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初めての祭り、初めての熱

鬼神・黒焔に強引に連れ出された、生まれて初めての都の祭り。人の熱気に戸惑い、呪いの恐怖に苛まれる私。けれど、彼がくれたのは、絶望ではなく、私の孤独な世界を溶かすほどの、過剰で不遜なぬくもりだった。

「さあ、行くぞ」


有無を言わせぬ力強い声と共に、私の体はふわりと宙に浮いた。黒焔が私の体を軽々と横抱きにしたのだ。


「なっ、何を……! おろしなさい!」


「やかましい。お前がぐずぐずしているからだ」


彼は私の抵抗など意にも介さず、離れの縁側から夜の闇へと身を躍らせた。風を切る感覚、ぐんぐんと遠ざかっていく見慣れた離れの屋根。私の心臓は、恐怖と、そしてほんの少しの未知への高揚感で、早鐘のように鳴り響いていた。

彼が私をおろしたのは、都のはずれにある森の中だった。そこから少し歩くと、急に視界が開け、信じられないほどの光と音の洪水が私を襲った。


「これは……」


道の両脇にずらりと並んだ提灯の灯り。食べ物の焼ける香ばしい匂い。人々の楽しげな笑い声。年に一度の夏祭り。書物でしか知らなかった世界が、すぐ目の前に広がっていた。

あまりの情報の多さに立ちすくむ私に、黒焔は呆れたように言った。


「どうした。突っ立っていないで歩け」


「で、でも……人が、こんなにたくさん……」


もし、誰かに触れてしまったら? この楽しげな光景が、私のせいで悲劇に変わってしまったら? 染みついた恐怖が、私の足に鉛の枷をはめる。

すると、黒焔はため息一つで私の手首を掴んだ。驚くべきことに、彼は自分の着物の袖で私の手を覆い、その上から固く握りしめたのだ。これなら、私の肌が直接誰かに触れることはない。


「これなら文句あるまい。行くぞ」


彼はそう言うと、私の手を引いて人混みの中へと歩き出した。彼の大きな背中が、私を群衆から守る盾のように見えた。

生まれて初めて見るものばかりだった。水飴、金魚すくい、射的。子供たちがはしゃぎ、恋人たちが寄り添い、老人たちが穏やかに微笑む。本の中の知識ではなく、肌で感じる人々の営み。その温かさに、私は知らず知らずのうちに、強張っていた心が解きほぐされていくのを感じていた。


「静月、あれが欲しいか?」


黒焔が指さしたのは、美しい狐の面を売る屋台だった。白い面に、紅で描かれた優美な模様。私は、ただ黙って首を横に振った。欲しいなどと、口にしてはいけない。私のような呪われた者には、分不相応なものだ。

しかし、黒焔は私の返事を聞く前に屋台へ向かい、一番美しい狐の面を買うと、私の顔にそっと当てた。


「……よく似合う」


彼の金の瞳が、満足そうに細められる。その瞳に映る、狐の面をつけた自分の姿。それは、まるで別人のようだった。呪われた巫女ではない、ただの祭を楽しむ一人の娘のように見えて、胸の奥がちくりと痛んだ。

その時だった。


「わっ!」


人混みの中から、母親とはぐれたのであろう小さな男の子が、よろめきながら私の方へと倒れ込んできた。


「危ない!」


咄嗟に子供を突き放すこともできず、私の体は硬直する。ああ、駄目だ。この子に触れてしまう。私の呪いが、この無垢な命を蝕んでしまう――!

絶望に目を閉じた瞬間、私の体を強い力が引き寄せ、代わりに大きな影が私と子供の間に割り込んだ。黒焔だった。彼は倒れ込んできた子供を片腕で軽々と支え、何事もなかったかのように立たせた。


「坊主、気をつけろ。親はどこだ?」


「ありがとう、お兄ちゃん!」


男の子は元気よく礼を言うと、母親の元へと駆けていった。一部始終を見ていた周囲の人々も、微笑ましいものを見る目で通り過ぎていく。誰も、何も気づいていない。

私は、黒焔の胸の中で、ただ震えていた。


「……すまない、静月。怖かったか」


彼の声が、頭上から降ってくる。いつもより、少しだけ優しい響きだった。


「なぜ……なぜ、庇ったのです。あなたまで、不幸になったらどうするのですか」


「愚かなことを言うな。俺は言ったはずだ。お前の呪いなど、俺には効かんと。それにな」


彼は私の体を少し離すと、私の瞳をまっすぐに覗き込んだ。


「たとえ、この身にありとあらゆる不幸が降りかかろうと、俺はお前を守る。お前がこの手の中にある限り、誰一人として不幸にはさせん。お前自身も含めてな」


それは、あまりに傲慢で、不遜で、けれど、何よりも力強い誓いだった。私の孤独な世界を根底から揺るがす、熱い響きだった。

私が言葉を失っていると、不意に周囲の空気が変わった。祭りの喧騒の中に、明らかに異質な、冷たい気配が混じる。数人の、白い狩衣をまとった男たちが、私たちを遠巻きに取り囲んでいた。陰陽師――水鏡神社に仕える、呪いやあやかしを専門とする者たちだ。


「――鬼神よ。その方をこちらへお渡し願おうか。その方は、我らが神社の『至宝』にて」


リーダー格の男が、扇子で口元を隠しながら言った。その目が私を「人間」としてではなく、「道具」として見ているのがわかった。

黒焔は私を背中に庇い、心底つまらなそうに鼻を鳴らした。


「至宝、だと? このような牢獄に閉じ込めておきながら、よく言えたものだ。断る」


「ならば、力づくで奪い返すまで」


陰陽師たちが一斉に印を結び、式神の鴉を放つ。しかし、鴉たちが黒焔に届くことはなかった。彼がただ一瞥しただけで、全ての式神が黒い塵となって霧散したのだ。


「なっ……!?」


「興醒めな奴らめ。祭りの邪魔をするな。――失せろ」


黒焔の体から、凄まじい妖気が迸る。それは陰陽師たちの結界を紙のように引き裂き、彼らを木の葉のように吹き飛ばした。もはや、抵抗できる者はいなかった。

静けさが戻る。黒焔は何事もなかったかのように、私の手を取り直した。


「さあ、帰るぞ。俺の家に」


「あなたの、家……?」


「そうだ。あのような牢獄に、二度と戻しはせん」


彼の大きな手に引かれながら、私は初めて、自分の意志で一歩を踏み出した。この手を取れば、私の運命は変わってしまうのかもしれない。けれど、それでもいいと思えた。私の呪いを「些細なこと」と言い切り、世界から私を守ると誓った、この不遜で優しい鬼神のそばに、もう少しだけ、いたいと。

初めて感じた人の熱は、思ったよりもずっと、温かかった。

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