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小瓶とタオル。すぐにピンと来た。オイルマッサージである。母親の意図に気づいたエルフリートは両手を突き出して大きく頭を振った。
「お母さま、それはちょっと!」
「あら?」
アデラはタオルを応接スペースのテーブルへ置き、フットレストの位置を調整している。ベッドの上でのオイルマッサージかと思いこんでいたエルフリートは、彼女の動作に疑問を抱いていたが、最初に浮かんだ案に対する反応が口をついて出ていってしまう。
「親子とはいえ異性なのですから配慮というも――」
「誰が全身マッサージすると言ったかしら」
ぴしゃりとエルフリートの発言を否定したアデラが振り返る。その顔には大きな呆れが。
「いくら私でもそこまではやってあげられないわ。足と手に決まっているでしょう」
「え?」
アデラは優秀な貴族の女である。辺境泊と結婚しなければ、王女の侍女を務めていただろう。王女の侍女となるべく教育も受けていたアデラは、ひと通りの侍女仕事を習得していた。
彼女の能力は疑うべくもない。辺境伯夫人として、この屋敷を仕切っている手腕を見れば分かる。
今日だって、工事関係者の受け入れをこなして大変だったはずなのに。エルフリートの事を労おうとしている。
「私がフットマッサージの準備をしているのが、見えないのかしら?」
からかうような口調だが、その表情は穏やかで優しい。慣れない仕事をこなしている自分の子供への愛情を感じさせる。
彼女はフットレストに持ってきていたタオルの一枚をかけて、汚れないように保護した。
「あなた、ずいぶんと大きくなってしまったのだもの。全身をマッサージするには、この小瓶じゃ足りないわ」
くすくすと笑うアデラが「ほら、どうぞ」と椅子を示す。
アデラに座るように示されたエルフリートは、おとなしく椅子に腰かけ、タオルが敷かれたフットレストに右足を乗せる。
床に置いたクッションの上に座った彼女は、手のひらにオイルを出して、手になじませた。
「始めるわよ。痛かったら早く教えてね」
「はぁい」
アデラの手のひらで温められたオイルがエルフリートの足に塗られていく。温めてきたのか、アデラの手はほかほかとしていて、触れられているだけでもほっとする。
膝のあたりまでオイルを伸ばし終えた手が、優しく膝裏を刺激する。そうして始まったマッサージはとても心地よい。
足の裏はもちろん、足指までしっかりと揉まれている。
エルフリートは絶妙な力加減で揉んでくる母親の妙義に、ほう、と息を吐いた。揉まれる場所のどこもが、ごりごりとしている。足の裏は特にそうだ。
アデラが「あらあら、本当にお疲れ様ね」などと言いながら指圧を強めてくる。痛気持ちいい。
「フリーデ」
「何ですか?」
そういえば、母親とこうしてゆっくり過ごすのは久しぶりだ。エルフリートはまどろみそうになるのを耐えて返事した。
「ちゃんと休んでいるのかしら?」
「え?」
「あなたの体、公務でくたくたになった王女様みたいだわ」
何その例え方。エルフリートは頭の中に遠い過去、王族のお茶会に招かれた時の事を思い出す。煌びやかな王女様。優雅な生活だけを見れば、くたくたになるという言葉に違和感を覚える人間もいるだろう。
だが、実際はそうではない。彼女たちは想像以上に忙しい日々を送っている。
女性騎士団の人数が増えれば、いずれは王女の護衛を、と打診されていたから知っている。王女というものは、王子とは違った意味で気の抜けない職業であった。
スケジュールを聞いた時、聞き間違いかと思ったもん。そんな彼女と同じ疲労度合いだと言われると、どっと疲れが押し寄せてくるようだ。
エルフリートは「そっかぁ……」と上の空で返事をし、うたた寝してしまうのだった。
「あまりやりすぎると、それはそれで明日に響いてしまうから、ほどほどにしておくわね」
「……あれ?」
いつの間にかマッサージされている足は左に変わり、全身がぽかぽかとしていていた。あくびを一つこぼしたエルフリートは、必死に瞬きを繰り返して眠気を飛ばす。
エルフリートのそんな姿を見てアデラが小さく笑った。
彼女は魔法で蒸しタオルを作り、エルフリートの足を丁寧に拭いていく。指先や指の間まで、抜け目なく拭いてくれる。
多少の拭き残しがあっても気にしないのに。まるで、自分が本物のお姫様になったみたいだ。
大切にされている事を強く実感すると、忙しいからと実家戻ってきているにも関わらず、会いに行きもしなかった自分の親不孝ぶりを後悔した。
顔を見せにいかなかったから、こうやって時間を取ってくれたのだろう。
「お母さま」
「なぁに?」
「……ありがとう」
「ふふ……どういたしまして」
仕事の事や、結婚式の準備でしか話しかけなかった。今回の工事に至っては、挨拶しかできていなかった。
普段遠い場所で生活しているのだから、近くにいる時くらい、自分が孝行すべきだったのに。目元に水気が集まってきてしまい、慌ててそれを引っ込める。
「お母さま、あのね……今日はぐっすり眠れそう! 今度は私がマッサージしてあげる」
「あら、楽しみにしているわ」
ごめんなさい、と言ってしまいそうになったエルフリートは、なんとか笑顔でそれを誤魔化すのだった。