第十章『死霊術師エゴン・ヒューエ』
エゴンは骸骨の兵を引き連れて進む。
エゴン・ヒューエは今更言うまでもなく死霊術師の一人である。しかし同じ亡者を操る身でありながら彼の心は敵意で満ちていた。憤怒と憎悪で煮えたぎる血潮が全身を駆け巡っていた。
アレクサンダーには敢えて多くを語らなかった。
しかし研究室の記録には、この砦の主が為した凄惨極まる凶事の数々が記されていた。犠牲者はもはや数えきれず、己の悲願成就のためにおぞましさの限りを尽くしていた。
老人の屍に息子と孫の肉を食らわせていた。青年の四肢を端からナメクジが這うような緩慢さで腐肉へ変えていき、青年が絶叫を上げ腐敗が脳に及んで人の心が崩壊するまでの推移を記録していた。子供をつむじから股まで真っ二つに裂き、痙攣する子供の『断面』にマナと瘴気を送り込んで生かしていた。妊婦の腹に呪いをかけ、化け物に変貌した赤子に腹を食い破らせた。そしてその赤子の頭蓋を砕き生きたままその脳を引きずり出し、細かく擦り潰しながら破壊されていく機能をつぶさに観察していた。
どれだけ壊しても生かしていられるか。それを屍の山を作りながら繰り返していた。
彼とて己に正義がある等とは露ほども思ってはいない。彼もまた死者の安寧を妨げ奴隷としているのである。例え使役の後で如何に手厚く葬ったとしても、それは免罪符とはならない。
しかし怨念の呪鎖で身を縛り、墓場の臭気を纏い、死者の妄執を引きずろうとも罪業の道を歩む足を休めはしない。その先に滅ぼすべき者どもが見えているからだ。今この目前に迫る敵も、己の後に追縋る骸の列に加えてやる。
エゴン・ヒューエは父と故郷を失ったあの日から、激情が突き動かすがまま死霊術の一切を焼き滅ぼし、灰の舞い散る焦土の果てで引き連れた葬列諸共に燃えて尽きることを望んでいた。
彼の視界には既に一際大きく蠢く赤黒い光の群が映っていた。彼はただそこを目指すだけで良かった。
待ち受ける砦の主は何を犠牲にしようと取り戻したいものがあるのだろう。そして彼も砦の主が何を理由にしようと許すつもりはなかった。
近付くに従って光は次第に強く大きくなってゆく。死したメイド達に加えて殺意と悪意に満ちた手勢が待ち受けていることは想像に難くない。しかしエゴンは迷い無く、躊躇無く、地を踏みしめて進んでいった。
そこは巨大な支柱が並ぶ大広間だった。四方の壁には一面に松明が焚かれ、一辺百メートルはあろうかというホールは昼のように明るい。石タイル床の継ぎ目を隙間無く苔が埋め、長い年月を感じさせた。
広間の四隅には人骨が堆く積み上げられており、正面の玉座に領主が深く腰掛けていた。死霊術の犠牲となったメイド達は近衛兵の如く整列している。数は二十人ほどだ。エゴンは館全体から壁と床を伝って玉座の下に流れ込む膨大なマナを感じていた。
「ようこそ我が城へ、同輩よ。姫君は何処かな?」
「問答無用。貴様はこれ以上何も知る必要は無く、何も答える必要は無い」
エゴンは右手に黒杖を握り、左手に短剣を構えた。一瞬の動作の内に彼の全身にマナの焔が迸る。緋色の燐光が立ち上り、ローブが風に仰がれるようにはためいた。
「死霊術師は殺す。ただの一人として逃しはしない」
獣が牙を剥くようにエゴンは笑った。
だが、その灼熱の殺意を前にしても領主は張り付いた笑みを崩さない。それも当然至極である。エゴンの集中は針の先に針を突き立てるほど高まっていたが、彼一人の肉体と領主の館では『器』の大きさが違う。マナの絶対量はグラスのワインと滝壺に注ぐ水流ほどの差がある。彼は十に満たないスケルトンを動かすことさえ間断を許さぬ集中を要するが、領主は瞬きほどの手間でその十倍を越える躯達を操るだろう。
それほどマナの総量には差があった。真正面切っての勝負ならば象が蟻を踏むより呆気ない幕切れは必死である。
そしてまさに矮小な同輩を踏みにじらんと、敵は配下をけしかけた。
領主が手を一振りすると、メイド達は猛然と襲いかかってきた。メイド達は誰も彼も半開きの口から涎を垂らし、眼は左右のあらぬ方向を向いている。だがその手は剣や斧を軋むほど握り締め、石畳を踏み割ろうかという俊足で詰め寄ってくる。
エゴンはその場へ屈み込み黒杖を一振りする。すると配下のスケルトン達は複雑に骨を絡ませ合い、瞬く間に白骨のドームを成して彼を覆い隠した。そして黒杖の先から蛍火が移り、常盤色に燃え上がる結界となる。メイド達に加えて部屋の四隅から起きあがったスケルトンの群れが殺到し、檻を破ろうと獲物や拳を突き立てた。
鼓膜を破る様な激しい金属音が鳴り響き、豪雨のように続いた。
領主は玉座に腰掛けたままじっと瞬きもせずそれを眺めていた。エゴンは結界の形成に持てるマナのほぼ全てを注ぎ込んでいた。それ故白骨の壁は堅牢そのものだが、あくまで強度は有限である。事実、剣や斧の刃が食い込む度に蛍火は削がれ、骨は欠け、徐々に綻びが広がってゆく。
しかし彼は檻の中でじっとうずくまったまま動じない。何故ならば傍に生ける味方は無く、マナが流れ込む場の中心は目の前だったが故に、全ての条件は整っていた為である。
彼は掌を開き、ナイフを押し当てた。刃を引きもしない内に掌はぷつりと割れ、赤い雫が零れ出す。彼の血は黒杖を伝ってゆく。中央部の螺旋を回り、針のような先端に辿り着き、地に滴った。彼は血が流れるがままに魔法陣を描き、中心にナイフを突き立てた。渇いた唇が開いて煉獄の底から響きわたる様な声が呪文を紡ぎ出す。
「“夜の黒い手先どもが獲物を求めて蠢き出す”“折り重なる屍の上に貴様の死を重ねよう”“伏して息を殺すがいい”“ここは貴様の城だった”」
「“しかしそれは墓標に変わる”“デッド・フィールド”」
魔法陣が深紅の輝きを放つ。
彼と相対する死霊術師は寸前でメイド達を飛び退かせたが、しなやかな肉を持たないスケルトン達は間に合わなかった。彼を取り囲んでいたスケルトンの群が放たれる光を遮って部屋中の壁に赤黒い影を作り、崩れ落ちる。
部屋中、いや『館中から』黒い風が吹いた。吹き荒れる風は轟音と共にエゴンを中心に渦を成して吸い込まれていく。死霊術師は即座に気付いた。玉座の下に流れ込むはずのマナと瘴気が半分以上奪い取られている。流れは部屋の中心で分岐し一方は玉座へ、しかしもう一方はエゴンの足下へと注ぎ込まれていく。そして彼の足下から苔が急速に枯れ広がっていった。石はひび割れ、這っていた蛆虫達も干からびて砂へ還ってゆく。
広がっているのは『死』だ。
エゴンは白骨のドームの縁を撫でる。ドームは崩れ去ると同時に八つの固まりに分かれ、盛り上がるようにして積み上がり再び人の形を取った。八体のスケルトンを爪先から頭頂まで黒い煙のようなもやが覆う。そして骸骨達は両の眼だけが赤々と輝く影の幽鬼となった。
エゴンは駆け出した。幽鬼達も彼を囲んだままそれに歩調を合わせた。目指すは領主が腰掛ける玉座だ。
領主は腰掛けたまま再び手を振るった。死したメイド達はエゴンを囲むように弓なりに散開する。中央に十名が配置され、分厚い壁となり領主を守る形だ。しかし死霊術師はそのまま領主を守る壁のままとはせず、中央の兵を全てエゴンへ差し向けた。右翼と左翼はその動きに呼応してエゴンの真横へ距離をとって回り込む。
エゴンは円陣のまま正面のメイド達に突撃した。エゴンの正面を守る二体の幽鬼がメイドの群と衝突する、その刹那。幽鬼達はメイド達が振り下ろした数多の刃を一切の抵抗無く受け入れた。骨にぶつかる衝撃さえなく影の中へ飲み込まれた刃は、突然鍔元で凍り付いたように動かなくなる。メイド達が手を引くより早く黒い影の腕が伸び、二体の幽鬼はその両手で一体ずつ、都合四人のメイドの腕を掴んだ。そしてそのまま間髪入れずメイド達の体を鞭のように振り回した。
すでに死している身だが、メイド達の肩が外れ、間接が砕け、骨と肉が捻れて軋む異音が激しい衝撃音と織り交ぜあって部屋中に反響した。右翼と左翼が駆け寄る間もなく二体の幽鬼は鞭と化した死体でもって中央の兵をなぎ払い、その勢いのまま二体ずつ両翼のメイド達へ投げつけた。飛来する肉の塊は捻れ砕けて伸びた両手足で思いのほか広がり、メイド達を巻き込んで尚勢いを失わず、広間の壁や柱に強烈に叩きつけた。激突の瞬間に全身の骨が砕ける乾いた音が鳴り響いた。如何に痛みを知らぬ不死の兵と言えど、骨の支えを無くしたまま立ち上がる道理は無い。
衝突から僅か一呼吸の間に領主の配下の亡者達は無力化された。
エゴンは速度を緩めず領主へ詰め寄る。石畳を踏みしめる度、彼の絶死の領域に触れた苔が風に吹かれた砂のように崩れ去る。エゴンは切っ先輝く短剣を固く握り締めた。
更に一歩踏みしめる。正面の二体の幽鬼がエゴンのために道を開ける。最後の一歩に向けて短剣を握る右腕を振りかぶったその瞬間だった。玉座の裏から小さな影が一つ踊り出ると玉座に覆い被さった。
人間、それも生きている――!
給仕服に身を包んだ少女が身を呈して領主を庇おうとするその姿が、泣きながら少女の亡骸を掻き抱く彼女の姿に重なり、全く意識の外の力によってエゴンは硬直した。反射的にデッド・フィールドを解除し力の限り踏み止まる。しかしその一瞬に胸元を虫が這い回るような違和感を覚えた。
数瞬遅れて違和感が確信に変わったその時には、全ては遅かった。
胸に衝撃が走った。違和感が走った正にその場所に。
見下ろした胸元から、何か悪い冗談のように白刃が伸び、血が滲んでいる。深々と突き立てたナイフは少女の手に握られている。エゴンを守るはずの幽鬼達も彼が術を解いたと同時に一掬いの砂へと変じていた。
目を爛々と輝かせ、三日月のように口を歪めて笑う少女がナイフを抜き放つ。彼の胸元から噴水のように鮮血が迸った。少女は返り血を浴びて白い給仕服を臙脂色に染め上げながら壊れた高笑いホールに響き渡らせる。糸が切れた人形のように四肢の力を失うエゴンの体。既に致命の一撃であったが、少女は振り上げたナイフを再び仇敵目掛けて振り下ろした。
硬い、鈴のような音が鳴った。倒れ伏せる最中にエゴンの眼は白い影が彼と少女の間に飛び込み、輝く軌跡を描いて少女の手からナイフを弾き飛ばした姿を捉えていた。
剣を携え、ドレスを台無しにしながらも凛とした姿勢を崩さない女騎士。ヒルデガルド・アレクサンダーが立っていた。
「貴公も逃げると言ったではないか!!何故一人で戦っている!!」
エゴンはそれはこちらの台詞だと言い返そうとしたが、言葉の代わりに血潮が喉から溢れた。
激しく咳き込み血を吐くエゴンの体を抱え、ヒルダは玉座から後方へ一足飛びに距離を取る。出来れば彼を連れたままこの場を離れたかったが、ホールの出入り口は全て起き上がったスケルトン達で塞がれていた。彼女はエゴンの腰のベルトに吊るされた見覚えのある小瓶を見つけると、素早く手にとって彼の傷口へ中身をぶちまけた。白い煙と共に傷口がふさがる。
ヒルダは左肩を彼に貸す。そして玉座へ向けて剣を突き出した。
「ハンナ殿、領主から離れろ!この場が、あのメイド達がもはや尋常ではないことは君も気付いているだろう!全てはその領主の所業なのだぞ!」
「違う……そうじゃない、アレクサンダー……!」
エゴンは荒々しく肩で息をしながら苦しそうに声を絞り出す。
「貴公まで何を言っているのだ!貴公も見たであろう、あの部屋の惨状を……!」
「違う。やったのはあの娘の方だ。領主は既にあの娘が操る『動く死体』に過ぎない」
ヒルダは呆然とエゴンを見た。不意に後頭部を打たれたような衝撃が彼女に二の句を与えなかった。
「あの娘が死霊術師だ」
真っ白になった頭の中でエゴンの言葉だけが大きく反響していた。あの少女が、頬を染めて領主を慕う様子を見せたハンナ殿が死霊術師だと、あの部屋に残されたおぞましい凶事の爪痕、それを成したのがあの少女だと、彼は確かにそう言った。
「気付くべきだった……玉座の下にマナが流れ込んでいたのは『あれ』が言わば奴のトーテム(触媒)そのもの、俺の杖や短剣と同じ物だったからだ」
領主にはいつもあの少女が付き添っていた。領主はいつも張り付いた笑みを崩すことはなかった。領主からはいつもきつめのコロン香りがした。
少女はそれまで領主を労るように玉座に寄り添っていたが、突如としてけたたましい笑い声をあげた。声は甲高く、虚ろだった。少女は玉座に腰掛ける領主の体に身を寄せ、陶酔した表情で領主の冷たい頬を撫でる。
「お聞きになりましたか?あの者共はこの館で狼藉を働くばかりか、ロバート様に対してなんと無礼で不吉なことを申し立てるのでしょう。私は恐ろしくてなりません」
領主は少女を優しく抱き寄せ、耳元へ囁いた。
「大丈夫だよハンナ。私が死ぬなんて有り得ない。何も心配要らない」
少女は恍惚とした表情で領主の胸元に体を預け、領主は彼女の頬を優しく撫でた。
ヒルダはいつの間にか自身の呼吸が酷く荒くなっていることに気付いた。喉がひりつく様に乾き、剣を握る手は痺れ、腹の中では蛇のように冷たくぬるりとした何かが這っているような心地がした。
「エゴン……殿……しかし、領主殿は確かに……ああ喋っているではないか……」
「あの娘が領主の死体を動かし、言わせているのだ。自分の望む言葉だけをな」
彼は大きくはっきりと、忌々しげに断言した。その言葉を耳にしたためか少女は再び虚ろな高笑いをあげた。
「私を騙そうとしても無駄です。皆そうなのよ、皆私を騙そうとする。侍女長も先代の旦那様もロバート様のお姉さま達も皆皆皆」
少女の瞳には不気味な光が宿っていた。しかしその奥は真っ暗なウロのように底が見えない。
「知っているんですよ。お前達も私からロバート様を取り上げようとしているんでしょう。ロバート様があんな女を妻に娶るだの、ましてお亡くなりになっているだなんて言って!!」
少女の呼気は次第に荒く、張り付いた笑みは般若の形相へ変じていった。だが再び、激しく笑い声をあげる。
「そんな筈無いわ!だって、ロバート様は変わらず毎晩、私を愛してくださるんだもの!」
その笑顔は、どうしようもないほどに壊れていた。
ヒルダは何も口にすることができなかった。彼女は自分の目尻から頬を伝う熱いものが剣を握る手元へと落ちるまで、それを涙と気付かなかった。
「アレクサンダー、分かっただろう。全ては手遅れだ。あの娘にはどんな言葉も届きはしない。よく見ておくが良い、これが死霊術師の末路だ。この忌むべき道の辿り着く果てなのだ」
ヒルダは奥歯を強く噛んだ。脳裏で今までの全てが過ぎる、これまでの戦い、その犠牲者、エゴンの憎悪と祈り、その過去。
もうたくさんだ、今度こそ終わらせねば。
「今はただ少しお具合が芳しくないだけ……けれど大丈夫です。ハンナがロバート様の為に良く効く『薬』を作って差し上げますわ。材料なら今目の前に……」
少女はギラついた視線をヒルダへ向けた。彼女はそれを弾き返すように睨み返す。傍らのエゴンはもはやヒルダの肩を借りずに己の足で立っていた。彼の痩せた横顔には隠しようのない疲労の後が刻まれていたが、赤々と燃える瞳と戦意は些かも怯んでいない。
「終わらせるぞ、アレクサンダー」
「ああ。この全ての者にとっての悪夢を……彼女にとってさえの悪夢を、終わらせてやろう」
並び立つ二人をいつの間にか数を増した夥しいスケルトン達が取り囲んでいた。エゴンのマナは残り僅か、ヒルダには幻のような剣一つきり。
骸骨の群が襲いかかる直前だった。エゴンは何の躊躇もなく自らの手首を短剣で切り裂いた。彼が止め処なく溢れ出す血潮を周囲に素早く振りまくと、二人を中心に赤い円が描かれる。
「“如何な平穏も常に血の代償をもってあがなわれる”“己が安息は己が血で清めよう”」
「“我が身を守れ ブラッディ・ウォール”」
早口で呪文を結ぶと血に塗れた短剣と円陣が深紅の光を放つ。二人を取り巻くように桜色のベールが立ち上った。躯の群が二人の肌に触れんばかりであったが、ベールは滑り込むように魔の手を遮った。凶刃の全てはベールの表面で空しく滑り、宙を切った。立て続けに無数の殺意の爪を突き立てようとするが決してベールの奥へは届かない。
エゴンは懐から取り出した魔法陣が刻まれた紙片を取り出し、血がこぼれる手首へ張り付けた。出血はたちどころに止まったが既に彼の顔は死相を呈し始めていた。
対するメイドの少女、ハンナの目は驚愕に見開かれていた。目の前の賊はもはや死に体だったのだ。マナの流れは断ち切られ、賊自身の中に残されていたごく僅かなマナではあれほど強靱な防護呪文を成立させ得ない。自らに代償を強いる術は強力な効果を得やすいが、明らかに異常な現象だった。仮にあの賊が自分と同じく、あの方の弟子だったとしても。
「下劣な賊にしてはやるようですね。さぞ高く屍の山を築いたのでは?」
語気鋭くハンナは言の矢を投げかける。エゴンは黙して語らないが、それは疲労のためだろうか。
「それだけの術を我が物とするまでに一体何人使いましたか?千や二千ではきかぬはず。男も女も老いも若きも問わずして必要だったことでしょう。後学の為に是非とも御教授頂きたいものです」
「それは違う」
エゴンの真横から凛とした声が響いた。思わずエゴンは青褪めた面を上向ける。言葉を返したのは彼ではなく、ヒルダだった。
「ハンナ殿が彼の何を知る」
「何一つ知りませんとも。ですが、この術を一つ修めるのにどれだけ屍が必要かを、少なくともアレクサンダー様よりは存じております。そう仰られる貴方こそ、その賊めの何を御存知なのですか?」
「……私とて何も知らないに等しいとも。だがハンナ殿よりは知っているつもりだ」
エゴンとヒルダの触れ合う肩から、彼は彼女が拳を握り締めるのを感じた。拳から肩へ伝わる震えが波紋の如く彼女の心を伝えてきた。
「エゴン殿が如何に死霊術を極めていようと、彼は断じて無辜の民を犠牲になどしていない。私はそう信じる」
「答えになっていませんわ」
「そうだとも。これは答えでさえない。根拠も理屈もあったものではない。ただ、何のことは無い……私の心は当の昔に決めてしまっていたのだ」
ヒルダは傍らのエゴンを見た。血の気を無くした彼の面持ちの中で真紅の瞳だけが変わらず深い輝きを湛えていた。ヒルダの深緑の瞳が瞬き合う星のように穏やかな光を交わす。
「貴公を、信じると」
彼女は笑っていた。死霊術師の魔城でたった二人、無数の亡者に囲まれているというのに。その微笑みは焚き火を二人で囲んだあの晩に見たものと同じだった。エゴンの胸の奥のどこかが暖かく柔らかなもので満たされる。長く永く冷たく乾いたその場所へ溢れんばかりに押し寄せる大きなもの。こみ上げる波を堪えようと彼は一瞬顔を伏せた。
「もう余り時間が残されていない。頼む、アレクサンダー」
エゴンは顔を伏せたままそっと彼女に耳打ちする。彼女は無言のまま頷き、祈るような姿勢で剣を構えた。二人は背中合わせに立ち、お互いに呪文を紡ぎ出す。
それは一つの舞台だった。苔むしたホールの中で死した観客が犇めき、無数の眼孔が冷たい殺意の視線を深紅の段幕の中で唱う二人へ浴びせかける。ハンナと領主はさしずめ特等席の賓客であり、同じように視線を囚われていた。
「“今ここに汝等の眠りを妨げること許し給え”“戦女神の花婿達よ”“我は汝等を知る者”“我は汝等を讃える者”“その姿は正義が武勇の鎧を纏い忠義の剣を掲げるが如し”“怨敵を討ち滅ぼすための助力をヒルデガルド・アレクサンダーが乞い願う”」
「“蛇と梟の導きに従い城壁の破壊者の祝福によって大地より生まれし古の戦士達”“エキーオーン”“ウーダイオス”“クトニオス”“ヒュペレーノール”“ペローロス”“命運を勝ち取りし五つの真名をもってエゴン・ヒューエが命じる”」
ヒルダは剣を高く掲げ、エゴンは白く輝く欠片を石畳へ振りまいた。
「“我が願いに応え来たれ勇者達”“サモン・ゴースト・ブレイブス”」
「“英霊の魂をもって立ち上がれ”“ドラゴントゥース・ウォーリア”」
瞬間、閃光と轟音が部屋を満たす。詠唱の結びと共に全ては同時だった。ヒルダが掲げた剣の先から光が降り注ぎ、五つの青き影が二人の周囲に降り立つ。エゴンが蒔いた欠片は石畳に触れるやいなや石畳を突き破って現れた五体の騎士達へと変じる。竜をモチーフとした全身鎧と兜に身を包んだ騎士達に、青き影が重なる。光と音が静まった時には屈強な竜骨の騎士達が二人を取り巻いていた。
重々しい声がホールに響いた。
『殿下、御立派になられましたな』
『若き日の陛下と見紛うばかりのお姿ですぞ』
『ほう!もしやこちらは辺境伯アレクサンダー卿の御子息では』
『おお、なんと凛々しきことか!正しく剣聖の誉れ高きアレクサンダー卿に瓜二つ』
『これは益々励まねばなるまい。我らの武勇、とくと御覧じ召されよ』
五人の騎士達は皆、長身のヒルダを優に越える巨躯であった。彼らはそれぞれ、剣、槍、戦槌、戦斧、弓を丸太のような腕で盾と共に構えている。ヒルダは教わったがまま唱えた呪文と共に現れた騎士達の威風堂々たる様に呆然としていた。しかし背中に倒れこみ崩れ落ちた何かの感触に、目が覚めたように我を取り戻し、振り返った。
「エゴン殿!しっかりしろ!」
「すまない……少し、血を流し過ぎた」
ヒルダは膝を突き、倒れ込んだエゴンの体を支え起こす。
「エゴン殿、彼らは一体……」
「この砦に眠っていた騎士の霊魂に竜牙兵の肉体を与えた。ここは古くは合戦場だったからな。勝算はあった」
「私のことを『辺境伯の子息』と呼んだぞ。一体何故?それにアレクサンダー家は確かに辺境伯だったが、それは百年以上も昔の話だ」
「彼らは『血と魂』でその姿を見るのだ。彼らは生前、お前と良く似たお前の祖先と共に剣を振るったのだろう。見るが良い、アレクサンダー」
アレクサンダーが周囲を見渡す。そこには圧倒的な光景が広がっていた。騎士達が剣や斧を振るうたび、草を薙ぐように亡者達が切伏せられてゆく。その剣は易々とスケルトンをから竹割りにし、槍は突風と共に骨を打ち砕く。斧と槌は叩きつけるたびにスケルトンを粉と散らせ、矢は動き出そうとしたメイド達を次々に壁へ縫いとめてゆく。スケルトンは時間を置いて骨を繋ぎ直して再び挑みかかろうとするが、その度に塵芥の如く振り払われる。騎士達は数の差などものともせず、亡者達を文字通り粉砕していった。既に二人を守っていた魔法のベールは途切れていたが、騎士達の盾は一兵も漏らさずエゴンとヒルダを守っていた。
「凄まじい……」
「アレクサンダーの力があってこそだ。ともかく後は奴を討つのみ」
傍目の形成は優位となったが、残された時間は更に僅かとなった。危険を顧みなければ確実に奴を屠れるだろうが、ヒルダを道連れにするわけにはいかなかった。可能な限り迅速に、この安全な位置から奴を打ち滅ぼさねばならない。エゴンは槍を持った騎士に集中を傾ける。
同じ光景を、いや彼女にとっては惨状を、死霊術師ハンナも目の当たりにしていた。自らの下僕達が虫けら同然に蹂躙されていくた。驚愕と混乱が嵐のように彼女の中で荒れ狂う。有り得ない。仮に本物の竜の牙を触媒にしていたとしても、聖人に匹敵する魂の持ち主の祈りがあったとしても、ああも強大な術を成立させられるはずが無い。相手はそもそも魔術の根幹たるマナが枯渇しかかっていた筈なのだ。一体どこから複数体の竜牙兵を使役するほどのマナを持ち出したのか。この場は私の領地だというのに。
瞬間、ハンナの脳裏に尋常ならば一笑に付す答えが閃いた。『領地』。あの竜牙兵の言葉。魔術は『自分の場所』である程その作用を増す。ならばこの城は『本来誰のものだ』?この土地は誰のものだ?奴が急に強大な術を行使し始めたのは奴自身の血を媒介にしてからだ。ならば、まさか奴の『血』には―――
突如、横合いからの衝撃がハンナの思考を断ち切った。倒れざま反射的にその正体を仰ぎ見る。彼女を突き飛ばした手とに優しく微笑む領主の顔がゆっくりと糊の中へ沈み込むように見え、直後に赤く飛散した。
轟音と同時に絶叫が響く。騎士が死霊術師目掛けて投げた槍は領主の頭を砕き、玉座を貫き、壁に深々と突き刺さっていた。半壊した玉座では領主の血と肉、脳漿を顔に浴びたハンナが金切り声を上げながら、飛び散った領主の頭の残骸を拾い集めようとしている。
「なおっ直さなくちゃ直さなくちゃロバート様直さなくちゃロバート様ロバート様」
震える手で血肉と骨片のジグソーパズルを完成させようとするその姿は狂相かつ惨烈極まった。ヒルダもある程度覚悟していたとはいえ、エゴンを抱く腕に思わず力を込めた。エゴンは険しい表情で小さく「外した」と舌を打つ。続けざまに弓を構えた騎士が無数の矢を放つが玉座の前に分厚く集まり始めた骨の壁に弾かれる。
「やはり直接討ち取らなければ駄目だ。アレクサンダー、肩を貸してくれ」
ふら付きながら立ち上がろうとするエゴン。ヒルダは彼の腕を取った瞬間、その氷のような冷ややかさに戦慄した。元より生気の無い腕であったが、今はもう、何故生きていられるのか驚くほどだ。過去の英雄達の奮闘を無駄にしてはならない。形成が優位に運んでいる内に決着を付けるべきであった。
騎士に守られながら二人は一歩一歩前へ進んでいく。
対するハンナはまだ四散した領主の頭を直そうとしていた。血塗れの手で骨と肉を積み上げ、辛うじて顔のような形状になりかかった。ハンナは狂った笑みで領主へ呼びかけようとした。
再びの崩壊。
領主の顔らしきものは当然の如く肉片の塊に戻る。それを見たハンナの心は完全に壊れた。
「アハハハハハハハハハハハ」
ハンナは崩れた肉片の中へ手を入れ、指先を死体の首の中へねじ込んでゆく。そしてゆっくりと手首を幾度も捻りながら『それ』を引き抜いた。
『それ』は血と油でぬめりながらも黒い金属光沢を放っていた。細長く、捩れ、弧を描き、先端は鍵爪のように丸く歪んだ、30センチほどの杖だった。
「やはり、あの娘もか……」
苦々しげにエゴンが呟く。ヒルダにも分かった。それは細かな意匠こそ違えど、エゴンの持つ杖と全く同質のものである。ハンナは黒杖を掲げ早口で何事かを呟き始めた。魔術の心得の無いヒルダにすら分かるほど異様な空気が辺りに漂いハンナを中心として渦をなしていく。
「まずいぞ。あの死体を動かしていたマナと集中力が自由になった」
エゴンの声には焦りの色が滲んでいる。竜骨の騎士達は健在だったが、骸骨の群れはどこから集まってきたのか、いつの間にかホールから溢れるほどの数になっている。依然として騎士達の敵ではないが衰弱したエゴンの歩みも合わさって思うように近づけない。ヒルダも彼を置いて離れがたく、また単騎突撃したところで圧殺は目に見えていた。
二人の焦燥をよそにハンナは呪文を紡ぐ。
「“飢えと渇きがお前を育てる”“嘆きと怨嗟がお前の祝詞さ”“生きてる奴らが憎いだろう”“柔い血肉が欲しいだろう”“遠慮なんか要らないよ”“掴んで潰して絞ってしまえ”“怖がることはありゃしない”“お前は一人であって一人でない”“私が力を授けてやろう”“お前の獲物は目の前だ”」
「“おいで餓者髑髏”“クリエイト・ゴーレム・ボーンズ”」
その瞬間、周囲からさざ波のような音が聞こえ始めた。ヒルダはすぐさま音の正体に気づき、首筋に震えが走った。床の上を大量の骨片が鼠の群れのように押し寄せ、ハンナの元へ集まってゆく。骨辺は巨大な白い塊になり、頭蓋骨を成し、伸びるように背骨が生え、肋骨、肩甲骨、肩甲骨、上腕骨と次々と形を成していく。一呼吸の間に玉座の上に巨大なスケルトンの上半身が生えていた。かつてエゴンが呼び出した土の巨人の倍以上の背丈だ。ハンナは肩の上で領主の死体に寄り添い、こちらを指差した。
「殺せ」
骸骨の巨人は大きく振りかぶり、巨大な手のひらで二人を掴み取ろうと横薙ぎに腕を振りぬく。大木のような腕が広間の支柱を薙ぎ倒しながら猛烈な速度で襲い掛かる。ヒルダは襟首を何者かにグイと捕まれ、突然その身は宙に浮いた。巨人の手は空を掴んだ。倒れる支柱とともに天井の一部が崩落する。瓦礫の山は部屋の出入り口を埋め、残されたスケルトンやメイド達を押しつぶした。
エゴンとヒルダは無事であった。二人とも槍を手放した騎士の両脇に抱えられていた。竜骨の騎士達は二人を脇に抱え、疾風の如く散開したのだった。広間の形が変わるほど一撃であったが、古強者達には傷一つ無い。 広間は巨人の控える正面半分は無事であったが、エゴン達のいる後ろ半分は半壊しており、退路は完全に塞がれていた。エゴンは天井を仰ぎ見る。崩落した天井は一部に穴が開き、薄ぼんやりとした明かりが差し込んでいた。彼は素早く黒杖を振るい騎士達に指示を飛ばす。
「エゴン殿!何か手を貸すことはないか」
「そのままじっとしていてくれ。安心しろ。むしろ組し易くなった」
巨人は巨大な腕を振り回し、叩きつけ、騎士達を捻り潰そうとする。しかし騎士達は巧みにその腕を避け、盾で受け流し、刃で切り払った。狙いをはずされた豪腕は広間を破壊し、味方の亡者を砕くばかりだ。そうこうしている内に既にエゴン達の頭上の破れ目は大きくなり、騎士達は巨人との間合いを詰めていく。業を煮やした巨人は拳を握り、両手を床へ振り下ろす。床は大きく砕け、足場を揺るがされた騎士達は一瞬よろける。斧と槌を携えた二体の騎士は避けた拳の間でほんの僅か動きが止まった。その隙を逃がさず巨人は振り下ろした拳をそのまま間へぶつけ合う。間一髪、寸前で体を捻った二体の騎士達は片腕と盾を犠牲に圧殺を逃れた。対して巨人は己の拳を打ち突け合った衝撃で硬直する。騎士達は風のようにその腕を駆け上り、残る片腕で斧と槌を握りしめ、渾身の一撃を巨人の両上腕骨へと加えた。巨大な岩が砕けるような音と共に巨人の腕が落ちる。死霊術師ハンナは直ちに腕を繋ぎ直そうと術を紡ぎ出す。しかし五月雨の如く降り注ぐ矢がその術を防壁へと転じさせた。騎士の一人は強弓から矢を放ち続け、巨人の傷を癒す暇を与えない。そして騎士の内最後の一体はハンナの防壁目がけて高く跳躍する。巨人は残った体でハンナと領主の死体を守るように体を丸めた。竜骨の騎士の一刀が矢玉の雨と共に巨人の頭へ振り下ろされた。
轟音。
必殺の一刀は頭蓋骨をから竹割りにするに止まらず、頸骨から背骨にかけて真っ二つに切り裂く。騎士の着地と同時に巨大な骨の体が崩れ落ちる。
「やった!!!」
「限界だ」
「何っ?」
巨人の両腕を砕いた二体の騎士は広間に残された最後の二本の大支柱を砕く。全ての支柱を失った広間は完全な崩落を始める。巨大な瓦礫が土砂崩れのように頭上から襲いかかる。しかしその大部分は巨人の残骸の上へ落ち、既に破れ目が出来るほど崩れたエゴン達の頭上へは盛り土が降りかかる程度だった。エゴンとヒルダを抱えた騎士は瓦礫の山を駆け上り高く跳んで破れ目から外へ飛び出した。
新鮮な空気と淡い光が二人を包む。そこは砦の中庭であった。中庭は盆地のようにすり鉢状に大きく窪み、中央にあった噴水などはもはや見る影もない。空を仰げば夜闇の帳は瑠璃色へと変じ、東の果ては白み始めていた。
騎士は二人を地面へ下ろした。しかし途端に砂のように崩れ、風に吹かれて消えてしまった。後には影一つ残らない。エゴンはよろめき膝を突く。
「エゴン殿!」
「跳ね橋を下ろせ……早く……奴のマナの量ならば、時間が経てば復活してしまう……」
ヒルダは正門へ駆け寄ると跳ね橋を上げていた重りを戻す仕掛けを動かした。ゆっくりと滑車が回り、跳ね橋が降りてゆく。エゴンは地面に膝を突いたまま、浅く短い呼吸を懸命に整えようとする。残された力はランタンへ蝋燭ほどの明かりを灯すことさえ難しく、流した血は尋常であれば既に致死量を越えている。もう立つことはおろか、指一つ動かすのも困難だった。しかし後は脱出するのみ。少なくともこの砦さえ出れば敵はヒルダに手出しできない。
跳ね橋が中程まで降りたのを見届けるとヒルダはエゴンの元へ戻ってきた。
「もうすぐだ。さあ、私が貴公を背負おう。恥ずかしがることなど無いぞ」
エゴンは差し伸べられた手を取ろうと顔を上げた。そこには淡く澄んだ青い空とヒルダの柔らかな微笑があった。そして膝に力を込めた瞬間、背筋に戦慄が走った。
背後で膨れ上がるマナの気配。有らん限りの力でヒルダを突き飛ばす。差し出された手と突き飛ばした手が一瞬触れ合い、遠く離れる。次の瞬間、轟音と共に瓦礫の中から伸びた巨大な右腕がエゴンを掴み取った。
崩れ落ちた中庭の底から半壊した骸骨の巨人が現れる。その背では血塗れになりボロ布の様になった給仕服の少女が首の無い死体を抱きしめている。
「逃ィィィイイイイがすかァァァアアアアア!!!!!」
しかしヒルダは怯まない。骨の髄まで鍛錬漬けとなった体は受け身と共に剣を両手持ちに構え直し、即座に立ち上がる。巨人はエゴンを持ち上げようとしている。だが巨人の手首まで二歩半。そんな隙は許さぬ必殺の間合いの中である。
一閃。
神速の踏み込みと共に輝く軌跡が宙を走った。ヒルダは巨人の手首を一刀両断にする。腕から離れた拳はたちまち骨の欠片となって崩れ去り、圧殺されかけたエゴンが解放される。だがそれと同時に剣が幻のように消えてしまった。いや、元より幻であったのだが朝の訪れが近づいた為に力を失ったのである。白く輝く刃は赤く錆び付いた鉄塊となり、巨人の拳同様に崩れ去った。感傷に耽る間もない内に巨人の左腕が正門を叩き潰した。崩落した城壁は瓦礫の山となり、即座に突破することは出来ない。二人の逃げ道を封じた巨人はゆっくりと額を寄せてくる。
万事休すか、いやまだ何か手があるはずだ。考えろ、二人でこの場を脱する方法を。ヒルダの頭脳は必死で起死回生の道筋を探す。ヒルダは力無いエゴンの体を抱きしめながら、無意識に辺りに視線を散らした。
そして青ざめた。
いつの間にか二人の周囲に深紅の円が描かれている。エゴンの口は何事かを呟き、封印紙が剥がれた手首から残された最期の血が滴っていた。
「止せ!駄目だエゴン殿!」
「“汝、滅ぶべし”“グリム・リーパー”」
彼は唱え終わると目を閉じた。ヒルダは急に辺り温度が下がったような気がした。骸骨の巨人は残る左拳を持ち上げ、二人目掛けて振り下ろした。
硬質な激突音が半壊した砦に響いた。その光景をハンナは、そしてヒルダは、呆然として見つめていた。拳はヒルダの頭上で止まっている。漂い始めた夜明けの気配がその正体を浮き上がらせた。
漆黒の巨大な影が宙に佇んでいた。それは正に死神だった。夜色のローブ、身の丈以上の大鎌、総身の剥がれた骨の体。死神はエゴンとヒルダを守る様に鎌を地に突き立て、巨人の一撃を防いでいた。死神の暗い眼孔の奥で真紅の光が燃えていた。
ヒルダは何時からか声も上げずに頬を濡らしていた。彼女が抱きしめている彼の体は軽くなっていた。彼女は彼がまぶたを閉じる間際、確かにその声を聞いた。
何も惜しくない、今ここで君を守れるのなら、君の命を救えるのなら、僕は何も惜しくない、何も恐ろしくない、と。
死神は素早く鎌を捻る。巨人の拳は大きく弾かれ胴ががら空きとなる。死神は捻った勢いのまま刃を返し、鎌を大きく上へ振り上げた。巨人はそれを押し留めようと拳無き右腕で胴を庇う。しかし大鎌は止まるどころか刃がすり抜けたかと錯覚するほど音も無く腕を切り裂いた。一度は竜骨の騎士に両断されたその跡を、今度は下から真っ二つに断ち割る。刃が頭蓋を抜けた瞬間、スケルトンは元の骨片の集まりとなって崩れ去った。足場を失った領主の遺体は砂山のような骨片の山の中へ落ちた。
ハンナは落ちていなかった。死神に胸倉を掴まれて共に宙に浮いていた。死神は髑髏をハンナへ近づけ、囁いた。
『貴様はのたもうたな、愚かで哀れな娘よ。無辜の犠牲無くして研鑽は有り得ぬと。教えてやろう、賢く幸ある娘よ。無ければ奪えばよいのだ。マナも、城も、術も、貴様のような輩から』
ハンナは必死にもがいていたが、次第に力を失い抵抗も弱々しくなっていった。
『娘よ、お前はもはやどこへ逝くこともない。堕ちて裁きを受けることも、昇って安寧を得ることも無い。ただ消えて果てるのだ。この私と同じように』
瞬間、死神と少女は蒼い焔で包まれる。宙に浮いたまま音も無く燃え上がる炎は瞬く間に二人を灰に変えていった。ハンナは炎の中で口を開き何事かを叫んだように見えた。だがその声は誰にも届かぬまま、全ては蒼い火の粉となり朝風に散らされていった。ハンナの手を離れた黒杖は地面へ落ち、ガラスのように砕け散った。
静かに、全ては終わったかに見えた。
ヒルダは突然目を見開き、腕の中のエゴンを見た。微かに、極微かにだが死神が少女を連れて消えた後、彼の体が重くなった気がしたのだ。ヒルダはエゴンの胸元を開き、彼の左胸に耳を押し当てた。
まだ、動いている!
だが、それは今にも消え行く蝋燭の最後の揺らめきだった。即座にヒルダはエゴンを横たえ、心臓を両手で強く押す。絶え間無く、何度も何度も懸命に押した。しかし救い上げた砂が指先の隙間を抜け落ちてゆくように、彼の鼓動は弱まっていく。
「行くな!行くなエゴン殿!戻ると行ったではないか!共に帰ると約束したではないか!」
ヒルダは泣きじゃくりながら叫ぶ。彼の肉体はマナも血も枯れ果て、最後の死霊術の全てに注がれていた。彼は余りにも死に近づき過ぎていた。ヒルダはエゴンのズタ袋を乱暴にかき回し、何か手立ては無いか探した。しかし見つかる薬瓶はどれもこれも毒薬と見紛うばかりである。だがこの最後の一手を打ち損なえば、彼は確実に死ぬ。更に時間はもう無い。
また失うのか。私はまた救えないのか。母が死んだ時と同じように。そんなのは嫌だ!!
ヒルダの脳裏に突如、閃光の様に少年の言葉が思い出された。そして親友が持たせてくれた最後の手段も。ヒルダはエゴンの上半身を膝の上に起こした。注意深く、慎重に。
「エゴン殿。私は、私は貴公を失いたくない。どうか……どうか……戻ってきてくれ」
彼女はスカート裏に縫い付けられた瓶を取り出し、中身を一息に口に含んだ。
そして、口付ける。
ヒルダは一滴も漏らすまいと深く深くエゴンに口付ける。口移された錬金術師の秘薬はエゴンの喉を通り、速やかに全身へその力を届けた。渇ききった彼の細胞が瑞々しい喜びの声を上げる。血潮は再び熱く燃え、心臓は跳ね馬の様に躍り始める。些か、強めに。
エゴンはうっすらと目を開ける。そして自分が涙に濡れた美女に目覚めのキスを受けていることに気付く。彼は彼女を振り払って、蹴り上げられたように飛び起きた。
「あああアレクサンダー、何故、何故そんな、いやそれより」
だがそれ以上言う前に、彼はヒルダに抱きつかれた。
「良かった……良かったエゴン殿……よく……よく……よく戻ってきてくれた……」
自らの胸で涙を流すヒルダを、エゴンは無言で抱きしめた。彼女の体はやはり火傷しそうに熱かった。不意にエゴンは自分も涙を流していることに気付いた。
二人は屍と瓦礫の中で、血と砂埃に塗れ傷だらけになったお互いの体を強くかき抱いた。泣きながら寄り添う二人を眩しいほどの朝日が照らしていた。




