悪役令嬢は断罪イベントよりプロテインの時間がもどかしい
今日という日を、私はずっと待ちわびていた。
リージア・フェルベモンド、十八歳。王国随一の名家、フェルベモンド公爵家の長女。艶やかな黒髪と氷のような碧眼を持ち、社交界では「鉄の薔薇」と称される私の、今日この日は――婚約破棄の日である。
無論、捨てられる側として、だ。
王立魔法学園の卒業パーティ。
天井から下がるシャンデリアが夜会の空気を金色に染める大広間に、今宵、王国中の貴族子弟が集っていた。
男たちは礼装を纏い、女たちは宝石をちりばめた豪奢なドレスで着飾っている。
華やかで、優雅で、そして根も葉もない噂話に満ちた、いつも通りの上流社交界の夜。
私の隣には、見知らぬ顔がいくつもあった。
幼い頃から顔を合わせてきた令息令嬢たちが、今夜はなぜか一様に私から目をそらし、遠巻きに様子を伺っている。
廊下で聞こえた囁き声の断片が、耳の奥によみがえってくる。
――本日、殿下が動かれるそうですよ。
――まあ、いよいよですか。あの悪役令嬢も、ついに終わりですわね。
ふふ。終わり、か。
私の内心は、穏やかどころか、今にも踊り出したいほど沸き立っていた。
そもそも、私がユリウス殿下と婚約したのは、八歳のときだ。
王家主催のお茶会で、転んで泣いていたユリウス殿下を慰めたことがきっかけだった。
その頃の私は、自分でいうのも何だが、庇護欲をそそるかわいらしい女の子であったと自負している。
幼い二人の間で交わされた約束を、双方の家と国が「王太子妃内定」という鎖に変えてしまった。
公爵家に生まれた以上、いずれは候補になっていただろうから、それ自体は仕方ない。
問題は、その後に始まった「王太子妃教育」という名の地獄の十年間だ。
マナーレッスン、礼法指導、語学、音楽、舞踏、政治史、外交儀礼……それらが朝から晩まで隙間なく詰め込まれ、私の好きな「あれ」をする時間が、圧倒的に足りなかった。
筋トレの時間が、だ。
思えば私の目覚めは十三歳のころだった。
騎士団の訓練場を見学した際、汗だくで鉄を担ぎ、限界まで自分を追い込む騎士たちの姿を見て、全身に雷が落ちたような衝撃を受けた。
厚みのある身体に浮き出た筋肉が作る素晴らしい陰影、造形美。
その美しさに心を鷲掴みにされた。
あの日から私の人生は変わった。
翌朝五時に起床してこっそり中庭で腕立て伏せを始め、厨房の料理長を口説いてゆで卵とゆで胸肉を毎朝調達し、書物で独学しながら少しずつ、少しずつ、この身体を作り上げてきた。
五年間の鍛錬の結晶が、今夜このドレスの下に眠っている。
(問題は、最後にプロテインを飲んでからもう二時間半が経過していることだけど……)
私がグラスの中の赤ワインをじっと眺めて血中アミノ酸濃度を心配していると、突然、大広間の中央からユリウス殿下の声が響き渡った。
「リージア・フェルベモンド! 貴様のような悪逆非道な女との婚約は、今この場をもって破棄させてもらう!」
きらびやかな光の下、第一王子であるユリウス殿下が声高らかに宣言した。
金髪碧眼の整った顔が怒りに赤く染まり、右手はまっすぐ私を指さしている。
殿下の隣には、小動物のように震えるグランディス男爵令嬢のリリィが寄り添っていた。
薄い金髪と透き通るような白い肌の、いかにも守ってあげたくなるタイプの少女である。
彼女の潤んだ瞳が私を見つめ、今にも泣き出しそうに揺れている。
周囲の貴族たちがざわめく。
扇が素早く広げられ、令嬢たちが口元を隠した。
令息たちは腕を組み、いかにも事の成り行きを見守る顔をしながら、実は舌なめずりをしていた。
名指しされた私は、扇で口元を隠し、静かに目を伏せた。
(……きたっ! ついにきたわ! これでやっと、あの詰め込み教育から解放されるっ……!)
私の内心は、歓喜のサンバを踊っていた。
「黙っているということは、身の潔白を証明できないということだな! お前がリリィに対して行った数々の嫌がらせ、すべて調べはついているぞ!」
ユリウス殿下の口から発せられた言葉に、はてと首をかしげる。
かわいげがない女ではなくリリィのような可憐な女性と婚約したいと、そういう事情だと思っていたからだ。
「……嫌がらせ、とは何のことでしょうか」
小首を傾げて問い返すと、殿下は鬼の首を取ったように高らかに叫んだ。
「とぼけるな! 体育の授業の際、お前は非力なリリィに、鉄の塊を無理やり持たせようとしただろう!」
「鉄の塊……? ああ、ケトルベル(16kg)のことですね」
私は至って冷静に答えた。
「リリィ様は体幹がブレがちでしたので、まずはケトルベルスイングで大臀筋とハムストリングスを鍛えるべきだとアドバイスしたまでですわ。いきなり重量に慣れるのが難しければ、8kgから始めて漸進的過負荷の原則に従って……」
「なっ……! 言い訳はいい! まだあるぞ! 昼食の際、ドロドロとした泥のような不気味な薬をリリィに飲ませようとしただろう! 毒殺のつもりか!」
「泥!?」
さすがに私はわずかに眉を持ち上げた。
「失礼な。あれは私が毎朝ブレンドしている『特製ササミ&ブロッコリー・プロテインスムージー』ですわ。筋肉の修復にはゴールデンタイムのタンパク質補給が不可欠。リリィ様が貧血気味だと伺っておりましたので、鉄分補給も兼ねて特別に私の分を分けて差し上げようとしただけです。感謝されこそすれ、毒殺とはいわれのないことですわね」
「え、えぐっ……た、確かにあの飲み物、匂いだけで吐きそうでした……色も、底から何かが溶け出したみたいで……」
リリィが涙目でユリウス殿下の胸にすがりつく。
なんてことだ。あんなに完璧なタンパク質・脂質・炭水化物のバランスを実現した至高のドリンクを。
ブロッコリーとの相性を考えて乳清プロテインではなく大豆プロテインを選び、ヘンプシードで必須脂肪酸も補った会心の一杯を。
やはりこのヒロインとは根本的に話が合わない。
「もう一点!」
殿下が声を荒らげて続けた。
今度は何だろうと私は先生がまた宿題を出す予感にため息をつく学生の顔で彼を見た。
「先月、リリィが校舎の廊下で転倒した際、お前は笑っていたそうだな! 倒れた者を笑うとは、なんと冷酷な女だ!」
「…………」
私は目を細めた。
「あれは笑っていたのではございません。あの転び方は、股関節の外旋筋が弱い典型的なパターンでした。ヒップアブダクションとクラムシェルエクササイズを取り入れれば防げると確信し、思わず『ああ、改善の余地がある』と口の端が動いたのですわ。職業病のようなものですので、ご容赦を」
「……職業病……? お前、一体なんの……」
「筋肉への愛、とでも申しましょうか」
シン、と広間が静まり返った。
先ほどまでは、物見遊山、これから起こる断罪劇を楽しみに見ていた貴族達もぽかんとした顔をして私たちを見ていた。
(見るからにひ弱そうな彼らには、専門的過ぎたかしら……。でも、奥にいらっしゃる騎士団長は、何やらうずうずしてますわね……)
「ええい、もういい!」
ユリウス殿下が頭を抱えるような仕草をしてから、居住まいを正した。
「言い訳はたくさんだ、リージア! お前のような女は我が国には不要だ! 辺境の地へ追放してくれる! 近衛兵、この女を取り押さえろ!」
殿下の合図で、広間の両端に控えていた近衛兵たちが動いた。王城屈指の精鋭、選抜試験を勝ち抜いた大柄な男たちが二人がかりで左右から私の腕を掴む。
「大人しくしろ」
「観念するんだな、公爵令嬢」
がしり、と両腕を押さえる力は確かに強い。なるほど、よく鍛えられている。近衛兵の採用基準が体力重視なのは知っていたが、握力はなかなかのものだ。
――その瞬間。
私の脳裏に、一つの数字が点滅した。
「……あの、殿下」
「なんだ、今さら命乞いか?」
「いえ」
私は静かに口を開いた。
「ただいまの時刻は20時でございます。私が最後にプロテインを摂取してから、すでに3時間以上が経過しておりますわ」
「…………は?」
「血中アミノ酸濃度が低下し、筋肉の分解、いわゆるカタボリックが始まってしまう危機的状況なのです!!」
「っ!? な、何を言っている!?」
「3時間! もう3時間も! この大切な筋肉が!」
轟、と何かが解き放たれた。
私が両腕にグッと力を込めた瞬間、ドレスの布地の内側で、五年間の鍛錬が目を覚ます。上腕二頭筋が膨れ上がり、広背筋が広がり、三角筋が隆起する。
ビリリリリリッ!!!
特注の最高級シルクドレスの袖が、内側からの圧力に耐えきれずに弾け飛んだ。
「ぐわっ!?」
「な、なんだ!?」
近衛兵二人が同時に吹き飛び、磨き上げられた大理石の床を転がった。
広間は一瞬にして凍りついた。誰も声を発せない。シャンデリアの灯りに照らし出された私の両腕が、貴族令嬢のものとは思えない輝きを放っていた。
「な、なんだその丸太のような腕は……っ!?」
「リージア様、ドレスの下にあんな……!?」
「あれは本物の筋肉か!?」
囁きがざわめきになり、ざわめきがどよめきになる。唖然とするユリウス殿下の顔が、怒りから困惑へ、困惑から完全な理解不能へと変わっていくのを、私は少しだけ満足しながら眺めた。
リリィが殿下の腕にしがみつき、ひっ、と小さな悲鳴を上げる。
私は破れたドレスの袖を静かにむしり取った。
ああ。肩周りが、なんて動かしやすいのだろう。これが本来の姿だ。窮屈なドレスの袖など、初めからいらなかったのかもしれない。
「殿下!」
私は改めて、ユリウス殿下を真正面から見据えた。
「婚約破棄および辺境への追放、謹んでお受けいたしますわ」
「……お、おお……そ、そうか……」
殿下は何か言いたそうに口を開けたまま固まっている。
おそらく「もっと泣き崩れるか、激しく抵抗するか、そのどちらかを期待していた」という顔をしていた。
私はそのどちらもせず、微笑んだ。
「辺境の広大な土地ならば、夢の『屋外巨大アスレチックジム』が作れますものね! ロープクライミングウォールにタイヤフリップのコーナー、懸垂バー、砂の上でのランニングコース……あとは農地と牧場があれば、食料の自給自足も兼ねて最高の環境になりますわ。農作業は全身運動ですし」
「……」
「それに、追放先に王都のしがらみはありませんでしょう? 毎朝五時起きのルーティンも、こっそり隠れてやる必要がなくなります。正直、ずっとそれが一番つらかったのですわ」
リリィが恐る恐る口を開く。
「あ、あの……リージア様は、王太子妃になりたくなかったのですか……?」
「ええ、まったく」
私はきっぱりと答えた。
「王太子妃の仕事に筋トレの要素が皆無なのが問題でしたわね。宮廷では重い鉄は持てませんし、汗をかくことも許されない。あのスムージーも、毎朝こっそり物置で飲んでいたのですもの。リリィ様、先ほどは驚かせてしまって申し訳なかったですわ。あなたに嫌がらせをするつもりは、本当に一切なかったのです」
リリィが目をぱちくりさせた。
「じゃ、じゃあ……ケトルベルも、スムージーも……」
「純粋な善意でしたわ。ただ、私の善意と一般的な女性の感覚の間に、相当な溝があることは……今夜ようやく理解しましたけれど」
私は肩をすくめた。ちょうど僧帽筋のストレッチになって気持ちいい。
ユリウス殿下が、ようやく我に返ったように口を開く。
「り、リージアよ……その……追放というのは、あくまで様式的なものであって、辺境の地とはいえ、フェルベモンド家の分家の領地もあるし、生活には不自由せぬよう……」
腐っても我が家は公爵家。
私に瑕疵がないのに、婚約破棄をしたとなれば、ユリウス殿下はフェルベモンド家の後ろ盾どころか、他の公爵家からも積極的な助けは得られないだろう。
今更ながらに、フォローをしようとするが、私にとってはいらぬお世話だった。
むしろ撤回されては困るし、貴族令嬢らしい生活を続けるなどまっぴらごめんだ。
「ご配慮、感謝いたします。では殿下、一点だけ申し上げてもよろしいでしょうか」
あちらから色々と条件を出される前に、手早く話を切り上げるべく申し出る。
「な、何だ……?」
「追放の際に荷物を持たせてくださる従者の数を、最低でも四人にしていただきたいのですわ。私のバーベルとプレートだけで、総重量が二百キロを超えますので」
広間が再び、深い沈黙に包まれた。
こうして私は、翌朝早々に王都を後にした。
馬車の窓から眺める景色が、都市の石畳から草原へ、草原から森へと変わっていくにつれて、胸の中が少しずつ軽くなっていくような気がした。
荷台には厳選した筋トレ器具と、三ヶ月分のプロテインと、農業の入門書が詰め込まれている。
従者が「こんなに重い荷物は初めてです」と泣いていたが、頑張ってくれた分だけ体幹が鍛えられたはずなので、感謝してほしいと思った。
辺境領に到着したのは、出発から三日後の夕暮れ時だった。
緑の丘の上に建つ古い石造りの館。
広大な牧草地と畑、林を抜けると小さな川まで流れている。村人たちが不安そうに馬車を出迎えた。
新しい領主が来ると聞いて、前の領主時代の重税を思い出しているのだろうか、その顔は暗い。
私は馬車から降り、村人たちの顔を一人ひとり見渡してから、大きく息を吸った。
「皆さん、初めまして。今日からここの領主になります、リージア・フェルベモンドです」
緊張した沈黙。
「一つだけお願いがあります。毎朝六時から七時の間、あの丘の上を使わせてください。ほかのことは、皆さんが教えてくださることを素直に学びます。農作業も牧畜も、体は使えますので、できる限りのことをします」
村人たちが顔を見合わせる。一人の老人が、おそるおそる口を開いた。
「……丘の上で、何をなさるんで?」
「筋トレです」
再び、沈黙。
そして老人が「はあ」と首を傾けたのを皮切りに、子どもたちがくすくすと笑い始めた。
その笑い声が大人に伝染して、硬かった空気が、ほろほろとほぐれていった。
私は満足して、館の中に入った。まず荷物を解いて、プロテインを飲まなければ。
それから一年が経った。
辺境の村には、いつしか不思議な噂が広まっていた。
曰く、新しい領主様は夜明けと共に丘に上がり、人間とは思えない鉄の棒を振り回す。
曰く、農繁期には領民と並んで畑を耕し、屈強な農夫よりも多くの土を動かす。
曰く、体を壊した村人には必ず「ブロッコリーとゆで卵」が届けられ、飲むと不思議と元気になる。
曰く、数人の若者が「訓練に混ぜてくれ」と頼んだところ、領主様は目を輝かせて「もちろんです! まずは体幹から!」と嬉々として指導を始め、三ヶ月で村の若者たちが近郷に名を知られる屈強な農夫兼自警団になった。
曰く、その噂を聞きつけた隣領の盗賊団が一度だけ村を狙ったが、領主様が丘から駆け下りてきた時点で全員が武器を捨てて降参した。
そして曰く、王都からの使者が来るたびに、その使者は「領地の経営は盤石、住民の満足度は最高水準、加えて辺境とは思えぬ屈強な自警隊まで整っている」と報告書に書いて帰るので、王宮では「あの令嬢は追放というより、元からあちらが向いていたのではないか」という声まで上がっているという。
私はそれらの噂を、丘の上でバーベルを担ぎながら、今日も知らなかった。
夏の空が広く青く、風が気持ちよく汗を冷やしていく。
眼下に広がる緑の村と、遠くで手を振る村人たちの姿。
(今日のスクワット、いい感じに深く入れた。大臀筋への刺激が昨日より確実に増している)
これ以上望むものが、あるだろうか。
私は青空に向かって、ゆっくりと、渾身の力でバーベルを押し上げた。
*****
王都では半年後、ユリウス殿下とリリィ様の婚約が正式に発表された。
式の招待状は辺境の館にも届いたが、その日は五年に一度の村の収穫祭と重なっており、私は領民とともにリレー形式のタイヤフリップ大会を主催していたため、丁重にお断りの返事を差し上げた。
なお返事の末尾には
「おめでとうございます、健やかにお過ごしください、プロテインはいかがですか」
と一言添えた。




