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始まり

不存在の記憶――忘れ去られた鮮やかな命を人々に思い出させ、美しい世界を追い求める勇気を再び呼び起こすことを願って。


 

  私は、心を揺さぶる物語を語りたい。人々に素晴らしい世界を追い求める勇気を与えるような物語を。

 後世の人々は、この数百万人もの命を飲み込んだ極めて残酷な戦争が、突然この国に降りかかったと考えがちだ。しかし実際には、戦争の女神の影はすでに公平かつ無慈悲に全ての人の上に覆いかぶさっていた。ほとんどの人はそれに無関心で、日常の無感覚に溺れるだけだった。ごくわずかな人々だけがその事実をはっきりと見抜いていた。彼らは無力で、絶望しながら、避けられない終局を遅らせようと試みたが、知らず知らずのうちに戦火を加速させる役割を果たしてしまった。

 その日は天気が良かった。少なくとも最初はそうだったが、後に悪化しただけだ。初春の天気はいつもこうだ。変わりやすい。

 二人の若者が丘の斜面に静かに横たわり、のんびりと青く澄んだ空を眺めていた。そよ風が軽やかに吹き、彼らの服の裾や髪を揺らし、清々しさと心地よさをもたらした。汚染された環境で働く労働者である彼らにとって、これは極めて快適なリラックス方法であり、酒場で泥酔するよりもずっと良いものだった。

 そのうちの一人がゆっくりと起き上がり、丘の下を眺めた。彼らのいる場所は見晴らしが良く、ここからふもとに広がる町――彼らの故郷であり生計の場であるカルヴィスを一望できた。カルヴィスは豊富な石炭資源により、わずか半世紀で無名の小さな村からこの国の北部で最大かつ最も重要な工業都市へと急成長した町だ。

 その時のカルヴィスは日光に浴し、荘厳で活気に満ち、この黒髪の若者の目には特に愛らしく映った。しかし、しばらくすると、どこかの高い煙突から濃い黒煙が噴き出し、町の上空を覆い、なかなか消えなかった。まるで白い祭服に墨汁をぶちまけたかのように、その愛らしい光景は一瞬にして壊された。

 彼は眉をひそめ、軽くため息をついた。

 その変化に気づいた連れが、しばらくためらった後、低い声で諭すように言った。「ハイド、今の時代、俺たちみたいな貧乏な若者がまともな仕事にありつけただけでも運がいいさ……ましてやお前には母親と妹の面倒も見なきゃならないんだから。」

「分かってるよ。」言葉を最後まで聞かず、ハイドと呼ばれる若者が遮った。口調は穏やかだったが、かすかに頑固さが滲んでいた。

 二人は沈黙に落ち、ハイドは再び連れの隣に横になった。

 連れは我慢しきれず、言い終えていなかった言葉を急いで吐き出した。「ハイド、その考えはやめたほうがいい。お前も俺もこの土地で生まれ育ち、ずっとここを離れたことがない。お前はここにうんざりしてるって言うけど……お前の父親も、俺の父親も、この土地で死んだ。分かるだろ? 俺たちの運命は同じだ――ここで生まれ、ここで死ぬ。」

「もしお前がここを離れたら……生きていけないよ。」

 ハイドは静かに聞き終え、口を開かず、澄み切った空に視線を留め、物思いにふけっていた。

 どれほど時間が経ったか、丘の下から風が吹き上がり、夕暮れの冷たさを帯び、彼らの薄い服の隙間に潜り込んだ。ハイドは思わず身震いし、服の埃を払って立ち上がった。

「カー、寒くなってきたし、時間も遅い――帰ろう。」カーは頷いたが、顔には不安の色が浮かんでいた。明らかに彼は、親友が自分の忠告を完全に受け入れたとは思っていなかった。少なくとも、全てを聞き入れたわけではないと感じていた。

 二人は丘を下り、小道の脇ではヒヤシンスが鮮やかに咲き乱れ、紫の花びらが風に揺れていた。ハイドはしゃがみ込み、ヒヤシンスを摘み始めた。カーはその横に立ち、ハイドの馴染み深い顔が夕暮れの薄暗さで少しぼやけていたが、その頑固さはあまりにもよく知っていた。

 カーは、急に冷え込んだ気温でわずかに震えるハイドの瘦せた体を見ながら、ますます心配になった。こんな弱々しい体で、外の世界でどうやって生きていけるというのか!

 ハイドはヒヤシンスをたっぷり摘むと、突然その花束をカーの鼻先に持っていった。濃厚な香りが押し寄せ、カーは嫌そうに顔を背けた。彼はこの匂いがあまり好きではなかった。ハイドはそれを知っていて、わざとやったのだ。

 二人は顔を見合わせて笑い合い、さっきの重苦しい雰囲気や気まずさが笑い声とともに消えた。結局のところ、彼らは長年の親友であり、若さに溢れ、まだ人生に完全に角を削られていなかった。

 煙が立ち込める酒場の前で、二人は和やかに別れを告げた。ハイドは家に向かい、カーは酒場で一杯飲むつもりだった。

 通りは人々で賑わい、馬車が行き交い、ひときわ活気にあふれていた。ハイドは騒がしい通りをいくつか抜けた。街灯が次々と灯り始めていた。彼は下り坂の小道に曲がった。ふと、注文していた品物がそろそろできているはずだと気づき、しかもそれを受け取れる場所がここから遠くないことを思い出した。彼は足を止め、慣れた様子で家々の間の細い路地――路地というよりは隙間――に滑り込んだ。瘦せた体のおかげで、何の障害もなく通り抜けられた。

 路地の向こう側は薄暗い通りで、突き当たりには7、8段の下り階段があり、その下は低く湿った暗い路地で、不気味なほど静かだった。ハイドは古びた二階建ての家の前に立った。ドアの緑色のペンキは剥げ落ち、「カベの古物店」と書かれた鉄製の看板が打ち付けてあった。夕陽の残光が素朴なドアノブに反射し、微かな光を放っていた。ドアには「閉店」と書かれた木の板が斜めに掛かっていた。彼はノブを握り、捻ってドアを押し開けた。鈴が鳴った。

 雑多な物で埋まったテーブルの上には、煤油ランプがぽつんと置かれ、鼻をつく匂いを放っていた。ハイドは周囲を見回し、叫んだ。「おじいさん、まだ電気引かないの? 煤油の匂いがひどくて、死にそうだよ。」

 窓は固く閉ざされ、分厚いカーテンが外の世界を遮り、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。薄暗さをわずかに払うのは、煤油ランプの黄みがかった光だけだった。店内にはガラスケースが置かれていたが、中は空っぽで埃が積もっていた。常連でなければ、驚くに違いない。

 白髪の老人がどこからともなく現れ、ハイドだと分かると、気難しい口調で言った。「その匂いが嫌なら出てけ。ここにいるな。」

「俺、おじいさんのためを思って言ってるんだよ。もしうっかり煤油をこぼして、この店を燃やしちゃったら、路頭に迷うよ。」ハイドは老人のぶっきらぼうな態度に少しも腹を立てず、明らかに長い付き合いだと分かる様子で答えた。

「呪うなよ。」「おじいさん」と呼ばれた老人はますます不機嫌そうだった。ハイドはそれ以上何も言わず、テーブルの上の物を脇に押しやり、慎重にヒヤシンスの花束を置くと、老人に近づいた。

 ハイドの前には巨大なキャビネットがそびえ、狭い空間の3分の1を占め、煤油ランプの光が届かない壁の隅に寄りかかっていた。ハイドはその前に立ち、外側の薄い木板がすでに開けられ、雑多な物が足元に散乱していた。そこから、煤油とは異なる匂い――樟脳と紙の独特な香りが混ざったもの――が鼻をついた。キャビネットの奥の棚には、整然と本が積まれていた。

 石炭で栄えたこの工業都市では、本や読書をする人は少なく、重要視もされていなかった。それは貧しい労働者の家庭ではなおさらだった。それなのに、この狭く埃だらけの古物店にこれほど多くの蔵書があるのは、なんとも奇妙だった。

 老人は閉店後の空き時間を利用して店を整理していたらしい。彼は分厚い本をハイドに手渡した。ハイドはそれを受け取り、光のある場所で本をじっくり眺めた。

 それは正式に製本されていない黒い表紙の厚い本で、表紙には書名も著者名もなかった。一目で、何度も人の手を渡ったものだと分かった。綴じられた側はほつれかけていた。

 だからさっきおじいさんが慎重に渡してきたんだな、とハイドは思った。表紙を開くと、扉ページには斜めにこう書かれていた:

「尊敬する我が師と、愛する人に捧ぐ」

 平凡な献辞だった。ハイドは気なくページをめくった。しかし本文に目を落とした瞬間、彼の視線が鋭く止まった。ページの文字は乱雑で鋭く、まるで著者が何かに急かされるようにペンを走らせたかのようだった。彼はさらに数ページめくり、老人を見上げた。

 老人はテーブルの上のヒヤシンスをじっと見つめ、ハイドの視線に気づくと、かすかに微笑んだ。

「これは写本だ。いや、もしかしたら原稿かもしれない。おじいさん、どこで手に入れたんだ?」印刷技術が普及した今、写本は珍しく、こんな乱雑な筆跡には異様な力が宿っている。写本であれ原稿であれ、その価値は計り知れない――誰が無価値な本をわざわざ書き写すだろう? しかも、この本は数世紀も古いものではない。

「旅商人から買ったんだ。いろんな物を売り歩くやつからな…」老人は曖昧に答えた。どうやら本の出どころを詳しく話したくないらしい。ハイドもそれ以上は尋ねなかった。ただ、慎重に本をめくった。

 ハイドは、行間から危険な雰囲気が漂い、禁忌の真実を囁いているような感覚を覚えた。

 老人は服で手を拭き、そっと花束を手に取った。さっきからこの花に興味があるようだった。「山に登ったのか? 町のヒヤシンスはもう枯れてるぞ。」

「うん、カー・シャペルと一緒に行ったんだ。」ハイドは本をそっと閉じ、「工場が簡単に休みをくれるわけないだろ? 経済が落ち込んだ時以外は、朝から深夜まで人を機械みたいにこき使うんだから。」

 彼は何かを思い出したのか、口元に笑みを浮かべた。「工場長が休みを発表した時のあの顔、知ってるか? 特にあの嫌われ者の監督の顔ったら、みんなくそくらえのレモンを飲み込んだみたいだったよ。苦いんだか笑ってるんだか分からない顔でさ。」

「まあ、ルールだからな。上流階級のいつも偉そうな連中だって、そう簡単には破れないさ。」老人は鼻で笑った。

 毎年この日、カルヴィスの大小の工場は1日操業を停止する。どうしても稼働が必要な工場では、経営者たちが「慈悲深く」普段の賃金の何倍もの報酬を労働者に与える。

 これがカルヴィス独特の「祝日」だ。

 その由来については諸説ある。ある者は、カルヴィスの市長が晩年に子を授かったことを祝い、権勢を振るって全市に休日を命じたのだと言う。また、敬虔な信者は、教皇がこの地を訪れたことを記念するものだと主張する。若者たちは王室の秘密をでっち上げるのが好きだ。地元の古老だけが真相をぼんやり知っているが、いつも口を閉ざし、「ルールだから」と言うだけだ。

 ハイドは何か知っていそうなこの老人を見た。老人は自らをカベ・イガリアと名乗り、60歳を過ぎていた。白髪に覆われた頭だが、熊のような頑丈な体躯で、背が高く肩幅が広かった。顔にはナイフで刻んだような深い皺が刻まれ、灰青色の目は狡猾な光を放ち、いつも目を細めて人を見ていた。

 彼の過去は誰も知らない。ハイドの目には、彼は小説で読んだ、辺境に隠居する老冒険者のようだった。

 カベ・イガリアは労働者地区の端にあるこの古物店を長年一人で切り盛りし、他人とあまり交流せず、なぜかハイドと年の離れた友人になった。二人は意気投合していた。

 きっかけは、貧しさゆえに学校を中退した少年が、苦しい現実から逃れるために本を借りようとしたことだった。それが、未知の世界への扉を開き、神秘的な雰囲気を漂わせる老人との出会いにつながった――そこで、彼の運命は静かに変わり始めた。

 それはある秋の午後、この季節ではない、晩秋の昼下がりだった。ドアには「閉店」の札が掛かり、カベはいつものように店内の整理をしていた。

 ドアが「キィ」と開き、鈴が鳴った。黒髪の少年が怯えた様子で入ってきた。12、13歳ほどで、顔は青白く、瘦せていた。彼は入り口に立ち、か細い声で言った。「あの、すみません……ここにある本、借りてもいいですか?」

 カベは最初、何を言ったか聞き取れなかった。少年はもう一度繰り返した。カベは眉をひそめ、慎重に尋ねた。「誰に聞いた? 俺のところに本があるって?」彼はゆっくり立ち上がり、目を細め、低い声で言った。

 少年は背が高く頑丈な男を不安そうに見つめ、顔がさらに青ざめ、服の裾をぎゅっと握った。

 カベは何かおかしいと感じた。「憲兵のスパイか? …いや、子供をよこすわけがない。」彼は平静を装い、続けた。「お前、こんなところに来て何をしようってんだ?」

 少年はうつむき、震えながら黙っていた。カベは少し考え、作業を中断し、落ち着いて近づいた。左手はそっと作業ズボンのポケットに滑り込んだ。彼は少年の前に立ち止まった。少年がゆっくり顔を上げ、目には涙が溢れていた。

 カベの胸に衝撃が走った。ある亡魂の影が脳裏をよぎり、ポケットで握りしめていた手が緩んだ。

 少年は泣きそうな声で言った。「お願いです……母には言わないでください。こっそり来たんです。」言葉を終えると、またうつむき、小さくすすり泣いた。

 カベはしばらく黙り、大まかな事情を察した。彼は小さなスツールを持ってきて「座れ」と言った。さらに熱いお茶を差し出した。

 少年はスツールの滑らかな縁をそっと撫で、小さくお茶を飲み、欠けた緑釉のティーカップを握り、緊張が徐々に解けていった。

 落ち着くと、少年は途切れ途切れに事情を話し始めた――その日、彼は工場の裏通りを歩き、売れそうな廃品を探していた。店の裏のゴミ捨て場で、壊れた金属のほかに、ボロボロの本の表紙をいくつか見つけた。

 本能的に、彼はこの店に何かがあると感じた。荒れ果てた心の荒野を照らす微かな光があるかもしれないと。

 その日から、この場所は彼の心に忘れられない印象を残した。

 今日、なぜか急に心が動いた。彼はこっそり家を抜け出し、店の前で長いことためらった後、勇気を振り絞ってドアを押した。

 だが、カベの威圧的な体躯と厳しい目に怯え、言葉が出てこなかった。カベは話を聞き終え、念のためもう一度尋ねた。「本当だな、誰もお前をよこしてないな?」

 少年はカベがまだ疑っていると感じ、歯を食いしばり、右手を上げ、真剣かつ興奮した口調で言った。「誓います――もし誰かに無理やり来させられたなら、死んだら地獄に落ちます。」

 少年の顔は依然として青白かったが、黒い瞳には確固たる決意が宿っていた。カベはもう疑わなかったが、少年がかつての知人にあまりにも似ていることに気づき、心の古傷が疼いた。彼は部屋を歩き回り、過去の記憶に沈んだ。

 突然、少年が小さな声で言った。「この椅子、すごく綺麗ですね。」

 カベは一瞬呆然とした。振り返ると、少年がスツールの縁を撫で、純粋な愛着の目を向けていた。「気に入ったか? この椅子は俺が自分で作ったんだ。」

「本当ですか? 木工までできるなんて……すごい! すごい!」少年は心からの称賛を隠さなかった。

 カベはその素朴な賞賛に心を動かされた。固く閉ざしていた心が少しずつ柔らかくなった。

「ずっと『旦那』なんて呼ぶな。」彼は微笑み、「『カベおじいさん』でいい。お前の名前は?」

「ハイド・コールファーです。」知らない姓にカベは一瞬失望したが、すぐに気を取り直した。

「本を読むのが好きなんだな?」

「はい、すごく好きです。でも家は貧しくて本を買えません。母も雑多な本を読むなって、職人にちゃんと弟子入りしろって言います。」ハイドが言った。「お前の父親は? なぜ学校に行かせなかった?」

「父は死にました。何年か前の鉱山事故で。」ハイドの表情が暗くなった。カベはすぐに謝り、他の家族はいるかと尋ねた。ハイドには妹がいるが、父親の死後に生まれた遺児だ。カルヴィスには他に親戚がおらず、母は一人で二人の子を育てていた。貧困ゆえ、ハイドは早くに学校を辞め、母が働く織物工場のボイラー室で徒弟として働いていた。

 カベは少年を哀れに思った。秋も深まり、寒風が吹く中、ハイドは薄い服を着ていた。服は古びていたが、きれいに洗われ、補丁の縫い目も細かかった――カベは知っていた。これは母親が子に与えられる最も尊い愛だ。

「暮らしが苦しくなければ、どの親が子にこんな早くから重荷を背負わせるだろう?」カベは何十年もの人生で、貧しい家庭の苦労を数え切れないほど見てきた。

 誤解が解け、ハイドは空気を読んで立ち上がり、帰ろうとした。カベはこの子に好感を抱いていた。瘦せた体を見て、思わず言った。「ハイド、実はここに本がいくつかある。読みたいならいつでも来ていい。それに……字も教えるよ。まだあまり読めないだろ?」

 ハイドは耳を疑い、喜びで目が輝いた。

 カベは屈み、ゴツゴツした左手を差し出し、真剣に言った。「ただし条件がある。一つ、ここのことを他人に話さないこと。二つ、母さんに隠れて来ないこと。同意するなら、男同士の約束だ……手を叩いて誓え。後悔は許さん。」

 ハイドは迷わず右手を差し出した。

 幼い手と荒々しい大きな手がぶつかり、「パチン」と澄んだ音が響いた。この一撃が、二人の生涯の友情の始まりになるとは、誰が想像しただろう。

「おじいさん、おじいさん、頼んでた物はできた?」ハイドの声がカベを思い出から引き戻した。

 カベは口元の柔らかい笑みを抑え、わざと厳しく叱った。「騒々しいぞ、静かにしろ。」

「おじいさん、何度も呼んだのに反応ないんだから、大きく叫ぶしかないじゃん。」ハイドは不満そうにつぶやいた。

 カベは無視し、軋む木の階段を登って二階へ行った。ハイドは階下で静かに待った。

 しばらくして、カベは長方形の物体を慎重に抱えて降りてきた。ハイドは顔を上げ、からかった。「おじいさん、目がいいね。こんな暗い階段を平気で歩けるなんて、俺なら絶対転んでるよ。」

「ふん、若い頃は夜でも100メートル先が見えたさ。」カベは口元を上げ、言いながら物体を渡した。

 ハイドは本を置き、受け取ったが、開けようとしてもびくともしない。カベが方向を指すと、ハイドは気まずそうに笑った。角度を変え、「パチン」と蓋が開き、小さな仕切りがせり上がった。木箱は巧妙な構造で、職人技が光っていた。

 それは精巧な自動鉛筆ケースだった。蓋には亜麻の花が彫られていた。

 ハイドはそれを見下ろし、柔らかい目で言った。「これでリンナにも自動鉛筆ケースができた。学校で『妹は鉛筆ケースもない』なんて言われなくなるよ。おじいさん、本当にありがとう。」

 カベは手を振って、淡々と答えた。「こんなの、たいしたことない。」

 ハイドは壁の古い木製時計を見上げた。「もう遅いよ、おじいさん。帰るね。この本、面白そうだから家で読んでもいい?」

 カベは頷き、慎重に扱い、他人に見せるなと念を押した。ハイドは一つ一つ承諾した。

 カベは低い軒下に立ち、ハイドの背中が遠ざかるのを見送った。あの怯えながら店に入ってきた少年は、今や人生の嵐と闇に一人で立ち向かい始めていた。

 そして自分は老いた。歳月はかつての強靭な体と確固たる信念を静かに緩めた。捨てられない過去は、今なお重く心にのしかかっている。

 彼は心の中で呟いた。この子はどこまで行けるのだろう? 俺の果たせなかった願いを背負えるのだろうか?

 カルヴィスの夜は静かで深く、星が瞬き、月光が清らかだった。

 カベは時間の流れる音を静かに聞き、湖のような心は波立たなかった。長い後、彼は振り返り、そっとドアを閉めた。「カベの古物店」の鉄の看板は、銀白の月光に温かな光を放っていた。

 

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