呪いが届かぬ男
昨夜の求婚は夢だったのか。そう思う私の前に、鬼神・黒焔は再び現れた。彼は結界をものともせず、私を外の世界へと誘う。その強引な優しさに、私の閉ざされた心は戸惑い、揺れて…。
昨夜の出来事は、きっと悪い夢だったのだ。あまりの孤独に、私が見てしまった幻。そう自分に言い聞かせ、私はいつも通りの一日を始める。冷たい食事を口に運び、誰とも会わずに書物を読む。変わらない、灰色の日々。けれど、心のどこかで、あの金の瞳の残像がちらついていた。
陽が傾き、離れに夕暮れの影が落ち始めた頃。その静寂は、いともたやすく破られた。
「息災か、俺の巫女よ」
縁側に、昨日と全く同じように、黒焔が立っていた。幻ではない。彼は悪びれもせずに中へ入ってくると、私の前に風呂敷包みを一つ、ことりと置いた。
「都で評判の菓子だ。食え」
「……なぜ、ここに」
私は風呂敷包みには目もくれず、彼を睨みつけた。昨日あれほど近づくなと言ったはずだ。私の呪いを、本当に理解していないのだろうか。
「言ったはずだ。お前を嫁に貰いに来たと。夫が妻の元へ通うのは、当然のことだろう?」
「妻ではありませぬ! それに、あなたには私の呪いが効かなかったとしても、この離れの調度品や、あなたが持ってきた菓子に私の不幸が移ったらどうするのですか!」
私の必死の訴えに、黒焔は心底おかしそうに喉を鳴らした。
「案ずるな。俺の物に触れられるほどの呪いなど、この世には存在せん」
その絶対的な自信。彼は本当に、この世の理の外側にいる存在なのだと思い知らされる。彼は構うことなく、私の隣にどかりと腰を下ろした。近すぎる距離に、私の心臓が跳ねる。肌が触れ合わなくても、彼の体から発せられる熱が、私の冷えた空気をじりじりと侵食していくようだった。
それからというもの、黒焔は毎日のように私の離れへやってきた。ある時は美しい絹の着物を、ある時は見たこともない異国の果物を。私はその度に彼を追い返そうとするが、彼は柳に風と受け流し、私の隣に居座り続けた。
その日、都の方角で小さな火の手が上がったのを、私は予知した。蔵が一つ燃えるだけの、小さな火事。けれど、私は役目を果たすため、その方角と時間を紙に記し、本殿へと知らせる。すぐに、私の手柄を自分のものにした神官が、さも自分が予知したかのように振る舞い、褒賞を受けている気配が伝わってきた。いつものことだ。私の力は、こうしてただ搾取されるだけ。
やりきれない思いに俯いていると、いつの間にか隣にいた黒焔が、静かに言った。
「腹立たしいか」
「……いいえ。これが私の役目ですから」
「嘘をつくな。お前のその瞳の奥では、怒りの炎が揺らめいている」
彼の金の瞳が、私の心を見透かすように細められる。私は唇を噛んだ。そうだ、腹立たしい。悔しい。けれど、それを口にしたところで何が変わるというのか。
「お前ほどの力を持つ巫女が、このような場所に閉じ込められているのは、宝の持ち腐れだ」
黒焔は立ち上がると、私に向かって手を差し伸べた。その手は、大きく、節くれだっていて、けれど不思議な力強さに満ちていた。
「来い、静月。俺がお前を外へ連れ出してやる」
「外へ……?」
「そうだ。都の祭り、夜空を彩る花火、美味い酒。お前がまだ知らぬものが、この世界には溢れている。それらを、俺が一つずつ見せてやる」
彼の言葉は、甘い毒のように私の心を痺れさせた。外の世界。私がずっと昔に諦めた、手の届かない場所。もし、この手を取れば、そこへ行けるというのか。
けれど、怖い。私が外へ出れば、誰かを不幸にしてしまうかもしれない。その恐怖が、私の足を縫い付ける。差し伸べられた彼の手と、私を縛る見えない鎖の間で、私の心は激しく揺れ動いていた。