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リカルドの方向音痴を修正させる精神魔法をかけたエルフリートは、オズモンドを作業に戻るように言ってからしばらくリカルドの作業を見守る事にした。
彼の集中力は素晴らしく、また、エルフリートがかけた魔法のおかげで必要以上の動きをしなくて済むようになったおかげで作業スピードはなかなかのものだ。
遅れを取り戻すかのようなスムーズな作業に、エルフリートは感心していた。
エルフリートの存在も何もかも忘れているかのように、いや、実際忘れてしまっているのだろう。リカルドは黙々と作業を続けている。
エルフリートはその様子を見守りながら、崖側の安全柵についての考えをまとめていた。
簡単で低工程数、それでいて確実な効果がある柵を作る。そうでなければ、工事の作業許可が下りないし、効果のない柵を作るのは無意味だ。
工事をする本来の目的はいざという時の為であるが、安全性が高まるのであれば、より良いに決まっている。
「難しいなぁ……」
エルフリートは呟いた。理想は人間の身長よりも高く、騎乗した人間よりも高く、柵を伸ばしたい。でも、それは難しい。
そもそも、冬になると当然吹雪く。そうすると、柵の間に雪が積もって巨大な壁ができあがる事になる。そうなれば、この道路はトンネルとなってしまう。
となると、やはり照明が必要となるだろう。暗くなる事を想定して道を作るのであれば、それ相応の対応が必要だ。
それに、作業工程の問題もある。大掛かりになれば大掛かりになるほど、工程数が増えてしまう。
どこかで折り合いをつけなければいけないのだが、その妥協点がいまいち分からない。
「あーん、分かんなぁぃ……!」
これは駄目だ。親方に全部丸投げしよう。エルフリートは何とか頭をかきむしりそうになるのを堪えながら、考える事を諦めたのだった。
今日一日、大変だった。風呂上がりのエルフリートは、エルフリーデのベッドの上で行儀悪く両手両足を開いて寝転んでいた。
工事の初日だから、と比較的早めに作業を終えた一団は、カルケレニクス領主の屋敷で今夜はゆっくりと過ごす事になっている。エルフリートも例に漏れず、その一人としてのんびりとしているわけだ。
乙女らしい甘さはほどほどに、意外と大人しい内装をしている妹の部屋。エルフリートは慣れとは恐ろしいものだと思いながらも、完全に自室にいる時のようにリラックスしてしまっている。
「ふふ。こんな姿見られたら、怒られそう」
あまりのだらしない姿に、真面目なエルフリーデは怒るか呆れるかするに違いない。少なくとも、いい顔はしないだろう。
しかし、である。とにかく今日はとても疲れたのだ。少しくらいだらだらと過ごしても良いだろう。色々あったのだから。
肉体労働の方で活動すると言っておけば、他の騎士と同じように作業できただろうに、だとか。魔法を使う事にこだわらなければ、今頃こんな気持ちにならずに済んだだろうに、だとか。リカルドの不思議な方向音痴に振り回された事とか。
やっぱり柵が必要だな、という考えに行きついてしまって、余計な考え事――必要な事だから、余計ってわけじゃないんだけど――で頭を悩ませてみたり。
これは完全に精神的な疲労である。エルフリートは盛大なため息を吐いた。
工事はとても大切な仕事だ。だから、手を抜くつもりはない。とはいえ、こんなに疲れていては、ロスヴィータとの結婚式に向けた編み物のアレコレなどに集中できる気がしない。
由々しき事態である。
「でもでも、どっちも手が抜けない……っ」
エルフリートは両手で顔を覆い、首を横に振った。あれもしたい、これもしたい、やることがたくさん残っている。とにかく全部、手を出したからにはやり遂げないといけないのだ。
全部が中途半端に……などというのは、エルフリートの矜持が許さない。エルフリートは己に喝を入れるかのように、明日のタスクを口に出した。
「明日になったら、まずは朝食の時に親方に相談。あとは、編み物をするだけの心の余裕と集中力が残るように、集中力の配分に気をつける。他には何かあるかな?」
ごろりとうつぶせになり、まくらに顔を伏せる。柔らかな感触に包まれ、エルフリートはほう、と息を吐いた。すると、軽やかなノック音が部屋に響いた。
「フリーデ、良いかしら?」
「お母さま!? 今行きます」
がばっと頭を上げたエルフリートは慌てて扉へ向かう。扉を開ければ、母親のアデラがおっとりとした笑みを浮かべて立っていた。その手には小瓶がある。
何の瓶だろう?
「少しだけ、お邪魔するわね」
「ええ。もちろんどうぞ」
どんな用事かは分からないが、断る理由もない。母親を招き入れたエルフリートは飲み物の用意を始めようとした。
「あら、お茶は良いわ。頑張るあなたを労ってあげたいと思って来たのよ」
「え……?」
アデラは小瓶を振って「マッサージしてあげる」と笑った。意外すぎる申し出にきょとんとしていると、彼女は朗らかな笑みを浮かべて口を開く。
「今のあなたにそういう事ができるのは私くらいしかいないのだもの。たまには、お母様に甘えて良いのよ」
「あ、えっと……ありがとうお母様。私はどうすれば良いですか?」
エルフリートが首を傾げると、彼女はそっと大きなタオルを掲げるのだった。