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第九章『真相』

 エゴンはいつかのように青白い焔を骸骨達へ放ち自らの忠実なるしもべへと変えた。彼は骸骨の一体が持っていた錆だらけの直剣を拾い上げるとヒルダに手渡した。ヒルダは不思議そうに彼を見た。

「これをどうしろと言うのだ?貴公のことだ。まさか、ただ単にこの朽ちかけた得物を握って戦えと言うわけではあるまい」

「この剣の作られたばかりの姿が想像できるか?」

 彼女は剣を眺める。刃は乾いた血の色をした赤錆にまみれ、傍目には今にも砂に還ってしまいそうである。手入れらしい手入れなどされず、雨風に打たれるがままに晒され続けていたに違いない。しかし痛ましい年月を経てもなお剣の形を保ち続けたその姿に、ヒルダはかつての雄々しき姿の面影を見た。

 その瞬間、エゴンは口の端を吊り上げた。

「よし、良いぞ。そのまま思い浮かべていてくれ」

 エゴンはどこか嬉しそうな声で刃の峰へ触れた。そして深く息を吐いて囁きかける様な調子で唱え始めた。

「“夜明けまでの夢でいい”“お前を求める者がいる”“去りゆく時は未だ全てを奪ってはいない”“お前が生まれた理由を未だ覚えているのなら”“今再び責務を果たす力を授けよう”」

「“在りし日の姿を取り戻せ”“リビルド”」

 エゴンの指先に光が灯り、剣へ移った。青白い光が剣を包み込む。初めは淡くぼんやりとした燐光だったが徐々に強さを増し、ヒルダは目を開けていられなくなる。剣は最後に一瞬、瞼を突き通すほどの閃光を放った。そしてヒルダが恐る恐る目を開くと、その手には冷たい輝きを宿した白い剣があった。彼女が思い描いていたよりも更に素晴らしい剣だった。錆が浮くどころか汚れ一つ、曇り一つ浮いていない。

 ヒルダは目を丸くした。惚けたように口を開けて溜息を漏らす。

「一夜限りの幻のようなものだが、十分事足りるだろう」

「全く……貴公はいつも私を驚かす……」

 ヒルダはエゴンが術を使う度に「もはや彼が何をしても驚くまい」と思うのだが、結局その都度肝を潰してしまう。

「貴公は死霊術以外の魔術も堪能なのだな」

「いや、これも死霊術の一種だ」

 彼は再び目を丸くしたヒルダを見て微笑んだ。

「アレクサンダー、人の道具には魂が宿るのだ。人の魂とはまた、似て非なる物がな。彼らは作り手と使い手の想い、そして自分の役目を決して忘れない。俺はそれにほんの少し手を貸したに過ぎん。その剣はお前の望みに応えようとしたのだ。朝日が昇るまでの僅かな時間しか持たない術だが、存分に振るってくれ」

 ヒルダは言葉も無く剣を眺めた。刃の角で、小さく光が瞬いたような気がした。


「では、戦力が整ったところで状況を確認する。この砦は死霊術師の迷宮と化している。俺達の当面の目的はここからの脱出としたい」

 アレクサンダーは拳を口元に当てて少し俯いた。

「反対か?」

「いや、賛成だ。しかし貴公ならば死霊術師の討伐を優先するかと思ったのでな。少し意外だったのだ」

「それはお前を……」

 エゴンはハッと何かに気付いたように眉を上げ、言い淀んだ。ヒルダは黙りこくる彼の横顔を心配そうにのぞき込む。

「エゴン殿、何か気に障るようなことを言ってしまっただろうか」

「いや、大したことではない。お前の諫言が堪えたのだ。お前の言う通り俺は少々我が身を省みなさ過ぎた。無謀と勇気を履き違えてはならない。ここは慎重に行こう」

 エゴンは照れ隠しのようなばつの悪そうな笑みを浮かべた。ヒルダも彼に合わせて柔らかく微笑む。

「うむ。『兵は拙速を尊ぶ』と言うが、『急いてはことを仕損じる』とも言う。脱出を優先しよう」

 照れと決意の入り交じった笑みを交わした二人は歩く死者達を共にし、出口を探して歩いていった。


 二人が居るのはどうやら砦の最下層のようだった。積み上げた石で組まれた地下通路は堀に面していることもあってジメジメと湿気が濃い。通路は二人が悠々と並んで歩ける程度には広かったが、そこはエゴンがランタンの強い明かりを掲げても影を払いきれないほど闇が深かった。松明やランプの類は一つとしてない。通路は入り組んだ蟻の巣のように分岐と合流を繰り返し、さながら迷宮の様相を呈している。

 二人は一歩一歩の足取りを確かめるように慎重に気配を探りながら探索を続けた。しかし最初のスケルトンの一群をエゴンが支配下においた後は一体の亡者とも出くわさなかった。

 飲み込まれるような闇と静寂の中でエゴンのランタンだけが赤々と輝き、ヒルダが握る剣が白銀の光を反射する。ヒルダは小さな溜息を一つ吐き、吐息混じりの微小を浮かべた。

「ふむ、拍子抜けだな。この様子では敵も貴公に恐れをなして逃げ出したのではあるまいか」

「いや、それは無い」

 彼女は躓きそうになった。ほんの軽口のつもりだったのだが、予想以上に強く否定されたので驚いたのだ。

「『無い』?何故?」

「アレクサンダー、そもそも何故死霊術師はダンジョンを作るのだと思う?」

 彼女はエゴンと共に歩きながら考える。そう言えば死霊術師は皆、亡者の巣窟で王のように君臨していると聞く。彼と共に討伐した老人も古代の墓地を自らの『城』と呼んでいた。それは何のためだろう。

「それは……やはり、死霊術を研究するためではないか?奴らを公に認める所は無いのだから、自身の工房を求めるのは道理だろう」

「その通りだ。如何なる術も技も研究無しでは実践できないのだからな。だが幾つか補足すべき点がある。まず一つ、死霊術の研究には何より死体が必要だ。ダンジョンを生み出せればそれを効率良く集められる。特に新鮮で数多くあればあるほどよい」

「あの村で為されたようにか」

 ヒルダは苦虫を噛み潰したような顔で唸った。

「そうだ。この砦自体はそれを積極的に行える形にはなっていないがな。次に死霊術は莫大なマナを要する。想像してみるが良い。これほど多くの死体を動かすのに、一体どれほどのマナが必要か。絶えず自らにマナを供給する仕組みが無ければ、術者はひっくり返したコップの水が地に落ちるよりも早くマナが枯渇して干物になる。そのためにマナと瘴気が濃密な場に根城を張り、自らがその主となる必要がある。そのためのダンジョンだ」

「ふむ……死霊術師がダンジョンを作る理由は分かったが、それが『敵は決して逃げない』ということにどう繋がるのだ?」

「要はダンジョンの構築には膨大な手間がかかるのだ。更に言えば『自分の場所』とはそれだけで主に力を与える。熟練した死霊術師であるほど自身の迷宮を易々と手放したりはしない。大事な研究と材料となる死体と莫大なマナが込められているのだからな。まして敵は手練れだ。確実に俺達の口を封じる方を選ぶだろう」

 エゴンは黒杖の針のような先端を睨む。ヒルダも改めて剣の柄を握り直した。

「では、今ここに敵が居ないのは……」

「おそらく敵が最も戦いやすい場所に戦力を集中しているのだろう。いたずらに戦力を逐次投入したところで同じ死霊術師が相手では逆効果だからな。このスケルトン達はむしろ俺の技量を確かめる小手調べだったと考えられる」

「なるほど……」

 エゴンの講義はそこで終わったが、同時にヒルダの脳裏には新たな疑問が沸いていた。

『死霊術師は熟練するほどダンジョンを必要とする』

 では、エゴンは?彼は間違いなく熟練した死霊術師に違いない。その彼も同様にダンジョンの主だったというのか。

 しかし彼があの老人のように無辜の人々を犠牲にすることなどあり得ない。何も知らぬ者が聞けば「死霊術師を相手に何を馬鹿なことを」と嘲笑しただろうが、彼女は信じて疑わなかった。根拠と言えば彼と過ごした一週間にも満たない僅かな一時のみである。それにも関わらず彼女には強い確信があった。彼は決してそのようなことをする人間ではない、と。

 だが、だとすれば彼は一体全体何をどうしてあれほどの術と技を身につけたのだろうか。エゴンを固く信じるヒルダであるが、その想いが疑問に解答を与えてくれるわけではなかった。

「アレクサンダー」

 不意に名前を呼ばれ、ヒルダの思考はそこで打ち切られた。エゴンは通路の右手に見える扉を凝視している。赤い瞳の奥で炎が燃え盛っていた。

 二人は古びた鉄扉の前に立った。扉はあちこちに赤茶けた錆が浮いており、重く積み重なった年月を感じさせる。石積みの壁の中で浮き上がるような異様さがあった。

 エゴンは扉を押し開いた。予想に反して扉は軽く、音を立てずに回った。しかし扉が開いた途端に猛烈な死臭が辺りに立ちこめ、ヒルダは反射的に鼻と口元を手で覆った。強烈な腐敗臭と酸味を伴う甘く苦い香りが混じった猥雑な臭気が漂ってくる。しかしエゴンは全く意に介した素振りを見せず、躊躇無く部屋の中へ踏み込んでいった。彼女も鼻を押さえたまま恐る恐る後を追って部屋へ入る。

 広々とした部屋の中で夥しい数の死体が二人を出迎えた。と言ってもそれらは動いてはいない。台座の上で横たわる腑をむき出しにされた遺体、戸棚に並ぶ無数の生首、形を失った腐肉の山、散らばる骨。地獄の釜を覗いたようだとヒルダは思った。

「研究室か……」

 エゴンは溜息を漏らしながら部屋の奥にあった本棚へ近寄ると、ランプをかざして背表紙の群を注視する。そして一冊の本を抜き取ると、机にランプを置いて手早くページをめくった。そして中程までめくった後、机に本を置いて次の本を棚から抜き取った。しばらく同じ動作を繰り返した後、五冊目ほどの本を開いた瞬間、ページをめくりかけた手が硬直した。

「……これだ。アレクサンダー、この一件の証拠が見つかったぞ」

「見せてくれ!」

 ヒルダは腐肉や骨を踏まぬように彼の元へ近づいた。彼女はエゴンから本を受け取るとすぐさま読み始めた。


 七月四日、手頃な研究対象を探していたところ老人に出会う。私の研究理論を見せたところ興味を引いたようである。以後の検体調達と現地試験はこの老人に任せることとした。

 九月一日、検体の収集は順調。百を越える検体を回収することができた。鮮度も良好。しかし村落の住民は栄養状態にやや不満がある。数で補うため、調達の回数を増やすよう指示する。

 九月二十日、老人から灰の催促がある。至急刑場の刑務官に渡りを付けることとした。

 十一月十五日、交易都市の騎士団長に嗅ぎつけられる。少し焦りすぎたかもしれない。近く交渉へ向かうこととする。

 一月二十日、近隣の幾つかの村から検体を回収し続けているが、私の存在に気づかれる気配はない。騎士団長の偽装工作は上手く運んでいるようである。安堵する。これで落ち着いて研究を進めることができる。

 三月三日、私の研究が露見する恐れは依然としてないが、研究そのものは停滞気味である。どうしても現状維持を越えることが出来ない。もっと強い触媒が必要だ。

 四月十日、見つけた。非常に強い力を持った女だ。これを使えば次は必ず上手くいく。成功させてみせる。

 四月二十日、計画は整った。最近老人が発見した地下墓地を利用する。広さも手頃だ。何より近くに村がある。明日にでも情報を流し計画を実行する。もうすぐ、もうすぐだ。嬉しい。待ち遠しい。


 ヒルダの鼻は既に麻痺し、臭気を感じなくなっていた。しかしとうに臭気のことなど忘れていた。記録の合間合間に挟まれていた村の名前は見覚えがあった。全て騎士団で盗賊団に襲われたものとして処理されていた村だ。討伐作戦に加わっていた彼女はそれをよく知っていた。だが、それ以上の膨大な数の村の名前が羅列していた。

 彼女の横ではエゴンが別の本をめくっている。

「研究日誌は約一年ほど前から始まっているな……恐ろしい程の熟達のペースだ。あの老人を使って各地の村を襲った記録が残っている。やはり騎士団長と結託してもみ消しを計っていたようだな」

 日誌に記された村を襲った日付は日増しに間隔を狭めていた。初めは月に一度、やがて週に一度、そしてとうとう襲わぬ日の方が少なくなってゆく。準備の段階で取りやめた形跡があったが、最後にはリバードーン近隣の小規模な街を襲う計画さえあった。

 簡素な記述と無情な数値の向こうに躯の山が築かれていた。

 ヒルダは喉の奥からこみ上げる耐え難い吐き気を感じていた。もちろん辺りの臭気によるものでも部屋の惨状によるものでもない。

 彼女の目の前には本を通して、両端は彼方遠く、見上げれば天に届くほど積み重なった死者の壁が現れていたのだ。壁中から無数の凍てついた瞳がヒルダを見つめていた。

「酷い顔だぞ、アレクサンダー」

 声をかけられ本から面を上げた彼女の顔は蒼白だった。元々白い肌から血の気が失せ、蝋人形の如く硬直していた。だが同時に深緑の瞳は決然たる光を放ち、彼女が生きた人間であることを何より雄弁に物語っている。

「無理をするな。部屋の外で待っていろ」

「いやエゴン殿、言ったであろう。私には見届ける責任がある、と。私には騎士として……」

 彼女はそこで一度口ごもり、何かを堪えるように歯を食いしばった。そしてゴクリと唾を飲み込んだ後、絞り出すような声で後を続ける。

「……リバードーン騎士団の一員として、全てを見届ける責任があるのだ」

「この一件はお前の責任ではない」

 半ばヒルダの言葉に被せるような強い剣幕でエゴンは断言した。彼の瞳の奥では依然として真紅の炎が火の粉を散らすように瞬いていた。それを見たヒルダは引き吊るような痛々しい笑みを無理に浮かべる。

「ありがとう。理屈の上で言えばそうかもしれない。しかし私の心がそれを許さないのだ。何かできたのでは、気付くきっかけがあったのでは、私は最善を尽くさなかったのでは……そう思ってしまうのだ。私はそもそも理屈で考えるのは不得手だ。余り頭の回転が速い方ではないからな。だから……迷ったときは心で決める」

 ヒルダは本を閉じると、抱え込むようにして自身の胸に押し当てた。

「最後まで、貴公の傍で見届けさせてくれ」

「……分かった。しかし生きてこの場を脱出することが最優先だ。それを忘れないでくれ」

「もちろんだとも」

 二人はランタンの明かりを頼りにして他に証拠となりうる物を探した。そしてエゴンは部屋の主が研究を兼ねてメイド達を『修繕』している記録を見つけ、ヒルダは騎士団長に宛てた手紙の写しを発見した。

「おそらくは騎士団長殿が裏切ったときの保険であろうな。貴公の方はどうだ」

「研究内容は死体の鮮度維持と修繕を中心としたものだ。長期にわたる亡者の使役を行う上では非常に有用な研究だろう。俺は東方の死霊術の文献を読んだことがある。『キョンシー』というのだが、それに近い。そして研究者の目的も大凡の見当がついた」

「何と、真か」

 エゴンは本を閉じ、机に積み重なった本の上に載せた。彼の瞳はランタンの奥の揺らめく炎を映し、指先はすり切れて丸くなった古い木机の角を持て余すように撫ぜていた。ランタンを見つめる彼の横顔は胃の奥で消化し損ねた何かが凝り固まっているような、嫌悪と苦痛と途方もないやり切れなさが滲んでいた。

「死者蘇生だ」

 吐き出すような声だった。ヒルダはそっと彼のそばへ近寄って、彼の背中を労るようにゆっくりと優しくさすった。

「死者を蘇らせる……貴公の言った通りか」

「ああ、何も珍しいことではない。それどころか、死霊術の究極の到達点、多くの死霊術師にとっての悲願であるとすら言える」

 エゴンは顔を強ばらせていた。彼を慰撫しようとするヒルダもまた同様に固い面もちだった。

「出よう、エゴン殿。もう十分だ」

「ああ、そうだな……」


 部屋を出た二人は鉄扉を閉めた後、対面の壁に背中を預けて座り込んだ。ヒルダは膝を抱えた腕に首をだらりと力なく埋めていた。さっきまでは心強い唯一の明かりだったランタンの光も今だけは鬱陶しい。全身が砂袋のように重かった。

 その指先に固く冷たい何かが触れた。剣の感触ではない。緩慢な動作で首をもたげると、それはエゴンが差し出したガラス瓶だった。何かの液体が瓶の中で揺れていた。彼自身も同じガラス瓶を反対の手に握っている。

「リフレッシュポーションだ。少しは楽になる」

 ヒルダは「ありがとう」と、それを受け取る。二人はそろって一息にポーションを飲んだ。爽やかなミントの香りが鼻孔を抜け、柔らかな甘みと疲れが溶けるような酸味が舌を撫でながら喉を滑り落ちていった。瓶の中身がすっかり喉の奥へ流れ込むと、ヒルダは深く息を吐いた。脳の隙間を冷たい風が通り抜けたような心地だった。いつの間にか体も軽くなっている。彼女は「よし」と一言呟き、勢いよく立ち上がる。そして剣を持つと重さを確かめるように軽く一振りした。剣を青眼に構えるその様子をエゴンはじっと見つめていた。

 その視線に気付いた彼女は何かを思い出したように眉を開き、続けて頬を赤くした。

「く、癖なのだ。その、暇さえあれば剣を振っていたものだから」

「いや、綺麗だ」

 ヒルダは一瞬、時が止まったように赤い顔のまま硬直した。しかしすぐさまエゴンから目を逸らして天井を見上げた。そして腰に手を当てて胸を張り、やけくそ気味にウワッハッハと笑った。

「き、貴公は世辞が上手いな!」

「俺は世辞が苦手だ。アレクサンダー、剣を振るうお前は美しい」

 天井を見上げたまま、ヒルダはまたも硬直する。そして固まったまま頭から白い湯気が立ち上り始めた。

「どうかしたか?」

「貴公……よ、よもや、会う女会う女皆にそういった言葉を囁いているのではあるまいな……」

 エゴンは座ったまま腕を組み、ぼうっと斜め上を見上げる。そしてぽつりと「いや、お前が初めてだな」と呟いた。

 それを聞いた途端、蒸気音を立てて大きな雲がヒルダの頭から吹き上がり、腰に手を当てて天井を見上げた姿勢のままぐらりと後ろへ倒れ込みそうになった。エゴンはすかさず杖を一振りし、ヒルダの体を背後のスケルトンが受け止めた。

「大丈夫か」

 エゴンは立ち上がり、ヒルダの傍へ駆け寄る。彼女は熱っぽい面もちでエゴンを恨めしそうに睨んでいた。

「貴公……少なくとも帰るまでは……その……そういったことを言うのは止めてくれまいか……ふ、腑抜けてしまう……」

 エゴンは怪訝そうに首を傾げたが、「分かった」と頷いた。

 彼女は小さく「全く貴公は……デリカシーというものがない……」と一人ごちたが、それはエゴンの耳には届かなかった。


 二人は上を目指して螺旋階段を上っていた。長い間人の足で削られた階段はあちらこちらがひび割れ欠けている。二人が並ぶと窮屈なほど狭かった。それまでの通路と同様、相変わらず窓も篝火もない階段は登る内に距離感覚を失いそうになる。自分がどれだけ歩いたのか、どこへ向かっているのか、曖昧になるにつれて疲労が霧のように思考を掠める。ヒルダの生来頑健な足腰はこの程度の階段では汗すらかかないが、先の見えぬ闇の中で右往左往するのは精神に堪えた。

 しかし、階段の先から闇を射抜くような冷たい光が差し込んできた。ヒルダが顔を上げると螺旋階段の出口とその奥に広がる星空が覗いていた。登ってしまえば呆気ないな、そう思って息を吐いたその瞬間だった。

 突然の浮遊感。轟音。

 直後に窒息するほどの激しい衝撃が背中に加わる。突き飛ばされたヒルダは螺旋階段の出口へ鞠のように勢いよく転がった。日頃の鍛錬の成果か、彼女は反射的に受け身をとって衝撃を散らし、無傷のまま素早く立ち上がった。

 そこは砦の城壁の上だった。館を囲む城壁は正六角形であり、尖塔のようになった各頂点から城壁の上へ出られるようになっていた。彼女が飛び出したのはその一つだった。

 見下ろせば外には堀が、内には城壁から中庭へ続く階段があり館がそびえている。しかし彼女はどちらにも目をくれず、一目散に螺旋階段の方へ戻ろうとした。しかしその有様を目にした瞬間、彼女は総毛立った。

 階段が崩落している。ぽっかりと空いた穴は星明かりを飲み込んで返さない。ヒルダは穴へ向かって悲鳴のような声でエゴンの名を叫んだ。

 返事は帰ってこない。ヒルダの叫びだけが闇の中で木霊していた。膝元からミミズの群が這い登るような恐怖が彼女を襲う。ヒルダは明かりもロープも無いというのに崩れた階段の残骸を頼りに壁伝いに降りようと試み始めた。今彼を失うことこそが何よりも恐ろしかった。

 だが、闇の底で小さな明かりが灯った。

 彼のランタンの光だ。彼は少なくとも、まだ生きてるのだ。胸元まで押し寄せていた恐怖の波が一端静まる。灯りは静寂の奥で微動だにしない。ヒルダはどうにか下へ降りられないものかと考えあぐねていた。

 穴の底から何かの音が響いた。ヒルダは耳を澄まし目を凝らす。闇の中から小さな布を風にはためかせる様な音と赤い光の粒が近付いてくる。

 星灯りが光の正体を照らし出した。それはエゴンと同じ赤い光を両目に宿した小さなコウモリだった。コウモリは羽ばたきながら彼女が差し出した腕に遠慮がちに着地した。

 コウモリは首にあの白い骨片の首飾りをかけ、小さな紙片をくわえていた。紙片には殴り書きで『今すぐかけろ 俺は無事だ 先に逃げろ 必ず追いつく』とあった。コウモリはそっと首を差し出す。ヒルダが首飾りを受け取るとコウモリは再び羽ばたき、穴の中へ戻っていった。ヒルダは紙片に従って素早く首飾りを身に付ける。

 間一髪、彼女の背後から固く乾いた足音の群が近付いてきた。各々に剣や手斧を携えた骸骨の一群が向かい側の尖塔から現れた。カタカタと歯や骨を鳴り響かせながら城壁を渡ってくる。ヒルダは咄嗟に瓦礫の陰に隠れた。骸骨達は瓦礫一つ挟んだヒルダの背後までやってくると、穴の中を覗き込む。

 ヒルダは影の中で両膝を抱え息を殺してうずくまっていた。スケルトン如き幾らでも叩きのめす自身はあったが、大立ち回りのあげくにあのメイドのような強敵が集まってこない保証も無かった。息遣いの音すら立てまいと気配を殺し続ける。

 突如一体のスケルトンが瓦礫を回り込んでうずくまるヒルダを見下ろした。スケルトンは腰を曲げ、ヒルダの正に目と鼻の先に頭蓋骨が突き出される。

ーー万事休すか!ーー

 ヒルダは剣の柄を強く握りしめ、体中のしなやかな筋肉をバネのように縮めた。

 このまま跳躍し一閃!少なくとも間合いの三体は一瞬で屠れる!

 ヒルダは刹那の間に目測で間合いを測り、跳躍後の三角跳びの基点を見切って全身に緊張を漲らせた。

 が、しかし、スケルトンは何も見なかったかのように面を上げ、群を為して出てきた尖塔へ引き返していった。

 ヒルダは全身に力を込めたまま硬直する。そして足音が遠ざかるに従って溶けるように脱力していった。

 盛大な溜息。スケルトン達はこの首飾りによって自分の姿を見失ったのだろうか。穴をのぞき込むとランタンの明かりも消えている。エゴンの方はどうなったか分からないが、彼の力を信じるより他にない。

 ヒルダは慎重に気配を探りながら影の中から這い出す。そして、城壁の上から中庭へ降りていった。

 生温かい夜風がヒルダの首筋とむき出しの肩をぞろりと撫ぜた。空には霞雲の向こうに臥待月が浮かび、館の中庭を朧な光で満たしている。今踏みしめている石積みの階段の感触さえ頼りない。何もかもの輪郭が不鮮明なこの館で、握りしめる剣の感触だけが確かだった。

 ヒルダはもちろん一人で逃げるつもりなど無かった。彼の走り書きは筆致が震え、端が血で滲んでいた。

ーー二人でここを出るのだ……二人で!ーー


 エゴンは瓦礫に埋もれたまま宙を見上げていた。割れた額から血が零れていたが、既に傷口ごと乾いて固まっていた。

 彼の視界には煌々と輝く純白の光が映っていた。しかしそれは突如として消え去り、入れ替わるようにして赤黒い光の群が近付いてくる。光の群はしばし蠢いていたが、やがて諦めたように遠ざかっていった。エゴンは頭の上に蝙蝠を乗せたまま、じっとそれを見つめていた。

 光が完全に視界の外へ霞んだのを見計らい、エゴンは崩れた石とスケルトン達が折り重なった瓦礫の中から己の体を引きずり出すようにして這い出した。ローブは至る所が裂け、エゴンの体から流れた血で汚れていた。彼がローブの胸元を開くと蝙蝠はその中へ潜り込んだ。エゴンの息を吹きかけられると蝙蝠は眠り込んだように瞼を閉じ、身じろぎ一つしなくなった。

 エゴンは思考する。

 まず、階段の崩落は罠である。エゴンとアレクサンダーを分断もしくは足止めし、配下に襲わせるのが狙いであろう。この砦の主はアレクサンダーを出来れば生かしたまま捕らえたいはずだが、多少の危険を冒してでも目標であるアレクサンダーをエゴンから引き離そうとした節が感じられた。


ーーかなり俺を警戒しているようだーー


 となれば、主力はエゴンに充てられるだろう。敵は無論のことアレクサンダーを逃がすつもりなど毛頭無いであろうが、気配隠しの術を込めた贖罪の指先を身に付けた彼女は易々と捕らえることは出来ないだろう。事実、もはやエゴンにもその場所を補足することは困難となったのだ。

 もはや彼女は脱出するのみである。それはより一層エゴンに攻撃の手を集中させる結果となるだろう。


ーー望むところだーー


 エゴンはランタンに火を入れた後、腰に下げた袋から罪科の死灰を一掴み握り取り、崩れた骸骨達に振りかける。そして黒杖をベルトから抜き、素早く宙に魔法陣を描き出し呪文を唱える。彼は起きあがる骸骨達に背を向けて辛うじて残った階段の入り口へと進む。

 冷ややかな鬼火を纏った亡者達を従えて死霊術死エゴン・ヒューエは闇中へと踏み出した。首刈の死刑執行人が土壇場へ現れるが如く、力強く地を踏みしめながら。

 エゴンは笑っていた。口の端を三日月のように引き攣らせ、血のような真紅の瞳を爛々と輝かせながら、彼は笑っていた。

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