第五章『帰還』
アレクサンダーは肩を揺さぶられる感触で目を覚ました。丸く口を開いてあくびをし、口をムニャムニャと波打たせながら目を擦る。そして「うーん……!」と大きく背伸びをした。
「メアリ、湯浴みの前に紅茶を……うんと熱い奴だぞ…木苺のジャムをたっぷり入れて…」
「……着いたぞ、アレクサンダー」
呆れたような声を聞くや否や、寝ぼけ眼をカッと見開き、アレクサンダーは急激に覚醒した。頭の中にハッカを詰め込まれたようなスーッとした感触に加えて、胸が煮えるように熱くなる。目の前にはいつもどおり無表情なエゴンがいる。周りは幌、駅馬車の中だ。幌の隙間から日差しが入り込み、周囲からは街の賑わいが聞こえてくる。二人は道を通りかかった駅馬車に相乗りさせてもらい、交易都市リバードーンへの帰路に着いたのだった。馬車の中は自分とエゴンのみ。既に駅馬車の乗り合い所へ着いていたようである。
「お、おはよう。エゴン殿」
「……口を開けて寝るのは止めた方がいいぞ。涎が出ている」
彼女はみるみる内に顔を赤くして、慌てて服の裾でごしごしと口を拭った。それをじっと眺めるエゴンに気付くと、もう焼けた鉄のような顔色になってしまった。
「み、見ないでくれ!」
「ああ、悪かった」
エゴンは視線を外して先に馬車を降りた。彼女も両手の指先で軽く乱れた髪を梳き、エゴンの後を追って馬車を降りた。が、慌てて動いたのが災いしたのか、段差で足をもつれさせて上体のバランスを崩した。悲鳴を上げながら石畳へ強かに後頭部を打ちつけようとした時、エゴンは反射的に彼女の腰を支えようと体を滑り込ませた。しかし彼の細腕はとても甲冑を着た彼女の重量を支えきれず、彼女の下敷きになるまま揃って大きな音を立てて転んでしまった。
図らずもエゴンをクッションにしてしまったアレクサンダーは慌てて彼の上から飛びのいた。
「し、失礼した!」
「怪我は無いか?」
「申し訳ない、エゴン殿。私はぶじ……貴公が無事でないっ!」
アレクサンダーは真っ赤だった顔を一瞬で真っ青に変えてしまった。それもその筈、目の前で座り込むエゴンの右腕が曲がる筈の無い方向に曲がっている。痛ましい光景に彼女は卒倒しかけたが、エゴンはまるでけろりとしている。
「ああ、何ということだ。すまない、すまないエゴン殿」
エゴンの傍にへたり込んで声を震わせるアレクサンダーは今にも泣き出しそうだった。
「俺が下手を打っただけだ。それに心配はいらない。少し痺れるが、痛みは無い」
「無い筈があるまい!傷を診るぞ!」
アレクサンダーはエゴンのローブの袖を捲り上げて患部を見た。明らかに右腕の骨がぽきりと折れているが、幸い皮膚は裂けていなかった。しかし応急手当の心得はあるものの、肝心の添え木になるものが無かった。
ふと気付くと騒ぎを眼にした野次馬に囲まれていた。美しい女騎士と風体の怪しい凶相の男が往来で騒ぎを起こしていれば当然である。単純にその物珍しさに気を惹かれた者が殆どだったが、中にはアレクサンダーの見知った顔も幾つかあった。
パン屋の女将とその娘、商店の御隠居、教会のシスター、鍛冶師見習いの青年、等々。人々は皆、アレクサンダーには心配そうな目を、エゴンには怪訝そうな目を向けている。
「大丈夫かいヒルダちゃん。妙なのに絡まれてるみたいだけど」「騎士のお姉ちゃん、今日はバケツ被ってないのね」「どうかなさいましたか、ヒルダ様。お望みでしたらうちの若い連中を連れてきますよ」「お手をお貸ししましょうか?そちらの方は教会に来て頂いた方が……」「物乞いの当たり屋ですか?それともまさかスリか!俺が叩きのめしてやりますよヒルダさん!」
「ちっ違う!誤解だ!エゴン殿は不逞の輩ではない!」
大慌てで「違う違う」と手を振り回しながら弁明するアレクサンダーを見て、エゴンは眩しそうに目を細めていた。
アレクサンダーが大騒ぎの末に誤解を解いた結果、打って変わってエゴンは人々に揉みくちゃにされながら手厚い治療を受けてしまった。鍛冶師見習いの青年だけは最後まで「こんな怪しい奴と係わり合いにならない方がいいですよ」と零しながらエゴンを睨みつけていたが、それでもしっかりと彼の腕に添え木を当ててくれた。今では彼の右腕は清潔な真っ白の包帯でぐるぐる巻きになっている。ズタ袋は騎士が代わりに担いでいた。
「随分と人望があるんだな」
「いや、単に皆が親切なのだ。そそっかしい私などは街の方々に世話になるばかりでな。警邏する内に名前を覚えられてしまった」
アレクサンダーは体を縮めるように腕を組んで節目がちにはにかんだ。
「『謙遜も卑下も無用』だ、アレクサンダー。普通、市井の者は騎士を恐れ敬いはすれど、ああも親身になったりなどしない」
いつか自身がエゴンに言った言葉を引き合いに出され、もはやまともに彼の目を見ることも出来なくなった。これ以上はもう堪らないとばかりに苦し紛れに話題を変える。
「そ、そういえばエゴン殿!シスターの治療の祈りが余りに届かないので、傍で見ているだけの私まで焦ってしまったぞ」
「……ああ、俺の体はその類の祈祷に対して効きが弱いんだ。手間を掛けさせて悪かったな」
不思議に思ったアレクサンダーは問いかけようと面を上げたが、既に彼は背を向けていた。「では、行こうか」と背中越しに告げて歩き出す。アレクサンダーは突然、置き去りにされた幼子のような心細さを感じて小走りに彼の背を追った。横に並んだとき、エゴンの顔はいつもの能面だった。顔を覗き込んだ彼女に目を向けることも無く、真っ直ぐ前を見据えて歩いていた。
よく油の差されたスイングドアの蝶番は音も立てずに小気味良く回転した。入り口から差し込む光が押し広げられ、舞った砂埃が足元で宙を泳ぐ様子を照らし出した。二人は冒険者の集う酒場、山猫亭へと足を踏み入れた。依頼を受けるには遅すぎ、昼食を取るには早すぎる中途半端なこの時間である。広々とした酒場の中はがらんとしていた。ちらほらと疎らに、アルコールが無くては世間が怖くて堪らない哀れな連中がたむろしているばかりだ。入り口正面のカウンターでは熊のように筋骨隆々とした体格の店主がグラスの曇りを丹念に布巾で拭き取っている。店主は焦げ茶色の短いあごヒゲを生やし、頭はつるりとしたスキンヘッドだ。太い指先を器用に動かして次々にグラスを磨き上げてゆく。
店主は戸の開く音にふと面を上げ、二人に気付くと凍り付いたように布巾とグラスを持つ手を止めた。
「オヤジさん、ただいま」
「店主殿、件の依頼についてだが」
「きっ騎士様!」
二人がカウンターの前まで来ると、店主は青ざめた顔で雨霰のごとくまくし立て始めた。
「騎士様、申し訳ございません!コイツをそちら様の御承知無しで送っちまった事はふかぁくお詫びします。それとですね、大事なのはむしろこっちなんですが、こいつは決して悪ぃ奴じゃあないんです。本当ですよ、うちの看板を賭けたっていい」
「あ、ああ。それはもちろん分かっているが……」
酒場の店主は騎士が口を挟もうとしても大きな手の平をがんと突き出して遮り、脂汗を流しながら喋り続ける。
「いや!いや!仰らずとも分かってます。死霊を操る不埒な術を使うって言うんでしょう。そりゃあ御尤もですとも!でもですね、騎士様。神と陛下とうちのかみさんに誓ったっていいが、こいつは街の墓地を荒らすことなんか無いんです。今までもこれからも、たったの一度もですよ、騎士様!まして、王国の善良な市民を手にかけるだなんて!おお恐ろしい!神よ!天地が裂けたってやりっこありません!」
「あの、オヤジさん……」
「お前は黙ってろエゴン!誰のために騎士様に申し開きしてると思ってんだ!大体テメェもいい加減に取り繕うってことを覚えろ!いくら腕利きだからってもなあ、テメェがとんでもねえ技を使ってるのを自覚しやがれ!今回だってそうだ、俺が相手が悪いから止めとけっつったのに見境無しに突っ走りやがって!」
「いや、だから店主殿……」
「どうか聞いて下さいな、騎士様!そりゃあコイツだってちょいと遺跡の棺桶を覗き込んだり、そこいらを根城にした盗賊団をぶっ殺したりするかもしれません。でもそいつぁ、冒険者ならみーんなやってることです。国王陛下だって認めてらっしゃる!それに、そこでコイツがほんの少しばかり死体を弄繰り回したからって、誰に迷惑かけてるってわけでもないでしょう!」
店主は必死で弁解を続けていた。アレクサンダーは小さく溜息を一つ付いて、ずいと前に進み出た。大きく腕を振りかぶると、勢い良く手の平をカウンターに叩き付ける。往来にまでばあんと音が鳴り響き、驚いた酔いどれ達は危うく大事な酒の入ったグラスを取り落としそうになった。カウンターの上で磨きかけのグラスがひっくり返り、転がってカウンターから飛び出したが、床で砕け散る前にエゴンが無事な左腕でそれを捕まえた。
「まず、落ち着いて、私の話を聞いて頂きたい。宜しいかな、店主殿」
「は、はい」
「……それじゃあ騎士様はコイツをしょっ引きに来たってわけじゃあないんですね?」
「うむ。繰り返すがエゴン殿には世話になるばかりか命を救って頂いた。陛下と臣民を害する者とも思わぬ。全く単純に依頼完遂の報に参ったのだ」
「申し訳ありやせん!とんだ早とちりでした!」
店主はつるつる頭を、カウンターに額がくっ付きそうなほど深々と下げた。アレクサンダーは「まあまあ」と宥める。
「怒鳴って悪かったな、エゴン。疲れたろ。何か食うか?すぐ用意してやるぞ。騎士様もいかがです。うちの羊のミートパイは結構評判なんですよ。ソースがそんじょそこらとは一味違いやしてね、新鮮なバターをたぁっぷり使って、刻んだ野菜をよっく炒めて煮るんです。特にこう、たまねぎが飴色のペーストになるくらい、焦がさないようにじっくり丁寧にね」
人懐っこい笑みを浮かべながら身振り手振りを交えて語る店主の言葉に、アレクサンダーは思わず喉をごくりと鳴らした。馬車で一晩揺られた後の胃はすっかり空っぽなのである。
しかし隣の男は相変わらず無感動にそれを断った。
「いや大丈夫だ、オヤジさん。それよりも書類に判を押してくれないか」
「っとと、いけねえや。つい商売っ気に火が付いちまった」
店主は苦笑いして差し出しされた依頼書を検めた。
「はいはい…えー……依頼主、サー・アレクサンダー様。仲介、冒険者組合所属、ジャック・バーナード。請負者、エゴン・ヒューエ殿。依頼内容、シダーウッド村での亡者の群れ目撃の調査、原因究明及びその解決の補助。報酬、銀貨四十枚。騎士様、依頼完了にお間違いはございませんね?」
「うむ」
「ようございます。では……」
店主は依頼書の端に力強く判子を押した。赤い四角に縁取られた【依頼完了】の印が付けられる。続けてカウンター裏の金庫から銀貨の袋を取り出し、一枚、二枚…と銀貨を二人の目の前で並べて数え、きっかり四十枚あることを確認してエゴンへ渡した。エゴンは無造作にズタ袋の中へ放り込む。
「しかし、今回の相手は手強かったと見えるな。随分と手酷くやられたじゃあねえか」
店主は鋭い目付きで包帯に巻かれたエゴンの右腕を睨んだ。
「ああ…これはな、オヤジさん」
「待った!エゴン殿、私が自分の口で説明する」
アレクサンダーはエゴンの声を遮って制止する。人の口で恥を晒されるよりはいっそ自分で一切合財ばらしてしまった方が気が楽だった。だが酒場の店主は笑い出すどころか、酷く驚いた顔でしきりに二人を見比べていた。
「エゴン、今日はもう宿に戻んのか?」
「ああ、傷を治さなきゃならない」
「んじゃ、パイを幾つか包んでやっから持ってきな。空きっ腹じゃ治るもんも治らねえぞ。腹が減ってなきゃ坊主に食わしてやれ。あ、それと騎士様、ちょいとお耳を拝借しやす」
店主は顔をアレクサンダーの耳元に寄せ、そっと囁いた。
「この偏屈とこんなに早く打ち解けたのは騎士様が初めてです。騎士団から亡者がらみのお仕事を頂ける際は何卒よろしくお願いします」
店主はエゴンからはアレクサンダーの影になって見えない角度で、にっと笑って彼女に目配せをした。アレクサンダーもすぐにその言葉の意味に気付いて頷く。短い旅の間で彼女がエゴンの人となりを理解したから良いものの、本来は死霊術を大っぴらに使う者がいれば大変な騒ぎになるだろう。おそらく店主は今までも何度か同じようなやり取りで、彼を公の目から隠してきたに違いない。
二人は店主に見送られて酒場を出た後、揃ってエゴンの下宿先へ向かっていた。アレクサンダーは「では後日」の一言で帰ろうとしたエゴンの首根っこをむんずと捕まえ、付き添いを申し出たのである。エゴンはそれを固辞しようとしたが、アレクサンダーは骨折した彼に代わって荷物を持つと主張して聞かない。押し問答の末、彼は渋々と同行を受け入れた。
「俺はどうもお前の申し出に弱い……」
「人の善意は素直に受け取っておくものだぞ。まして貴公は私を庇って負傷したのだ。これくらいさせて貰わねば私の面目が立たん」
エゴンの下宿先は貧民窟の一角だった。唯でさえ若い女は目立つ上にアレクサンダーのように抜きん出た美貌の持ち主は、このような吹き溜まりの中では一際目を引いた。おまけに出で立ちが騎士のそれとあっては、ならず者にとっては放っておけと言う方が酷である。
しかし今日のならず者達はその酷に耐えた。何故ならば隣立って歩いていたのが、このスラム街でも恐ろしい噂の耐えない男だったからである。口さがない者曰く、あいつは屍を食う、口を利けば呪われる、借家の中は死体で溢れかえっている、等々。そして今日もう一つ、振るい付きたくなる様な女騎士の弱みを握っているらしい、という噂が増えた。
スラムの路地裏を右に曲がり左に曲がり、二人はみすぼらしいあばら家の前へ来た。半ば朽ちかけた木ドアをエゴンが破らない程度にノックすると、中からパタパタと軽い足音が駆け寄ってくるのが聞こえた。
「兄貴かい?」
「ああ、トム。俺だ」
「おかえり!」
鈴を鳴らすような声と共に戸が開けられた。ドアの影から小さな顔がこちらを覗き込む。年嵩は十歳ほどの栗毛の少年だった。少年はエゴンの顔を見るとあどけない顔を綻ばせたが、すぐにエゴンの骨折とアレクサンダーの存在に気付いて目を丸くした。
「兄貴!何があったの?」
「何も心配要らない。だが少し休む」
今にも崩れそうな家の中は、やはり決して贅沢なものではなかった。毒々しい色の瓶が並んだ薬品棚、薄っぺらい毛布が一枚かけられたきりの粗末なベッド、小さな机と椅子が幾つか。だが、それでも部屋の中央には古めかしいながらも絨毯が引かれ、小さな暖炉があったのが意外だった。
エゴンはパイと銀貨の袋をトムに渡すと、戸棚に並んだ瓶を一つ取ってぐいと一飲みした。そしてアレクサンダーへ「例の件については、後でトムを使いにやる」と言ったきり、靴も脱がずに埃塗れのベッドへ倒れこんだ。彼は殆ど寝息も立てずに一瞬で、それこそ死んだように眠りについた。
少年は椅子にかかっていたもう一枚の毛布をエゴンに被せると、なべを暖炉の火にかけてから騎士にパイを勧めた。
「二人で食べた方が美味しいから」
はにかむ少年の言葉に、騎士の喉よりも先に胃袋が大きく了解の返事を上げた。騎士は顔を赤くしたが、少年が安心したように笑って白湯の入ったカップとパイを差し出すと、彼女は礼を言ってそれを受け取った。
二人は食事を共にしながら談笑に興じた。羊肉のパイは酒場の主人の売り文句に違わず美味だった。冷めているにも関わらず生地はさっくり、中はしっとり、噛み締めれば旨みたっぷりの野菜のソースと肉汁、ゴロゴロとした羊肉の塊が溢れた。初対面の人間との間を取り持つには、これ以上無いものだった。
騎士はエゴンとの冒険譚を聞かせた。目を輝かせながら続きをねだる少年に話すのは彼女自身にも愉快なことだった。少年は自身の生い立ちとエゴンとの暮らしぶりを話した。彼は農村の生まれ、五人兄弟の末っ子で、飢饉の年の冬にこの交易都市へ奉公の口を探して出てきたのだそうだ。要は体の良い口減らしだが、顔をしかめるアレクサンダーに対して少年は「街までのお金をくれただけ、ウチは大分マシな方だったよ」と笑った。しかし紹介状も無く、読み書きも満足にできない子供の受け口はどこにも無かった。教会の炊き出しからもあぶれた彼はスラムの影でぼろきれを被って寒さと飢えに震えていた。
「そこをね、兄貴が拾ってくれたんだ」
少年は「最初は死神が迎えに来たと思ったけどね」と付け加えたが、誇らしげだった。少年は栄養失調に加えて肺炎を起こしかけていたが、エゴンの看病で一命を取り留めた。それ以来、小間使いとして共に暮らしていると言う。いつか、エゴンのような強い魔法使いになるのだと胸を張って宣言した。
少年はパイを口一杯に詰め込みながら、傍らで白湯をすする騎士に尋ねた。
「ねえ、もしかしてお姉さんは兄貴の“大事な人”なのかい?」
アレクサンダーは噴出した。お湯が気管に入り込んで激しくむせ込む。
「い、いきなり何を言い出すのだ君は」
「だって兄貴がこんなにぐっすり眠るの、本当に久しぶりなんだよ。それも会ったばっかりの人の前でなんて」
アレクサンダーが呼吸を整えるのを待って、少年は喋り始めた。
「兄貴は僕に簡単な魔法は教えてくれるけど、兄貴が使ってる魔法のことは全然教えてくれない。『お前は絶対に手を出すな』って言うんだ。だけど兄貴が死体を操って動かす魔法を使ってるのは僕も知ってる。お姉さんは知ってる?魔法使いはね、魔法を使えば使うほど、どんどんその魔法に引っ張られて、最後は魔法そのものになっちゃうんだって。火の魔法を使えば火の精に、水の魔法を使えば水の精に近づいていくんだ」
少年は眠るエゴンの横顔をじっと見つめていた。カップの中の湯はとうに冷め切っていた。
「兄貴はね……昔はそうじゃなかったのに、今は殆ど眠らないし、食べないんだ。さっきみたいに時々魔法の薬を飲むぐらいでさ。女を買ってる所なんか一度も見たこと無い。だんだん、少しずつそうなっていったんだ。もう僕の言うこと分かるだろ?」
アレクサンダーは全く不本意にエゴンの骨を折ってしまったあの時を思い起こしていた。彼はけろりとした顔で『痛みは無い』と言っていた。『祈祷に対して効きが弱い』とも。
「僕は兄貴が心配なんだ。兄貴が一人でどんどん遠くに行っちゃうみたいで怖いんだ」
うつ伏せに横たわるエゴンの寝顔は、あまりに静かで微動だにしなかった。深く寝入っている者も少しくらい寝息で体を揺らすものだが、それさえ見られない。土気色の肌、どす黒いくまの浮かんだ目元、乾いた唇。彼女は不安に駆られ、そっとエゴンの左腕を取った。手首に指を当てると、非常に小さくゆっくりと、しかし規則正しい脈を感じた。だが、それは全く健常の脈拍ではない。次第に遠ざかってゆく足音に似ていた。
「お姉さんにお願いがあるんだ。一緒にいる時だけでいいからさ、なるべく兄貴に食べたり寝たりしろって言ってくれないかな」
「それはもちろん構わないが、何故だ?」
「本で読んだんだけどね、魔法に引っ張られた魔法使いを引き戻すにはその逆をやれば良いんだって。だから兄貴の場合は、食べたり眠ったり『生きてる』ってことを取り戻させるのが一番じゃないか思うんだ」
「約束しよう」
力強く頷く彼女に、少年は笑って手を伸ばした。
「ならお姉さんは僕と友達になろう」
「光栄だ。私のことはどうかヒルダと呼んでくれ」
「ありがとう、ヒルダ。僕のこともトムでいいからね」
二人は眠るエゴンの前で握手をした。そしてお互いの目を見交わして微笑み、揃ってエゴンの寝顔を眺めた。彼は変わらず、深く静かに眠り込んでいた。
街の中心部に位置する騎士団本部に帰り着いたアレクサンダーを、本部長は明らかに狼狽した様子で出迎えた。ビール樽に細い手足を生やしたような体を揺さぶって、黒檀製のデスクの前を行ったり来たりしてる。赤ら顔に止め処なく流れる汗をしきりにハンカチで拭いながら騎士の報告を受けているが、まるで頭に入っていない様子である。
彼女はあえてエゴンの存在と「この件はまだ終わっていない」という彼の言葉を伏せたが、彼女一人で事を成し遂げたということの不自然さにも全く気付かない風だった。アレクサンダーは吐き慣れない嘘に自身で冷や冷やしながら報告を続けたが、結局最後まで突っ込んだ質問は来なかった。
彼女は死霊術師の老人が残した日記を本部長へ手渡すと、部屋を後にした。廊下をすれ違う同僚達はアレクサンダーを見ると、口笛を吹いて揶揄を飛ばした。「今日はより一層酷い格好だな」「安い甲冑だからな、いい加減まともな奴に新調したらどうだ?」「いっそ甲冑なんか止めて、ドレスにしろよ。選ぶのなら付き合うぜ」「女がいつまでも剣を振り回してるからそんな目に会うんだよ」等々。アレクサンダーは口を利くのも億劫だとばかりに片手を振って軽くあしらい、足早に本部を出て行った。
宿舎に戻った彼女を豪奢な装丁の封筒に大きな封蝋が押された手紙が待っていた。差出人は王都に住む彼女の父だ。しかし彼女はそれを自室に戻るなり封も切らずに机の一番下の引き出しに投げ入れた。そこには、同じ封蝋が押された手紙が何通も埃をかぶって積み重なっている。
そしてすぐさま彼女は放り出すように甲冑を脱いだ。続けてぼろきれ寸前のフェルト地の服を脱ぐ。服の下から火照った白い肌が露になる。胸をぐるぐる巻きにきつく締め付けていたさらしの結び目を緩めると、豊かな双丘が緩んださらしを跳ね返すようにまろび出た。
彼女は開放感に小さく息を吐いた。
下着だけになった彼女は濡らしたタオルで体中を良く拭う。本当ならば熱い湯に浸かりたいところだったが、そんな贅沢は言っていられなかった。体中に張り付いた汗と泥と返り血をすっかりふき取ると、するりとベッドに潜り込んだ。
彼女はシーツの中に体を滑り込ませると、暫しの瞑目の内に眠りに落ちた。酷く疲れていた。頭の中ではエゴンの言葉がぐるぐる回っていたが、はっきりとした答えの形にならず、やがて夢の中に沈み込んでいった。
ヒルダは実に数年ぶりに母の夢を見ていた。彼女と同じアッシュブロンドの髪を腰元まで長く伸ばした母は、血溜りの中に倒れこんでいた。彼女の腰から下は巨大な岩に押しつぶされ、その下から止め処なく血が溢れる。幼いヒルダは泣きじゃくりながら岩をどかそうと小さな手の平で押し続ける。母の血で赤く染まった掌が岩の上に紅葉のような跡を付ける。
岩は動かない。ヒルダは必死で押し続ける。足元から母の優しい声が聞こえる。
「逃げなさい。逃げなさい、ヒルダ。私は大丈夫よ。だから逃げなさい、ヒルダ……」
声は次第に細く小さくなってゆく。岩は動かない。どんなに押しても動かなかった。
ヒルダはベッドの中で、静かに枕を濡らしていた。