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第六章『謁見』

 翌日、アレクサンダーは朝から執務室で慣れない書類仕事に忙殺されていた。例の亡者騒ぎの報告書の作成に始まり、街の警邏形態の見直し、街道に出没する盗賊団の討伐計画、各地の村々から届くゴブリン退治やコボルト退治の嘆願に対する手配等々。

 普段は街の警邏をするか鍛錬に没頭している彼女は亡者の群れよりも手強い『お役所仕事』相手に悪戦苦闘していた。無数の書式、慣例、法令を守り、決められた手順で書類を書いて判を押し、次の部署へ回す。面倒この上無い。机の脇にうずたかく詰まれた書類の山は一向に縮む気配が見えない。こういった文官的職務は滅多なことでは彼女に回ってこないのだが、何故か今日に限って山ほどの仕事が命じられた。

(駄目だ、少し休憩がてら素振りでもしよう。)

 彼女は椅子から立ち上がって大きく背伸びして体をほぐす。数時間もの間デスクに拘束された体は針金のように強張っていた。いざ体を動かさん、と部屋を出ようとドアノブに手を回したその時だった。

「アレクサンダー卿。御在室でいらっしゃいますでしょうか」

 ノックをきっかり三回鳴らした後、抑揚の無い平坦な声が聞こえた。アレクサンダーは「どうぞ」とドアの向こう側へ声を掛けた。

 ドアを開き、眼鏡をかけ緑色のチョッキを着た小柄で痩せぎすの男が入ってきた。本部長付きの下男だ。腰を折り曲げて深々とアレクサンダーへ向かって礼をする。顔を上げた拍子にずれた眼鏡の位置を直すと、彼女へ向かっていつものばかに畏まった調子で話し始めた。

「どうも失礼致します。お疲れのところ申し訳ございません。アレクサンダー卿にお客様でございます」

「ああ、ありがとう。どなたかな?」

「当地を管轄される領主様、ロバート・シーヴァース伯爵にございます」

 アレクサンダーは内心へえと溜息を漏らした。地方領主が何故わざわざ一介の騎士風情に面会を求めるのだ?

「来訪の理由は聞いているだろうか?」

「はい。何でも先日のアレクサンダー卿の御活躍をお耳にされたそうでございまして、恐れながら『是非ともお会いしたい』とのことでございます」

 彼女は驚いた。なんと、正しく昨日の今日ではないか。件の式典の準備のためにこの都市に訪れ噂を耳にした、といったところか?まさか昨日の内に本部長が直々に領主へ連絡したということもあるまい。

「分かった。しかし今日は生憎、礼装の用意はないが……」

「誠に恐れながら『そのままで構わない』とのことでございます。ゴードン本部長からも『格好は気にせずとも良いのでお待たせするな』と仰せつかってございます。『くれぐれも失礼の無いように』とも」

「ふむ……あい分かった、伺うとしよう。来賓室かな?」

「左様でございます。」


 来賓室の椅子に腰掛けてにこやかにアレクサンダーを迎えた領主は思いのほか若く、そして中々の美青年だった。やや線が細い印象を受けるが、ライトブラウンの髪とスカイブルーの瞳が眩しい。貴族らしく仕立ての良い衣服を身に着けてはいるが華美な装飾は無く、本人の柔和な笑みと併せて優しげな印象だった。些かきつめに上等なコロンを付けている様だが相手を威圧するのはその香り程度である。椅子の後ろには給仕服に身を包んだ年嵩十七,八程のメイドが姿勢良く控えていた。小さく整った顔立ちが極東の生まれを感じさせる。

 アレクサンダーは膝をついて礼をし、領主の青年に促されるとテーブルについた。

「お忙しいところ、すみません。ゴードン卿にお話を聞いたところ、つい直接お話したくなりまして。いえ、お恥ずかしい話ですが、私は幼少の頃より騎士の武勇譚に目が無く……正確に言えば強い憧れがあるのです」

「光栄です、閣下」

 領主の言葉遣いは貴族特有の尊大さを微塵も感じさせない、実に丁寧な物言いだった。アレクサンダーは騎士ではあるが、それでも領主との身分の違いは雲泥の差である。本来はこのようにへりくだって話すことなどありえない。

「ゴードン卿からお聞きしましたが、アレクサンダー卿は王都の……?」

 アレクサンダーは、ああ、なるほど、と合点がいった。目の前の青年は既に彼女の事情を聞いていたのだ。

「はい。私の父は王都のアレクサンダー公爵です。とは申しましても、私の母は市井の生まれでしたから側室でさえありません。つまり私はいわゆる庶子です。閣下にお心配り頂く事は誠に恐悦の極みですが、私自身それに値する者ではないと自認しております」

「いえ、武勲で知られたアレクサンダー家の姫君と聞いて得心が行きました。その名にふさわしい堂々たる振る舞いでいらっしゃる」

 領主相手にも物怖じしない態度を指して言っているのだろう。無論、領主は彼女を褒めたのだろうが、アレクサンダーの耳には姫君と言う呼び方は随分と空々しく聞こえた。

「恐悦至極にございます」

「何故今はこちらの騎士団に?」

「私自ら公爵閣下に願い出たのです。それまではアレクサンダー家の別宅に暮らしていたのですが、その、やはり何かと問題が多いものですから」

「なるほど、分かります。しかし公爵閣下も残念にお思いだったしょう」

 彼女は苦笑した。

「公爵閣下もしばしば私に『せめてお前が男であったらな』と仰っていました。ですが庶子でしかも女とあればどうしようもありません。幸い剣を振るのは得手でしたから、公爵閣下からアレクサンダーの名だけ頂戴してこちらの騎士団に席を頂いたのです」

「公爵閣下のお気持ちも分かりますね。男子であったなら、間違い無く勇猛果敢な騎士として武名を馳せたことでしょう。今回の亡者騒ぎについても、お話を聞いた限りではとてもお一人で解決できる事件とは思えません

 アレクサンダーは本部長にしたのと同じように、エゴンについては伏せたまま事の次第を話した。領主は幾つか踏み込んだ質問をしてきたが、アレクサンダーは半ばヤケクソ気味な法螺で応戦した。嘘を吐くのは不得手であり道義に背くと常々考えているアレクサンダーである。まるでエゴンの手柄を横取りしているようで胃がむかむかした。だがエゴンについて理解を得られる確証も無いままに喋るのは更に人の道に外れる気がした。命の恩人を売るように思えて、単純に嫌だったのである。

 しかしその代償としてアレクサンダーはたった一人で数百の亡者達を切り伏せ死霊術師を退治した勇者という事になってしまった。エゴンの存在を隠すに合わせて敵の数を減らせば良いものを、元来正直な彼女はエゴンのことを喋るまいということに精一杯でそこまで頭が回らなかった。

 でたらめを並べながら自分と相手を偽るのは酷く気分が悪かった。トムに話して聞かせたときとはまるで違う。加えて彼女の気を滅入らせたのは領主の態度である。自分でも幾らなんでもあんまりだと思うような稚拙な嘘にも優しげな表情を崩さずもっともらしく頷いて見せるのだ。それでいて質問はしっかりしている。一体話を聞いているのかいないのか。それでいてどこからか、値踏みするような纏わり付く視線を感じるのである。

 不愉快は些か言い過ぎであるが真に居心地が悪かった。

「全く持って素晴らしい御活躍です。この地を陛下からお預かりしている身として、アレクサンダー卿への感謝は言葉に尽くせない」

「身に余る光栄です、閣下」

「私は貴方の功績に報いたい。いかがでしょう。今晩当家に貴方をお招きして晩餐を開きたいのですが、お越し頂けますでしょうか」

 領主の要望とあっては是非も無かった。気が進まないといって父の威光を振りかざす程浅薄でもない。アレクサンダーは恭しく招待に礼を述べ、領主は「車を迎えに寄越します」と伝えた。領主は遅れてやってきた騎士団本部長に挨拶をし、メイドを伴って馬車へ乗って騎士団本部を出て行った。

「アレクサンダー卿、頼むよ。閣下の機嫌を損ねないように」

「存じております、本部長」


「で、何よ。それであたしの所に来たってわけ」

「すまない!この通りだ!」

 騎士は腰を直角に曲げて深々と頭を下げた。大通りの一角、冒険者達に人気の魔法薬店「翠の風」の裏で溜息を吐く妙齢の女性と、必死に頼み込むヒルダがいた。彼女こそヒルダに狂戦士の秘薬を渡した友人、錬金術師ソフィアその人である。昼過ぎの時間帯は決まって彼女の秘薬霊薬を求める冒険者達で賑わっており、ソフィアも眩しい営業スマイルを輝かせて接客に勤しんでいた。しかし自分を盗賊団の魔の手から救い出して以来の恩人兼友人が雨の中で震える子犬のような顔で訪ねてくると、彼女はすぐさま会計をアルバイトの小人族の少女に任せて裏へ引っ込んだ。

「ドレスを選ぶ事など、もう何年も無いのだ。無論、流行など分からん。かと言って騎士団の同僚達に頼めばどんな物を着せられるか分かったものではない。ソフィアだけが頼りなのだ」

「ヒルダもさぁ、そんな野暮ったい鎧ばっかり着てるからよ。ちょっとは化粧も覚えてお洒落したら?勿体無いわよ」

 腰に手を当てて渋い顔でケチをつけるソフィアは、言うだけあって優美な装いだった。特に新緑のビロード地のローブは雲一つ遮らない午後の日差しに良く映えた。若くして自身の店を立ち上げ、評判の店として成長させた彼女らしく、いかにも胡散臭い錬金術師の出で立ちからは程遠い。

「そんなことを言われても、見せる相手がいるわけでもないのだぞ」

「そんなんだから見せる相手が出来ないのよっ!バカッ!」

 ソフィアは頭を抱えて盛大な溜息を吐いた。

「あんたさぁ……本当にもう……素材が良いんだから、もっとちゃんとしなさいよ。美に対する冒涜よ」

 ヒルダは顔を赤らめて、照れ隠しに大きく笑った。

「素材が良い、か。美形のソフィアに褒められるとこそばゆいな」

「あんたがきちんとしてれば、あたしより数段美人よっ!このバカッ!」


 ソフィアはぶつくさと小言を続けたが、何だかんだでドレス選びに付き合った。行きつけの高級店で彼女はヒルダを着せ替え人形のようにくるくると回しながら、ドレスを選んでゆく。

「なあ、ソフィア」

「何?コルセット締めるわよ」

「ぐはっ」

 容赦無く胴回りを締め上げるコルセットがヒルダの肺から息を搾り出した。ソフィアは店員の手を借りながら着付けを進めてゆく。ヒルダは言われるがまま、なすがままだ。

「お客様、スタイル良いですねえ……」

 店員の若い女性は顔を赤らめて惚れ惚れするように溜息を吐いた。

「本当。腹立つわ。背は高いわ手足は長いわ贅肉は無いわ、しかもこれで胸が大きいって何あんたふざけてんの」

「甲冑を着込む時にさらしを巻かねばならんから、窮屈で困る」

「要らないなら寄越しなさいよ。引っ叩くわよ」

 口を尖らせながらソフィアは手際良く着付けを続ける。目が覚めるような真紅のドレスだ。しかし肩と腕、背中が剥き出しである。ヒルダは首を捩り、鏡に映った自身の背中を見て頬を染めた。

「その……些か扇情的に過ぎると言うか、かなり露出が多いようだが大丈夫だろうか」

「今はこーゆーのが受けるのよ。それに男なんてちょっと肌見せれば一発よ一発」

「領主閣下を篭絡しに行くわけではないのだぞ。そもそもだ、皆が皆そうとは限るまい」

 ヒルダは俯きながら溜息混じりに呟いた。

「彼ならこんな私を見てどう言うか……」

 ソフィアはヒルダがポツリと漏らした言葉を聞き逃さなかった。着付けの手をぴたりと止め、にじり寄る。

「『彼』?今あんた『彼』って言ったわよね?誰?誰のこと?まさか領主様じゃないわよねぇ」

 ぎくっと肩を震わせたヒルダに、ソフィアは好奇心むき出しのにやけ顔で詰め寄ってゆく。

「何が『見せる相手がいるわけでもない』よ。ちゃあんといるんじゃない。答えなさいよヒルダ」

「ちっ!違う!そういう意味で言ったのではない!私と彼はそんな間柄ではない!」

「あら、『そういう意味』ってどんな意味?『そんな間柄』ってどんな間柄かしら。教えなさいよぉ」

 ソフィアはニタニタと笑いながら異端審問さながらの誘導尋問で問い質していく。しかし名前を頑として言わないヒルダから、どうにか風体を聞き出したところで急に顔色を変えた。

「ちょっと待って。まさかそいつ、エゴンとか言わないわよね」

「ああ、何だ。ソフィアも彼を知っていたのか」

 ヒルダは彼を隠すために余計な嘘を言わずに済んだとホッとしたが、ソフィアは全く真逆だった。驚愕と困惑に激しく顔をしかめた。

「有り得ないっ!有り得ないわヒルダ!幾ら何でもアレは無いわ!悪趣味過ぎる!ゲテモノ食いにも程があるわよ!」

「げっゲテモノだの悪趣味だのと言うな!エゴン殿に失礼ではないか!」

 ヒルダは友人の言い様に、つい語気を荒げてしまう。空気の読める店員は既にそそくさと店の裏に引っ込んでいた。ソフィアは店員の目が無くなったのを見計らってそっとヒルダに耳打ちする。

「いや、だってヒルダ。いい?皆揃って山猫亭のおやっさんに口止めされてるからアレだけど、あいつ冒険者の間じゃ結構有名なのよ、悪い意味で。詳しいことは言えないけど、危ない奴なのよ!」

「彼の使う術の話だろう?」

「知ってるんじゃないのよっ!だったら尚更何で!」

 さっきまでのにやけ顔はどこへ行ったのやら、ソフィアは目を白黒させながら頭を抱えていた。ヒルダは腕を組み憮然とした表情だ。視線はそっぽを向いている。大切な友人とはいえ、命の恩人を悪し様に言われては面白くない。

 ヒルダは大真面目な顔で断言する。

「彼は優しい死霊術師なのだ」

「あんた今突拍子も無いこと言ったわよ。何よ『優しい死霊術師』って。『親切なマフィア』とか『白いカラス』みたいな詐欺くさい響きだわ」

 ヒルダはますます仏頂面になった。ガードを固めるように組んだ腕に力を込める。煌びやかな赤の布地に包まれた見事な二つの丘が腕に押し上げられて柔らかく形を変えた。ソフィアはその様子を見てこめかみを軽く痙攣させた。

 彼女は頭痛をこらえるように額を押さえながら諭すように語りかける。

「あのねえ、ヒルダ。あんたが男の経験ゼロなのは知ってるわよ。でもさあ、せめてもうちょっと条件の良い相手を選びなさいよ。あんたモテるでしょ?」

「確かに私は男性経験は皆無だ。しかし残りは一つずつ否定しよう。まず彼はソフィアの言うような『ゲテモノ』などではない。詐欺くさくなどない。例えソフィアであっても、私の恩人を侮辱することは許さん」

 ヒルダは頬を膨らませ、眉間にしわを寄せながら続ける。

「そして私と彼はソフィアが想像する様な浮ついた間柄ではない。単に仕事の依頼人と請負人というだけだ。お互いに新しく出来た知り合い以上の関係ではない。次に私は真っ当な好意を寄せられた試しなど無い」

 ソフィアは呆れるように眉をひそめた。

「はぁ?あんた鏡見たことないの」

「『モテる』とはつまり、恋文や花束を贈られたり詩を囁かれたりする事だろう」

「まあ……随分と古典的だけど間違いじゃないわ」

「私はそのどちらも人生において一度たりとも無いぞ。まして愛の告白を受けた経験などあろうはずも無い」

 ソフィアは目を丸くした。

「うそぉ」

「事実だ。騎士団で下卑た野次を受けることもあるが、あれが好意から出るものではないことくらい私にも分かる。気位の高い男達だ。訓練とは言え女の私に叩きのめされれば嫌味の一つも言いたかろうが、それは『モテる』という事からは正反対だろう」

「ああ、確かに」

 ぽんと手を打つソフィア。彼女はヒルダが騎士団に入団したばかりの頃、風の噂に聞いた話を思い出していた。

 ヒルダは騎士団に入った当初こそ彼女の美貌に物珍しさが加わって『誰が一番初めに口説き落とせるか』のような賭けが裏で始まった。しかし明くる日の模擬試合で彼女は並み居る屈強な騎士団員達を悉く打ち破り、隙有らば接吻の一つもくれてやろうとした不心得者どもを残らず地面にキスさせてしまった。それ以降も彼女は見てくれの悪いバケツのような樽兜を被って皆が面倒がる警邏任務に勤しんだ。誰も恥をかくまいと相手をしないがために一人黙々と剣と馬の鍛錬を続けた。そうこうする内に騎士団の中で彼女に声を掛けようという者は底意地の悪い揶揄を飛ばす者だけになってしまった。彼女が助けた街の人々やソフィアのような友人には好かれていたが、その中には高嶺の花に手を出そうという勇敢な男はいなかったのである。

 ソフィアは顎に手を当て「なるほどねえ……」と呟き、ムスッとした様子で佇む美しいが不器用な友人を眺めた。

「そんな所に現れた白馬の王子様ってわけ、アレが」

「だ、だから違うと言っているだろう!」

「そんな顔してちゃ説得力ゼロよヒルダ」

 ソフィアがヒルダの背後をついと指差す。ヒルダが振り向けばそこには、湯だってのぼせた様に顔を赤くした自分の姿が鏡に映っていた。彼女は思わず、両手で顔を覆った。頬は火を付けた様に熱い。それを自覚した瞬間、心臓が暴れるように鼓動を早めていることに気付いた。

「ち、違う……違うのだ……私は、そんな、エゴン殿とはまだ会ったばかりで……」

 彼女は両手で顔を隠したままうずくまってしまう。胸からこみ上げるものがじわりと目尻を濡らした。体は小刻みに震え、顔だけでなく露になっている肩や胸元までほんのり朱に染まり、背中はしっとりと汗が滲んでいる。目を凝らせば美しいアッシュブロンドの頭の天辺から湯気が上っているのが見えそうだ。穴があったら入りたい、彼女の全身がそう告げていた。

「ゴメン、ゴメン。からかい過ぎたわ」

 ソフィアは慌てて駆け寄り、ヒルダの背をさする。ヒルダはうずくまったまま自分に言い訳するように呟き続けていた。


「とにかく悪かったわよ。あんたの恩人の悪口言っちゃって。謝るから仲直りしましょ」

「うむ……私も少し興奮してしまった。許して欲しい」

 ヒルダは汗が乾くほどの時間をかけて漸く立ち直り、ドレスの着付けを無事完了した。ソフィアの目の前には最高の素材に最高のコーディネートを施した会心作が佇んでいる。

「どこもおかしくはないだろうか」

「安心なさい、完璧よ。グッと来るわ」

「お綺麗ですよ、お客様。どんな殿方も悩殺間違い無しですね」

 親指を立てるソフィアとガッツポーズを取る店員に賛辞の言葉を贈られ、ヒルダははにかんだ。

「何か他に注文はある?アクセサリーを変えたいとか」

「そうだな……短剣と薬瓶をスカート裏に仕舞えないだろうか」

 思わずずっこけるソフィアと店員。

「ちょっとあんた、暗殺でもしに行くつもりなの」

「違う違う。この前の旅で手元に回復薬の類が無くて危うく死に掛けたからな。何の備えも持たないのは不安なのだ。あの時も彼が助けに来てくれたから良かったものの……」

「惚気は良いから。用心のためってことね」

「うむ。最近は頓に物騒だからな。馬車の送り迎えの最中に夜盗の類に出くわさないとも限らん。ソフィアは知っているか?極東の島国の騎士達の言葉なのだがな、『常在戦場』と言って……」

「あーハイハイ、分かった分かった。でもナイフは止めときなさい。見つかったら言い訳に困るから。ジョセフィーナ頼める?」

「畏まりました。少々お待ち下さい」

 店員の少女はいそいそと裁縫道具を準備する。ソフィアはそれを横目にヒルダに耳打ちした。

「でも気を付けなさいよ。幾ら優しく見えたって、死霊術師は死霊術師なんだからね」

「ああ。友人の忠告という事であれば素直に戒めよう」


 万事装いが整ってしばらく後、領主の手配した馬車が蹄と車輪の音を小気味よく響かせながら店の前までやって来た。四頭立ての豪奢な四輪の箱馬車である。御者の男もきちんと正装している。箱馬車の中から領主との面会に同席していたメイドが降りて来た。

「アレクサンダー様、お待たせ致しました。領主様に御仕えするメイドのハンナです。領主様の御言い付けによりお迎えに参りました。」

「ありがとうございます。ハンナ殿」

 メイドは給仕服のスカートの裾をつまみ、膝を曲げ腰を落として会釈する。その流れるようなカーテシーにヒルダはぎこちなく応えた。

 ヒルダは彼女に手を取ってもらい、馬車のタラップを上る。ふと背後に視線を感じて振り向くとソフィアがひらひらと手を小さく振っていた。ヒルダは感謝の意を込めて微笑み、ソフィアも口の端を吊り上げてそれに応えた。

 ヒルダとメイドが馬車に入ると馬車は再び小気味良い音を立ててゆっくりと走り始めた。空は沈みかけた夕日で赤く染まり、馬車の影が石畳の上に長く長く伸びていた。


 馬車は交易都市を離れ、郊外に建てられた領主の邸宅へ続く草原の中の街道を軽快に進んでいた。

 馬車の中はヒルダとメイドの二人が向かい合わせに腰掛けているだけならば、とても広々としたものだった。仕立てもかなり上等らしい。美しい内装は勿論のこと固い石畳の上を走っているのに振動が殆ど伝わってこない。

「今晩はお招き頂き、ありがとうございます」

「滅相もございません。領主様も大変感謝されていらっしゃいますし、今晩はお楽しみ頂けますよう私どもも精一杯努めます」

 メイドのハンナはアレクサンダーより二つ三つほど年下のようだが、実にしっかりしていた。少女らしいあどけなさは既に無く、言わばプロフェッショナルの落ち着きと流麗さを備えていた。 小柄だが背筋は竹のように真っ直ぐ伸び、無駄が無い一挙手一投足のたびに滑らかにしなる。そして穏やかな微笑を崩さない。

 よく出来たメイドである。直接使いに出されるだけあって領主からも信頼されているのだろうか。

「ハンナ殿は領主閣下に仕えて長いのですか?」

「はい。七つの頃に奉公に参りまして、かれこれ十年近く経ちますでしょうか」

 なるほど、ベテランだ。ヒルダはさも感心したように頷いた。

「となると、領主閣下が幼少のみぎりから仕えていらっしゃるわけですか」

「はい。ロバ……領主様にはまだ何も分からない頃から大変良くして頂きました」

 メイドは微かに俯いて耳元の髪を撫でた。彼女の髪には瑪瑙をあしらった銀の髪留めが小さく輝いていた。頬は淡い桜色に染まっている。

 うーむ、分かりやすい。ヒルダは内心独り言ちた。年頃のメイドが親切な主人に懸想するというのは良くある話である。思えば領主は物腰柔らかな美青年であった。無理からぬ話であろう。

「領主閣下が思いの外お若い方で驚きました。私の記憶では確か、御父上は随分お年を召していたかと思ったのですが……」

「はい。左様でございます。領主様は遅いお生まれで、御姉様が三人いらっしゃいます。先代の領主様はもう御年六十歳をお迎えになられます。今は別荘で御静養中であらせられますが、まだまだ御健在でいらしゃいますよ」

「なるほど、そうだったのですか。いや、不勉強で申し訳ない」

 メイドは「いえいえ」と微笑み、今の領主がいかに素晴らしいかと褒め称えた。ヒルダもにこやかに相槌を打ったが、胸中は複雑であった。メイドと領主がいかな関係かは与り知らぬ所である。彼女は先ほど領主のファーストネームを呼びかけた。しかし仮にお互いの想いが真剣だったとしても、身分違いの恋は余り良い結果にはならないものだ。ヒルダ自身、それを身に染みて知っていた。ただ部外者が口幅ったい事を言うのも憚られる。領主にとってもメイドにとっても、なるべく不幸な結末にはならない事を祈るばかりだった。

「今晩はお越し頂いて私も嬉しいです。それと、こんなことを申し上げるのも失礼かも知れませんが……アレクサンダー様はお美しいですわ」

「何を仰る。ハンナ殿こそ器量良しでらっしゃる」

 褒められたからお返しに、と言うわけでもなくヒルダの言葉に偽りやお為ごかしは無かった。メイドのハンナは派手さは無いが整った顔立ちである。オリエンタルな風貌から、おそらく東方の生まれであろう、とヒルダは当たりを付けていたが、その上品さも相まって装いを変えれば良家の子女として十分通用しそうであった。

 下手をせずとも私の方が余程粗野であるな。ヒルダは胸の内で自嘲気味に呟いた。

「恐れ入ります。ですけれど本当に御綺麗です。眩しいくらいに」

 メイドは目を細めて微笑みヒルダを褒める。彼女は気恥ずかしさに居心地が悪くなってきた。尻の辺りがムズムズとして落ち着かない。

 ヒルダは交易都市の流行についてへと話題を変えた。二人は領主の邸宅へ着くまで談笑に興じた。二人の話し声の他には蹄と車輪の音が夕闇の中に響くばかりだった。


 邸宅に着いた時、日はとっぷりと暮れていた。馬車の窓から首を伸ばして館の姿を眺めたヒルダは思わず感嘆の溜息を漏らした。館は苔むした石積みの壁と深い水堀で囲まれ、正面の入り口へは跳ね橋を通らねばならなかった。跳ね橋の上を通る際に堀の中を見下ろすと、水面には敷き詰めたように睡蓮が浮かんでいた。その趣は館と呼ぶには厳めしく、砦という言葉がふさわしかった。

「実際に、元々は砦として建てられたそうです。歴史を辿れば諸侯が統一される前の戦乱の最中まで遡るとか」

「父から聞いたことがあります。その昔この一帯は辺境の最前線であり、当代の陛下が諸侯を併呑する戦の中で前線基地として用いられたと」

「流石、お詳しいですね」

「いえ……」

 石壁は風雨に穿たれ丸みを帯びている。幾度とない戦いを乗り越えたであろう堀の中の石壁は欠けがあった。ヒルダは城壁がまだ緑に覆われておらず、積まれたばかりの角張った姿を思い描いた。雄雄しい騎士達の叫びが響き、互いに射掛け合う矢の群れが日差しを遮るほど大きなアーチを描く。馬に跨った騎士達が跳ね橋を駆け抜け、敵の一群へと突進をかける。眠るように横たわった岩壁にそんな光景を重ねながら、ヒルダは胸が高鳴るのを感じていた。

 メイドはヒルダを館へと案内する。

 館はコの字型であり、中心には大きな噴水と良く手入れされた植木が並んでいた。ヒルダとメイドが芝生に敷かれた石畳の上を歩いて正面の大きな扉の前へ来ると、メイドは花の意匠が施された見事なドアノックハンドルを大きく三回鳴らした。扉は静かに開き始め、メイドに「どうぞ、こちらへ」と促されるままに、ヒルダは中へ入っていった。

 圧巻であった。

 正面ホールは二階までの吹き抜けとなっており、頭上には綺羅びやかなシャンデリアが吊るされている。柱と床は純白の大理石であり、正面扉から真っ直ぐ前に伸びる真紅の絨毯が二階へ続く 階段へと繋がっている。何かの香が焚かれているらしく、エキゾチックな香りが屋敷を満たしていた。

 そして何よりも、絨毯の縁に沿うようにメイドたちがズラリと並び、ヒルダへ深々と頭を垂れていた。

「ようこそお越し下さいました」

 言葉を失ったヒルダを先導するようにメイドのハンナが前へ進み出ると、ヒルダへ向けてにこりと微笑み、赤い絨毯の上を静かに歩き始める。ヒルダは慌ててその後を追った。


 ヒルダが案内された食堂は正に大食堂と言うべき大広間であり、真っ白なテーブルクロスが掛けられた大きな机が長く一列に連なっていた。端から端を見ると座った人間の顔が米粒程度にしか見えなさそうである。食堂は館の壁に面しており、並んだ窓からは輝く星空と真っ黒な堀の水面が見えた。メイドは食堂の窓側、上座の一つ手前の席を引いてヒルダに座るよう促した。ヒルダは軽く会釈をし、そろそろと席につく。

 彼女は母から習ったテーブルマナーを必死で思い出そうとしていた。しかし記憶の隅で埃を被って蜘蛛の巣を張っている「貴婦人の嗜み」とラベルの貼られた頭の本棚からは、とても目当ての礼儀作法は取り出せそうに無かった。脂汗を流しながら目を白黒させるヒルダを見かねたのか、メイドのハンナは既に用意されていた紅茶のカップをテーブルに置き「どうか楽になさって下さい」と微笑んだ。ヒルダは礼を述べて手を伸ばそうとしたが、カップの正しい持ち方が「ある」ということだけ思い出し、しかしその正解が思い出せなかったが故にそれ以上動くことが出来なかった。仕方なしにぎこちない笑みを浮かべて香りだけ楽しむこととした。メイドは困った様な微笑でヒルダを見つめていたが「それでは領主様がいらっしゃるまでしばらくお待ち下さい」と告げ、その場を離れた。

 食堂にはヒルダと何名かの給仕達が残され、彼女は気まずい沈黙を味わっていた。


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