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第八章『暗中』

 水面を破ってアッシュブロンドの頭が飛び出した。振り乱した髪は細かな水の飛沫を散らし、星明かりを反射して煌めいた。ヒルダの白い喉と細い顎先が空気を求めて夜空へ向かう艶めかしい曲線を描く。

 彼女はエゴンの腕を引きながら水堀の中を泳いだ。彼は引かれるがままに水面にたゆたっていたが、ズタ袋は固く握りしめて離さなかった。胸元から水中に赤い煙が広がっていた。

 ヒルダは幽かな星明かりを頼りに石壁の出っ張りを掴んだ。固い石壁を掴む腕が彼女とエゴンの重みで軋んだ。

 命の重さだ。軽い筈がない。

 ヒルダは力を振り絞って水堀の中から這い上がった。その拍子に石の角がドレスの裾を引き裂いたが知ったことではない。そして水の中に浮かんでいるエゴンの腕を取って引っ張り上げた。二人は揃って石壁の中に倒れ込む。

 二人は水堀から石壁の破れ目に這い上がったのである。

 二人ともずぶ濡れだった。ヒルダは水滴を滴らせながらエゴンの側へ這い寄る。

「エゴン殿、しっかりしろ!どうすればいい?エゴン殿!」

「赤い…………ラベルの…………瓶を……」

 息も絶え絶えになりながら答えるエゴンの声に、ヒルダは胸が張り裂けそうだった。震える手でズタ袋を漁って数本の瓶を取り出す。しかし闇の中ではとてもラベルの色は判断できない。

「ダメだエゴン殿。見分けが付かない」

 早く何とかしなくては、早く何とかしなくては。恐怖と焦燥がヒルダの胸の中で高速で回転しながら膨れ上がり、悲鳴となって喉の奥から噴出しかかっていた。だがすぐにヒルダはエゴンがか細い声で何かを伝えようとしていることに気づいた。エゴンの口元に耳をくっつけるほど近づける。

「かん…きつ……にお、い……」

 ヒルダは直ちに瓶のコルクを抜いた。立て続けに鼻先へ瓶の口を向ける。一本だけ微かにレモンのような香りがする瓶があった。

「これだな、エゴン殿!これをどうすればよいのだ?飲ませればよいのか?」

「む……ね……ちょく…せ……」

 ヒルダはエゴンのローブの胸元を開き、血が止まらない傷口に瓶の中の液体を注いだ。液体は傷口に触れた瞬間、熱した鉄板に注がれた水のようにしゅうしゅうと音を立てながら白い煙を上げた。驚いたヒルダは注ぐのを止めかけたが、エゴンの呼吸が見る見る内に落ち着き始めたため、思い切って残りの液体を慎重に傷口に注いだ。

 エゴンの胸元からはしばらく白い煙が上っていた。それが途切れた頃に胸元をのぞき込むと、あれほどの深手が跡さえ残さずに消え去っていた。

 エゴンの呼吸が完全に回復したことを確認すると、ヒルダの悲鳴は安堵のため息となり胸の内の緊張全てを押し流すように深く深く息を吐いた。

 ヒルダは両膝をつき、エゴンの頭を膝の上に抱え起こした。彼の頬を両手で包み顔を覗き込む。相変わらず良い顔色とは言えないが表情は幾分和らいで見えた。

「エゴン殿、痛みはどうだ?」

「悪かった……アレクサンダー。完全に俺の落ち度だ」

 ヒルダは目が点になった。何を謝られているのか、まるで見当が付かない。彼の傷を塞いだことに礼を言っているようでもなかった。

「エゴン殿、落ち度とは一体何を……」

「あの書を手に入れてすぐ精読していれば……いや、あの老人と相対した時に気付いていれば、お前をこんな危険には晒さなかった。すまない……本当に、すまない……」

 ヒルダはそれを聞くなり黙りこくった。口を固くつぐみ、エゴンを抱き寄せた手はきつく彼のローブを握った。

「大丈夫か?あの男に何か飲まされなかったか?寒気はないか?」

「貴公……貴公、いい加減にしろ!」

 ヒルダは怒号を上げた。エゴンはあまりの怒気に半ば閉じかかっていた瞼をこじ開けられた。

 ぽたり、と彼の頬に滴が落ちる。

「貴公は何故そうも自らを蔑ろにするのだ?今危なかったのは貴公の方だぞ!私を案ずるよりも自らを気遣うべきではないのか!」

 彼女の頬を幾筋も伝う流れは水掘の物ばかりではないだろう。ヒルダの紅潮した頬と赤く腫らした目は闇の中に浮かぶ灯火のようだった。

「今この時ばかりではない!私が馬車の前で貴公の骨を折ってしまった時も!亡者の棺で溢れた墓地に踏み込む前も!貴公はまるで自らを大事にしようとしてくれない!」

 ヒルダから降ってくる雨がエゴンの顔を濡らした。大粒の水滴は砂のような肌が火照るほど熱かった。

「こんな……こんなことを続けていては……い、いつか本当に貴公が……」

 最後の言葉はあまりに重く恐ろしく、喉に小石が詰まったようで吐き出せなかった。ヒルダの叫びは嗚咽に変わり、とうとう彼女は両手で顔を覆ってわあわあと大声で泣き出した。

 エゴンはしばし呆然としていた。だが、意を決してゆっくりと腕を持ち上げ、泣きじゃくるヒルダへ指先を伸ばした。

 指先が涙に濡れた手に触れた。

 ヒルダは顔を塞いでいた両手を開くと、彼の手を取って頬へ押し付けた。

 彼女の頬は火傷しそうなほど熱く、溶けそうなほど柔らかだった。彼の手の平は凍るほど冷ややかで、石のように硬かった。ヒルダは彼の手を包むようにして、その形を確かめるように頬へ押し当てていた。

 熱が二人の間で溶けて交じった。冷えた掌が温もっていくのが、焼け付いた頬が鎮まっていくのが、ただ心地良かった。

 二人が触れ合うその場所が同じ熱を持つようになった頃、エゴンが口を開いた。

「アレクサンダー、俺はこう言うべきだった」

「……聞かせてくれ」

 彼女は目を瞑っていた。その方が彼の声が良く聞こえる気がしたからだ。

「俺の命を救ってくれてありがとう、アレクサンダー」

「うむ、私もそれを言うべきだった。助けに来てくれてありがとう、エゴン殿」

 彼女は彼がくぐもった息を漏らす音を聞いた。笑ったのだ、と思った彼女はその顔が見たくなって目を開いた。

 穏やかな笑みだった。彼女が一度だけ見た、少女の霊に向けていたあの笑みだ。

「だけど崖から飛び降りるような君にそれを言われるとは思わなかったな」

「こ、言葉も無い……」

 彼女は再び顔を赤くして縮こまった。丸まった背から湯気が昇っていた。


 立ち上がったエゴンは腰のランタンに火を入れた。油ではなく持ち主のマナをくべるランタンは、水没をものともせずに赤々と輝いた。

 ヒルダは思わずランタンの灯りから胸や下腹部を腕で隠した。闇の中と非常事態の混乱で忘れていたが、自分が余りに酷い格好であることに気付いたのである。スカートは半ばで大きく破れて膝が覗いている。何より濡れたドレスが体にぴったりと張り付いて透けていた。薄手の布地が彼女の体のラインを浮き彫りにしている。元から露出の多いドレスであったが、今の有様は裸同然、いや裸よりも却って淫らだった。

「アレクサンダー」

「ご、誤解だエゴン殿!」

 何も言わぬ内に反駁されたエゴンは首を傾げた。

「こ、これは決して貴公を誘惑しようだとかそういった物ではなくて、そもそも領主のシーヴァース伯爵のために用意した物でだな……ち、違う!領主閣下を誘惑する魂胆があったわけでもない!」

 ヒルダは顔を真っ赤にして支離滅裂な弁解を続ける。エゴンは不思議そうに眺めていた。

「だ、第一これを選んだのはソフィアであって……わ、私は些かどうかと思うと言ったのだ!だが店員と二人がかりであっと言う間にだな……と、とにかく違うのだ!」

 エゴンが何も答えずにいると、とうとうヒルダは自らの肩を抱いて俯いてしまった。

「だから……ふ、ふしだらな女だと思わないでくれ……」

 エゴンが側に近寄ると彼女は跳ねるように体を震わせてきつく瞼を閉じた。

 恐ろしかった。何が何故恐ろしいのか、ヒルダにも分からないが、とにかく恐かった。次の瞬間エゴンの口から飛び出す言葉を考えただけで全身に震えが走った。深い穴の底で耳を塞いでうずくまってしまいたかった。

 しかし、歩み寄った男がヒルダの体にふわりと軽く柔らかな物を掛けた感触に、彼女は目を開いた。それは彼が羽織っていたマントだった。きつく絞られたマントはすでに乾き始めており、彼女の体を僅かだが暖めた。

「まずは体を拭け。まだ暖かい時期だがそのままでは体を冷やす」

 エゴンの言葉は淡々としていたが、その内容は間違いなく彼女を気遣ったものだった。ヒルダは顔中がかっと熱くなった。彼はこんな時もまだ私を案じてくれていると言うのに、私は何ということを言ったのだ。

「……ありがとう、エゴン殿」

 ヒルダは体に張り付くドレスからできる限り水を絞り、エゴンのマントで体を拭いた。彼のマントからは土の匂いがした。

 彼女はエゴンの顔色を伺うように、節目がちに彼を見た。

「繰り返すが、はしたない女と思わないでくれ」

 彼女は自らのドレスを裾の破れ目から一息に引き裂いた。ドレスは膝元までのスカートになり、ヒルダの流れるような脚線美があらわになる。

「このままだと動きにくいのでな。一瞬の足のもつれが命に関わるやも知れん」

 彼女は頬を染めてはにかんだ。本当は大きく口を開けて笑い飛ばしてしまいたかったのだが上手く行かなかった。だがエゴンは酷く真剣な様子だった。

「はしたないなどと思うものか。アレクサンダー、お前が例えボロを纏っていようとその輝きはいささかも陰ることはない」

 エゴンの言葉にヒルダは一瞬、頭が真っ白になった。体を拭きながら冷やした頭が再び熱を持ち始める。

 こ、これは、もしや私はエゴン殿に愛を囁かれているのか?

 混乱した頭脳は逆回転しかけたが、彼女の理性は慌ててそれを引き止める。

 い、いや待て!エゴン殿はこのような状況で浮付いた真似をする男ではない!ま、まずは真意を確かめるのだ。ぬか喜びするにはまだ早いぞ、ヒルデガルド・アレクサンダー。

 ヒルダは自分に言い聞かせて落ち着いたつもりであったが、彼の言葉に「ぬか喜びする」と考えたことがどういう意味を持つのか気付かなかった。彼女はわざとらしく咳払いをしてエゴンの顔を見ようとした。が、出来なかった。彼の目は静かに揺らぐ暖炉の火のように穏やかで、ヒルダはその奥に吸い込まれるような錯覚を覚えた。そのままふらりと彼に抱きついてしまいそうな自分に気付き、危うく視線を逸らす。

「大丈夫か?アレクサンダー」

 地に足が付かぬ様子で目を白黒させる彼女を見て、エゴンは怪訝そうな声を上げる。彼女が上手い誤魔化しの口上を思いつかない内に彼は彼女に近づき、そっと彼女の手首を取った。

「少し脈拍が高いな。さっきも聞いたが、ここへ来てから何か飲まされたりはしなかったか?」

「エエエエエ、エゴン殿っ」

「……む、脈拍が高くなった。若干だが体温も上がったようだ。悪寒や吐き気は無いか?」

 彼女はもはやエゴンの真意を質すどころではなかった。彼の顔を直視出来ず、かといって顔を背けることも出来ず、幼子のようにぎゅっと目を瞑った。

 彼の手の平が彼女の額に触れた。鼓動が自分で聞こえるほど胸が高鳴っていた。彼の手の平から胸の高まりも上せるほどの熱も全て知られてしまっているに違いない。そう思えば益々鼓動は早まり、頬は熱を帯びた。

 恥ずかしくて堪らなかった。

 エゴンはいくつか問診を重ねてヒルダの安静を確認すると、安堵の溜息を吐いた。ヒルダも彼の問診に答える内に多少平静を取り戻していた。

「アレクサンダー。胸に染みがあるが」

「うん?ああ、これか」

 彼女は自らのドレスの胸元を見る。そこには赤い染みが広がっていた。

「出血するような怪我はどこにもなかったが……」

「いや、心配無用だ。これはおそらくワインのシミだろう。食堂でこぼした際にそのまま染みになったのだな」

 エゴンは暫しじっとその染みを見つめていたが、全く出し抜けに手を伸ばしてドレスのシミを撫ぜた。突然に胸を触れられたヒルダは甲高い悲鳴を上げて飛び上がった。

 普段ならそんな真似は絶対に許さぬ彼女である。同僚の騎士がそんな素振りを見せよう物なら、伸ばした手を逆手に捻り上げるくらいはしてみせた。しかし余りに突拍子もないエゴンの動作をかわすことができず、豊かな胸をさらりと撫ぜるがままにさせてしまった。

 彼女は真っ赤な顔で胸を庇うように両手を組み、エゴンから数歩後ろへ跳びすさった。

「なななな、何をするのだエゴン殿っ!い、いいいい、いかんぞ!こういうことはいかん!だっだっ男女の営みとはもっときちんと段階を踏んでだな!」

 気が高ぶって動転した彼女は次の瞬間、更なる衝撃に卒倒しそうになった。なんとエゴンは撫ぜた指先を口に含んだのである。嘗め回すような視線とは言うが、正に自らの肌の味を確かめられたような恥かしさと憤りで彼女は激昂した。

 目じりに涙を滲ませ、思わずエゴンに掴みかかろうとする。

 だが彼は即座に足元へ唾を吐き捨てて苦々しげに顔をしかめた。

「ベラドンナだ。この濃度ならグラス一杯で十分に致死量だな。危なかった」

 彼女は勢いのまま彼の両肩をがっしり掴んでしまったが、相変わらず穏やかな瞳と真剣な面差しに次第に冷静さを取り戻して行った。それにつれて彼の言葉が頭の中へゆっくりと染み込んでいく。

 ベラドンナとは幻覚作用を持つことで知られた毒草だ。ワインに、毒が入っていた?

「聞いてくれ。おそらくこの一件は『お前を』狙った物だ」

 語りだした彼は二人揃って棺の群れの中へ踏み込んだ時と同じ目をしていた。


 彼の説明を聞いた後、彼女は信じられぬといった様子で呆然としていた。

「領主閣下が死霊術師で、一連の事件の首謀者だと?尚且つ騎士団本部長と繋がっている?」

「状況証拠だけで推論するとそうなる。少なくともここが亡者のねぐらになっていることは間違いない」

 反論しようとした彼女は言葉に詰まった。死霊術に関する彼の知識は疑いようも無い。彼女自身も到底尋常ではない相手に命を狙われたのだ。

「説明を続けよう。まず、おそらくメイド達は全て死んでいる。操っているのは当然死霊術師だ」

「し、しかし私は彼女らの歓迎の言葉を聞いたぞ。亡者とは皆スケルトンやゾンビのような者達ではないのか?」

「確かに生前の姿を長期にわたって維持することは難しい。所作を真似させることは更に困難だ。だが不可能ではない。アレクサンダー、この館全体から『匂い』を感じなかったか?」

「そう言えば、何かの香を焚いていたような……」

「あれは没薬(ミルラ)だ。砂漠の民に伝わる植物の樹脂で、お前の感じたとおり香として焚かれることもある。だがその真価は殺菌作用を持つことにあるんだ。鎮静薬や鎮痛薬に利用されることもあるが、何よりも死霊術師にとって非常に優秀な『防腐剤』になる」

 ヒルダは息を呑んだ。思い浮かんでしまったおぞましい光景に、酷く喉が渇いた。

「防腐剤……つまり、メイド達からその香りがしたのは」

「腐敗を遅らせているのだろう。腹の中身の何割かは没薬の塊に置き換えられている筈だ。それ以外にも幾つかの『処理』が施されていた節がある」

 自分は死体の群れに給仕されていたのだ。それを思った瞬間、ヒルダの喉の奥から酸気を帯びたものがこみ上げそうになる。彼女は奥歯を強く噛み締めてそれを押し止めた。いつしか頬の熱は芯から冷め切っていた。

「続けてくれ」

 掠れた声で彼を促す。エゴンは頷いて推測の続きを話し始めた。


 彼の説明をまとめると次のようだった。

 領主はかの死霊術師の老人を助手として雇い、各地の村を襲わせていた。騎士団本部長と手を結び、表向きは盗賊団の仕業として処理させていた。それを続ける中でヒルダに目を付け、死霊術師に襲わせるために彼女を単身で差し向けた、とのことだった。

「……分からん」

 彼女は腕を組んで憮然としていた。いかにも納得がいかないと言った風に眉をひそめている。

「分からん事ばかりだ。何故領主閣下が死霊術に手を染める?」

「お前には蘇って欲しい人間はいないのか?」

 質問を質問で返されたヒルダは返答に窮した。脳裏に母の最期の笑顔が浮かぶ。

「つまりはそういうことだ。故人を取り戻したい者はどこにでもいる。恋人、親友、肉親。そこに身分の差など関係無い。いや、手を伸ばし得る力を持つだけに身分のある者達の方が危険かもしれん。俺は例え国王や聖教の教主がこの術に手を染めていても驚かん。死霊術に手を伸ばす動機など世界中の人間にあると言ってよいくらいだ」

「し、しかし、だからと言って無辜の民を犠牲にしようなどと、私なら考えもしないぞ!第一、そのような考えの者達ばかりならば人の世は成り立っていないのではないか」

 ヒルダは精一杯の反駁をした。だがエゴンの顔には雲が日差しを遮るような寂しい影が過ぎった。

「それはお前や多くの者達が死を乗り越えた『後』だからそう言えるのだ。諦めることができたから、そう考えられるのだ。いいかアレクサンダー。親しい人間を亡くした者達の多くは『どうしようもないから仕方なく』諦めるのだ。『死者を蘇らせることなどできないと思っているから』それを試みないのだ。だが、もしそこに方法があるとすれば?可能性を目の前にぶら下げられたとすれば?どんな人間だろうと容易に狂うぞ」

 エゴンは目を瞑り、何かを堪えるように眉間に手を当てた。

「『何を差し出したっていい。誰をどれほど犠牲にしようと構わない』と、そう思う…………思ってしまうのだ」

 泥の中に沈み込むような声だった。ヒルダは二の句が継げなかった。彼の閉じた瞼の裏には一体、どんな物が浮かんでいるのだろう。彼は一体、何を見てきたのだろう。

「……では、最後にこれだけ聞かせてくれ。私が狙われる理由とは何だろうか」

 エゴンは眉間を押さえていた手を下ろし視線を戻した。赤い瞳の奥には灯火のように小さくも確かな光が戻っていた。

「お前の魂は非常に強い輝きがある。俺もお前ほど強大な魂の力を持った者に会うのは初めてだ。おそらくはその為だろう」

 強い輝き。成る程、彼が言っていたのはこれか。彼女は肩すかしを食らったような微かな失望と、彼女らしからぬ臆病な安堵を覚えていた。

 しかし、ふと彼女は奇妙な既視感を覚えた。

「どうかしたか?」

「ああ、いや……私の魂が些か珍しい、ということは理解した。だが死霊術にとって何か有利な点でもあるのか?」

 ヒルダは質問を重ねた。「何だか分からないが同じようなことをどこかで誰かに言われたような気がする」などといい加減なことを彼に言いたくはなかったからである。

「例えば……そうだな、聖者の遺体が長年の間腐敗せずに残っていた、と言う話を聞いたことが無いか?」

「聞いた覚えがある。それを奉っている町があるとも」

「聖者の魂の多くは強い力を持っている。そしてその力は死後も遺体に影響を及ぼすのだ。遺体や遺品に力そのものが残される場合も多い。生命力の喚起、治癒の奇跡、強力な聖別効果、その力は枚挙に暇がない。魔術的にも非常に強大な触媒となる。見たところ、お前の魂はそれらの聖者達に匹敵する」

「平たく言って、私の命と魂を死霊術の贄としようと言うわけか」

 エゴンは無言で頷く。

 ヒルダは腕を組みながら、その手できつく握った。爪の先が肌に食い込み、赤く鬱血する。

 エゴンの言葉とは言え、まだ彼女はその全てを納得したわけではない。彼自身も度々「これは状況証拠による推測にすぎないが」と添えていた。しかし事実ならば自身をおびき出すために一つの村が犠牲になったのだ。無知で無力な己のために無辜の少女が殺され腹を裂かれたのだ。

 彼女はつむじからつま先までが燃え上がるような熱を覚えていた。

 エゴンは小さな声で一つ一つ確かめるように呟いた。

「騎士団の長と手を結び隠蔽させる手管、計画を実行するだけの財力と権力、あれだけの数にそれと分からぬほどの防腐処理を施し繊細に操る技術、この館を満たしている膨大なマナ」

 彼は深く息を吐き、腰から黒杖を抜いた。

「敵は手強いぞ」

 突如カタカタと固く乾いたものをぶつけ合う音が闇の向こうから響いてきた。エゴンはローブを翻しヒルダを庇うように前に進み出る。

「下がっていろ。話が少々長引いてしまったようだ」

 エゴンは腰に下げたランタンの縁をなぞる。するとランタンの灯火は小さな太陽と化したが如く力強く輝いた。二人を中心に昼間のような明かりが周囲を一斉に照らし出す。古びた石造りの壁と床、長く延びた通路、そしてその奥から押し寄せる骸骨の群が露わになった。

 ヒルダは思わず身構えた。しかし丸腰の身では如何ともしがたい。

「エゴン殿!すまないが、何か武具の持ち合わせはないか?」

「下がっていろと言ったはずだ。心配は要らない。すぐ終わる」

 エゴンは懐から白く細長い物を取り出す。

 人骨だ。そう気付いたときは背筋に冷たい物が走ったが、彼のやることに一々怯えていては切りがないと気持ちを立て直す。

 彼は肘を曲げて骨を担ぐ。先端を駆け寄せてくる骸骨達へ向けて槍投げのような姿勢を取った。そして黒杖の先端で魔法陣を宙に描きながら呪文を唱える。

「“お前は柱に過ぎなかった”」「“支え、耐え続ける柱に過ぎなかった”」「“しかし今お前に刃の形を授けよう”」「“走るがままに我が敵を切り裂き縫い止めるがいい”」「“案ずるな”“もはやお前を縛る肉はとうに消え失せた”」

「“その影を刺し貫け”“ボーン・スピア”」

 結びの言葉と同時にエゴンは骨を投げつけた。空中で骨は伸び、刃を備え、瞬く間に白い槍となってゆく。そして穂先から柄まで完全に槍の形となった直後、弾丸のように飛び出した。目にも止まらぬ速さで正しく一陣の風の如く通路を真っ直ぐ貫く。槍は骸骨の一団を貫通し、轟音と共に突き当たりの壁に大きく亀裂を入れた。壁に刺さった槍は瞬く間に細かなヒビで覆われ一息の内に砂のように崩れ去ってしまった。そしてそれと同時に骸骨の一団がバラバラと元の骨の固まりとなって崩れ落ちた。

「当面の戦力が確保できた。ゆこうか、アレクサンダー」

 ヒルダは力強く頷き返しエゴンと共に闇の中へ足を踏み出していった。

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