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第1話 記録番号のない朝


 朝の校舎は、まだ判断を持たない。

 誰もが通り過ぎる廊下で、私は一枚の紙を受け取った。


 白い用紙だった。規定の様式で、規定の文字数欄があり、規定のチェックボックスが並んでいる。提出者名は記入されていない。空欄は違反ではない。保留申請の場合、それはよくあることだった。


 教室に入る前、私は立ち止まった。

 この紙を今処理する必要はない。期限はまだ先だし、緊急性の印もついていない。ただ、机の上に置いておくと、他の書類に紛れる。それだけのことだった。


 席に着き、鞄からファイルを出す。

 昨日までに回ってきた申請は三件。いずれも問題なしとして処理され、記録庫に送られた。問題がないという判断は、感想ではない。基準に照らして逸脱がない、という意味だ。


 今日の一枚は、基準の手前にあった。


 理由欄は空白。

 発生日時、関係者、場所。必要な項目は埋まっているが、出来事を説明する語が一つもない。書こうと思えば書けたはずだ。だが、書かれていない。それを補う権限は、私にはない。


 私はチェックを入れず、鉛筆を置いた。

 判断を先送りにすることは、判断しないこととは違う。これは教えられた通りの作業だった。


 昼休み、委員会室は静かだった。

 誰もが自分の机で、黙って紙を見ている。話す必要がないから話さない。共有すべき異常がない限り、会話は業務外になる。


 私は例の用紙を取り出し、備考欄に一行だけ書いた。

 「処理保留。理由記載なしのため。」


 それ以上は不要だった。

 書き足せば、意味が生まれる。意味は感情を呼ぶ。ここではそれを扱わない。


 放課後、提出箱に書類を入れる。

 箱の中には、似たような紙が何枚も重なっていた。どれも未完了で、どれも未解決だ。だが、未解決は異常ではない。解決を急がないという選択が、制度として用意されている。


 帰り道、校門を出ると風が強かった。

 紙が一枚、地面を滑っていく。拾わない。拾う理由がないからだ。


 明日、この申請がどうなるかは分からない。

 誰かが理由を書くかもしれないし、誰も触れないまま期限を迎えるかもしれない。どちらでもいい。どちらも規定内だ。


 私はただ、記録する側にいる。

 感情を処理するためではなく、感情が処理されなかった事実を残すために。


 校舎の灯りが消える。

 今日も、特に異常は報告されていない。


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