第一章『凶相の男』
〜〜ある農村に伝わる逸話〜〜
昔々あるところに妃を亡くし、横たわる妃の側で嘆き悲しむ王がいました。
そこへどこからか虹色の蛇が王の側に這い寄ってきました。
「私に貴方の足を下さい。そうすれば、お妃様が再び立ち上がれるようにして上げましょう」
王は蛇に足を与えました。すると妃は立ち上がりました。けれども、動けなくなった王の側に来たきり、じっと佇んだままでした。
「私に貴方の腕を下さい。そうすれば、お妃様が貴方を抱きしめられるようにして上げましょう」
王は蛇に腕を与えました。するとお妃様は王を抱きしめました。けれどもその顔も体も氷のように冷ややかでした。
「私に貴方の血を下さい。そうすればお妃様を笑顔にして上げましょう」
王は蛇に体中の血を与えました。するとお妃様はにっこり微笑みました。
王と妃は冷たくなったまま、動かなくなりました。
王の足と腕と血を貰った蛇は笑いながら帰って行きました。
そして王と妃が死んでしまったその国は、あっという間に滅んでしまいました。
第一章『凶相の男』
月明かりも朧な薄曇りの夜だった。若き騎士アレクサンダーはバケツをひっくり返したような樽兜の内で大きく息を荒げていた。鬱蒼とした雑木林の闇の中、騎士は息絶えた愛馬の傍らで物言わぬ躯の群れに囲まれていた。闇夜の暗がりに加えフルフェイスの樽兜のために視界は最悪だ。粗悪な安物の甲冑は留め具があちこち緩み始めており、握りしめたロングソードは刃先が完全に潰れている。騎士を取り囲む夥しい躯達は約半数が動く骸骨、もう半数が動く腐乱死体だ、どちらも歩く死者であることに変わりは無い。スケルトンはカタカタとあご骨をぶつけて乾いた音を響かせ、ゾンビはあらぬ方向を見据えながら意味を持たないうめき声を上げている。くり抜いたカボチャのランプが踊る夜であれば滑稽にも映っただろう。しかしスケルトン達が握る赤茶けた剣とメイス、だらしなく半開きになったゾンビの口の端からこぼれ落ち地面に穴を開ける強酸性の唾液は、騎士への明確な殺意を表していた。
騎士は周囲の怪物達との間合いを計りながら、気配の一つも取り零すまいと神経を研ぎ澄ます。
何故、こんなことになったのか―――
アレクサンダーの脳裏に今朝から今までの光景が数瞬過ぎった。
その日、海岸の地方交易都市リバードーンは雲ひとつ無い快晴だった。都市と周辺地域の治安を預かる騎士団の一員であるアレクサンダーは早朝から騎士団本部長に呼び出された。起き抜けの騎士の足は些かふらついていた。各地の村々を襲っていると噂される盗賊団のアジト探しが既に一ヶ月に及んでいたためである。
事の経緯は青ざめた顔で騎士団の詰め所に駆け込んだ行商人の訴えから始まった。何でも、ある山中の村へ取引に赴いた所、森の中を村へ向かって歩く亡者の群れを目にしたというのである。
一大事ではあるが騎士団は現在深刻な人手不足であった。盗賊団対策に加えて団員の多くはこの春に突然、父の跡を着いだ新しい地方領主の記念式典の警護の準備で大わらわであり、とても小さな村に大規模な調査団を派遣する余裕など無かった。そこで騎士団員のアレクサンダーのみ、調査員として派遣されることとなったのである。無論のこと予算は少なく、不足した人員を補填するために冒険者を雇うにも些か心許無い。しかし騎士は命令を受けると同時にその足で街の中心に位置する冒険者組合へ向かい、一縷の望みと全予算を託して依頼を申請した。
騎士は日が昇るまでの間、宿舎で入念に出立の準備を整えた。携帯食料、治療薬、天幕などの用意を騎士団宿舎付きの下女に申し付け、愛馬の馬具の準備を下男に申し付ける。盗賊退治で傷んだ甲冑と剣を鍛冶屋に手入れに出し、代わりに安物で間に合わせる。意匠のない鋼鉄板を繋ぎ合わせただけの簡素な甲冑はスラリと伸びる騎士の手足には不釣合いで、殊更に不格好だった。だが 騎士は最後の支度に愛用の樽兜をすっぽりと被ると、足取りだけは力強く宿舎の門を出て行った。
官舎が並ぶ地域を抜け、豪壮な店構えの商店が軒を連ねる大通りの端を騎士は歩いた。それぞれの軒先では住み込み見習いの少年達が声を張り上げて呼びこみをしていた。通りを行き交う人々は年嵩も身なりも人種も正しく十人十色。中には王国内で“亜人”と呼ばれ蔑まれる者達も堂々と肌を隠すことなく道を行く。鱗肌にトカゲ頭の水辺の民や、服を着て二本足で立って歩く以外は虎や狼と見紛うばかりの毛むくじゃらの獣人達、草原を走る小柄な小人族や同じく小柄ながらも岩のような筋肉と豊かなひげを蓄えた丘の民。勿論この街とて差別はあるが、それ以上に財と知恵と腕っ節が物を言う。意気揚々と日の下を歩く彼らに恐れは無い。
騎士は賑やかな雑踏の中でバケツ兜を目印に様々な人々から呼び止められた。
「お勤めご苦労さまです」
「騎士様こんにちわ!このお花どう?教会のお庭で摘んだの。騎士様にぴったりよ!」
「これはこれは、先日はどうも…………」
「いいところで騎士様、六番街の排水溝の補修なんですが」
「ちゃんと食べてるのかい?そんなんじゃ、いつまで経っても肉が付かないよ!これ持ってお行きよ!」
帽子を取り挨拶をする者、礼をする者、陳情する者、中には焼き締めたパンを持たせようとする者まで。共通しているのは、皆笑顔で騎士に話しかけることだ。騎士は兜の内から大きく笑ってそれに応え、挨拶を交わした。騎士は何度も足を止め、時に進路を逸れそうになりつつ冒険者組合の運営する酒場『山猫亭』へと辿り着いた。酒場は依頼書を片手に意気揚々と出発する冒険者たちと入れ替わり、安価な昼食を取りに来た大工や港湾人足達でごった返していた。だがアレクサンダーの出した依頼書はコルクボードの片隅に追いやられ、一枚寂しく残っていた。危険に全く見合わない報酬に冒険をしようという物好きは、残念なことではあるが、当然のことではあるが、ただの一人としていなかったのだ。
店主が騎士にエールの一杯を勧めようとしたが、アレクサンダーはそれ以上は待たなかった。騎士団本部へと踵を返し、厩から愛馬を引き連れるとそのまま目的の村へ駆けて行った。
村へ続く山道へ差し掛かった頃には既に月が登っていた。愛馬の蹄の音意外には何も聞こえない、静かな夜だった。
アレクサンダーは焦っていた。既に報告からかなりの時間が経っている。村落の住民は無事だろうか。自分一人の力で救えるだろうか。想像しうる最悪の展開への恐れを必死に責任感で塗りつぶし、緩い傾斜とはいえ山道にも関わらず愛馬の腹を蹴っていた。疲労に喘ぐ愛馬と自身の体を叱咤しながら、一昼夜駆け続けてきた。それ故に気付けなかったのだ。
雑木林に入ってしばらく後、不意に愛馬の四つ脚が何かを蹴散らした。アレクサンダーがその正体を確かめる間も無く、愛馬は脚を緩めることもできずに倒れ伏した。当然速度を維持したままのアレクサンダーの体は前方へ投げ飛ばされる。とっさに受け身を取ったものの、身を守るための甲冑がその重量のために逆に手痛い衝撃を騎士に叩きつけた。しかし騎士は地に伏せるを良とせず、すぐさまマントを翻し身を起こした。剣を鞘から抜き放ち、小型の盾を構える。周囲に気を張り、後方の愛馬を見やる。愛馬の腹部には赤錆に塗れ朽ちかけた剣の先が突き刺さっていた。更に後方には折れた剣の柄を握った骸骨がバラバラに散らばっている。衝突の瞬間に愛馬には凶刃が突き刺され、引き換えに下手人は砕かれたのだと理解した瞬間、複数の黒い影が周囲の草むらから飛び出し、愛馬へ襲いかかった。愛馬は全身を無数の刃で貫かれ、悲痛な嘶きを一声上げて絶命した。
そこで騎士はようやく自身がただ一人、森閑たる闇の中で身の毛もよだつ怪物たちに包囲されていることに気付いたのだった。
アレクサンダーも位は最下級とは言え紛うこと無き騎士である。緩慢な動きの亡者ごときに遅れを取る弱卒ではない。だが問題はその数であった。斬れど、砕けど、次から次へと押し寄せる波の如く、苦痛も恐怖も持たない亡者達は攻撃の手を緩めなかった。既に十を越える躯を再び夢無き眠りへ戻したものの、依然としてその倍以上の躯達が騎士を取り巻いていた。
誤魔化しようのない疲労が真綿で首を絞めるように騎士を襲っていた。たった一人、数知れない歩く死者達の中にあってこれほどの大立ち回りをやってのけたアレクサンダーは、剣技一本で見れば間違いなく騎士の中でも第一級と言えるだろう。しかし誰がどのような賛辞を騎士に贈ろうと、このままでは己を取り巻く者達の仲間入りをさせられることは明白であった。
騎士は改めて敵を観察した。視認できる限りではスケルトンが十二体、ゾンビが十三体。スケルトンは各々で武器を持っているが、飛び道具の類は無い。陣形は無く、てんでばらばらに散らばりながら、ゆっくりと騎士へと近付いて来る。
騎士は腐った汚濁に染まったマントを投げ捨て、次いで兜と胴回り以外の甲冑を外した。重い金属音を立て、手甲と脚甲が地面に落ちる。小盾を背負うと剣を両手で握りしめ、青眼に構えた。まるで肺の中の空気をすっかり入れ替えるかのように息を大きく吐き出し、今度は大きく吸い込む。
「道を開けねば、押し通る!!」
アレクサンダーは声を極大にして張り上げる。兜の内から放たれた叫びは若干音がこもってはいたが、死肉を目当てに遠巻きに眺めていた山犬達が飛び上がって逃げ出すほどの大音声だった。もちろんそれは亡者達には全く無意味な叫びであったが、騎士にとっては覚悟を決めるための代え難い宣言である。事実、騎士はこの叫びを持って腹をくくった。
騎士は雄叫びを上げながら最も近くのスケルトンへ距離を詰める。スケルトンがか細い腕を振り上げる猶予など与えず、騎士の剣は横一閃、スケルトンの胴を両断する。崩れ落ちるスケルトンの体を踏み砕き、勢いをそのままに更に前へと突き進む。続いて騎士の腕へ齧り付こうと寄って来たゾンビを右斜め下から左上へ袈裟懸けに切り裂く。割かれたゾンビの上半身が、切り口にそって斜めに滑り落ちる。膝をついて倒れるゾンビの下半身を踏み越えると、そのすぐ背後にいたスケルトンがメイスを振りかぶっていた。しかし騎士は突進の速度を全く緩めず、ゾンビを切り上げた剣を真っ直ぐにスケルトンの頭へ振り下ろした。スケルトンは頭頂から背骨、骨盤に至るまで見事な唐竹割りで真っ二つに裂かれ、きっかり半分になった体は逆八の字に開き、崩れる。瞬く間に3体の亡者を切り伏せた騎士だったが、その勢いは止まるどころか増していた。進路直線上のやや距離がある一際大柄なゾンビへ疾駆し、3歩離れた距離で剣を地面に突き立てた。刹那、棒高跳びの要領で地面を蹴り、両手で掴んだ剣の柄を支点に宙で体を捻ると、揃えた両足を全力でゾンビの胴へ叩き込む。猛烈な速度と甲冑の重量、加えてその跳躍を可能としたアレクサンダーの人並み外れた強靭な脚力が、強固な城門を粉砕する破壊槌の如くゾンビを打ち据えた。吹き飛ばされたゾンビの体は肉の砲弾と化し、後方の亡者達を揃って薙ぎ倒す。
この瞬間、道は開けた。亡者の包囲は崩れ、騎士の行く手を遮る者は誰も居ない。その隙を逃さずアレクサンダーは全力疾走で駆け抜けた。だが無論、汚らわしい亡者達は黙って見逃すような紳士的態度など持ちあわせてはいない。緩慢な足取りで我も我もと追い縋ろうとする。片やアレクサンダーはたった今獅子奮迅の立ち会いを演じてみせたものの、既にその体力は限界に近づきつつあった。疲れを知らぬ亡者達に対し、騎士は生身の人間である。今でこそ距離を保ってはいるが、このままではいずれ必ず追いつかれ、再び同じように取り囲まれることは確実だ。その時にはもう、その包囲網を打破する力は残されていないだろう。
騎士は兜と甲冑の中で滝のような汗を流しながら、筋肉が悲鳴を上げる足を必死で前へと動かす。当然ながら無策のことではない。むしろアレクサンダーの覚悟が試されるのはこれからであった。初めに稼いだ距離も騎士の駆け足が鈍るにつれて、次第に狭まってくる。ぬかるみを踏み込むようなゾンビの足音、揺れるたびに骨のぶつかるスケルトンの衣擦れならぬ骨擦れの音、それらが間近に聞こえてきた、次の瞬間だった。林を抜け、突如視界が開ける。折れた枝や木の葉にまみれた騎士の目の前に崖道が現れた。騎士は愛馬とともに駆け入った雑木林を全速力で戻ってきたのだった。
崖から身を乗り出せば眼下には背の高い樹が生い茂る森が広がる。正確な高さは分からないが、まともに落ちればまず助からないことは容易に見て取れる。しかしアレクサンダーは、昼の晴天ならば素晴らしい景色であろうそこから勢いをつけたまま躊躇なく飛び降りた。
急降下してゆく騎士の体。騎士は剣を祈るように両手で握りしめた。しばしの風を切る感触と浮遊感の後、アレクサンダーの体は樹木の天辺に衝突する。全身を粉々にされそうな衝撃が騎士の意識を容赦無く刈り取らんとするが、アレクサンダーは残された僅かな力を振り絞りロングソードを樹の幹へと叩きつけた。既に刃こぼれを生じボロボロだった剣だが、騎士の決死の力と落下速 度が相まって激しく樹木の表皮を削り取っていく。加えて太い枝が幾度も騎士の体へとぶつかり、へし折れた。その都度騎士は失神しかけるが、死に物狂いで剣と意識を握り締める。飛び散る木片と共に落下速度が殺されていく。騎士の体は最後、膝丈ほどの茂みが広がる柔らかな腐葉土の上へ仰向けにドサリと落ちた。
もはや気力も体力も尽き果てた。しかし奇跡的にも死んではいなかった。アレクサンダー倒れたまま、広がる枝葉の中に自分がへし折ったためにポッカリと空いた穴を見上げ、薄曇りの空を見た。雲は風に流れ、時折その切れ間が月の光を覗かせる。磨きあげた金貨のような満月だった。騎士は自らがまだ生きていること急におかしくなり、体に残った空気を小さく吐き出して笑った。だがその瞬間、耐え難い激痛が胸に走り、騎士は意識を失った。
暗転。
朝露が一滴、兜のスリットをすり抜けてアレクサンダーの瞼を濡らす。その柔らかく涼やかな感触に、騎士は両目を見開き、反射的に勢い良く上半身を起こした。騎士を気絶せしめた痛みが再び襲いかかるかと思われたが、幸いにしてその痛みは大分和らいでいた。
騎士は自身の体を見た。両手両足共に、丈夫なフェルト地の衣服は何箇所も切り裂かれ、ずたずたであった。胴回りの甲冑も胸の辺が大きく凹んでいる。全身に激しい痛みを感じるが、剣を杖として地に突き立て、アレクサンダーはよろよろと立ち上がった。そして足を引きずり、しばしばふらつきながら崖の方へ歩いて行った。
崖には数体の砕けた骸骨と腐ったトマトのように潰れた死体があった。おそらく亡者のうち何体かが勢い余って飛び降りたのだろう。しかし受け身も取れぬ脆弱な体は、当然の如く落下の衝撃に耐えるものではなかった。
アレクサンダーは賭けに勝ったのである。
騎士は剣を突いたまま上を見上げた。崖道の先は見えないが、その高さに良く無事であったものだと自分自身に呆れる。騎士は次に東の空を見た。太陽は未だ低いが、かなりの時間が経過してしまった事実が騎士の胸のうちに重くのしかかる。身に着けた武装以外の荷物、つまり食料、天幕、治療薬などは全て愛馬に積んである。亡者達に奪い去られていなければ未だ愛馬の亡骸とともに雑木林の中に残されているだろう。任務の続行のためには再びあの場へ戻るか、もしくは近場の詰め所まで辿り着かなければならない。しかし、騎士の体は完全に限界を超えていた。剣を支えに立っているだけで精一杯であった。とても詰め所までは持たないだろう。さりとてあの亡者達を退けることも不可能だろう。騎士は自らの不甲斐なさに歯軋りをした。
騎士はしばし迷い、荷物を取りに行くことを選んだ。詰め所まで歩くのは不可能である。だが雑木林までは辛うじて持つだろう。ひょっとすると、亡者達はもう去っているかもしれない。甲冑を脱ぎ捨て、音を立てずに這いずって進めば気付かれないかもしれない。かもしれない、かもしれないだけで成り立つ希望的観測だったが、騎士にとっては逃げ帰るように野垂れ死ぬよりは幾分マシだった。
アレクサンダーが意を決して足を運ぼうとした、その時だった。騎士の背後の草むらで、何かが枝を踏み折る音を立てた。騎士はとっさに振り向き、渾身の力で剣を構えた。極度に張り詰めた緊張と疲労に、全身の筋肉に震えが走る。
茂みをかき分ける音と共に、その男はゆっくりと姿を表した。全身を覆う濃い灰色のフード付きローブ。裾には金糸の刺繍が施されているようだが、足元のそれは泥に塗れて判然としない。革のベルトを腰に巻き、右腰には幾つもの小さな革袋、左腰にはランタンと30センチ程の長さ黒い棒のようなものを下げている。厚ぼったいローブのために体つきは分からないが、背格好は高くも低くも無い中背。比較的長身のアレクサンダーよりも目線一つ分背が低い。左肩に大きなズタ袋を担ぎ、右手は小ぶりのナタを握っていた。
「寄らば斬る!!」
騎士はその異様な風体に思わず叫んだ。とは言え、実際に斬りつけることは不可能だっただろう。構えを取れただけでも奇跡的なことだったのだから。
不気味な風貌の男は立ち止まってナタを左腰に挿し、ゆっくりとフードを下ろした。
それはまさに凶相だった。
その男の頬は骨が角を立てるほど痩け、土気色をしていた。落ち窪んだ目はどす黒いくまを縁取り、人一倍大きな瞳が忙しなく辺りをギョロついている。その奥では真紅の光が燃え盛っていた。耳に掛かる程度の長さの髪は闇を切り取ったような漆黒だが、土埃に塗れて汚れ乱れている。薄い唇と細い眉が鋭利な印象をより際立たせていた。その凶相は人に髑髏を思い起こさせた。
騎士も瞬時に昨晩のスケルトンとゾンビを連想し、全身を強ばらせた。そのギョロついた目が騎士の兜に焦点を合わせる。アレクサンダーは兜の奥の見えないはずの顔を深く覗きこまれたような錯覚に、わずかに指先を震えさせた。疲労がなければ斬りかかっていたかもしれない。しかしアレクサンダーの思惑とは全く裏腹に、凶相の男はゆったりとした動きで懐に手を入れ、一枚の丸められた羊皮紙を取り出した。
「交易都市リバードーン騎士団員のアレクサンダーとは、お前のことか」
男の声は思いの外若かった。二十歳前後といったところか。アレクサンダーが答えられずにいると、男は羊皮紙を縛る革紐を解き、アレクサンダーの前へ放った。その羊皮紙にはゾンビに襲われた村の開放・原因の調査に関する依頼内容が記されており、アレクサンダーの署名、冒険者組合の判、酒場の店主の署名、そしてもう一人の名前が署名されていた。それは紛うこと無く、酒場のコルクボードに一枚取り残されていたアレクサンダーの依頼書だった。
「エゴン・ヒューエだ」
男の名乗りは依頼書に記された最後の署名と同様であった。
「き、貴公はもはや……依頼を受諾された、冒険者か?」
「そうだ」
恐る恐る尋ねるアレクサンダーに、凶相の男エゴンはやはり端的に答えた。素っ気ない返事にも関わらず、騎士は安堵のあまり剣を地面に突き立て、どすんと腰を落とした。エゴンはそれを黙って見ていた。
「す、すまない。貴公が来てくれたと思ったら、腰が抜けてしまった……」
アレクサンダーは照れ隠しをするように、兜を被った頭をわざとらしく掻いた。エゴンは相変わらずニコリともせず、ゆっくりとアレクサンダーの傍へ近寄り、ズタ袋を下ろした。また自身も屈み、中から数本の瓶を取り出す。それらは経口の治療薬だった。騎士も見知った、酷く苦くえげつない味のする、しかし効果は抜群のポーションだ。エゴンはそれらの瓶を持ってアレクサンダ ーへ差し出した。
「飲め。情報を話す前に死なれては困る」
「感謝する、エゴン殿」
エゴンの口調はぶっきらぼうで、全く持って騎士に対する言葉遣いではない。それに加えてお世辞にも気安い容貌ではない上に無愛想な男ではあったが、騎士は素直に礼を述べて瓶を受け取った。騎士は手袋を外し兜の留め金を外すと、窮屈そうに首をよじりながら両手で兜を脱いだ。
その瞬間、きらめくアッシュブロンドのショートヘアが陽光に弾けた。白磁のごとくつややかで透明感のある肌に、うっすらと朱がさし淡い桃色となっている。ややつり目気味な切れ長の二重瞼は、エメラルドグリーンの大きな瞳と長い睫毛をそなえ、パチパチと瞬きに揺れた。瞼のすぐ上を真っ直ぐに走るくっきりとした眉は意志の強さを示すようだ。瑞々しい感触を思わせる形の良い唇が開き、大きく息をつく。線を引いたように筋の通った鼻と細い顎に汗が何滴も滴っていた。
年嵩はエゴンと同じく二十歳そこそこと言ったところだろうか。控えめに言っても絵画のように可憐な女性がそこにいた。
アレクサンダーは汗と埃を振り払うように、軽く頭を振った。美しい金髪が揺れ、柔らかく形を戻す。騎士はエゴンから受けとった瓶の蓋を外し、ぐいと一飲みで中身を空ける。予め我慢するつもりであっても尚堪えかねる味に、愛らしい顔をしかめた。だが眉を歪めて眉間にしわを寄せながらも、立て続けに二本、三本と飲み干す。エゴンはその様子をじっと赤い瞳で見つめていた。
全てを空にするとアレクサンダーは大きくため息をつき、自らを見つめるエゴンに気付いて顔を上げた。
「貴公も、女騎士は珍しいだろうか」
凛としたややハスキーなアルトが響いた。屈託のない笑顔で尋ねるアレクサンダーに、エゴンは一瞬眩しそうに目を細めた。
「直に見るのは初めてだ」
「で、あろうな。実際のところ騎士団でも女は私一人だ」
「そうか」
「家名を先に名乗ると、良く誤解されるのだがな。私の名はヒルデガルド・アレクサンダー。れっきとした女だ」
エゴンはさして興味のある風でもなく簡素な応答をするが、騎士は饒舌に語った。エゴンは立ったまま、無感動に告げた。
「情報を話せ」
「うむ、そうだな。村落の住民を救わねば」
騎士はあらましを話した。村へ立ち寄ろうとした行商人がスケルトンとゾンビが列をなして村へ行進するのを見たこと、その数は優に百を超えていたこと、報告から今朝で三日が経過していること、騎士団から派遣されたのは自分一人であること、主目的は住民の救出と原因の調査であること、森で亡者の群れに襲われ崖から飛び降りたこと、等など。最後に窮地を救ってくれたエゴンに礼を述べ、十分な謝礼を払えないことを詫びた。エゴンは謝礼については特に何の反応も示さなかったが、崖から飛び降りたくだりで、頭上の崖道を見上げる。
「頑丈なやつだ」
小さく呟くエゴンの顔を見て、アレクサンダーはくくっと喉元で堪えるような笑い声を漏らした。エゴンに視線を向けられたことに気づくと、騎士はさもおかしそうに言った。
「いや何、今初めて貴公の表情を見た気がしたのでな」
エゴンはそれには答えず、再び頭上を見上げた。アレクサンダーも同じように上を見やる。
「我ながら無謀な試みであったとは思う。しかし、まあ、私は生憎と頭を使うのは苦手でな。恥ずかしながら剣の腕と体力だけが取り柄だ」
アレクサンダーは大きく口を開けて朗らかに笑い声を上げた。騎士は膝に手を付き、反動を付けて立ち上がる。地面に刺した剣を引き抜くと、片手で軽く振り回し土を払った。両手で剣を握り、構える。ゆっくりと大上段に剣を振り上げ、縦一閃に振り下ろす。音も無く空を断ち裂いた剣の切っ先を見つめると一言「うむ」と唸り、剣を鞘へと収めた。足元の兜を屈んで拾い、両手でしっかりと被る。麗しい面持ちが無骨な鉄仮面で覆われると、騎士は兜を軽く捻りながら位置を調整する。あご紐を締めた後、無言で騎士を待っていたエゴンに声をかけた。
「では、エゴン殿。何か策はあるだろうか」
さっきまでは立っているのがやっとだったアレクサンダーだが、エゴンの渡した治療薬が良く効いたようだった。キビキビとした動作を取り戻し、姿勢も背に芯を通したように真っ直ぐである。エゴンはそれまで騎士を注視していた瞳を、ギョロリと潰れたスケルトンとゾンビへ向けた。
「森の亡者は俺が黙らせる。お前は後を付いて来れば良い」
きっぱりと言い放ったエゴンに騎士は軽く首を傾げた。エゴンの風体は確かに魔術師風のそれである。間違っても戦士ではない。だが“黙らせる”という表現が良く分からなかった。
「一つ確認するが、貴公は魔術師か?」
「ああ」
「さっきも説明したが、森にいた亡者はかなりの数だったぞ。私が確認した数が全てだったとも限らぬ。貴公が如何なる術者かは知らぬが、あまり無茶な真似は止したほうが良い」
アレクサンダーは昨晩の自らの所業を棚に上げてエゴンをたしなめたが、それは騎士なりに命の恩人を気遣っての事だった。けれどそんな思いを知ってか知らずか、エゴンはたった一言「問題ない」と答えた。騎士が訝んでいるとエゴンはそれまで崩れた亡者に注いでいた視線を突然ぎょろぎょろとあらぬ方向へ動かし始めた。顔は動かさずに瞳だけをアチラコチラへと忙しなく動かしている。あまりに不気味な様相にアレクサンダーもビクリと肩を震わせた。
「き、貴公?」
エゴンは答えない。だが次の瞬間、ピタリと瞳の運動を止めてゆっくりと亡者達へ歩み寄っていく。すぐ傍まで近寄ると右腰の革袋の一つに手を入れる。何かを握りとったかと思えば、それを亡者達へ振りかけた。風に流れるそれは何かの粉末のようであった。エゴンは左腰に下げていた黒い棒を手に取る。それは全く奇妙な棒だった。長さは手首から肘の先ほど、太さは騎士の小指程度だ。全体が奇妙に捻くれている。特に中心部分が大樹を絞め殺す蔦のように螺旋状になっていた。しかし中半から先は真っ直ぐに細くなってゆき、先端は針のように鋭い。色はエゴンの髪と同じ闇をくり抜いたような漆黒でありながら、同時に光を反射する金属光沢を放っていた。
エゴンは闇色の棒を右手で握る。それはアレクサンダーの目には獲物をくびり殺さんと絡みつく蛇のように映った。エゴンは騎士に背を向け、ブツブツと何かを呟きながら楽団の指揮者の如く棒を振るう。
次の瞬間、騎士は戦慄した。ただの屍に戻ったはずの亡者達が蠢いている。スケルトンは小刻みに揺れ、散らばった骨が集まってゆく。ゾンビは潰れた手足が繋がり始めている。
「貴様!よもや!」
アレクサンダーは即座に剣を抜き放ち、エゴンへ向けて叫んだ。エゴンは騎士の方へゆっくりと振り向く。その背後で形を取り戻した二体スケルトンと三体のゾンビがよろめきながら立ち上がった。
「俺は死霊術師だ」
凶相の男は静かに答えた。その赤い瞳からは何の感情も読み取れはしなかった。