月下の来訪者
「触れた相手に不幸をもたらす」呪いを背負い、孤独に生きる巫女・静月。そんな私の前に、帝都最強と恐れられる鬼神が現れた。呪いをものともしない彼からの突然すぎる求婚に、私の運命が揺らぎ始める。
私の名は、静月。水鏡神社の名を冠する、巫女の一族の末娘。けれど、その響きが持つ清らかさとは裏腹に、私の存在そのものが「呪い」だった。
『――触れたる者に、等しく不幸を運びし者』
物心ついた時から、私はそう呼ばれてきた。私の肌に直接触れた者は、軽い者で病に倒れ、重い者では命に関わる災厄に見舞われる。かつて、幼い私をあやそうとした乳母は高熱に浮かされ、私を庇って転んだ兄は、その足が二度と動かなくなった。
それ以来、私は誰にも触れることなく、そして誰からも触れられることなく生きてきた。住まいは、本殿から遠く離れた朽ちかけの離れ。食事は扉の前に置かれ、言葉を交わすのは、私に唯一の役目を与える時だけ。その役目とは、この呪われた力を使って、都に災厄をもたらす「咎人」の居場所を予知すること。私の不幸の力が、人の不幸を探し当てる。皮肉な話だった。
今日もまた、月が空の頂点に昇る頃、私は予知の儀式のために身を清めていた。冷たい水が肌を打ち、孤独が骨身に沁みる。白い装束をまとい、鏡の前に座る。そこに映るのは、血の気の失せた白い顔に、色のない唇、そして全てを諦めたような黒い瞳を持つ、十六歳の娘の姿。
「……始めます」
誰に言うでもなく呟き、私はそっと目を閉じた。意識を集中させ、呪われた力の波紋を都全体に広げていく。私の内なる不幸が、外にある同質の不幸と共鳴するのを感じる。息が詰まるような、おぞましい感覚。早く、早く見つけて、この苦しみから解放されたい。
その時だった。
「――ほう。これが水鏡の呪われ巫女か」
低く、それでいて朗々と響く声が、静まり返った離れの空気を震わせた。ハッと目を開けると、開け放った縁側の向こう、月光を背にして、一人の男が立っていた。
ありえない。この離れには、強力な結界が張られているはずだ。だというのに、彼はまるで我が家の庭を散歩でもするかのように、そこにいた。漆黒の着流しは闇に溶け込み、覗く肌は夜を映したように白い。腰には長大な太刀。そして何より目を引いたのは、額から生えた二本の短い角と、獣のように鋭く、それでいて愉悦に細められた金の瞳だった。
人ではない。彼は「あやかし」。それも、これまでに感じたことのない、途方もなく強大で、危険な気配を放っていた。
「何者です……。この結界を破って、何の用です」
私は震える声で問いかけた。逃げなければ。そして、触れてはならない。この者がどれほど強大でも、私の呪いに触れれば、ただでは済まないだろう。
男は私の警戒を意にも介さず、面白そうに口の端を吊り上げた。
「鬼神・黒焔とでも名乗っておこうか。用などない。ただの気まぐれだ。お前の噂を聞いてな。触れると不幸になる、と」
彼はゆっくりと、一歩、私の方へ足を踏み出した。
「おやめなさい! それ以上近づけば、あなたも不幸になります!」
「不幸、か。面白い。試してみようではないか」
彼は私の制止を戯れ言のように聞き流し、ついに私の目の前まで来ると、躊躇なく、その冷たい指先で私の頬にそっと触れた。
「――っ!」
私は息を呑み、絶望に目を閉じた。ああ、まただ。また私のせいで、誰かが不幸になる。たとえ相手があやかしだとしても、この罪悪感からは逃れられない。
しかし、いつまで経っても、何も起こらなかった。悲鳴も、苦悶の声も聞こえない。恐る恐る瞼を上げると、男――黒焔は、少し驚いたような、それでいて心底楽しそうな顔で、私を見下ろしていた。
「なるほど。これが呪いか。確かに、少々厄介な気配はする。だが、その程度か」
彼はこともなげに言うと、私の頬を撫でていた指を離した。「その程度の呪い、俺には効かんな」
効かない? 私の呪いが? そんなことは、ありえない。私が呆然としていると、彼は私の瞳の奥を覗き込むようにして、不遜に笑った。
「面白い女だ。その呪われた力、その気高い瞳。気に入った。――静月、俺の嫁になれ」
嫁?
理解が追いつかない。あまりに唐突な、そしてあまりに過剰な言葉。私の孤独な世界に、突如として投げ込まれた、熱く、そして荒々しい意志。
「何を……馬鹿なことを……!」
「馬鹿なものか。俺は欲しいものは全て手に入れてきた。お前もだ」
彼はそう言い残すと、姿をかき消すように闇に溶けた。一人残された離れには、彼の強烈な残り香と、私の心臓のけたたましい音だけが響いていた。
呪いが効かない、あやかし。最強を名乗る、鬼神。そして、あまりに一方的な求婚。私の止まっていた運命の歯車が、今、軋みを立てて回り始めたのを感じていた。