毛玉
わたしは母のことが嫌いだ。
そう言ってしまえば、きっと話は簡単だった。
嫌いな人から離れる。
それだけのことだから。
けれど、母は私を愛していた。
少なくとも、私がそう思えるだけのことを、母はたくさんしてきた。
熱を出せば
夜通しそばにいたし、
私が好きだった
おかずを覚えていた。
帰りが遅くなれば、
何度も時計を見ながら
玄関の音を待っていた。
だから私は、
母を本気で嫌いになることが
できなかった。
そのことが、いちばん苦しかった。
「あなたのためを思って
言ってるのよ」
母はいつも、そう言った。
その言葉を聞くたび、
胸の奥が少しずつ狭くなった。
私は昔から、編み物が好きだった。
上手だったわけではない。
ただ、毛糸を指にかけて、一本の糸が少しずつ形になっていく時間が好きだった。
ある冬、マフラーを編み始めた。
不格好な編み目だったけれど、私は嬉しかった。
「何それ」
母が笑った。
「マフラー。誰に編んでるの?」
「そんなことして、何になるの?」
笑いながら言っただけだった。
悪気がなかったことも、今ならわかる。
「買ったほうが早いじゃない。そんな暇があるなら、もっと社会の役に立つことをしなさいよ」
私は笑った。
「そうだね」
それ以来、編み物をしなくなった。
マフラーは途中まで編んだところで、押し入れの奥にしまった。
母の言葉は、それだけではなかった。
仕事を辞めたときも、
「ほらね。あなたは何をやっても続かない」
恋人と別れたときも、
「だから言ったでしょう。あなたは人を見る目がないのよ」
何かを始めようとするたび、
「また?」
と言われた。
褒められた記憶もある。
心配された記憶もある。
抱きしめてもらった記憶もある。
だから余計にわからなかった。
あの人は私を愛しているのに、どうして私は、あの人のそばにいると自分が嫌いになるのだろう。
ある夜、とうとう母に言った。
「私、お母さんといると苦しい」
母は怒りを含んだ顔で黙った。
「……そんなこと言われても、
お母さんだって困るわよ」
「うん」
「あなたのことを心配して言ってるのよ」
「わかってる」
「だったら、どうしてそんなふうに言うの?」
私は少し笑った。
泣きそうになると、いつも笑ってしまう癖があった。
「お母さんが心配してることはわかってる。でもね……」
言葉を探した。
「心配されるたびに、私は自分が駄目な人間なんだって思うようになった」
母の顔が固まった。
「そんなつもりじゃない」
「うん。そんなつもりじゃないのもわかってる」
それが一番苦しかった。
悪意がない。
だから責めきれない。
「でも、私には痛かった」
母は黙ったままだった。
しばらくして、
「じゃあ、どうすればいいのよ」
と、小さく言った。
その声を聞いたとき、私は
ああ、母も途方に暮れているのだ
と思った。
母も、母になるのが初めてだった。
私だって、娘になるのが初めてだった。
誰も正解を知らないまま、私たちはずっと家族をやってきた。
「離れたい」
やっと、私は言った。
母の目が揺れた。
「お母さんのことが嫌い?」
「違う」
すぐに答えた。
「好きだから、離れたいの」
母は何も言わなかった。
「そばにいたいよ。ほんとは、ずっといたい。でも、そばにいると、私たち、また同じことを繰り返すと思う」
「家族なのに?」
その言葉に、胸が痛んだ。
「家族だからだよ」
私はそう答えた。
「家族だから、嫌いになりきれない。家族だから、傷ついたままでも離れられない。でも……家族だからって、ずっと傷つけ合わなきゃいけないわけじゃないでしょう」
母は俯いた。
「お母さんは、私に幸せになってほしいんでしょう?」
「当たり前じゃない」
「じゃあ、私が自分で幸せになるために、少しだけ離れてみたい」
長い沈黙のあと、
「……お母さんを捨てるの?」
母が言った。
私は横に首を振る。
「見守ろう。お互いに。」
それだけだった。
家を出た。
何かから逃げるようにではなく、何かを守るように。
けれど、ひとりになった部屋は思っていたより静かだった。
自由というのは、もっと明るいものだと思っていた。
実際には、静かな寂しさの形をしていた。
ある日、押し入れを片づけていて、古い箱を見つけた。
開けると、毛糸と編み棒が出てきた。
途中まで編んだマフラーもあった。
編み目はひどかった。
ところどころ緩んでいて、形も歪んでいる。
指先で触れてみる。
あの日の自分が、そこに残っているような気がした。
母に笑われて、途中でやめた。
でも、本当は。
母に笑われたからやめたのではない。
笑われたことで、
「私の好きなものは、くだらないものなのかもしれない」
と、自分で自分の好きなものを捨ててしまったのだ。
私は編み棒を手に取った。
もう一度、編んでみようと思った。
上手にできなくてもいい。
完成しなくてもいい。
誰かに褒めてもらわなくてもいい。
ただ、自分が好きだったものを、自分の手に返してあげたかった。
毛糸をほどく。
絡まったところで、手を止める。
無理に引っ張れば、もっと固くなる。
だから、指先で少しずつほどいていく。
絡まりは、すぐには消えなかった。
きっと、これからも消えない。
母を愛していることも。
母に傷つけられたことも。
どちらも本当だった。
片方を嘘にしなければ、前に進めないわけではない。
私は毛糸をもう一度、指にかけた。
窓の外が少しずつ暗くなっていく。
静かな部屋で、編み棒が小さな音を立てる。
一目。
また一目。
何度も間違えて、何度もほどいて。
それでも今度は、途中でやめなかった。
母から離れたことが正しかったのかは、まだわからない。
いつかまた、近くで暮らす日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
それでもいいと思った。
愛しているから、そばにいる。
そんな愛しか知らなかった私たちが、
愛しているから、離れてみる。
そんな愛を覚えるまでには、少し時間が必要だった。
窓の向こうに夜が来る。
毛糸はまだ、私の手の中で長く続いている。
絡まったところを、ひとつずつほどきながら、
私はようやく、
自分の人生を編み始めていた。




