この夜に溶けるような
活動報告に載せたものを加筆修正して投稿しました。
カチャリ、とドアノブを回す音と、ビニール袋がカサカサと立てる音とで、あたしは目をこすりながら顔をそっちへ向けた。靴を音を立てないように脱ぎながら、あたしの自慢の幼なじみは家に上がってきた。
どんぐりみたいな短髪に、角ばった顔。切れ長の目は笑うと右のほうが細くなるくせをもっていて、えくぼができるのも右頬。体格が大きいのも相まって、人相が悪くみえる。それを、「青志のその顔にえくぼは似合わない」とあたしがいくらからかっても、いつも気にした素振りもない。どれほどこっちが突っかかろうとも、反対にあたしを揶揄することもない。青志は、人の悪そうな笑顔を浮かべて、「そうかよ」って言う。それだけ。
青志は――――、静かだ。
「おまえいい加減、不用心だって自覚しろよ。ちゃんと鍵掛けろってなんべん言ったらいいんだよ」
「あ、青志ぃ」
「あ、青志ぃ、じゃねーよ。何だってこんな世話のやける……」
「うふふ、ごめんねぇ。でも青志がいるからだぁいじょうぶ」
「なにが大丈夫だ、そういつもいつも助けてやれるわけじゃねえぞ」
「どんなときも、どんぐりな髪型のひとが必死の形相で助けにきてくれるって、信じてる」
「樹咲子、俺は真面目に言ってる」
「ふふ、知ってるよぉ、青志はあたしをからかったりしないよねえ。優しいよねえ、知ってるよぉ。お兄ちゃんみたいだねぇ、うふふふふ」
「――――樹咲」
「ううう……、気持ち悪い……」
「だから加減しろっつってんだろ」
ワインか焼酎か、なにが効いたのかは不明だけど、ちょっと飲み過ぎたかな……、仕事がうまくいかなくて、ひとりで自棄酒しちゃったんだ。多分、青志が怒るだろうなと思いながら。
青志はあたしのいるベッドの脇を通りすぎて、窓を半分くらい開けた。さあっ、と五月の匂いが部屋に抜けた。
青志は袋の中身を出していた。その大きな背中を見てあたしはベッドで足をバタバタさせながら喚いた。
「お酒やめたーい、仕事やめたーい、ネットやめたーい、携帯やめたーい」
「気分が悪いなら、動くな。吐きたいのか」
なにもかも面倒くさい。とくに仕事がやってらんないってくらい理不尽なことに見舞われる。わたしの責任じゃない、わたしは知らないって、言ったこともあったしその言葉を飲み込んだこともあった。反省の余地はあるはずだと上司や先輩に叱られた。注意していれば気づけたことだ、たとえそれが自分の管理の範囲でないとしても――――って、そんなバカみたいなこと、あっていいんだろうか。そりゃあ確かに、もっと気をつけなきゃいけなかったのかも知れない、でも、あたしにも自分の仕事があるんだ。それを精一杯やってるつもりなのに、それは誰からも褒められない。なんだかなあ、そんなのってなあ。こんなんだったらなあ、いっそのことさあ。
「…………人間もやめたいかも」
「……それだけは言ってやってくれるな、晃樹が聞いたら怒るぞ」
「うん……、ごめんね」
青志の背中が一瞬止まって、トンというちょっと重い音がテーブルに鳴った。あたしが好きなジンジャーエールだ。炭酸のきついやつ。お酒を飲んだあとは、必ずあたしがそれを買うっていうのを、この幼なじみはもう何年見ているんだろう。……優しい、ほんとうに。それは、静かにあたしの隣に沿ってくれる。カーテンが夜風を運んでふんわりゆれた。
「俺に謝られたって知らねえよ」
「ちゃんとお兄ちゃんに謝ったもん」
むくれたあたしは、今度は首を左右にぶるぶる振った。
「そういうことはな、幸せなやつだから言えるんだ」
「……お兄ちゃんは、怒らないよ。きっとすごく悲しい顔をするんじゃないかな」
「俺はあいつのために言ってんだよ」
「……うん。ねえ、青志」
「なんだよ」
「ありがとうね」
「――――」
あたしは、ごろん、と仰向けになって天井に手をかざした。指の間を風がすうっと抜けた。
「青志はぁ、お兄ちゃんみたいね」
青志は、飲んで帰ると鍵も掛けないあたしを心配して、たいがい様子を見に来てくれる。あたしをずっと気にかけてくれてたお兄ちゃんみたいだ。
お兄ちゃんは、冬の夜にとけるような空気につつまれたひとだった。しんしんと降る雪の、夜の森に立つようなひとだ。
晃樹なんていう名前が、ちっとも当てはまらないって思うのに、あたしを「樹咲」って呼んでくれるときは、お兄ちゃんのいる森は明るくなって、木々に光がひと筋ひと筋差し込んでいくような、あたしはそんな光に照らされる木々の合間に生える花のような、手を伸ばしてのびのびと笑えるような、不思議にうれしい気持ちになった。
「なんで今は冬じゃないんだろ、……」
お兄ちゃんは、いつも冬の夜の近くにいるとあたしは思ってる。――――亡くなったのも、雪と夜がとけあうような静けさのなかだったから。
「夏が来ないと、秋も冬も来ないだろ」
あたしはベッドの淵に腰掛けた青志に、にっこり笑って、またごろんとうつぶせになった。
冬の夜がお兄ちゃんを迎えにきたんだって、あのときなぜかすんなりとその言葉が心に落ちた。お兄ちゃんは、冬の夜が好きだったから。でも、勘違いしているよ。ねえ――――。
「……初夏はね、かなしくなるんだ。冬が遠いから。冬の音もない夜は、お兄ちゃんが近くにいるみたい」
初夏の風は、やさしいからかなしい。なにかがはじまりそうな夕暮れの予感は、どこにでも行けそうで、さみしくなる。電車から見える家も、自転車に乗る子どもも、夕焼けに反射する踏み切りも、とどかない憧れをぜんぶもっていて、かなしい。
お兄ちゃんと、あたしと、青志がいた景色。ぜんぶぜんぶ、あたしがもってた。
ぽんぽん、と青志があたしの頭に手をおいた。
「こういう歌があるんだよ、知ってる?」
すべてをもった完璧なひとがいて、誰もそのひとには適わなかった。文句を言われることもないし、誰からも好かれるような。“あたし”もね、そのひとのことを羨んでた。でもあるとき、そのひとは突然この世からいなくなった。そのひとは、誰からも好かれるようなひとだったのに。
“あたし”は問うの。教えて、“あたし”はどうすればいい、あなたはなにをもっていたの。
そのひとはね、世の中のなにもかもを知っていて、未来にはなにもないときっとわかっていたんだ。
――――でもね、お兄ちゃんはそうじゃない。お兄ちゃんは未来を見ていたけど、なにも諦めていなかったよ。お兄ちゃんは冬の夜が好きだったけど、迎えに来てほしいなんて思っていなかった。冬の夜と雪は、勘違いしたんだ。あんまりにもお兄ちゃんが、その静けさに近かったから。
どうして、お兄ちゃんはいないの? そう訊くと、青志はコンコンとあたしの頭を軽く拳で叩いた。
「なあに」
「これ貼っとけ。おまえの部屋、おしぼりなんていう気の利いたもんねえからな」
「ぶふふふ、ほんっと、男前を無駄に使ってるよねえ」
「おまえが言っていい台詞か、それ」
「えっ……」
あたしはこのとき、目をぱちくりさせてたと思う。青志には見えなかっただろうけど。
びっくりした。だって、あたしがからかったことで青志があたしに返すことは、お兄ちゃんが亡くなってから、一度もなかったんじゃないかってくらい、記憶にないことだったから。
そうだ、お兄ちゃんと三人でいた頃は、あたしは青志に泣かされることが多かったのに。
――――あおしの、ばかあぁ。きさの描いたヒヨコさん、ブタさんって言ったぁ――――
――――青志のバカっ! あたしのアイス、勝手に食べた――――
「ぶっ……、あははは」
「樹咲子?」
ぜんぜん、このひとは静かじゃなかったのに。いつからそんなに、ねえ、そんなに――――……。
ひんやりとしてた額に手を当てたら、前髪がサラサラと流れた。
「――――ねえ、青志。青志が結婚しても子どもができても、あたしはずーっと青志が好きだよ」
「ああ……、そうだな――――」
青志の一瞬止まった手は、またぽんぽんとあたしの頭を撫でた。
髪の上を夜の風がふわりと越えた。
懐かしいまどろみが、通り過ぎた気がした。
作中において、ある歌詞の一部を引用していますが、改変して記載しています。