第2話 保留件数の増減
記録箱の中身は、毎日少しずつ変わる。
増える日もあれば、減る日もある。どちらが正常かは決まっていない。規定値を越えなければ、それ以上の扱いは必要とされない。
私は朝、箱の前で立ち止まり、件数を数えた。
昨日より一件増えている。理由は見ない。増えたという事実だけを確認する。内容を把握する必要は、今の段階ではない。
教室へ向かう途中、廊下ですれ違う生徒たちは、いつもと同じ速度で歩いていた。特別に遅い者も、急いでいる者もいない。私はその流れを外れず、席に着く。
鞄からファイルを出し、机の上に置く。
昨日処理した書類は、もう手元にない。問題なしとして記録庫に送った以上、振り返る理由はなかった。
午前の授業中、板書を写しながら、文字の意味を追わない時間がある。内容が理解できないわけではない。ただ、理解するかどうかを決めていないだけだ。決めない状態は、放置ではない。
昼前、記録室に新しい申請が届いた。
二枚。提出者名の欄はいずれも空白だが、形式は整っている。空欄は規定違反ではない。
私は先に、理由欄が埋まっている方を取った。
記述は短く、具体的だった。規定と照合し、逸脱がないことを確認する。チェック欄に印を入れ、処理済みの箱に移す。それ以上の動作は必要ない。
残った一枚を、机の中央に置く。
理由欄は空白だった。空白は、読解を求めない。読めることが少ない分、処理は単純になる。
理由がないこと自体は、異常ではない。
だが、理由がないまま結論を出すことは、推奨されていない。だからこの用紙は、最初から行き先が決まっている。
私はペンを置き、チェック欄の前で手を止めた。
止めたというより、次の動作に移らなかっただけだ。急ぐ理由はなく、遅らせる理由もない。
窓の外から、部活動の掛け声が聞こえた。
音量は一定で、誰かが怒っているようにも、喜んでいるようにも聞こえない。音が続いている、という事実だけが残る。
「まだ?」
背後から声がした。
同じ委員の生徒だった。彼女は私の机の上に視線を落とし、用紙を一目で理解したようだった。
「理由、書いてないんだ」
私は頷いた。
説明はしない。視界に入っている情報を、繰り返す必要はない。
「こういうの、最近多くない?」
問いかけの形をしているが、返答を前提にした声ではなかった。私は件数を思い浮かべる。増えているかどうかは、基準の取り方で変わる。
「規定内」
それだけを返す。
彼女は何か言いかけて、言葉を使わなかった。その反応は、記録されない。
彼女が席を離れたあと、私はチェック欄に印を入れた。
「保留」。これは未完了ではない。規定に沿った処理結果だ。
備考欄は空白のままにする。
書けることがないのではなく、書く必要がない。
午後、顧問の教員が記録室に立ち寄った。
件数の報告を求められ、私は数字だけを伝える。多いとも少ないとも言われない。「分かった」とだけ返される。
制度は、理由を欲しがらない。
欲しがるのは、逸脱がないという確認だけだ。
放課後、記録箱を棚に戻す。
中身は見えなくなる。見えなくなっても、存在は消えない。
昇降口で、昼に話しかけてきた委員とすれ違った。
彼女は少し疲れているように見えたが、理由は聞かない。聞けば、処理の対象になる。
外に出ると、空が低かった。
雨が降りそうだが、降るかどうかはまだ決まっていない。
私は歩きながら、今日の保留件数を思い出そうとした。
途中でやめる。思い出す必要は、次の業務までない。
保留は、忘却ではない。
忘れないために、今は使わないという選択だ。
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