕事――まっとうな普通の仕事でも充分勤まると思うけれど、なぜ〈アヴァロン〉にいるのか、以前から疑問に思っていた。もちろん直接訊いたことはない。それは、この業界での不文律だ。

「ユウカは最後の最後に、あたしに助けを求めて電話してきたんだよ。なのに、あたしは無視しちゃった……。もし、あのときちゃんと電話に出てれば、ユウカはこんなことにならなかったかもしれない」

 リサさんは、呆れたようにため息をついて、シートにもたれかかった。

「あんたはそれでええかもしれへん」

 リサさんはそう言って、クッキーを口に放り込んだ。

「あんたな、あっちの家族のこと、考えたことあるんか? 仕事のこと、知らんかったんやで。他のコと一緒で『アリバイ会社』の名前で、ごまかしとったんや。でも今度の事件で、全部バレてしもた。そこへあんたが行って、何を言えるねん?」

「ユウカのために手を合わせて、なんで悪いの?」

 リサさんは、大きくため息をついた。

「ユウカのため? ちゃうやろ。ホンマはあんたのためやないんか? あんたが感じてる罪悪感を少しでもまぎらわそう思てるだけなんちゃうか?」

 あたしは言葉を返せなかった。ただ奥歯を噛みしめたまま、黙ってサイド・ドアを開けた。

「あたし、行くから」

 小雨のなかに飛び出した。

「難儀な子ォや」

 背後にリサさんの声が聞こえた。


 受付で記帳した――あたしの本名を。そして、わずかながらの香典――男に体を売って稼いだ金だ――を渡した。葬祭場四階、ユウカ――本名、新田にった有佳子ゆかこの葬儀会場は、閑散としていた。

 祭壇の正面に、晴れ着姿のユウカの遺影。これ以上ないくらいの笑い顔を見せている。成人式に撮った写真だろうか。「新田有佳子」の成人式――ユウカに本名があることが、なんだか不思議な気がした。

 視線を感じた。祭壇の横、遺族の席からだ。うつむいている白髪の痩せた男性は、ユウカのお父さんなのだろう。両手の拳を握りしめ、その拳が小刻みに震えている。その隣で、ずっとハンカチに顔をうずめているのが、お母さんに違いない。その他に、親類らしい数名が、パイプ椅子に腰掛け、じっとうつむいている。

 他に泣いている人はいなかった。

 あたしに強烈な視線を向けているのは、ユウカの母親と思しき女性の隣に座っている髪の短い若い男だった。目元から鼻にかけて、ユウカにとてもよく似ていた。

 あたしはその視線に耐えきれず、眼をそらした。強い罪悪感と羞恥を覚えた。

 おそるおそる祭壇に歩み寄った。ユウカの遺影が近づいてくる。

 お焼香をし、手を合わせた。

 ――ごめんね。

 それしか心のなかで言えなかった。

 視線を棺に向ける。無表情のユウカ――ほんとうに眠っているように見えた。けれど、両方の鼻の穴に詰められた脱脂綿が眼に入った。思わず顔を背けた。

 そっとユウカの両親たちのほうへ頭を向けた。おざなりに頭を下げた。

 そのまま逃げるように斎場から出た。が、エレベーター・ホールで、声をかけられた。

「姉貴の友だち?」

 あたしは跳び上がりそうになった。振り返った。髪を短く刈り上げた男が立っていた。さっき、あたしを凝視していた男だ。彼は、ユウカの弟だったのだ。

「え、そうです……このたびは……」

「何なんだよ!」

 ユウカの弟が怒鳴った。片腕を伸ばし、あたしの二の腕を痛いくらいに摑んだ。

「何しに来た? 俺らは……俺は……知りたくなかった……!」

「あたしは、ただ……」

 言いかけると、ユウカの弟はあたしを突き飛ばした。あたしはエレベーター・ホールの床に無様に転がった。

「うっせえ! てめえもヤリマンの姉貴と同じなんだろ? そんなことで稼いだカネなんか、要らねえよ! 欲しくなかったよ! バカ野郎! 姉ちゃんの……バカ野郎!」

 ユウカの弟は、がくりと膝を折った。そのまま、両手で顔を覆って泣き崩れた。

「ごめんなさい、あたし……」

 あたしの言葉は聞き入れられなかった。ユウカの弟はうつむいたまま、幼子のように大きく拳を振り回した。その拳の先が、あたしの肩にぶつかった。衝撃で床に倒れ込んだ。側頭部を打ち付けた。眼前に火花。一瞬、気が遠くなる。

 でも、耐えなきゃ、と思った。彼があたしへ向けた怒りは、ユウカへの怒りだ。今、それを受け取れるのはあたししかいない。

「やめなさい、博樹ひろき!」

 一つの声。駆け寄ってくる足音。あたしは細い腕で抱き起こされた。

「大丈夫ですか?」

 薄目を開くと、そこには初老の女の顔があった。涙で化粧が崩れている。ユウカのお母さんだった。

「わざわざ有佳子のためにおいでいただいて、ありがとうございます。あの子も喜んでいると思います。なのに、たいへん失礼なことをしてしまって……」

「こっちこそ……すみません」

 あたしの声は消え入りそうだった。そして、すぐさまユウカの母親と弟に背を向け、エレベーターに乗り込んだ。

「ちくしょう! 二度と来るな、クソヤリマン!」

 ユウカの弟が泣き叫ぶ声が、あたしの背中に突き刺さった。

 エレベーターのドアが閉まった――一気に、いろんな感情が吹き出した。止められなかった。

 あたしは一階に着くまでの短いあいだ――ほんの短いあいだだけ、泣いた。


 斎場から出ると同時に、二人のスーツ姿の男に行く手を阻まれた。喪服ではなかった――参列者ではない。

「おい」

 若いほうが、横柄にあたしを呼び止めた。顔のすべてのパーツが鋭角でできているような男だった。あたしは涙で濡れたマスカラもそのままに、棒っきれのように立ち止まった。

 若い男はあたしの名前――本名を言った。

「訊きたいことがある」

 あたしが二人の正体を悟るのとほぼ同時に、年嵩の男が警察のIDバッジを取り出した。

 こちらは若いほうとは逆に、顔面のパーツのすべてが丸い顔をしていた。額はかなり浸食されている。その年嵩の男が言った。

「私は県警の荒巻あらまきです、こっちは港西こうさい署の勝屋かつや刑事」

 あたしは黙ってうなずいた。

「新田有佳子について、署で話を聞かせてもらうぞ」

 若い刑事が言うなり、あたしの肩を摑んだ。つい先程、ユウカの弟の拳が当たった場所だ。鈍い痛み。でもあたしは、それを顔に出したりしなかった――はずだ。

「待ってよ、『任意同行』なんでしょ? それとも逮捕するの?」

「最近のクソ売女ばいたは、余計な知恵つけやがってんな。なんならパクったっていいんだぞ、売春防止法違反で」

「証拠あんの? じゃ、令状見せてよ」

「まあまあ落ち着きなさい」

 荒巻と名乗った年嵩の刑事が割って入った。どちらに向けてその言葉を発したのかはわからないが。

 荒巻は、にっこりと笑った。丸顔がさらに丸みを増したように見えた。

「いくつかお尋ねするだけだから、心配しなくていいんですよ。私らは『そっち』の調べに来たんじゃない。ちょっとだけ話を聞かせてくれるかな」

 噂には聞いたことがある警察の手口がこれか、と思った。一人が「悪い刑事」、もう一人が「いい刑事」。そうとは知りながら、あたしは答えた。

「わかりました」

 二人はあたしを左右から囲むようにして、近くに路駐してあった覆面パトカーにあたしを押し込んだ。


 取調室というのは、まさにテレビの刑事ドラマで見たのとそっくりな造りになっていた。コンクリート打ちっ放しの壁。あたしの背後、部屋の奥の上のほうに鉄格子付きの窓。部屋の片側には鏡がある。きっとマジック・ミラーで隣の部屋から見えるのだろう。部屋の中央にはデスクがあり、その上には古い電気スタンド。灰皿はなかった。刑事がよく投げつけたりするやつだ。今では取調室も禁煙だったりするのかも知れない。

 あたしがきょろきょろしていると、唐突に勝屋刑事が言った。

「六日の午後八時から十一時までのあいだ、どこにいた?」

「それじゃあ、その時間に、ユウカは――」

「訊かれたことだけに答えろ。その時間帯に、どこで誰とヤッてた?」

「ねえ、カツ丼は? あたしおなかペコペコなんだけど。ふつう、カツ丼出してくれるんじゃないの?」

「偉そうな口を利くんじゃねえよ、クソ売女!」

 さすがに、あたしもキレた。勝屋刑事の薬指に指輪があることをチラ見してから、吐き出した

「あたしプロだから、顔見るだけでわかるんだよね。あんたは短小で包茎! 奥さん、嫌がってるよ。エッチしてもキモチよくないし、すぐイッちゃうし、っていうか、包茎で恥垢まみれの臭いチンコなんて、誰もフェラなんかしたくないよね――」

「なんだと!」

 勝屋刑事が立ち上がった。がたん、と音を立ててパイプ椅子が倒れた。

「短小は治らないけど、包茎は、真性でも仮性でも手術したほうがいいよ。あんたのためじゃなくて、奥さんのためにね。ビョーキ伝染うつされたらたまんないもん」

「このクソアマ……!」

 勝屋刑事の顔がゆがんだところを見ると、まんざらハズレでもなさそうだ。

 倒れた椅子を立てて、今度は荒巻刑事が腰掛けた。

「いや、すまないね。彼は文字通りの『熱血刑事』なんだが、ちょっと熱血の度が過ぎるときもあるんですわ。勘弁してくれますか」

 警察の「やり口」だってわかっていても、この荒巻という刑事の台詞を聞いていると、本気で心配しているような気になってしまった。

「は、はい……」

 ついついあたしも殊勝な口調になってしまう。

 荒巻刑事は、デスクの上のファイルに視線を落とした。

「新田有佳子さん、三十一歳は、六日の午後一時五〇頃、K町3―2、『レジデンス浜崎』401号室で、遺体で発見されました。発見者は『レジデンス浜崎』の管理人と……あなたの会社の人だ。まあ安心しなさい。『そっちのほう』で、あなたたちをどうこうするつもりはありませんよ。私たちの専門じゃないのでね」

「で、ユウカは、どんなふうに……?」

「マンションのエントランスはオートロックだったが、新田有佳子さんの部屋の鍵は開いていた。ベッドにうつ伏せに倒れた状態で発見。死因は、頸部圧迫による窒息死。凶器は、部屋にあった被害者のものと思われるタオル。首に巻き付いたままだった。多少は争った形跡があるが、着衣に大きな乱れなし。性的暴行の痕跡も、ない。部屋に物色された形跡もなし。財布と、そのなかの現金に手は付けられていなかった。通帳と印鑑、貴金属類、クレジットカード類も、盗まれていなかった。部屋の指紋を拭き取った痕跡は、ありました」

「えっ? 泥棒じゃなかったんですか?」

 あたしは尋ねたが、聞こえているのかいないのか、荒巻刑事は先を続けた。

「死亡推定時刻は五日の午後十時二十七分から、午後十一時頃までのあいだ」

「その夜は、家に帰ってからずっと家にいました。証人はいないけど」

 答えてから、気づいた。

「十時……二十七分?」

 あたしは聞き返し、荒巻刑事は身を乗り出した。

「そう、だからあなたをここにお呼びしたんですわ」

 はっと胸を衝かれる思いがした。

「電話……」

「そう、被害者は殺される直前に、携帯電話であなたにかけています。三回も。しかし、あなたは出なかった。それが不思議でねえ。あなたの友だちでしょう?」

「友だちっていうか、そんなに親しい仲じゃなかったし……あんまり話したこともなかった。それに、あたしの携帯にユウカの番号は登録してなかったから……」

「しかし、被害者の携帯電話には、ちゃんとあなたの……えー、源氏名が登録されていた。普通、電話番号というのは、お互いに教えあうんじゃないかなあ?」

 荒巻刑事は冷ややかに、しかし鋭い眼であたしを見つめた。

「あたしは教えてないよ。携帯見せようか。ユウカの番号、登録してないから」

 勝屋刑事が割り込んできた。

「おまえが事件のあと、メモリーを消去してなければ、だけどな」

「してねーよ!」

 この男の顔を見ると、思わずあたしも怒鳴りたくなる。

「まあまあ、大きな声を出さないで」

 荒巻刑事が眉をハの字にして言う。

「たぶん、お店の誰かがユウカに教えたんじゃないの? ねえ、あたしは何もやってないし、あたしが犯人だったら――」

 あたしが言い終えないうちに、荒巻刑事が、手元のファイルを見ながら喋り始めた。

「もう一つ、奇妙なことがあるんですわ」

「な、何ですか?」

「被害者の一回目の通話は、午後九時四十六分。二回目が十時二十六分、三回目が同二十七分。なぜ一回目のあと、こんなに時間をあけて二回目以降の電話をしたのかなあ」

「そんなこと、どうしてあたしが知ってるの? あたしが犯人だったら、自分に電話かけるわけないじゃん」

 またも勝屋刑事が割り込んでくる。

「おまえが嫌疑を逃れるため、現場で自分の携帯電話にかけたのかも知れないな。ガイシャの携帯は、基地局を調べたところ、ガイシャのマンションからかけられたことは、ほぼ間違いない。アリバイ工作にしては幼稚過ぎるけどな」

「念のため、携帯電話を見せてもらえますか。あくまで『任意』ですがね」

 荒巻刑事に言われるがままに、あたしは携帯電話を差し出した。

「ええと、どうやって見たらいいのかな? このテの機械にはまったく弱くてねえ」

 あたしはメモリーを画面に表示させた。「ユ」の欄にはユウカの名前はない。ユウカの本名「新田」の「に」の欄にも登録はない。それに、着信履歴も見せた。

「ははあ、なるほど、ありがとう。言っておきますが、べつにあなたに嫌疑がかかっているわけじゃない。ただ、どうしても電話の発信記録が腑に落ちなくてねえ。今日は、もう結構ですよ。ただ、勝手にこの街から出ないように。また何かお訊きすることが出てくるかも知れない」

 あたしは携帯をしまうと黙って立ち上がり、少し、荒巻刑事に頭を下げた。勝屋刑事には、軽蔑と嫌悪の視線をぶつけてやった。

 制服警官が、取調室のドアを開いた。そのとき、背中に荒巻刑事の声。

「同じ着信の記録でも、どうして色が違うのかな?」

「は?」

「さっき見せてもらった新田有佳子さんからの電話の記録、三回目だけ、マークの色が違ってましたね」

 そのとき、明瞭にあの夜のことが脳裏にあふれかえってきた。

「留守電! 三回目のとき、留守電につながったんだ」

「留守電? 彼女は、何か録音したんですか?」

「ううん、ただガタッっていう音だけですぐ切れちゃって、だからあたし、イタ電だと思って……」

 次の瞬間、全身の血が一気に冷たくなった。あの物音――あれは、ユウカが殺された、まさにその瞬間の音ではなかったのか? あたしは、ユウカの命が奪われるときの音を聞いていた――のだろうか?

「おい、その録音、聞けるのか?」

 勝屋刑事が怒鳴った。

 あたしは素早く留守番電話サービスにコールした。

「ホゾンサレテイル、メッセージハ、アリマセン」

 機械的な声が冷たく返事を返してきただけだった。あの夜、ほとんど反射的に、無意識的に消去していたのだ。

「消しちゃった……」

「このバカ女が!」

 勝屋刑事の怒声が遠くに聞こえた。あたしの視界がチカチカとまたたいた。

 ユウカの最期のメッセージ――それをあたしは消し去った。苦しみ悶えるユウカの姿がまざまざと目蓋の裏側に映った。必死の思いで携帯を握るユウカ。

 ――助けて、助けて、助けて、助けて……。

 耳の奥にかすかに響く声。なんてあたしはバカな女なんだろう――

 血の気がすうっと頭から引いていく。すぐそばのパイプ椅子にへたり込んだ。


「今思い出しても震えちゃうわ。あんなに悲しそうなユウカちゃんの顔……」

 シンスケ君が、ココアをスプーンでかき回しながら、眼を閉じてつぶやいた。

 シンスケ君は〈アヴァロン〉の従業員だ。一見すると、アイドル風のイケメンだが、ゲイだ。そして、ゲイであることをカミング・アウトしている。十五歳くらいにも見えるが、ときには三十歳を過ぎているかのような発言をする。年齢不詳の不思議な人だ。

 ユウカの亡骸を発見したのが、シンスケ君だった。出勤してこないユウカに腹を立てた店長が、シンスケ君をユウカの家まで迎えに行かせたのだった。

「店長もひどいわ。香典一つ出さないなんて」

「そらしかたないわ。娘が殺されただけでもショックやのに、フーゾクやっとったなんて知らされてもうたんや。うちら関係者が出す顔あらへんやろ」

 リサさんは、ジャイアント・ミックスパフェを半分制覇したところだった。

 あたしたち三人は駅近くのファミレスにいた。〈アヴァロン〉は、当分のあいだ休業することになった。そのあいだ、収入が途絶えるのはキツイが、しばらく食いつないでいくくらいの蓄えはある。

「ねえ、あたしの携帯の番号、ユウカに教えた?」

 あたしはシンスケ君に尋ねた

「警察にも訊かれたわ。教えてないわよ。あたし、うちの女の子の番号、誰一人知らないもん」

「あたしやねん」

 唐突に、リサさんが言った。

「あんたの番号、ユウカに教えたったの、あたしや」

「えっ、リサさんが?」

 リサさんは、何かを吹っ切るようにスプーンで山盛りのパフェをすくい取り、口に放り込んだ。

「あの子な、実家のことで、めっちゃ悩んどってん。それで相談受けとったんや。あの子、家と縁を切ること考えとった。あたしもやけど……ほら、あんたも、実家とは全然切れとるやろ? どないしたら家とスパっと縁切れるか、ずーっと悩んどったらしいねん。真面目な子ォやったんや。で、たまたまあんたのこと思い出して、番号教えたったんや。あんたやったら、ユウカと歳も近いし適任やないか思うてな。もう何度か話しとると思たんやけど……」

 あたしは無言のまま、冷めたミルクティを一口飲んだ。ただ甘いだけのぬるい液体。

 確かに、あたしはもう何年も前から実家に戻っていない。実家のことを思い出すこともなかった。行き先も告げずに飛び出したきりだ。

 実家――封印していた記憶が甦り、胸がチクチクと、しくしくと、痛んだ。懐かしさや罪悪感ではなく、不快さと恐怖で。

 まだ何も知らないガキだった小学五年生の頃、深夜にベッドに忍び寄ってくる兄の姿に怯えた日々――あたしは首を振って、すっかり冷めきったミルクティを飲み干した。

「あたしにアドバイスできることなんてないよ。帰る家なんかないし」

「縁切った家やったら、もう無視したったらええねん。それができへんかったのが、あの子の真面目なとこやったんやな……」

 ユウカの通夜の式場を思い出していた。

 摑みかかってきた弟。涙ながらにあたしに謝罪し、頭を深々と下げた母親。

 あそこには、家族があった。壊れかけているにせよ――あるいはもう壊れてしまったにせよ。しかし間違いなく、ユウカは「家族」を持っていた――あたしが決して持つことができなかったものを。


 翌日の夜、あたしはドライバーの斎木さんの運転する車のバックシートに座っていた。時間は七時過ぎ。車内では、もの悲しいクラシックの歌曲が流れていた。

「悲しい曲だね」

 あたしがつぶやくと、斎木さんもつぶやくように答えた。

「マーラーだよ。『亡き子をしのぶ歌』」

 訊かなければよかった、と思った。斎木さんは続けて静かに言った。

「どうしても行かなきゃいけないのかな」

 斎木さんはいつものように冷静だった。〈アヴァロン〉の営業は休止中なのに、やっぱりいつものように斎木さんはちゃんとしたスーツ姿だった。

「ごめんね、斎木さんをコキ使っちゃって」

「そんなことを責めてはいないよ」

「あたしの問題なんだ。あたしがどうしても解決しなきゃいけない」

 斎木さんは黙ったまま車を運転し続けた。カーステは悲しい歌を歌い続けた。車はやがて薄暗い通りに停まった。

「着いたよ。しかし……きみが行かなければならない理由が、私にはわからない」

 到着したユウカ――新田有佳子の実家は、小さな、小さな町工場だった。

 〈新田金属加工〉とかすれた文字で書かれた、錆びかけた看板。

 古びたプレハブ造りの作業場に掲げられた看板は、少し右下に傾いていた。作業場の内部から、まだ灯りが漏れていた。その作業場に隣接して、建坪の小さな、工場よりもさらに古い二階建ての建物があった。ユウカの家族が住む家なのだろう。

 あたしは息を吸い込むと、サイド・ドアの取っ手に手をかけた。

「ちょっと待ちなさい」

 静かに斎木さんは言った。

「きみがユウカちゃんの家へ行っても、何も得られないと思う」

 斎木さんは上着の内ポケットから、黒い財布のようなものを取り出した。

「ウソ? これって警察手帳じゃん! なんで?」

「正確には手帳とは違うが……ちゃんと警察の身分証明書に見えるかな」

 ごく冷静に斎木さんは答えた。

「いったい……斎木さんってどんな人? それってニセモノでしょ? 中国マフィアとかに作ってもらったの?」

「ノー・コメント。この仕事を長年やり続けてると、いろいろな人と知り合うんだ――いい人にも、悪い人にも、ね。私が代わりに行く。きみはここで待っていなさい」

 有無を言わさない口調だった。斎木さんはすぐさま運転席側のドアを開け、素早く外に出て、〈新田金属加工〉に向かって足早に進んでいった。


 約二時間後、あたしたちは、バーにいた。

 〈ミロンガ〉というそのバーは、あたしが偶然見つけた「隠れ家」のようなところ。〈アヴァロン〉の事務所からは歩いて十分もかからないほど近いけど、〈アヴァロン〉の他の女の子たちが来ることはないし、あたしから誘ったこともなかった。

 客層は、中年かもっと年上のオジサマばかりだ。そのなかに斎木さんは溶け込んでいた。

 あたしたちはカウンターのストゥールに並んで腰掛けていた。斎木さんが下戸だということをはじめて知った。斎木さんの前にはコーラ。あたしの前には、アーリータイムズのロック。

「こんなお店が近くにあったとはね」

「いいところでしょ。マスターは怖い顔してるけど、ホントは優しいし、ママは話し好き」

 あたしはカウンターの奥に立っている中年の男女を指した。

「今度また、来させてもらってもいいかな」

「全然いいよ。それより、ユウカの話どうだったの? 長くかかってたけど」

「あまり、いい話ではないよ。でも、聞きたいかい?」

 あたしはうなずいた。


 ユウカは、高校在学中に妊娠した。ユウカは生みたかったが、相手の親も、ユウカの親もそれを許さなかった。ユウカは、赤ちゃんを堕ろした。

 それ以来、ユウカと家族の関係が変わったという。高校を中退したユウカは、年齢を偽ってキャバクラで働き始めた。が、当時つきあっていた男がどうしようもない甲斐性なしだった――この業界ではよく聞く話だ。それを知ったユウカの父親は、男のアパートへ乗り込んで行った。ベッドで睦み合っていた二人を殴りつけ、その場でユウカに勘当を言い渡した。

 それ以来、ユウカは実家に一歩も足を踏み入れていないという。

 しかし、悪いことは続く。数年後、実家の〈新田金属加工〉で火事が起こった。工場は全焼した。父親の煙草の不始末が原因だったようだ。

 〈新田金属加工〉は小さいながらも、腕のいい金型職人がそろっていることで有名だった。大手医療機器メーカーからも依頼が来るほどだった。しかし、この火災のために、約一年間も操業停止することとなった。さらに工場の再開のために、数千万円の借金を抱えてしまった。そしてまた操業停止のあいだに、職人たちは他の工場やメーカーへ引き抜かれたり、辞めたりし、さらに多くの取引先も失った。

「じゃあ、今あそこの家は?」

「お父さんと息子さん――ユウカちゃんの弟さんだね――と、あと数名の若い人たちで頑張っている。けれど、職人というのはすぐには育たないし、操業停止中によそへ移った取引先も、簡単には戻ってこない。事実上、開店休業状態のようだ」

 あたしはグラスに視線を落とした。もうすっかり氷が溶けてしまっている。

「ユウカはそのことを?」

「知っていたようだ。毎月、二十万近い仕送りをしていた。ユウカちゃんからの仕送りを受け取っていたのは、彼女のお母さんだった。お父さんも、無論、弟さんも知らなかった――事件が起きるまでは」

 あたしは氷の溶けきったバーボンを飲み干した。マスターに二杯目を注文する。

「斎木さんが話を訊いたのって、お母さん?」

「そうだよ。弟さんは……事件以来、家を飛び出して、めったに連絡がつかなかったらしいし、お父さんのほうは……」

 斎木さんの眼に哀しげな光が宿った。

「お父さんは、どうしてるの?」

「話を訊いている最中にね、工場のほうから声が聞こえた。『おおおおう!』っていう、大きな大きな、けものの叫びのような声が……」

「それって……」

「恐ろしげで、哀しげな声だったよ。事件のあとずっと、お父さんは作業場にこもりっきりで、かと言って仕事もせず、一日中、酒ばかりあおっているそうだ」

 自分が勘当した娘――デリヘル嬢として体を売って稼いだお金で、実家の借金を返し続けていた娘。そして、理不尽にも命を奪われた娘。

「親は、いつまでも親なんだね」

 あたしがつぶやくと、斎木さんは静かにうなずいた。

「当然だよ。親にとって、子どもはいつまでも天使のような存在なんだよ。けれど、親の思い通りに生きてくれないのが、子どもなんだがね」 

「斎木さんにも――」

 子どもがいるの、と問いかけたとき、突然、店内の客から拍手が起こった。斎木さんが、怪訝そうに周囲を見回した。

「これが、ここのお店の名物」

 あたしは言った。

 マスターとママが、カウンター脇の小さなステージに立った。二人とも、楽器を手にしている。ママはチェロ、マスターが持っているのは、バンドネオン。

「アルゼンチン・タンゴだね。そうか、だから名前が〈ミロンガ〉なんだ」

「へえ、斎木さんって、クラシックしか聴かないんだと思ってた」

「アストル・ピアソラだって立派なクラシックだよ」

 演奏が始まった。まずは定番の「リベルタンゴ」から。

 あたしと斎木さんは、しばらく二人の演奏に聴き入った。三曲目に、あたしのお気に入りの曲が始まった。スピーディで、とてもカッコいい曲だ。ママのテンポの速いチェロの演奏に、マスターのバンドネオンが重なる。マスターの指がバンドネオンの上を巧みに走る。

 ふと斎木さんを見ると、とても固い表情をしていた。あたしはそっとささやいた。

「どうしたの? これあたしのお気に入りの曲なんだけど」

「この曲、題名を知っているかい?」

「ううん、斎木さん、知ってるの?」

 斎木さんは、カウンターのコーラのグラスに眼を移し、そっと答えた。

「『ラ・ムエルテ・デル・アンヘル』――『天使の死』だよ」


 帰宅してはじめて、「仕事用」携帯の留守電サービスに伝言が入っていることに気づいた。〈ミロンガ〉は地下なので、圏外だったのだ。留守電サービスにコールして、メッセージを再生すると、シンスケ君の声が流れ出した。

「明後日、お店に来てね。今度の事件で警察といろいろあったから、今までどおりってわけに行かないのよ。新しい場所にお店が変わるから、引っ越しすることになったの。詳しいこと説明するから、何時でもいいから電話ちょうだい」

 電話を切った。荒巻刑事の丸顔を思い浮かべた。優しそうなのは口先だけか。やっぱり、警察の人間は信用できない。

 その瞬間、何かがあたしの脳をよぎった。

 眩暈めまい――震える手で携帯を取り出した。シンスケ君に電話をかけた。


 怪訝そうなシンスケ君、不機嫌そうにミルフィーユを口に放り込むリサさん、斎木さんは無表情なまま、ブラック・コーヒーのカップを見つめている。

 平日の深夜のファミレスは、客が少なかった。いきなり深夜に呼び出され、みんな当惑しているはずだった。

 あたしは紅茶で口を湿らすと、切り出した。

「斎木さん、〈アヴァロン〉で確実なアリバイがあった人って、知ってる?」

「遅番の女の子たちはほとんどみなアリバイがあった。私も、他のドライバーも、シンスケ君もね。店長もあったよ。ただ、早番の子と休みの子は、みんな帰宅したあとだったから、ほとんどアリバイは、なかったようだよ」

「そう、あたしも含めて」

「ヤダ、お店の誰かを疑ってるの?」

 シンスケ君が身を乗り出した。

「あたしには、何かずっと引っかかってるものがあったの。それが何かはっきりしたのは、シンスケ君からの、さっきの留守電」

「あたしは犯人じゃないわよ! アリバイがある、って斎木さんが言ったじゃん」

「違う違う。あの日、ユウカが最後に電話したのはあたしだったのは知ってるよね。そして、留守電に物音だけが入ってた」

「それが、ユウカちゃんが……殺されたときの音……」

 シンスケ君が言い淀んだ。

「あたしもそうだと思ってた……けど、違ってた」

「なんでそないなこと言えるん?」

 リサさんがミルフィーユで口をいっぱいにしたまま訊いた。

「留守電って、携帯本体じゃなくて、留守電サービスに入ってたの。なんであたし、気づかなかったんだろう? 留守電サービスにメッセージを残すときどうする?」

「メッセージ入れて、それで言われたとおり『#』押して……あっ!」

 言いかけたシンスケ君が、はっとした。

「そう。あたしの携帯なら、最後に『#』を押さない限り、メッセージは録音されない。もしも自分が殺されそうなとき、メッセージどおりにそんなことができる?」

「じゃあ、あのメッセージって、ニセモノ?」

「誰か――犯人が、あの瞬間にユウカが殺されたように偽装するために、物音をあたしの携帯に録音した。つまり、あのときすでにユウカは……殺されていた」

「つまり……アリバイ工作ということかい?」

 斎木さんが静かに尋ねた。あたしはうなずいた。

「あたしは犯人に利用されたの」

「彼女のマンションはオートロックだった。どうやって室内に入ったんだね?」

 斎木さんはあくまでも冷ややかだった。

「ユウカ自身が部屋に入れたんだとしたら? つまり、犯人はユウカと顔なじみ。しかも、一人暮らしの部屋に招くくらいに信頼していた人。それに、あたしをアリバイ工作に利用できることも知っていた人。もしかしたら……ユウカにあたしの電話番号を教えたときに、すでに殺すことを決めていたのかもしれない」

 あたしはそこで一呼吸置き、眼の前のレモンティの残りを飲み干した。

「どうなの、リサさん?」

 リサさんは表情を変えなかった。そっと、音もなくフォークを置いた。

「なんで、あたしがユウカ殺さなあかんねん? 動機は何やねん?」

 あたしたちのいるテーブル周囲の空気が、一気に凍り付いたようだった。シンスケ君も斎木さんも、動きを止めてあたしを見つめていた。

 あたしは、じっとリサさんを見つめながら言った。

「それは……たぶん、妬み。自分にはない家族を持ってて、家族思いのユウカに対する、嫉妬……」

 リサさんはあたしから眼をそらさなかった。ミルフィーユの残りを口に放り込んだ。そして、素っ気なく言った。

「五十点やな」

「え?」

「もしもあんたの推理とやらがホンマやったら、どないする?」

「自首して! お願い!」

「自首か……ええ考えやな、それ」

 独り言のように、リサさんは言った。が、割り込むように、斎木さんが口を開いた。

「それは駄目だ。誰のためにもならない。もちろん、ユウカちゃんのためにも。誰も幸福にはならない。リサちゃん、話していいね、ほんとうのことを?」

 今までにない、強い口調だった。

「斎木さんが言うなら、しゃあないわ」

 リサさんは、そう言って大きく息を吐き、先を続けた。

「あの夜、確かにあたしはユウカん家におった。ユウカに頼まれたんや、来てくれ、言うて」

「頼まれた? どうして?」

「あの子に、実家のことで相談受けとったんは、ホンマや。それで、あんたの電話番号教えたんも、ホンマ。あの夜、ユウカは自分であんたに電話したんや」

「それが……一回目の電話……?」

 あたしはあえぐように言った。

「せや。その場にあたしもおった。あの子、心配で助太刀が欲しかったんやな」

「助太刀? あたしに、どんな助けができたの?」

「あの夜な……ユウカは、おトンと会うことになっとった」

「ユウカの、お父さんと?」

「ユウカのほうから、おオンに連絡取ったんや。もうええ加減、実家へ帰って、助けたいって。もちろん、ユウカは〈アヴァロン〉のことも話すつもりやった……」

 そこで一度、リサさんは言葉を切った。両手の指を組み合わせると、じっとあたしを見つめ返した。

「この先、聞かんほうがええと思うけど、あんたはそれで気ィ済むような子ォやないし、言わなあかんやろな」

 そしてリサさんは、すべてを教えてくれた。

 ユウカは、自分の父親の気性の激しさを知っていた。そこで、リサさんに――それからあたしに――いざというときの助け船を出してもらおうと考えたのだ。

 そしてその夜、九時過ぎに、ユウカの父親が現れた。ユウカにうながされ、とりあえずリサさんは隣の部屋で父と娘の話し合いを見守ることにした。

 しかし、父と娘の「感動の体面」は実現しなかった。

 ユウカが密かに仕送りをしていること、今は風俗嬢として働いていることを告白した瞬間、父親は逆上した。リサさんが割って入る隙もなかった。

 その末に、恐ろしいことが起こった。

 我に返った父親は、泣き叫んだ。自分の犯した所業にパニックを起こした。

 有佳子! 有佳子! 床に倒れてぴくりとも動かない娘を前に、その名を何度も叫んだという。

「あの場におったあたしに、責任あんねん。もう少し早うユウカを助けに出られたら……もう少し、あたしに力があったら……。けど、泣いてもわめいても、ユウカは生き返らへん。ユウカを殺したおトンは許せんかったけど、それでも、あの子が守ろうとしたおトンやったんや。あの子が守ろうとした家族やったんや。せやから……あたしは腹くくった」

 リサさんは、ユウカのお父さんを説得し、マンションからまっすぐ家に帰るように諭した。

 あたしには、そのときの様子がまざまざと眼に見える――毅然としたリサさんの前で、ユウカのお父さんは、言われるがままに従うことしかできなかったろう。

 ユウカのお父さんがマンションを出たあと、リサさんは室内の指紋を拭き取った。そして、待った。ユウカのお父さんが帰宅したであろう時間まで――冷たくなったユウカとたった二人きりで。

 そして十時半頃になって、ユウカの携帯電話から、あたしにかけた。もしもあたしが出たら、すぐに切るつもりだった。けれど、あたしは出なかった。そこで、留守電を使うことを思いついた。あたしの留守電に、あたかもユウカが襲われたかのような物音を録音した。

「留守電サービスかぁ……ミスってしもたな。めっちゃテンパっとったんやな」

 しばらく、誰も何一つ言葉を発しなかった。

 やがて、シンスケ君が口を開いた。

「斎木さん、このこと知ってたの?」

「事件の翌日に、リサちゃんから聞いた。『自首する』と言うので、私は止めたんだ。リサさんは、自分自身のアリバイのことなんて、何も考えていなかった」

「そんな余裕あれへんかった。言うたやろ? めちゃめちゃテンパっとったんや」

 あたしは一心にかぶりを振った。

「ウソばっかり! リサさん、ほんとうは、罪をかぶろうとしたんじゃないの? ユウカの大切だったものを守るため――ユウカの家族を守るために」

 斎木さんが、あたしをじっと見つめた。

「私は、きみに謝らなきゃいけないね。全部知っていたのに、知らないふりをしていた。まさか、きみがここまで真相に迫っているとは思っていなかったんだよ」

 またしても、痛いほどの沈黙があたしたちの上に覆い被さった。

 が、やっぱり沈黙を最初に破るのはシンスケ君だった。

「家族って……何なのかしらね? あたしも長男なのに、こんなオカマちゃんに生まれちゃって、親不孝だわ。いや、そう思うこと自体が親不孝かしらね」

「生まれてきてくれただけで、親は嬉しいものなんだよ。子どもは『天使』なんだ」

 斎木さんの口調は相変わらず物静かだった。

「あー、しばらく帰ってないわねえ。あたしも一度くらい、実家帰ろっかしら?」

「忘れてもらっちゃ困る。明日から〈アヴァロン〉は引っ越しだ。いろいろたいへんなんだよ。当分、帰省は無理だろうね」

 斎木さんの顔には優しい笑みが浮かんでいた。

「そうだった! あたしがいないと〈アヴァロン〉はちゃんと動かないからね。ねえ、二人とも、引っ越しの手伝い、サボらないでちゃんと来てよ!」

 あたしはうなずいた。

「もちろん行くよ! リサさんも、遅刻しないでよ!」

 リサさんも、無言のままうなずいた。


 それから一週間後、デリバリー・ヘルス〈アヴァロン〉は営業を再開した。新しい事務所は、以前の事務所とほんの一キロくらいしか離れていない雑居ビルだ。ただそれだけで、警察はお目こぼししてくれたようだ。以前の〈アヴァロン〉よりも少し広いかもしれない。

 ユウカは自分に生命保険をかけていた。受取人は、ユウカのお母さん。数千万円の保険金が下りたらしい。けれど、事件から約一ヶ月後、ユウカのお父さんが脳溢血で倒れ、二週間後に亡くなった。〈新田金属加工〉がどうなったのか、警察の捜査がどうなっているのか、わからない。

「ホンマ、うちら正しいことしたんやろか? ユウカ、喜んどるんやろか?」

 リサさんは「待機所」で、〈カントリーマアム〉を一かじりして言った。

 わからなかった。あたしにわかっているのはただ一つだけだった。

「天使の死……」

 あたしはつぶやいた。

 そして、あたしはいつものように、あたしを買った客のもとへ出発する。


「天使の死」完

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