第十一章『王都へ』
「おはよう!」
道行く人と挨拶を交わしながら、バケツ兜の騎士は闊歩する。今日も交易都市は賑やかで、往来の人々はみな晴れやかだ。
あの朝、満身創痍の二人は辛うじて無事だった馬車引き用の馬を発見し半壊した砦から脱出した。
二人が数々の証拠を持ち帰ってからは呆気無いほどとんとん拍子に事が運んだ。
領主と先代領主を殺害した死霊術師は騎士アレクサンダーによって退治された。死霊術師と結託し領地の村々を亡者に襲わせ、それを隠蔽した騎士団長は絞首刑となる。
大まかな筋書きはそのような運びとなった。王都から派遣された役人数名によって一件はヒルダの手を離れ、彼女は口止め料を多めに含んだ報奨金と休暇を貰い受けた。彼女は報奨金の全てをエゴンに渡そうとしたが彼が頑なに固辞したため、半分だけこっそりトム少年に手渡しておいた。
ヒルダは古びたあばら家の前で兜を脱ぎ、木戸をノックする。聞き慣れた軽い足音と共に錆びた蝶番を鳴らしながら戸が開いた。
「いらっしゃい!」
「やあトム」
ヒルダはここ数日足繁くエゴンの家を訪ねていた。疲労と出血、秘薬の反動によりエゴンは体を起こすこともままならない有様であったが、トムとヒルダの献身的な看護の甲斐あって快方に向かっていた。彼女は手馴れた動作でマントを壁にかけ、ベッドの傍の真新しい椅子に腰掛けた。ベッドの上にはしみ一つ無い上等なマットレスと柔らかな毛布がかけられ、あばら家の主はその中でじっとしている。椅子も毛布もヒルダが持ち込んだものだ。
「具合はどうだ」
「良くなり過ぎた様な気もする」
彼女はウワッハッハと大きく笑い、果物が入ったかごをトムに手渡した。トムは戸棚から小ぶりのナイフを取り出して果物を剥き始めた。戸棚の中には3人分のコップや皿が並んでいる。これも彼女が持ち込んだものだ。
「……ここ最近お前に侵略されている気がするんだが」
「ほう、それはいいな。ならばここを騎士アレクサンダーの拠点として隅々まで征服してしまおうか」
「冗談に聞こえないよヒルダ」
トムは切り分けたリンゴを皿に並べて盛ってきた。ヒルダは一つ摘むとエゴンの口元へと運ぶ。
「そら、口を開けてくれ」
「……俺はひな鳥じゃないぞ」
エゴンは皿へ手を伸ばそうとするがヒルダはひょいと皿を上へ持ち上げた。目を細めて心底嬉しそうに笑う。
「観念しろ、エゴン殿」
彼は眉をしかめながらも渋々と口を開いた。ヒルダは彼の口の中へリンゴを入れ、彼が顎を動かすのを満足げに眺める。トムは含みのある顔でため息をつき、足の長い椅子から飛び降りた。
「そうそう。僕、親父さんに兄貴の様子を伝えるように言われてたんだった。ちょっと行ってくるけど、ヒルダ、兄貴を見ててもらえる?」
「お安い御用だ」
「ありがとう!行ってくるね。帰りにパンとシチューを買ってくるからヒルダも食べていって」
少年は肩掛け鞄を掴んで軽やかな足取りで家を出て行った。パタパタと小さな足音が遠ざかっていく。
「……どうやら、あの子に気を遣われてしまったかな」
彼はリンゴを咀嚼しながらむっつりと黙りこくっていた。
「なあ、アレクサンダー」
「うむ?」
「こんなに頻繁に来て、騎士団の方は大丈夫なのか?」
「ああ、休暇はまだ残っているし、それに……」
彼女は黙り、言葉を捜すように窓の外を見た。窓からは穏やかな午後の日差しが差し込み、古びたマットの端を白く染めている。
「……エゴン殿、あの少女は……ハンナ殿は、やはり領主閣下を蘇らせるつもりだったのだろうか」
「おそらくはな。だが何故そんな話を?」
「いや、な……その……」
言いよどんだ彼女はそのまま俯く。
「すっきりとしない、それだけなのだ。初めに相対した老人は……まだ分かる気がする。しかし、ハンナ殿のような少女があれほどの技を身に付けられる程、死霊術とは容易くはあるまい。それに彼女が持っていた杖はまるで……」
「あの娘で五人目だ」
彼女は面を上げた。エゴンは深く澄んだ赤い瞳で、彼女を見つめていた。彼は静かに語り始めた。
「俺と同じこの『グリムの黒杖』を持つ死霊術師を滅ぼしたのは、あの娘で五人目になる。奴は、グリムは目星を付けた者に死霊術を極める動機と杖を与えるのだ。死者蘇生、不老不死、或いは復讐……いずれにせよその資質を引き出すのに最適な動機を選び、道標を残す。それは瞬く間にグリムの弟子達を熟練の死霊術師へと変えてしまう。あの娘の前にも奴が現れたのだろう。ちょうど領主が娘の前で死んだその瞬間に。奴自身が手にかけたのか、あの娘を仕向けたのか、それは分からん。だがこう言った筈だ。『この男を生き返らせたいかね?』とな」
「……惨い話だ」
「ああ、そうだな。皆そうだった」
「……しかし、それでも貴公は討ち滅ぼしてきた」
「ああ」
二人の淡々とした声が古びた部屋の中で物悲しく響いた。
「貴公は……お父上を生き返らせたいと思ったことは無いのか?」
「ある。しかしそれを思い切るには少し時間が経ち過ぎたし、少々知りすぎた。俺には出来ないし、これから行う予定もない」
「貴公は賢明なのだな」
「それは違う」
反論を許さぬ強い口調だった。ヒルダは綻びかけた口の端を掴まれた様に顔を強張らせた。
「前にも言ったが、恋人や親友を失った直後、その誘惑に勝てる者は少ない。俺も例外ではないだろう。俺はあの娘よりも賢かった訳でも強かったわけでもない。ただ順序が違っただけだ。今は既に技術的に不可能であることが分かっている。だがもし、誰かを亡くした直後、目の前に方法があったとするならば……俺は必ず手を伸ばしてしまうだろう。どんな犠牲を払ってでも」
「それは無辜の命を奪ってでもか?」
「ああ、可能性はある。誰にでも……いや、その方法に通じる俺は誰よりも危険だろうな」
「……そうか」
空を薄雲がゆっくりと渡る。日は遮られ、部屋の中に静かな影を下ろした。
ヒルダはエゴンを見つめる。彼の乾いた肌の上には歴戦の傷跡が幾筋も残っていた。ヒルダの血豆だらけの勇ましい手の平とは違う、ただひたすらに痛ましい傷跡だった。その傷の内、一体どれが自分で付けた物なのだろう。そしてそれはこれから幾つ増えるのだろう。何より彼の胸の内は、これまでどれほど凄惨な物を刻みつけ、これから刻まなければならないのだろう。
「……痛いな」
「どうした」
「痛いのだ。貴公の傷跡を見ると、我が身を抉られるように痛い……」
エゴンはとっさに毛布で己の体を覆った。
「すまない。嫌なものを見せたか」
「いや、何も貴公が謝ることはないぞ。私の勝手な感想だ。だがな……」
ヒルダは毛布の中に手を差し入れ、彼の手を取った。優しく、だがその形を確かめるようにしっかりと両手で包み込む。
「私はその傷の理由の全てを知っているわけではない。そしてこれから貴公が負うかもしれぬ傷の理由の全てに関わって良いのかも分からない。だがそれでも……それでもだ」
「……」
「その傷を一つでも減らしたいと思うのは……私の傲慢だろうか」
ヒルダの手の中で細い指先が震えた。エゴンは反射的に手を引っ込めようとしたが、豆だらけとは思えぬほど柔らかく握る彼女の手がそれを引き留めた。彼女の微笑みは穏やかで、美しかった。
「それは、そんな……そんなことは……ない。僕は……君の優しさも責任感も知っている」
「私も、貴公が心優しい人であることを知っている。なあエゴン殿。貴公は自身を危険と言ったな。欲望にあらがえる者が少ないとも」
ヒルダはエゴンの手を強く握りしめた。彼女の煌めく碧眼の縁で睫毛が揺れる。
「ならば、その時は私が貴公を止めてみせよう。案ずるな。私は決して貴公をあの老人や、ハンナ殿や、グリムのようにはさせない」
「……ヒルダ…………」
「必ず貴公を引き止めてみせる。ヒルデガルド・アレクサンダーの名に誓おう、エゴン殿」
毛布の中で痩せこけた手が握り返す。二人はいつまでもそのままお互いの手を握って離さなかった。
いつしか窓から差し込む日の光は明かりを取り戻し、午後のそよ風が壁に並んだ二つのマントを揺らしていた。
夜明けの冷たい風が駅馬車の待合所を駆け抜けた。一人佇む死霊術師は自身の名を呼ぶ声に振り向いた。昇る朝日を背にバケツ兜の騎士が駆け足でやってくる。
「すまない!待たせたか」
「いや、良きものの訪れを待つ時間は快いものだ」
エゴンは微笑を浮かべ、ヒルダは兜の内で頬を染めた。
「しかし、本当に騎士団を辞めてしまって良かったのか?」
「何、一時的に席を外しただけだ。流石に閣下の使いに直に来られてしまってはな……」
彼女は封蝋が押された豪奢な便箋をヒラヒラと風に揺らす。
「散々無視し続けてきたツケがとうとうやってきたというわけだ。どうやら閣下は今回の件の殆どを良く御存知だぞ。読んで見せようか」
『ヒルダよ。此度のバーナード伯の件、実に軽薄そのものであり誠許し難い。されどその功もこれまた認めざるを得ず、よって報償と共にリバードーン騎士団の籍を一時取り下ろすものとする。ひいては詳細の報告のため至急王都へ来たれ。また必ず件のエゴン・ヒューエなる人物を連れてくること』
「驚いたとも。私は貴公の名など何処へも出していないのにな。山猫亭のご主人も同様であろう。ちなみにこの前後に小言がズラズラ並んでいる。大層御立腹のようだ」
ヒルダは腰に手を当て、うわっはっはと大きく笑う。
「お前が公爵の娘だと聞いた俺の方こそ驚いた」
「はっはっは、何を言う。森で貴公に出くわした私の比ではないぞ。しかしまあ、所詮私は庶子だ。少なくとも私に対して身構える必要など無い」
二人の話し声が響く待合所に蹄と車輪の木霊が聞こえてきた。目を凝らせば朝靄の向こうに四頭引きの大きな幌馬車が見えてくる。
続々と乗客が列をなして乗り込んでゆく。ヒルダはエゴンの先に立って乗り込むと彼へ向かって手を差し出した。
「さあ、エゴン殿」
彼は無言でその手を掴む。彼は行く手の目映い朝日の中に一筋の黒い影が射すのを感じていた。それは彼自身なのか、それとも彼が追いかけるものなのか、今の彼には分からない。しかしそれが目の前の美しく優しい人を刺す前にこの手は離さなければならない事は分かっていた。
何故なら死霊術師エゴン・ヒューエが真に道を踏み外すのは、この手が力無く倒れ墜ちたとき、再び手に取ろうとするその時に他ならないのだろうから。
「貴公は軽いな」
「お前の力が強いのだ、アレクサンダー」
「……水臭いぞ。もう名前で呼んでくれても良かろう」
彼は応えず、曖昧な微笑を浮かべていた。




