第七章『日没』
窓から血のように赤い夕暮れの日差しが注ぎ込んでいた。エゴンは椅子に腰掛けて思索に耽っている。腕は折れてからまだ丸一日程しか経っていないと言うのに既に繋がり、添え木も包帯も無用となっている。赤い瞳はじっと組んだ両手を見つめ、微動だにしない。
長年の訓練の末、速読に習熟したエゴンは一度読んだ本を脳内で反芻することが出来る。むしろ最初の一読は文字の羅列を記憶に納める作業に過ぎない。本そのものは灰にして、この世から消し去った後で改めて自身の頭の中で精読するのだ。そこで初めて筆者の示す意味と意図を噛み砕くこととなる。
当然ながら精読するとは言っても、しばらく経つうちに要約を残して細かな部分、不要な部分は次第に不透明になる。だが先日読んだばかりの死霊術の研究記録は、一字一句逃さずに克明に思い起こすことが出来た。
件の老人の研究日誌を頭の中で繰り返し読むうちに、幾つか気になる点が浮かび上がってきた。その中で最たるものはこうだ。
――罪科の死灰、残り樽二つ――
罪科の死灰とは、死霊術師達が扱う秘薬である。複数の毒草を煎じた粉とある種の鉱物の粉末、そして火刑になった罪人の死灰を混ぜて作られる。死体を魔術的に活性化させるゾンビパウダーの一種だ。瘴気が薄い環境下や損壊の激しい遺骸からも歩く亡者を作り出せるため、エゴンも小さな袋一つ分を常に持ち歩いている。
だが手持ちはそれきりだ。そもそもこの秘薬は材料の入手性の難度から大量に製作することが難しく、かつ保存には注意を要する。特に罪人の死灰や死骨の類はおいそれと手に入らない。エゴン自身も手の平サイズの袋一つ分の秘薬、そしてアレクサンダーに身に付けさせた首飾り“贖罪の指先”をたった一つ作るのにさえ膨大な手間と時間を要した。特に死刑場の人間達と渡りを付けるのが難しかった。それを樽二つ以上も用意しようとなれば財力はもちろんのこと、大きな権力が必要になる。無論、あの老人にはそのどちらもあったか疑わしい。
パトロン(後援者)が居るはずだ。おそらく死霊術の実験を指導した者もその近くにいる。
結論付けた彼はすぐさまトムを使いにやった。アレクサンダーの都合が付けば、彼女はこのあばら屋へ来るはずである。そうでない場合も返答の書付をトムに持たせるだろう。少年にはそう言い付けてある。
しかしトムはアレクサンダーを連れず、また書付も持たずに帰ってきた。
「何があった」
「違うんだよ、聞いてよ兄貴。ヒルダが居なかったんだよ」
エゴンがほんの僅か顔をしかめ、トムは慌てて言い訳をするように答えた。
「いない?」
「うん。騎士団のメイドさんに聞いたんだけどね、なんでも領主様の晩餐にお呼ばれしたんだって。ゾンビ退治のお礼だってさ」
エゴンは出し抜けに椅子から立ち上がった。彼は呆然と立ち尽くしていた。目は大きく見開かれ、中空を凝視している。
「……兄貴?」
「領主ならば……十分可能だ。いや、そもそも何故アレクサンダーは一人で任務を?いくら人手が足りないとは言え、有り得ないことだ…………そうだ。それにあの死霊術師ははっきり俺を指して予定外だと言っていた。『予想外』ではなく『予定外』だと。ならば何が『予定内』だったのだ?…………確かにアレクサンダーは滅多にない強い輝きの持ち主だった…………」
微かな声で独り言を続けるエゴンは、トムがそこにいるのも忘れてしまったかのようだった。普段から血の通いを感じない土気色の肌が、一層乾き始め、ひび割れ始めるかのようだった。
「嫌な予感がする」
「い、嫌な予感って?」
エゴンは机を部屋の隅に押しやり、古びた絨毯を捲った。むき出しとなった床には、南京錠のかかった戸があった。エゴンは懐から鍵束を取り出し、南京錠を毟り取るようにして乱暴に戸を開け放つ。放り出された南京錠をトムが慌てて拾った時には、もうエゴンの姿はそこには無かった。
彼が足を踏み下ろす度に梯子が軋み、ぎいぎいと音を鳴らす。エゴンは地下室に降り立った。暗中にカビの匂いが立ち込めていた。彼は勝手知ったる闇の中で手を伸ばし、棚に置かれたランプに火を付けた。
揺らめくランプの明かりが一面に並ぶ棚の群れを照らしだした。棚には大小様々な漆黒の化粧箱が無数に置かれている。形や大きさこそ違えど、それらの造りはエゴンのズタ袋に入っていた物と全く同じである。中身は全て魔術の触媒だ。当然、死霊術に由来するものが殆どだが、これらは焼き捨てるわけにはいかなかった。少なくともエゴンが望みを遂げるまでは。
この地下室は死霊術の粋が集められた呪われた宝物庫であり、彼の武器庫であった。
エゴンは狭い棚の隙間に体を押し込むようにして奥へと進む。そして地下室の一番奥に鎮座する一際大きな箱を開いた。箱の中には一振りの短剣が収められていた。鞘はエゴンの髪の色と同じ、夜を切り取った様な黒塗りであり、それに加えて見事な銀細工の意匠が施されている。柄頭にはエゴンの瞳と同じ色の燃えるような真紅の宝石が埋め込まれていた。
エゴンは箱の中から両手で掬い上げるように短剣を取り出した。ゆっくりと慎重に鞘から短剣を抜き出す。刃の切っ先が闇の中に浮かび上がるように白銀の光を反射した。刃の中心にはルーン文字が刻まれていた。エゴンはその輝きを確かめるように刃の角度を変えながらランプの光にかざす。刃は曇り一つ無い煌きを発し続けていた。エゴンは再び刃を鞘の中に収めると、短剣を腰のベルトに挿した。そして棚から幾つかの箱を取ってズタ袋へ仕舞いこんでいった。
エゴンが梯子を昇って部屋の中に戻ってくると、トムは彼の顔を見てホッと息を吐いた。トムは入ってはいけないと幾度も念を押されているのだ。
「兄貴どうするつもり?」
「現状での最悪の予想を話す。この一件の犯人は領主か、それに近しい者だ」
トムは南京錠を床に落とした。肩が震え、顔は青ざめる。
「りょ……領主様って、どういうこと?」
「もちろんこれは予想だ。外れてくれるのならばそれが一番だが、的中していれば非常に不味い。何よりアレクサンダーが危険だ。一刻の予断も許されん」
「ヒルダが!?どうして!?」
「これ以上は推測を重ねるだけだ。ともかく俺は領主の館へ向かう。トム、明日の夜になっても俺が戻ってこなかったら山猫亭の親父さんに伝えてくれ。万が一の際、後のことはあの人に全て任せてある」
エゴンは棚から瓶を幾つか手に取りズタ袋にしまい込む。そして壁に掛かったマントを取り、ズタ袋を担いで玄関のドアノブを掴んだ。しかし、そのまま出てゆこうとする彼のローブの端を小さな手が掴み引き止めた。
「待ってよ兄貴!領主様の館に押し入るつもり?犯人が領主様って証拠があるわけじゃないでしょ!」
「死霊術師でないならそれで良し。死霊術師であるなら見れば分かる。遅れを取るつもりは無い」
「そうじゃなくて領主様って貴族だよ。それも凄く偉い貴族だよ!ヒルダを助けるにしたって兄貴一人でどうこう出来るわけ無いよ。せめて兄貴一人じゃなくてもっと仲間を集めるとかしなきゃあ。ほら、山猫亭にも何人か居るでしょ?」
トムは必死でローブを引っ張り、エゴンを思い留まらせようとする。単身伯爵の根城へ討ち入ろうというのはあまりに無謀な試みと思えた。彼とて出来たばかりの友人を失いたいわけではない。しかしエゴンを失うのは更に恐ろしかった。
「駄目だ。彼らは別の依頼中だ。戻りを待つ時間は無い」
「兄貴!」
エゴンはそっとしゃがみ込み、トムの頭を撫でた。彼は笑っていた。
「僕の身を案じてくれてありがとう。だが僕はもう、何もしない内に誰かを失うことに耐えられないんだ。大丈夫、必ず戻ってくるとも」
穏やかな声と優しい眼差しは腕で掴むよりも強くトムの喉を締め付けた。エゴンがローブを握りしめたトムの手をそっと撫ぜると、解けるように力が抜けていった。
エゴンはそれ以上何も告げずに出て行った。
エゴンは馬屋へ急いだ。日が暮れて働き者の馬達のために厩の飼葉と水を交換し、晩酌にありつこうとしていた馬屋は酷く渋い顔をした。だがエゴンが銀貨の袋を投げつけると目の色を変えて手もみをし始めた。
エゴンは腕利きの御者と若い牡馬を借り受けると、御者を前に、自身はその後ろに跨った。雄々しい蹄の音を立てながら馬は駆け出してゆく。その背後で日光は小さな点となって海の向こうへ吸い込まれ、行く手には夜の闇が待ち構えていた。
まだ若い御者はエゴンの目的を聞きたがり、時折馬の腹を蹴りつつしきりに後ろのエゴンへと声を掛けた。だがその度にエゴンが「馬に集中してくれ」と返すので、その内に舌打ちをして黙り込んだ。馬は草原の上を黒い風となって御者とエゴンを運んだ。決して短い距離ではなかったが、夕暮れの気配が消えて星々の冷ややかな光が空を支配する頃には領主の館に到着していた。
古砦は闇の中に異様を持ってそびえ立つ。御者は得意気な声で「お客さん、着きましたよ」と声を掛けた。御者の腰に手を回してしがみついていたエゴンは面を上げたが、直後に顔をしかめた。
跳ね橋が上がっている。砦は深い堀に囲まれ一切の来訪者を拒んでいた。堀の前で番をする者もなく闇と静寂が砦を包んでいた。
「こりゃあ妙ですねえ。普通、夜番の下男ぐらい居るもんですが。壁の上に篝火が焚かれてるわけでもないし、人影一つありゃしない。どうしますか、お客さん。どんな御用事か知りませんがね、引っ返しますか?」
「いや、構わない。君はこのまま街に戻ってくれ」
エゴンは馬を降りてズタ袋を背負った。
「ちょ、ちょっとちょっと、お客さん。ここからお一人で帰る気ですか?悪いことは言いませから止した方がいいですよ。近頃は物騒なんですって。何でも盗賊団が辺りの村を襲ってるらしいですし。お客さんも連中に捕まって売られっちまいますよ」
「売られる?」
「へえ。その盗賊団は人買いをやるって話ですよ。何せ襲われた村から死体が見つからな」
最後まで言い切らぬ内にエゴンの腕が御者の襟元を掴んで引き寄せた。粗雑だが丈夫な麻の服が引き千切れそうなほど握りしめる。御者は器用にも落馬せずに堪えたが、体を無理に屈めさせられて苦しそうに「やめて下さいやめて下さい」と悲鳴を上げた。
「詳しく聞かせろ!」
「へ、へえ!お客さん方の話から小耳に挟んだんですが、何でもですね、最近ご領地の村々が襲われてるらしいんです。それが全部小さい村に限った話で、住民が一人残らず居なくなっちまった上に死体が一つも見つからないとかでして、はい!」
「続けろ!」
「はい!はい!で、ですね。でかい人攫いの集団でも居るんじゃねえかと専らの噂でして。そこで最近かなり長いこと、街の騎士様方が盗賊団退治に乗り出してるでしょう?こりゃあもう、その盗賊団が村を襲って住民を奴隷商にでも売ってるに違いないと……」
そこまで聞いてエゴンは御者を開放した。御者は馬の上で激しく咳き込む。エゴンは離した手をだらりと下ろし、呆然としていた。顔は御者を向いているが、焦点は合っていない。
「ひ、酷いですよ、お客さん。勘弁して下さいよ」
「どこまで計画されている?…………まずい……まずい……アレクサンダーが危ない…………!」
「あの……お客さん……?」
親切な御者は独り言を漏らす客へ心配そうに声を掛けた。だが「今すぐ街に戻れ!この場から離れるんだ!」と怒鳴りつけられると「俺は知りませんからね」と言い残して去っていった。
エゴンは跳ね橋の正面、堀の縁にしゃがみ込んだ。黒杖を持ち、その先を地に突き立てる。暫しの瞑想の内、杖の先から指先にじわりと粘着いた腐肉に触れたような感触が伝わってきた。
幾度も幾度も味わって来た、淀んだ死の気配だ。もはや慣れ親しんでしまったその感覚にエゴンは確信する。ここは死霊術師の支配する領域である、と。
エゴンは杖を持ち直し、先端を砦へと向ける。エゴンの集中の高まりと同調して、杖の先に淡い蛍色の光が集まり、輝きを増してゆく。
「"風よ 運ばずにいてはくれまいか" "土よ 受け止めてはくれまいか" "どうしても密やかに進めたい用がある" "猫の様に優美なら良いけれど 人の身ではそうもいかない" "だからどうか見逃しておくれ 私のつたない忍び足を" 」
「"この一時よ秘めやかにあれ" "サイレンス"」
杖の先から光の波紋が広がる。エゴンを中心として同心円上に広がったそれは堀を越えて砦の跳ね橋にまで届き、やがて消えていった。
エゴンはいつものようにズタ袋から黒い化粧箱を取り出す。慎重に蓋を開けると、中には一匹の野鼠の死骸が白い綿に包まれていた。エゴンは冷たくなっている野鼠をそっと取り出し、手の平にのせる。そして野鼠へ囁くように呪文を紡ぎ始めた。
「“草木の匂いを嗅ぎたくは無いか?”“地を駆けてみたくは無いか?”“獲物に牙を突き立ててみたくは無いか?”“お前にもう一度機会を与えよう”“我が下僕となることと引き換えに”」
エゴンは手首を捻り、黒杖が宙に小さな魔方陣を描き出す。紅緋に輝く魔方陣は空中で回転しながら野鼠へ吸い込まれていった。
「“さあ、目を覚ませ”“リヴァイブ”」
突如、野鼠の死骸は瞼を開いた。冷たい体に瘴気が満ちる。硬直していた四肢に邪悪な力が漲り、痙攣を始める。そして力なく横たわっていた野鼠はエゴンの手の平の上でしっかりと四足で起き上がった。ひくひくと鼻を鳴らし、ひげを動かす。多少痩せ細ってはいるものの、生きた鼠と何の違いも見あたらない。目が爛々と赤く輝いていることを除けば。
エゴンは腰に下げていた紐を取り出す。丁度両手を横に伸ばしたほどの長さの紐は、中心だけやや幅広の皮で出来てる。それは石を投擲するためのスリングショットである。エゴンは野鼠をつまんで皮の部分で挟んだ。鼠はおとなしくされるがままになっている。そしてエゴンは野鼠を挟んだ皮の部分で紐を二つ折りにし、紐の両端を持って野鼠を振り回し始めた。十分に遠心力を得てから紐の片端をタイミング良く手放す。すると野鼠は皮から開放され勢い良く飛んでいった。野鼠は砦の堀の上で大きく弧を描き、跳ね橋の向こう側へと着地した。野鼠は素早く壁際の影へと駆け込んだ。正門からは中庭が良く見渡せる。辺りには人影一つ見当たらない。野鼠は小さく「チッ」と鳴いた。すると崩れて欠けた壁の穴から生きた同胞がひょっこりと顔を出した。星明りの下、彼は好奇心につられて風変わりな赤い目の闖入者に近づいた。
それが運の尽きである。野鼠は踊りかかって首筋に噛み付いた。生きた鼠は痺れた様に体を震わせた後、目を瞑って倒れた。しかし、ひゅうと風が吹いた後、再び目を開いて立ち上がる。その目には闖入者と同じ赤い光が宿っていた。
赤く目を輝かせた二匹の鼠は揃って壁の穴の中へ駆け込んだ。しばらく後、ばたばたと小さき者達の群れが駆け回る音と、きいきいという悲鳴が壁の穴から聞こえてきた。そしてそれらは突然ぱたりと止んだ。一拍の間を置いた後、どっと堰を切った様にして夥しい鼠の群れが壁の穴から溢れ出してきた。鼠達は一様に赤い光を瞳に宿し、闇の中を赤い蛍火の川が流れるようだった。群れの先頭を痩せた野鼠が走る。彼らは門の前に集まり、跳ね橋を上げる重りの上に一斉に飛び乗った。全ては乗り切れず、何匹もの鼠が鼠の上に重なり、何匹もの鼠が重りを吊り下げた太いロープをよじ登った。鼠達の重さによって重りは静かに下がって行く。跳ね橋は音も無く一人の死霊術師の前に下りた。
エゴンは跳ね橋を渡って砦の中へ忍び込む。鼠達は重りから飛び降りて彼の前に集まった。彼は痩せた野鼠を拾い上げ、ふっと蝋燭の火を消すように息を吹きかけた。
すると野鼠はエゴンの手の平でゆっくりと目を瞑り、ぱたりと眠るように倒れこんだ。それはもう元の鼠の死骸に戻っていた。それと同時に鼠の群れから一斉に赤い光が消えた。鼠達はお互いの顔を見合わせる。自分達がねぐらの外に居る事に気付くと慌ててその場から駆け出した。競うように我先にと壁の穴へ潜り込み、あっと言う間にいなくなってしまった。
エゴンは野鼠を懐に仕舞い入れ、館を睨んだ。真紅の瞳が燃え盛り、ぎょろぎょろと探るように見回す。エゴンの視界には蠢く無数の濁った赤黒い灯りと眩しいほど強く大きく輝く一つの白い光が映っていた。
エゴンは駆け出す。若き死霊術師は同胞の根城の奥深くへと踏み込んで行った。
ヒルダの前に置かれたグラスには赤いワインが注がれていた。テーブルの向かいには領主が座っている。騎士団本部で会った時のようにメイドを背後に侍らせ、穏やかな微笑を浮かべていた。
「まだ十年ほどですが、その年はブドウの質が良かったのです。中々の出来ですよ」
メイドがワインを注ぎ終えてヒルダの後ろへ下がる。そのメイドもやはり屋敷に焚かれていた香と同じ匂いがした。屋敷で働く内に染み付いたのかもしれないが、いずれにせよ徹底しているな、とヒルダは思った。
「さあ、どうぞ召し上がって下さい。」
さて困ったぞ、とヒルダ。グラスは足を持つのが正しかったか、それとも丸底を持つのが正しかったか。流石に台座の部分ではあるまい。しかし余り迷って時間をかけるのも失礼である。ええいままよと持ち易さを優先してグラスの底を持った。そして緊張に引きつった笑みを領主に返し、グラスに口を付けた正にその瞬間であった。
「アァレクサンダァーッ!」
絶叫とドアを打ち破る轟音が食堂に響き渡った。名を呼ばれたヒルダは胸の奥を打ち上げられたような驚愕でグラスをひっくり返した。唇を濡らす寸前だったワインはグラスを離れて宙に踊り出した。水音を立ててヒルダの丸く盛り上がった双丘を濡らし、テーブルクロスとヒルダのドレスに赤い染みを作る。取り落としたグラスはヒルダの胸の上で弾み、床に落ちてぱりんと割れた。
音のした方へ顔を向ける。そこには青白い顔に汗を垂らしながら息を荒げるエゴン・ヒューエが居た。
「エゴン殿!何故貴公が!」
「後ろだアレクサンダーッ!」
振り向けばナイフを振りかぶったメイドが眼前に迫っていた。ヒルダは咄嗟に背を逸らして凶刃の一撃をかわす。その勢いで椅子から転がり落ちたヒルダは床に伏せたままその椅子を蹴り上げた。跳ね上げられた椅子はナイフを机に突き立てているメイドの体にぶち当たり、昏倒させたかに思えた。しかしメイドは全く怯まずに再びナイフを振り上げ、ヒルダを組み伏せた。ヒルダは渾身の力で食い止めようとする。しかしメイドはその細腕からは想像も付かない恐ろしい程の力でナイフを押し付ける。
ヒルダは、そこで初めて気が付き全身が総毛立った。
メイドは全く無表情であった。怒りに眉を歪めるでもなく、憎悪に目を血走らせるでもない。それどころか力を込めようと歯を食いしばっている様子さえない。目を開けたまま眠っているような、何かが抜けきった表情だった。
そうだ。抜けているのは魂だ。それは死体の顔だった。呼吸も、瞬きも、一切無かった。
だがヒルダを亡き者にせんとする力だけは確かだった。拮抗する力で震えた刃先がヒルダの首筋に触れた。
その時細長い影が蛇のようにメイドに巻き付き、締め上げた。ヒルダはそれに見覚えがあった。エゴンが結界を張り、洞窟で腕に巻きつけていた黒い鎖だ。目の前のメイドと遠く離れた食堂の入り口に立つエゴンとが鎖で繋がれる。エゴンは間髪入れずに呪文を詠唱するがメイドの動きは更にエゴンとヒルダの予想を越えた。
メイドは鎖を掴むとエゴンを跳ね上げた。ヒルダは一瞬、目の前で何が起こったのか理解できなかった。エゴンの体がまるで藁人形のように跳ね跳んで突っ込んでくる。メイドの姿をした化け物は恐るべき力でエゴンを引き寄せ、そのあまりに急な衝撃でエゴンの体は宙に浮いたのだ。メイドはまるで煩わしい羽虫を叩き伏せるように、正面に飛んできたエゴンの体にナイフを突き立てた。そのままエゴンはヒルダと並んで床に叩きつけられる。ナイフが引き抜かれると同時にエゴンの胸から鮮血が吹き出し、彼は赤黒い血を吐いた。
メイドは抜き去ったナイフを再び突き立てようとした。だがヒルダがエゴンを庇うように彼の体に覆い被さった。ナイフが彼女の背に振り下ろされる刹那、エゴンは血潮と共に叫ぶ。
「“我を畏れよっ!”“ドミネイト・アンデッド!”」
エゴンの左腕から黒い鎖を伝わって燐光が紫電の如く疾走り、メイドの体を覆う。途端にメイドは力を失い、ナイフを床に落として力なく腰を落とした。
アレクサンダーは壁際にエゴンを引き寄せる。気が付けばテーブルを挟んだ領主を中心としてズラリとメイドの一同が並んでいる。およそ二十数名ほどの彼女らは一様に生気の無い顔で武器を携えていた。二人は完全に包囲されていた。ヒルダは血を吐きながら喘ぐエゴンを抱き締めて領主を睨んだ。
「これは一体、何のおつもりですか、閣下!」
「その男を離して大人しくなさって下さい。そうすれば手当をして差し上げましょう」
領主は相変わらず穏やかな笑みを張り付けている。貴族の館に押し入ったエゴンはまだしも、メイドが彼女を襲ったことも、そのメイドが化け物じみていることも、一切説明する気は無いようであった。
エゴンは激しく咳をする度に大量の血を吐いている。だが息も絶え絶えになりながらも声を絞った。
「駄目だ…………信じるな…………アレクサンダー…………!」
「その男を死なせたくはないでしょう?さあ、離れて下さい」
出来の悪い笛のような高く掠れた声を上げるエゴンの頬を、ヒルダは撫ぜた。ヒルダの白い指が彼の赤黒い血に染まった。その余りに優しい手付きとと柔らかな感触に、思わずエゴンはヒルダの目を見た。深緑の瞳は深い泉のように静かで透き通っていた。
エゴンはほんの瞬きほどの間に、自らのズタ袋と、ヒルダ、そしてその背後の順に視線を動かした。それで十分だった。
ヒルダはエゴンを抱えて立ち上がった。その目は真っ直ぐ領主を見据えていた。メイド達は取り押さえる機会を伺うように武器を構えた。
「領主閣下、仰せの通り私は彼を死なせたくありません」
「では…………」
「しかし、閣下よりも彼を信じます」
ヒルダはエゴンを抱えたまま背を向け、体ごと窓を破った。ガラスが砕け飛散する中、二人は闇の中へ飛び出す。メイド達が駆け寄るも時既に遅く、ヒルダはエゴンを抱きしめながら堀の中へと落下していく。二人は大きなしぶきを上げて水の中へと沈んでいった。
エゴンは溺れる体と霞のかかった意識の中で確かに聞いた。
――――死ぬな!死ぬなエゴン殿!貴公を死なせはしない!――――と。