5話 消えない気持ち
戻ってきたイチヤは薬草を目の前で煎じ、見ず知らずの自分が作った薬の安全性を伝える為にまず自分が飲んで見せる。その後男爵の首に腕を回して支えながら微かに空いた口に薬湯を流し込んだ。それから一時間経った頃には男爵の呼吸は安定し、顔色も血色が戻っていた。容体が落ちついたのを見て、イチヤとアザミは帰ることにしたが、念の為医術師は今日のうちは滞在しておくらしい。
日が落ち始め空がオレンジ色に染まる頃、イチヤとアザミは男爵家を後にした。
「グレイ伯爵家のお嬢様と伯爵のご友人の方だったとは。医術師の先生に来てもらえるよう取り計らってくださった事も、薬湯を煎じて下さったことも、見ず知らずのうちの主人の為に、本当にありがとうございます」
「あの男から薬を受け取っていたら、私がお父様の病状を危くしていたかもしれない。
助けてくれてありがとう」
男爵夫人に続きイザベルも礼を述べ深々と頭を下げる。
「あの医術師先生は王都に住んでいるし、俺も暫くはマツカゼ地区のグレイ伯爵邸に滞在しているから、何か気になることがあれば連絡してくれ」
イチヤが夫人に挨拶する隣で、イザベルはアザミに向き直る。
「アザミ、助けてもらった身でおこがましいかもしれないけれど、王都に来た際はまたうちにいらして。その時は今日の分も合わせて目一杯もてなすから」
アザミの固い掌とは違う、細く柔らかい女性らしい手をしたイザベルの手がアザミの手を取る。
芯のある瞳が真っすぐにアザミを見つめる。ただその瞳は初対面の時のような批判的な色はなく、友好的な相手に向ける柔らかい眼差しだった。イザベルに言ってもらった言葉を胸に抱きながら、イザベルの手を握り返し、アザミは込み上げてくる嬉しさに微笑んだ。
「こちらこそありがとう。また会おう、イザベル」
◇◇◇◇◇
「いつの間にあの令嬢と仲よくなったんだ、何かあったのか?」
男爵家を後にして並んで歩いていると、ふとイチヤが訊ねてきた。
「んー?秘密」
茶化すように返すとイチヤが立ち止まった為どうしたのかと振り返る。すると不意に頬を片手で鷲掴まれ、顔を覗きこまれる。
「うぐっ」
「男爵家では言わなかったけどな、顔のその傷、それに服の所々あるほつれ。
何かあったんだろうが、見逃すと思ってんのか」
ジトリと見られてその圧に思わず目を逸らす。
「いひゃいって!」
傷を避けて触れられているもののイチヤの腕を叩いて抗議すればすんなり離してくれた。頬を摩りながら恐る恐るイチヤを見上げるとジトリとした目で尚見下ろしながら低い声で唸るように言う。
「変なことに首つっこんでねえだろうな」
「…後で話す」
「お前な…!」
「色々あったの。でもちゃんと、兄様とイチヤに話すから」
イチヤは片眉を上げた。
「…本当だな?ばっくれたら首根っこ掴んでリンドウの前に連れていくぞ」
「本当。それに2人に他にも話したいことがあるし」
ほんの少しの沈黙の後、イチヤは溜息を溢す。
「はあ…わかった。じゃあ後でな」
アザミが幼い頃から知っていて身内のような感覚があったイチヤは自分が不在の間についてしまったアザミの顔の傷が気になっていたが、これ以上の言葉は今は言わないでおこうと飲み込ん
だ。2人で保留にしていた買い物を済ませて、頷けていた馬を引き取ると夕日が空を染める中、ゆっくり帰路を歩いて行った。
◇◇◇◇◇
夕食後、客間に移動するとまずはリンドウへ男爵令嬢イザベルと出会った経緯について説明した。イチヤには説明済だったが、改めて聞いたイチヤは微かに眉を顰める。
「水に浸しておくと毒素で赤い液体になり、甘い匂いが出る。――マハカの花の毒だな。
アザミが男から匂いがしたのに気づくくらい印象強い匂いっていう点で間違いないだろうな。
しっかしお前…よく覚えてたな、森に入ったときに豆知識程度に言ったものなのに」
感心したように目を瞬かせるイチヤにリンドウが自慢気に頷いた。
「アザミは昔から記憶力がいいよね、僕もアザミが昔話を覚えていた時びっくりしたな」
イチヤはジトリと目を細めてリンドウを見た。
「おい兄様、今は思い出話が目的じゃねえの」
窘められたリンドウは小さく笑ってごめんごめんと軽く流すように言う。
「んで、俺がいない時に怪我した経緯だが」
イチヤに促され、アザミはイチヤが出た後、手がかりを探しに外出したこと、そこで例の男と対峙し抗戦したこと、危ないところをシクラム騎士団の人に助けてもらったことを順を追って説明した。正面の3人掛けソファーに座る2人の顔色は徐々に雲行きが怪しくなり、ヒリヒリと感じる無言の圧に絶えられなくなったアザミは2人から目を背けた。
話し終えた後2人から雷が落ちたことは言うまでもない。
背筋をピンと伸ばし、何年かぶりに聞く2人の重い声に冷や汗が止まらなかった。シクラム騎士団のイチヤにそっくりな青年について話そうとしていたが頭のどこかに追いやられていった。
「アザミの剣の腕前の話をしているわけではないよ。殺意を持った者を相手にするのは大会や稽古とは訳が違うんだ。
明らかに危険が伴うものに1人で入っていくのはやめてくれ。僕も心臓がもたない」
リンドウの瞳が波紋を浮かべる水面のように揺れている。
右手を左手で掴みながら窘めるように言葉を紡ぐ姿を見て胸がチクリと痛んだ。
今から15年前、リンドウとアザミは何の前振れもなく突然両親を亡くした。赤子だったアザミよりもリンドウの方が強く記憶に残っているはずで、“急に誰かがいなくなる恐怖”を何よりも恐れているのかもしれない。リンドウの瞳の揺れにアザミの胸も波打つ。リンドウやイチヤが自分の身を案じて窘めてくれているのだと感じて2人へ頭を下げた。
「危険とわかっていたのに1人で動いてしまって…ごめんなさい」
リンドウとイチヤは目を合わせる。リンドウの口元がフッと緩んだのを見て、イチヤは立ち上がり、アザミの隣へ腰を下ろすアザミの頭に優しく手を乗せると、横目にこちらを見上げている不安気な顔へ微笑みかけた。
「おう、反省したなら良し。な、兄様?」
「うん、これでこの話はおしまい。それよりイチヤ、なんで席移動したの」
「可愛い妹分をなぐさめてやろうと思って。なんだやきもちか?」
微笑みを浮かべながら向けられたリンドウの視線に圧があるのを知ってか知らずか、アザミの頭を撫でたままイチヤはからかうように返した。
「ねえ、兄様、イチヤ」
2人を呼ぶと直楳視線が向けられ「ん?」と次の言葉を優しく促される。
「2人は、私に剣をやめてほしいって思う?」
意外な問いだったのか2人は目を見開いていた。
けれどすぐにその目を細めてリンドウはふわりと包みこむように、イチヤはニンマリとからかうように笑みを浮かべた。
「思っていないよ。心配は尽きないけど、イチヤがいない時も毎日血豆つくりながら稽古を続けているのを見ているからね」
「俺も同じく。そもそもお前が剣を教えてほしいって言ったときに俺は何回も止めたけど諦めなかったのはアザミだろ」
リンドウとイチヤの言葉に握った拳に力が入った。
「今日初めて、剣をやってて恐いって思った。癖も技量も分からない知らない相手と剣を交えて、どうしたらいいかわからなくて必死で、手が冷たいのに手汗が止まらなくて剣を取り落としそうになった。剣を突きつけられて息が止まるかと思った。けど…それでも、消えなかったの。
剣を続けたい、騎士になりたいって気持ちが」
「「!」」
背筋を伸ばし隣のイチヤ、正面に座るリンドウを見る。
1人で剣の稽古を続けたり、危なくなれば手を止めてくれるイチヤと手合せをするのと実戦とでは訳が違う。心臓が耳の横で鳴り続けて体は熱いのに手は冷えて、自分の体が自分のものじゃなくなる感覚が脳裏に貼りついて離れない。でもどんなに怖くても、リンドウやイチヤに心配をかけてしまうとしても、エーデルワイスの栞を胸に抱いた頃から芽生えた気持ちは消えなかった。
「いつか、父様と同じ勇敢な騎士の称号を贈られるような騎士になりたい、いつか同じシクラム騎士団の団服を着たいと思ってた。
私、騎士を目指したい」