鬼の住処と初めての嫉妬
連れてこられたのは、妖しくも美しい鬼の住処。穏やかな日々に、人の心を忘れかけた頃、彼の元を訪れた妖艶な女郎蜘蛛。初めて知る、胸を焼くような嫉妬の痛み。私の心は、もう引き返せない場所へ来てしまった。
黒焔に手を引かれ、私がたどり着いたのは、人里離れた山奥の、霧深い湖畔に佇む壮麗な屋敷だった。黒漆の柱、精緻な彫刻が施された欄間、そして庭には、この世のものとは思えない不思議な花々が咲き乱れている。ここが、帝都最強と恐れられる鬼神の住処。
「今日からここがお前の家だ。好きに使うがいい」
彼はそう言うと、私を屋敷の中へと案内した。中は驚くほど静かで、人の気配はなかった。
「あなたは、一人で暮らしているのですか?」
「ああ。鬼は群れん」
短い返事だったが、その横顔に一瞬だけ、孤独の色がよぎったように見えたのは、私の気のせいだっただろうか。
彼が私に与えてくれた部屋は、離れとは比べ物にならないほど広く、陽当たりが良かった。窓からは、きらきらと光る湖面が見える。そして何より、ここには私を「呪われた巫女」として見る目がなかった。
屋敷での生活は、穏やかで、そして少し奇妙なものだった。黒焔は、食事も、掃除も、洗濯も、全て術でこなしてしまった。私が手伝おうとすると、「お前はそこに座って、俺を見ていればいい」と言って、何もさせてくれない。私は、生まれて初めて、何もしなくてもいい日々を手に入れた。それは、少しむずがゆく、そして途方もなく贅沢な時間だった。
彼は、私が退屈しないようにと、様々なものを見せてくれた。書庫には、人間界では決して読めないような、あやかしや神々の物語が詰まっていた。庭では、蝶のような羽を持つ小さな妖精たちが、私の周りを飛び回った。
夜、縁側で二人並んで月を眺めるのが、いつしか日課になっていた。
「静月、お前の呪いは、いつからあるのだ」
ある夜、彼が静かに尋ねた。
「……物心ついた時から、ずっとです」
「そうか」
彼はそれ以上何も聞かず、ただ私の隣に座っていた。その沈黙が、どんな慰めの言葉よりも、私の心を安らがせた。この鬼のそばにいると、自分が呪われていることさえ、忘れそうになる。このまま、時が止まってしまえばいいのに。そんな、ありえない願いを抱いてしまうほどに。
そんな穏やかな日々は、ある来訪者によって破られた。
その日、屋敷に妖艶な香りが立ち込めた。玄関の方を見ると、そこには、極彩色の美しい着物を着こなした、絶世の美女が立っていた。彼女の背後には、八本の巨大な蜘蛛の足の影が揺らめいている。女郎蜘蛛――人を惑わし、その精気を喰らうという、高位のあやかしだ。
「あら、黒焔様。ご無沙汰しておりますわ。……あらあら? そちらのかわいらしい方は、どなたかしら?」
彼女は私を一瞥すると、ねっとりと絡みつくような視線を向けた。そして、私を完全に無視して、甘えるように黒焔の腕にその豊満な体を寄せた。
「黒焔様、今宵はわたくしと、楽しい夜を過ごしませんこと? 最近、良い人間の男を捕まえましてよ。その生き血で造ったお酒があるの」
その親密な様子、蠱惑的な仕草。私には決してできない、大人の女の振る舞い。
黒焔は、彼女の体をあからさまに引き剥がしながら、面倒臭そうに言った。
「絡新婦、何の用だ。生憎だが、今宵は先約がある」
「まあ、つれないお方。その人間の子が、先約ですの? ふふ、黒焔様も、変わったご趣味をお持ちですこと。そんなひょろりとした娘の、どこがいいというのです?」
絡新婦は私を頭のてっぺんから爪先までなめるように見ると、侮蔑の笑みを浮かべた。
その瞬間、私の胸の奥で、どす黒い何かが渦巻いた。チリチリと肌が焼けるような、息が詰まるような、不快な感覚。何、これ。これが――嫉妬?
私が呪われているから? 私が子供だから? 彼に相応しくないから? ぐるぐると、醜い感情が頭を駆け巡る。
黒焔は、そんな私の心の揺らぎに気づいたのか、彼の表情からすっと温度が消えた。
「――失せろ、絡新婦」
その声は、絶対零度の冷たさだった。
「お前がこの娘を侮辱することは、俺が許さん。二度とそのような口をきけば、お前の巣ごと焼き払うぞ」
黒焔の体から放たれた凄まじい妖気に、さすがの絡新婦も顔色を変えた。彼女は恨めしそうに私を一瞥すると、捨て台詞を残して姿を消した。
「……覚えてらっしゃい」
部屋に、重い沈黙が落ちる。私は、自分の醜い感情を見透かされたようで、彼の顔を見ることができなかった。
「静月」
彼に名前を呼ばれ、びくりと肩が震える。俯いたままの私に、彼はゆっくりと近づき、私の顎に手を添えて、無理やり顔を上げさせた。
「……妬いたか?」
彼の金の瞳が、面白そうに、そしてどこか嬉しそうに細められている。
「ち、違います! そんなこと……!」
「嘘をつけ。お前の心は、手に取るようにわかる」
図星を指され、顔に火が集まる。私は彼の腕から逃れようともがいたが、鬼神の力はあまりに強く、びくともしない。
「いいか、静月。俺がお前以外の女を抱くことは、未来永劫ありえん。俺が欲しいのは、お前だけだ。絡新婦のような女は、俺にとって道端の石ころと同じだ」
彼はそう言うと、私の唇に、自らの唇を重ねた。それは、初めての口づけだった。触れた場所から、彼の熱が、心が、なだれ込んでくるようだった。長く、深い口づけが終わった後、私は息も絶え絶えに、彼の胸に顔をうずめることしかできなかった。
「これでも、まだわからんか?」
彼は私の髪を優しく梳きながら、囁いた。私の心は、もうとっくに、この鬼神のものになってしまっていた。けれど、私はまだ知らない。彼がなぜ、そこまで私に執着するのか。その理由が、彼の過去と、私の呪いの、決して切り離せない因縁に繋がっていることを。そして、私を「至宝」と呼ぶ水鏡神社が、このまま黙っているはずがないということも。