第三章『亡者の穴蔵』
二人は村の入口に残してきた亡者を再び引き連れ、少女が指し示した山の斜面を歩いていた。空には月が登り、辺はしんと静まり返っている。
村の惨状と事前の報告からエゴンは、おそらく死霊術師が研究のため亡者に村を襲わせ死体を回収したのだろう、と結論付けた。少女の指さした先に元凶である死霊術師のねぐらがあることはまず間違いない。
「貴様でもあのような顔をするのだな」
前をゆく死霊術師から返事は帰ってこない。しかし騎士は構わず話を続けた。
「手順がどうとか言っていたな、あれはどういう意味だ」
死霊術師は少し黙っていたが、やがて重々しく口を開く。
「死者の魂は往々にして生前の形を忘れている。初めから複雑な質問をすることは不可能だ。初めに感情、次に能動的な欲求、最後に理性を思い起こさせる。死霊術師の住処を探すために全ては必要なことだ」
「なるほどな。ではあれは演技だったのか」
エゴンは答えなかった。
二人はカンテラを掲げながら黒々とした森の闇をかき分けるように歩き進んだ。ふくろうの鳴き声さえ聞こえず、耳鳴りがするほど静かな森だった。騎士が不思議に思ったのは森のなかには亡者が現れないことと、まるでそれを知っていたかのように傍らの死霊術師が結界を張らなかったことだった。当然騎士は前を行く死霊術師に理由を問い質した。だがエゴンは黙したまま歩みを進めるばかりだった。
小半時ほど歩き通し、二人は山の斜面にポッカリと口を開けた洞穴に辿り着いた。入り口は闇の中にも浮かび上がるほど際立って暗い。死霊術師は「ここだな」と呟きズタ袋を下ろした。中から黒い鎖を取り出し左腕に巻きつけ、さらに幾つかの道具を取り出しベルトに身に付けてゆく。騎士も荷物を下ろし、回復用の治療薬を幾つか携帯用の革袋にしまう。
アレクサンダーは腕を組みエゴンを見据えた。
「では、任務内容を確認するぞ。当初の主目的は村民の救出だったが、これはもはや絶望的と言うしかないだろう。故に村民の遺体の確認と事態の収集、つまり村民を殺害したであろう奴……死霊術師の討伐が目的となる」
騎士は努めて事務的な口調を装ってはいたが、声の端々に隠しようのない嫌悪の感情が滲んでいる。
「討伐か。ならば殺しても良いのだな」
「無論だ」
決断的に応える騎士はもはや憤怒の色を隠そうとさえしなかった。兜をかぶったその顔の表情は読めないが、手は組んだ腕をきつく握っている。
「基本的に私が前陣となって進む。貴様の身は貴様自身で守るが良い。面倒は見れんぞ」
「構わん」
騎士は死霊術師の身の安全など知らぬとばかりに冷ややかに告げたが、エゴンはまるで無頓着に応える。普通ならよほど自信があると見るべきだろうが、アレクサンダーには目の前の男が自らの命さえどうでもよいと思っているようにも見えた。だが死霊術師への怒りに燃える騎士はエゴンがその同類である以上、どうしても庇う気にはなれなかった。ただ同時にエゴンの死霊術に頼りきりである自分自身を強く恥じてもいた。エゴンはそんなアレクサンダーの葛藤などまるで眼中に無いかのように、連れてきたゾンビとスケルトンに向かって何やら騎士には理解し難い細工を施していた。
準備を済ませた二人は奈落のような暗闇を降りてゆく。アレクサンダーを先頭として背後にエゴン、周囲をエゴンの操る亡者で囲む。エゴンの背後に松明を持たせた二体のゾンビを配置し、辛うじて周囲の地形が見て取れる。洞窟の中は肌に粘りつくような湿気に満ち、幾ばくもしない内に騎士の甲冑は結露した水滴ですっかり覆われてしまった。剣を握る手が滑り、アレクサンダーは腹の底を冷たい手のひらで弄られるような不安を覚える。
周囲は鍾乳洞を人工的にくり抜いているようで、足元には風化しかかった石畳の残骸らしきものが残っていた。
「古代の地下墓地だな。うってつけだ」
エゴンがボソリと漏らした声は底の見えない闇の中に吸い込まれていった。
周囲の湿気は騎士の肌着にまで忍び込み、汗と混ざり合って不快な感触を伝える。アレクサンダーが余りの息苦しさに一度兜を脱いで顔を拭おうとした時、洞穴の奥底から近づいてくる聞き覚えのある音を耳にした。それはあの雑木林で生死を賭したその時に聞いた忌まわしい足音だった。
「来るぞ!!」
騎士は叫び、剣を構える。それまで凪いだ海のように泰然自若としていた死霊術師が、突如として飛び跳ねるように杖を握る手を踊らせた。杖の先は闇夜に閃く雷光の如き素早さと鋭さを伴って宙に何かを描き出す。瞬間、エゴンを守るように立ち並んでいた三体のスケルトンの全身に暗紫の燐光が燃え上がるように迸った。人骨の怪物達は素早く各々の武器を構えエゴンの周囲から一歩前へ飛び出すと、アレクサンダーの脇を固め援護するような陣形を取る。その俊敏さと隙の無い姿勢はアレクサンダーが普段訓練を共にする騎士団員たちにも劣らないものである。雑木林で騎士を襲った、ただ武器をだらしなくぶら下げ、振り上げるだけの亡者達とは全く様相を異にしていた。
驚いたアレクサンダーが一瞬、振り向いた時である。全身に針を突き刺されるような戦慄が騎士を襲った。
エゴンは笑っていた。それも尋常の笑みではない。口の端を三日月のように引き攣らせ、血のような真紅の瞳を爛々と輝かせながらその目はあらん限りに見開かれている。それは死霊術師の顔に開いた地獄の釜の蓋だった。
憎悪だ。これは憎悪だ。何故かアレクサンダーは悟った。ある種の運命めいた予感があった。目の前で引き裂いたような笑みを浮かべる死霊術師が、同じ死霊術師に対して煮え滾る灼熱の憎悪を抱いてることを理解できてしまった。
禁忌に触れた多くの者がそうするように、騎士もまた目を背けた。それ以上見たくはなかった。見てはいけないものだと思った。洞穴の奥から押し寄せてくる無数の亡者達が松明の明かりに照らしだされると、騎士は安堵さえした。
騎士の剣が先頭のゾンビを切り裂く。腐敗した体液が濡れた岩壁に飛散した。次いで騎士の周囲に控える骸骨の戦士達が雪崩を打って攻め寄せる亡者達に応戦する。剣を握る手は滑り、足元も気を抜いた瞬間に転倒しかねない厄介な地形だ。しかし洞窟は狭く、騎士と三体のスケルトンで十分余裕を持って道を塞げる。それはつまり敵はいくら数が多くとも一斉には襲いかかれないということであり、騎士たちは側面にも背面にも回りこまれないということだ。加えて一対一であれば騎士は言うまでもなく、またエゴンの支配下にある三体のスケルトンは迫り来る同胞達を完全に圧倒していた。亡者達の数は十を超えたが瞬く間に騎士たちの手によって再び物言わぬ躯へと姿を変えた。
足音が続かずに攻撃の一波を全滅させたことを感じ取ると、騎士は剣を下ろして緊張と疲労を押し流すように深く息を吐いた。
「貴様の骸骨は随分と出来が良いようだ」
騎士は背後の死霊術師へ振り向かずに声だけをかける。しかし死霊術師は騎士の意図をよそに前へと進み出た。アレクサンダーは内心ぎくりとしたが、死霊術師の顔が元の能面に戻っていることを察すると胸を撫で下ろし、そんな自分に気づいて少し戸惑った。何故私がこの男の顔色を窺わねばならん、アレクサンダーは兜の内で自嘲気味に口の端を歪めた。
「将に直に率いられた兵と簡易な命令だけ与えられて個々に動く兵、どちらが強い?同じ理屈だ」
アレクサンダーが鉄仮面の裏で表情を白黒させていることなどつゆ知らず、エゴンは答えた。
エゴンは倒れ伏した屍の原の中へしゃがみ込み、頭蓋骨の一つを片手にとってしげしげと眺める。赤い瞳が目線の先で迷路を辿るかのごとく忙しなくアチラコチラへ動きまわっている。
「よく勉強しているようだが、細かい粗が目立つな」
誰に聞かせるでもなくエゴンは呟いた。相変わらず無表情なはずのその顔が、騎士には先ほどの影響か、どこか楽しげに見えた。
「リバーシ(裏返し)という卓上遊戯を知っているか」
「は?」
死骨を品定めする男の口から全く脈絡のない単語が飛び出し、アレクサンダーは何時ぞやのように間の抜けた声を漏らしてしまった。
「8×8の升目に片面が黒、片面が白のコイン状の駒を交互に並べる遊戯だ。縦、横、斜め、同じ色で挟まれた駒はその色に裏返される。黒で挟まれれば黒に、白に挟まれれば白に。盤面を駒が覆い尽くした時、多い色の勝ちだ」
雄弁に語るエゴンにアレクサンダーは胸騒ぎを覚えた。背筋に真っ黒なインクを流しこまれるような悪寒が走る。
「死霊術師同士の戦いは、チェスにリバーシを加えたものに近い」
エゴンは杖を砕け散った骸骨へと近づけた。すると杖の先から青白く小さな火がポッと灯ったかと思えば、それは蒼き焔となって枯れた草むらに火を付けたが如き勢いで屍の原に広がった。
アレクサンダーは目の前の光景に心の臓を鷲掴みにされるような恐怖を覚えた。青白い炎を纏った屍達が震えだす。騎士が斬り倒した躯達が再び立ち上がったのだ。十を越える躯達の全てが緩慢な動きで起き上がる。騎士は悪夢のような情景に全身の血が逆流し、鼓動は早鐘のように鳴り響く。しかし体はつむじからつま先に至るまで、まるで凍りついたように指一本としてぴくりとも動かせはしなかった。
此奴をこのまま好きにさせて良いのか?恐慌しかかった意識を力ずくで引き戻し、まず理性を持って真っ先に浮かんだ思考がそれだ。拘束するのなら今ではないか、いや、いっそ即刻斬るべきなのはこの洞穴の奥底で待つともしれぬ死霊術師よりも、目の前のこの男ではないのか?いや、だがこの男を斬ったところで何になる。私一人で死霊術師を討てるのか、いや、何よりも男に勝てるのか?
幾つもの思考が脳裏を駆け抜けては消えてゆく。しかし結論は出ない。騎士は全ての躯から青い焔が消え、エゴンの前に良く訓練された兵卒のように整列するまで、身動きひとつ取れずに眺めていることしかできなかった。
「支配権は奪いとった。行くぞ」
「……ああ」
騎士は目測で死霊術師と己の間の歩幅を測った。多めに見積もって四歩半。通常ならばやや遠いが、アレクサンダーの踏み込みであれば十分間合いの中だ。行動を共にする間、鎖鎧を着込んでいるような音は聞こえなかった。着ているのがローブだけならば、たやすく胴を割れるだろう。また狙うのが胴でなくとも良い。フードを下ろしてさらけ出された細い首ならば、確実に一刀の元に刎ね飛ばせるだろう。
先手を取れば、だ。
そこまで考えてアレクサンダーは頭を振った。肝心なのはこの男が王国に仇なす存在か否かであり、力無き自分の使命はせめてそれを見定めることだ。最悪の場合でもこの距離ならば刺し違えるくらいはできよう。騎士はそのように結論づけた。四歩半の距離を離さぬよう死霊術師の背を追う。背後のゾンビが持つ松明が揺らめく度に洞窟の奥へ伸びる騎士の影がくねった。
エゴンは背後を騎士に任せて屍の軍勢を押し進めてゆく。やがて二人と死者の群れはドーム状に開けた巨大な広間へ出た。周囲の壁には松明が掛けられ、青白い炎が鬼火のように暗闇の中に浮かんでいる。そのためにある程度周囲の地形が見て取れた。そこはまさに大地下墓地だった。大広間の中心に向かって放射状に無数の石の棺が地面に埋められている。棺はおよそ半数ほどが開いていた。辺に充満するむせ返るような死臭に騎士は息が詰まりそうになる。騎士達が入ってきた丁度向かい側に奥へと進む道が見えた。反対側へは真っすぐ歩いてもかなりの距離がある。
「どう見ても罠にしか見えんぞ、死霊術師」
「俺達が部屋の中心まで来た瞬間に残りの棺が開くな。マナの流れを見ると、杜撰というよりはそもそも隠す気が無いようだ。死霊術師としては良い所二流半だが、ダンジョンマスターとしては工夫している方だな。だが……」
エゴンは探るように杖の先を広間の各所へ差し向ける。騎士は小さく舌打ちをした。
「何が気に入らない」
「手際の割に急拵えの節がある。妙だな。そう長い間を保たせるつもりが無いのか……?」
「ふん、貴様等死霊術師の巣穴が長持ちしてたまるか。そもそもここは今晩で元の墓地に戻すのだ。貴様の結界とやらは今は役に立たないのか?」
「この数の亡者を引き連れていたのでは不可能だ。しかし、俺が亡者を減らすことを見越してこの先に伏兵が置かれていないとも限らん」
「ではどうする」
「このまま進むしかあるまい。上手くすれば手勢も増やせるが……」
エゴンは部屋の中央を注視していた瞳を傍らの騎士へ向けた。
「お前は引き返せ」
「どういうつもりだ」
「想定よりも数が多い。この先お前を守る余裕があるかどうか分からない」
聞くや否やアレクサンダーは兜を脱ぎ捨てエゴンのローブの胸元を両手で掴んで引き寄せた。お互いの鼻先がぶつかりそうな距離までエゴンの顔を手繰り寄せ、若干見下ろすように赤い瞳を睨みつける。厚手のローブを引き千切りそうなほどに握りしめた手は小刻みに震えていた。
「舐めるなよ死霊術師」
アレクサンダーの深緑の瞳は屈辱と怒りに震えていた。切れ長の目尻が釣り上がり、ほとんど三角になっている。
「貴様の言う通り、私は貴様に守られねば死ぬかもしれん。そもそも貴様がいなければ村に辿り着くことさえままならなかったろう。そうだ私は非力だ、それは認めよう。だが断じて私は貴様の庇護を求めるか弱い姫君などではないぞ」
エゴンの顔に噛み付くように捲し立てるアレクサンダーに、エゴンは眩しそうに目を細める。荒い吐息がエゴンの乾いた肌に幾度もぶつかり、ぴりぴりと染みるようだった。
「貴様に事の全てを任せ、ただ座して呆けて帰りを待てと?ふざけるな。非力な私でも最低限、事を見届ける責任がある」
「死ぬぞ」
「だから何だ?それは私の不覚に依るものだ」
「迷惑だと言っている」
「貴様の迷惑なぞ知ったことか。そもそも貴様も死霊術師であろう。ならば、私の死体も使われる前に貴様自身で使えばよい」
エゴンの瞼がぴくりと微かに動いた。
「それならば何も迷惑なぞあるまい。いずれにせよ、貴様が私を守ろうと守るまいと、私はこの目で全てを見届ける」
アレクサンダーは手に込めた力を緩め、エゴンを解放した。エゴンは目を伏せたまま何も答えなかったが、アレクサンダーは片時も目線を外さなかった。逃がしてなるものか、言葉にこそ発さなかったが、揺るぎない瞳がエゴンを縛り付けていた。
「……好きにしろ」
「無論そうさせてもらう」
小さく、ともすれば聞き逃しかねない程に、本当に小さく微かにエゴンは呟いた。アレクサンダーは間髪入れずに力強く返す。この男を一人にしてはならない、騎士は強くそう感じていた。
「手筈通りにやるぞ」
エゴンの言葉に騎士は無言で頷き、剣の柄を握る手に力を込めた。二人がドームの中心まで移動した瞬間、部屋中で重く硬い何かを引きずるような音が響き始める。それは内からこじ開けられる石の柩の音だ。死霊術に呪われた無数の骸達が中から這い出してくる。不思議とアレクサンダーはその光景を恐ろしいと思う前にひどく悲しく感じた。
二人の周囲をスケルトンとゾンビが円陣を組んで防護する。アレクサンダーはエゴンと背中合わせになり陣を突破してきた場合に備える。亡者たちは先程のような燐光は帯びず、動きも鈍いものだった。エゴンの言葉では数が増えるほど扱いは困難になり、複雑な命令は出せなくなるらしい。特にエゴンの視界の外、または別の呪文を唱えている最中となると初めに与えた命令のもとに 亡者自体に任せて動かすより他に無いという話だ。正しく兵の運用と同様だと、説明を受けたアレクサンダーはかえって納得した。
四方八方から死者の群れが押し寄せる。二人を守る亡者たちは各々懸命に武器を振るうが、一体二体と倒れてゆき、その度に円陣は小さくなってゆく。時折すり抜けてくる死者が二人目掛けてウジの湧いた口を大きく開いて襲いかかるが、騎士の剣は指一本触れさせることなく切り伏せる。その間もエゴンは片時も休まずに何事かの呪文を唱え続けていた。黒杖を握る手を胸元に寄せ、杖の先は天井に向けている。両の瞼は閉じられ、俯きがちの額が針のような杖の先にくっつきそうだった。
時間が経つほどに円陣は確実に狭まっていた。無論敵方の亡者も相応に道連れにしてはいたが、依然として倍以上の数の開きがあった。そろそろ騎士も中で剣を振るうのが難しくなり、焦れ始める。これ以上狭まってくると陣の中心で呪文を唱え続ける死霊術師を守りきれなくなる。事前の打合わせにはなかったが、陣の外に出て敵を蹴散らすべきか。アレクサンダーにも奥の手はある。携帯用革袋の中に入ったガラスの小瓶だ。小瓶は毒々しい紫の薬液で満たされている。それは一口飲めば全身に普段の何倍もの膂力が漲る秘薬、気の利く友人のくれたストロー付きである。以前アレクサンダーが試し飲みした時は、フルプレートアーマーを着たまま軽々と宙返りができた。ただし効果が切れた後の疲労は数十倍。薬をくれた友人が止める声も聞かずに全身鎧のまま大喜びで後方かかえ込み2回宙返り3回ひねりを決めた後、半月ほどベッドの上から動けなかった。友人は身動きが取れず呻き声を上げるアレクサンダーへ半月の間看病と小言を続け「立て続けに二回飲んだら死ぬからね」と何度も念を押した。騎士に薬学の知識はないが友人の話では狂戦士の秘薬と呼ばれるらしい。昨晩は愛馬に積んだ荷の中に収められていたために使う暇がなかったが今ならすぐに飲める。一口飲めば亡者風情、物の数ではない。とはいえ、その後は完全に身動きが取れなくなるためにエゴンの後を追うのは不可能だ。
騎士が逡巡した数瞬、並んで防衛するスケルトンの首が2体同時に砕かれ円陣の一部が大きく崩れた。その間を詰める前に3体のゾンビが陣の中へ乗り込んでくる。アレクサンダーは咄嗟に端の亡者に猛烈な体当たりをぶちかまし、3体まとめて陣の外に弾き飛ばした。直ちに砕かれたスケルトンの代わりに陣の穴を埋め、応戦する。騎士が穴を埋めることで陣の崩壊は辛うじて免れたが、これで死霊術師を直接守る者はいない。総崩れを僅かに先延ばしたに過ぎなかった。かくなる上は致し方あるまいと腰の皮袋に手を伸ばしたその時だった。
「“決して満たされてはいないだろう”“飢え渇き死して尚もお前達は求めているだろう”“ならば我は約束しよう”“より強き鎖でお前達を縛ろう”“より輝かしき明かりで示そう”“より深き眠りを約束しよう”“我こそ主”」
「“我を畏れよ”“ドミネイト・アンデッド”」
エゴンは天井へ向けていた杖の先を地面へ突き立てる。その一点から黒い閃光が圧力を伴って辺りへ放たれた。光はドーム上の部屋全体を黒々と照らす。光を浴びた死者達は一様に時を止めたように硬直し、しばらくしてだらりと両手を下ろした。騎士も光を浴びた際の衝撃で一瞬よろめき慌てて体勢を立て直したが、死者達が戦いを止めている事に気付く。
全ての死者達が静止し洞窟内が静寂に満たされると、黒い光は消え去り洞窟内は青白い灯火が照らすばかりとなった。
「権限の書き換えが間に合った。お前のおかげだ」
アレクサンダーはエゴンが小さくため息を漏らしたのを見た。この男でも緊張するのだな、そう思うと急に目の前の男が生きた人間らしく見えた。
エゴンは再び呪文を唱え始め、洞窟の入り口付近でやって見せたように青白い焔を放って倒れ付した死者達を再び立ち上がらせた。その数は優に百を超える。騎士はずらりと並ぶ死者の群れを眺め、哀しさと恐ろしさ、そして頼もしさの入り混じった居心地の悪い感情を抱いていた。
おそらく洞窟の主はこの大広間でけりを付ける腹積もりだったのかもしれない。それ以降の部屋には墓地の広間以上の死者はいなかった。その全てを従えたエゴンはもはや亡者達個々の実力など歯牙にもかけず、圧倒的な数の暴力で蹂躙してゆく。エゴンの軍勢は新たな敵とぶつかるたびにそれを飲み込んで膨れ上がり、真っ黒な濁流となって全てを押し流すように洞窟の奥へ進んでいった。
破竹の勢いで突き進む軍勢が突如凍りついたように停止した。疑問に思った騎士がエゴンの横顔を見ると、赤い瞳は死者の壁の向こうを睨みつけている。エゴンが杖を振るうと躯の津波が割れるように左右へ分かれた。エゴンと騎士の前にゾンビとスケルトンの並木道が開ける。その奥に巨大な祭壇と、山積みの死体があった。それらの死体はまだ真新しく、朽ち果ててはいない。祭壇の上は四隅に篝火が焚かれ、闇の中に浮かび上がるように明るい。祭壇の中心には戸板ほどの広さ、腰ほどの高さの台があり、古びた黒いローブを着た白髪の老人が背を向けて立っていた。台の上には小柄な素裸の体が横たわっており、老人の影になって見えないが、その背の向こう側で恐ろしく凄惨な光景が繰り広げられていることは容易に想像できる。
粘ついた何かをかき回すような音が聞こえてくるのだ。
横たえられた遺体がお下げを結っていることに気付いた騎士は、一瞬目の前が真っ赤になった。だが次の瞬間、アレクサンダーはエゴンの操る死者達に全身を押さえ込まれていた。両手両足、胴回りに絡みつくようにして死者達が抱きついている。薄暗い洞窟の中に誰かの声が反響している。それは騎士の絶叫の木霊だった。騎士は少女の遺体を陵辱する死霊術師に激昂し、我を忘れて斬りかかろうとしたところをエゴンに取り押さえられたのだった。
アレクサンダーがエゴンと視線を交わし「すまない」と一言呟くと、エゴンは騎士を開放した。
「静かにしてくれたまえ。若い生娘の肉に触れるのは久方ぶりでね。せっかくの腑分けの喜びを邪魔しないで欲しい」
やけに落ち着いた老人のしわがれ声を聞いたアレクサンダーは胸の奥で再び炎が燃え上がるのを感じたが、再び取り乱しはしなかった。代わりに射殺すような視線を黒いローブの背に向ける。
「あの墓地を抜けてきたのは驚きだよ。そればかりか、私の城の兵とマナを奪い取るとはね。君の同伴は全く予定外だが、数少ない同輩と語らうのも悪くはない」
老人はこちらを振り向かず、両手の動きを止めずにおぞましい作業を続けている。
「貴様が村を襲った死霊術師か!!」
「見たまえこの瑞々しい臓腑を。美しい、溜息が出るほどだ。人体は神秘そのものだ。そうは思わんかね、君」
こちらを振り向いた老人は切り取った心臓を片手に持ち上げ、青白い顔に恍惚とした表情を浮かべていた。木枝のように細い腕と節くれ立った指先が鮮血に濡れ、赤々と燃える松明の明かりを受けて油っぽく光る。
アレクサンダーは再び今すぐ目の前の悪魔を切り殺してしまいたいという猛烈な衝動に駆られた。だが寸前でそれを押し止め、顎の骨を軋ませるようにきつく奥歯を噛み、痛いほど剣の柄を握り締めた。
「アレクサンダー」
不意に名前を呼ばれた騎士は驚いて傍らの男を見た。
「考えがある、聞いてくれ」
エゴンはアレクサンダーの耳元へ顔を寄せ、酷く冷たい吐息と共に何事かを囁いた。
「やれるか」
エゴンの瞳は騎士をその中心に捕らえ微動だにしない。焦燥も懇願も疑念さえない、ただ静かに騎士の是非の回答を待っている、そんな瞳だった。
アレクサンダーもまた視線を揺るがすことは無かった。二人の視線はぶつかり、互いを受け止め、固く結んだ。決して長くはなかったが、十分な時間だった。アレクサンダーが口を開く前に既にお互いに答えは分かっていた。
「私は貴様の死霊術師としての技量を信じよう」
アレクサンダーは祭壇の上に立つ惨劇の元凶に向かって剣を握り締め正眼に構えた。
「後は貴様が私を信じるか否かだ」
サッとカーテンを引くように二人の周囲をスケルトン達が取り巻いた。骸骨達は互いに絡み合うように肩を組み、何重もの白骨の壁となって二人と祭壇の上の死霊術師の間に立ち塞がった。そしていつの間に隊列を組み替えていたのか、その壁の前にはゾンビの一群がスケルトン達の武具を手に取り構えていた。次にエゴンが杖を高く天井に向けて突き出すとその杖を中心に灰色の煙が集い始め、急速に巨大な渦を成してゆく。エゴンが杖を振るうと灰色の渦は前方へ流れ込みゾンビ達を包み込んだ。煙はゾンビ一体一体の体を服のように覆い、目元だけがうっすらと開かれている。
「どうあっても私の研究を邪魔するつもりかね。良かろう。その騎士の魂を回収するついでだ。術比べと行こうじゃないか」
白髪の老人が片手に掲げた心臓を強く握り締める。その手に赤黒く揺らめく光が宿り、心臓は血を吹き零しながら痙攣し次第に小さくなってゆく。反して一際光が大きくなった瞬間、老人は心臓を丸呑みにした。口の端からどす黒い血の塊を零しながら引きつる様な笑みを浮かべ、懐からこぶし大程の大きさの紫色の水晶球を取り出す。忌まわしい呪文を水晶球へ吹き込むように唱えると、水晶球の中心から青白い輝きが放たれる。老人はその光を積み上げられた死体へかざすと、村人たちの死体が空ろな目で一斉に起き上がった。
乱戦が始まった。
一件の元凶、死霊術師の老人は自らが殺めた村人達を操りけしかける。かたやアレクサンダーの隣の若き死霊術師は古代の墓地の亡骸を蘇らせ、白骨を城壁、腐肉を兵としてそれに応戦する。白い靄に包まれた幽鬼の如き様相のゾンビ達は一転して機敏な動きで武器を振るうが、それにも増して老人の操る村人の亡骸は震えるほど強かった。彼らは全身の筋肉が2倍、3倍にも膨れ上がり、丸太のような手足でゾンビ達を粘土細工か何かのように叩き潰す。数は圧倒的にエゴンの側が勝っていたが、見る見る内にその優位を詰められてゆく。
「どうしたのかね、若き同輩よ!私から奪った骸共に瘴気の鎧を纏わせたは良いが、動きが鈍いぞ。まるで我が下僕に及ばないではないか!」
年老いた死霊術師は祭壇の上で背をのけぞらせ体をくの字に曲げながら、しわがれた甲高い笑い声を上げる。
「そら!もう一体だ!数限りある貴様の兵が次々失われてゆくぞ!」
醜悪なる怪物へと変貌させられた犠牲者達が、エゴンの操る亡者達を一体、また一体と土へ還してゆく。しかし、エゴンは動じない。アレクサンダーも来るべきその瞬間に備え全身に緊張を漲らせているが、その鋭い瞳と切っ先は微塵も怯みはしなかった。
「お前はダンジョンマスターとしては一流だ。戦術を心得ている」
エゴンは黒杖を地面へ向ける。杖の先端から薄くまとわり付くように琥珀色の燐光が滲み出す。
「だが、死霊術師としては下の下だ」
老人の青白い肌に朱が差し、ねじれる。顔のいたる所に刻まれた深いしわを凄まじい形相に歪める。
「死霊術は命脈に手を加える術法。万物の流転を手繰る魔術の中にあって最も本質的なもの。死霊術に精通する者は全ての術に通じる」
エゴンはゆったりと円を描くように杖を持つ手首を捻る。杖の先から漏れ出した琥珀色の光が宙に軌跡を描く。
「教えてやろう、老いさらばえてなお未熟な浅学菲才の術者よ。この世で最も多くの死が眠り、生が目覚める命の原形質。そこもまた死霊術の支配する領域であるということを」
エゴンとアレクサンダーの周囲には、やはり円を描くようにスケルトンの骨が散らばっていた。暗がりであったため傍目には乱雑に撒かれたようにしか見えないが、目を凝らせば細かな骨のつながりが複雑な文様と文字を形作っているのが分かっただろう。
「貴様如き若造が私を愚弄するか!」
老人は黄ばんだ犬歯を剥き出し、口の端から泡を吹き零しながらエゴンへ向かって怒号を飛ばす。
だが、激昂する老人をよそにエゴンは既に最後の手順に移っていた。視線は杖の先、自らを取り巻く骨片が描く魔方陣の中心だ。杖の先端から地面へ滴り落ちる光は鮮やかな夕日色へと変化し、それを見つめながら厳かに唱え始める。
「“聞こえている筈だ”“感じている筈だ”“夢無き安寧を妨げるその喧騒を”“冒涜者達への怒りを”“汝等に仮初の名を与えよう”“それは全能の神にも抗った偉大なる者達の名”“汝等に泡沫の形を授けよう”“それは大きく力強い人の似姿”“汝等の一時の名と形を支配する主エゴン・ヒューエに従え”」
「“現れ出でよティタン”“クリエイト・ゴーレム”」
エゴンが結びの言葉を発した瞬間、骨片の魔法陣が鮮烈な輝きを放つ。閃光と共にエゴンとアレクサンダーの足元の土が大きく盛り上がった。巨大な隆起は二人を持ち上げ、洞窟の天井スレスレまで膨れ上がり、巨大な人の上半身の形を成した。左肩にエゴンを乗せ、右手の平にアレクサンダーを乗せる。口も鼻も無い顔が両目に琥珀色の光を発した。
老人は一瞬怯んだ。無理も無い。先ほどまでは自らが怪物へと変貌させた村人を操り、大人が子供をあしらう様に若造の繰り出すのゾンビ達を排除していった。だが新たに現れた敵は正しく巨人だ。大人と子供どころの差ではない。
しかし目敏い老人は若造が呼び出したゴーレムが、巨大ではあるが端から少しずつ崩れてゆくことに気付いた。安定していない。ゴーレムを構築するマナが不足しているのだ。
老人は俄然、気勢を取り戻す。
「身の程を知らぬ若造め、不遜の報いを受けるがいい」
安定していない今であれば決して恐れる相手ではない。若造の急ごしらえの白骨の城壁ももはや陥落寸前だ。老人は相手に次の一手を打たせる間を与えるのは危険だと感じた。若輩とは言え、他にどんな隠し玉を持っているか分からない。
老いた死霊術師はエゴンのゴーレムが暴れだす前にそれを破壊せんと攻撃の手を激化させる。いまや、台座に横たわる少女の遺体を除いた全ての村人の亡骸が蠢く怪物と化し、スケルトンの壁の最後の一枚まで迫っていた。
そう、老人の全ての戦力が手元を離れていた。
エゴンの呼び出したゴーレムはそれ一個が強大な攻城兵器である。だがそれは城壁を穿つバリスタでも破壊槌でもなく、燃え盛る憤怒の炎を秘めた銀の砲弾を投げ入れるカタパルトだったのだ。
騎士は大の字に寝そべられる程の大きな手の平で身を屈めた。ゴーレムは騎士を潰さぬようゆっくりと指先を包むと、その巨体を窮屈そうに体を捻った。
そして、一投。
猛烈な突風さえ巻き起こした豪腕の一振りから祭壇目掛けて白銀の弾丸が放たれる。剣を携えた騎士はマントをはためかせ、乱戦を続ける怪物達の遥か頭上を飛び越えてゆく。飛来の刹那、騎士は猫のように身を翻して姿勢を反転すると、洞窟の最奥、祭壇の真後ろの壁面に見事に両足から着地した。そこは天井近く、祭壇へは人二人分程の高さだ。並外れて強靭な脚力はゴーレムに投げ飛ばされた豪速による衝撃をバネのように受け止め、三角飛びの要領で祭壇の中心に向かってその身を蹴り出した。速度は殺さず鋭い角度を伴って、老人の頭上から白い影が猛然と襲い掛かる。驚愕に目を見開く年老いた死霊術師の胴へ白刃が走った。
一閃。
赤い飛沫が宙を舞う。
祭壇への着地の際、勢い余った騎士は祭壇の端まで滑った。祭壇から転がり落ちまいと床を踏みしめる騎士のブーツが石畳を砕き、削って、破片を跳ね飛ばしながら鼓膜を突き刺すような激しい金属音を洞窟内に響かせる。
――浅い!アレクサンダーは小さく舌打ちした。予想に反して剣を振り切った際の手応えは軽く弱く、全く胴の両断を確信させる物ではなかった。騎士はすぐさま祭壇の中心に向き直る。そこには左腕を肩口から失い、鮮血を辺りに散らしながらうずくまって呻き声を上げる老人の姿があった。老人は咄嗟に身をかわした、と言うよりは恐怖のあまり反射的に身を縮こませたのである。猛烈な速度と空中での無理な姿勢の中にあった騎士の剣はその動きを追い切れず、胴を狙った切っ先は左腕を刎ね飛ばすに留まったのだった。
しかし覆された形成は変わらない。擦り切れたローブだけを纏った枯れ木のような老人を守る者は無く、その命運はまさに風前の灯のように見えた。
だが、騎士がとどめの一撃を加えんと間合いを詰めたその時、老人はあくまで生にしがみ付こうと最後の足掻きに出た。
騎士が間合いの中に老人を捕らえ剣を振り上げた瞬間、矢庭に祭壇の台座から伸びた手が騎士の喉下に爪を立てた。完全に不意を突かれた騎士は恐ろしいほどの力で首を絞められる。騎士は息を塞がれたが、構わずその手を切り落とそうとした。
しかしアレクサンダーには出来なかった。
アレクサンダーを絞め殺そうと手を伸ばした遺体は、やはりあの少女の物だった。無論それはもはや死霊術師に操られる怪物であり、少女そのものでは無い。クマのぬいぐるみを抱え、あどけなく笑う少女ではないのだ。そんなことはアレクサンダーにも分かっている。焦点の合わない空ろな眼、端から涎を零すだらしなく半開きになった口、何より無残に切り開かれ骨と臓物をさらけ出された胸元。それらを目の当たりにすれば、認めたくなかろうともそこに魂は無い事など嫌と言うほど分からされる。だが、それでもアレクサンダーには面影を残す亡骸に剣を振り下ろすことが出来なかった。
呼吸を失ったアレクサンダー肉体が酸素を求め悲鳴を上げる。四肢から力が抜け落ち、剣を床に取り落とす。騎士の指先は首を掴む少女の手を解こうと自分の喉ごと掻き毟ったが、喉を絞める力は微塵も緩みはしなかった。アレクサンダーの目に大粒の涙が浮かぶ。幾つも幾つも溢れるそれは瞬く間に目じりから零れ落ち、アレクサンダーの頬を濡らして直乾かず顎を伝って滴り落ちる。
どうしようもなく腹が立った。目の前で下卑た笑みを浮かべる元凶に。惨劇を防げず、報いを受けさせることすら叶わぬ弱い自分に。
どうしようもなく胸が締め付けられた。目の前で自分を縊り殺さんとする少女の亡骸に。死して尚弄ばれる村人達に。
幾つもの感情がない交ぜになったアレクサンダーはもはや自分が何のために、誰のために泣いているのかも分からなくなった。ただ霞がかかり始めた頭にもハッキリしていることは、もうすぐ自分は死ぬのだろうという、ただそれだけだった。
だが、出し抜けに首を絞める力が緩んだ。潰れたストローほどの隙間だけ気道が開放される。途端に咳き込むようにアレクサンダーは息を吹き返す。老人の泳ぐ視線には混乱と当惑、そして微かに怯えの色が見えた。
アレクサンダーは視線を入り口側、エゴンとゴーレムの方へと向けた。既に確信に近かった。今までも何度もあった様に、状況が動く何かが起こったとすれば、それは奴が何かをしたのだ。
騎士は見た。ゴーレムの肩に乗り杖を差し向ける死霊術師と、その真横で杖に並べるようにこちらを指差す青白い影を。
その影はお下げを結っていた。花柄のケープを羽織っていた。その顔は騎士の首を締め上げている亡骸と同じ物だった。青白い影は硬く真一文字に結んでいた口を大きく開き、音無き声で叫ぶ。
――返せ、村の皆を返せ、私の体を返せ、パパとママを帰せ!!――
叫びが響いた瞬間アレクサンダーの首を掴んでいた腕が力を失い、騎士はその手を引き剥がす。落とした自らの剣を引っ掴み、一足飛びに死霊術師の真横へ回り込む。回り込みの動作と同時に騎士は剣を横に振り被っていた。
そして横薙ぎに一閃、死霊術師の胴を真っ二つに斬り飛ばす。舞い散る鮮血と共に断末魔の絶叫が木霊した。最期の表情は見なかった。見ようとさえ思わなかった。ただ、この一件の全てを終わらせたかった。
胴が石畳に落ちる音が聞こえた。
アレクサンダーは割れた石畳に血塗れの剣を杖のように付き立て、両手で柄にしがみ付いて荒々しく肩で息をする。傍らには二つに泣き別れした胴体が転がっているが、もはや顔を上げて生死を確かめる余裕さえ無い。尋常に考えれば必殺の一撃だ。だが、死霊術師は時として自らの生死すら操ると聞く。起き上がってくれるな、精も根も尽き果てたアレクサンダーは祈るばかりだった。
突如、地に伏せたアレクサンダーの視界の端に泥に塗れた灰色のローブの裾が入り込む。反射的にそちらを見上げようとしたが、体が付いていかず視界は相手の腰元に留まった。疲労に鈍った頭は腰に巻いた皮のベルトと、吊り下げられた黒い杖を見て漸くエゴンだと気付く。
エゴンはしゃがみ込み、老いさらばえた同業者の遺体を検める。恐ろしい叫びを発した口元に手を当て、鼓動を止めた節くれ立って青白い欠陥に指を当て、あらん限りに見開かれた瞼を指先で更に開いて覗き込む。
「死んでいるな。マナの流れも停止している」
アレクサンダーはいつかのように腰を落としかけたが、あらん限りの力を両足に込めて踏み止まる。息を整えて面を上げると、そこには自らの亡骸に寄り添う少女の影があった。
少女は透き通った青白い手の平で自らの遺体の頬を撫ぜ、騎士を仰ぎ見た。儚げな笑みを浮かべ、ぺこりとお辞儀をした。
――ありがとう――
少女は微笑んだのみで口を開かなかったが、アレクサンダーの耳には確かにそう聞こえた。だが、言葉を返す間も無く少女の影は煙のように消えてしまう。そしてそれが最期の別れである事がアレクサンダーにも分かった。
「すまない……」
騎士は膝を付いた。
「すまない……すまない……すまない……!」
アレクサンダーはもはや魂無き少女の亡骸を抱きしめる。
「私は間に合わなかった!貴方達を救うことが叶わなかった!力が、足りなかった……!」
彼女は大粒の涙を滝のように零す。汗と泥と返り血で焦げ茶の斑模様を作ったアレクサンダーの頬を洗い流すかのように幾筋もの涙の川が這う。
全身に硬く冷たい氷のような少女の体を感じながら、その小さな体を真っ赤に染まった両手できつく抱きしめながら、頬を伝う雫で少女の顔を濡らしながら、何度も何度も懺悔の言葉を紡いだ 。
「すまない……!すまない……!すまない……!」
エゴンはやはりいつかのように、アレクサンダーの傍でじっとそれを見つめていた。
慰めの言葉を掛けるでもなく、彼女に寄り添うでもなく、ただ静かに待っていた。