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リカルドの奇行に驚いたものの、ただぼうっと見つめているわけにはいかない。エルフリートは地面を磨き始めた彼を制止する。
「リカルド、そこは磨かなくて良いから!」
「お? あ……本当だ。すまない」
不思議そうに壁面と地面を見比べるリカルドに、このままでは作業が予定通りには進まない事を確信する。だからといって彼を「別の作業へ」というのも難しい。エルフリートはリカルドの処遇に頭を悩ませる。
作業自体は問題ない――作業場所さえ合っていれば――から、作業場所を間違えないようにうまく誘導してあげる事さえできれば、なんとかこのまま続けてもらえるよね。
作業範囲を何かで具体的に指定して、そこだけ作業してもらう事ってできるかなあ。
「うーん、研磨はちゃんとできるんだもんねぇ……」
「いっそフリーデに精神魔法でもかけてもらえばいいんじゃないか?」
「え?」
オズモンドがしれっと恐ろしい事を口にする。確かに、できなくはない。目印になるようなものを用意して、そこからはみ出ないように精神魔法で強制する事は可能だろう。しかし、である。
精神魔法は、基本的には他者への使用を限定する必要のある魔法である。
通常は魔法をかけられる側からの要請、または同意がない場合は使用してはいけないものだ。また、その種類によっては、法的な手続きを踏まなければ使用が禁止されているものもある。
以前、エルフリートがジェレマイア――オリアーナ劇場を襲撃した犯人である――から情報を聞き出す時に使った精神魔法などがそれにあたる。
「えっと、不快じゃなければ……どんな魔法にするか考えるけど」
「だとよ。どうする? リカルド」
作業をやめたリカルドはオズモンドを見つめ、それからエルフリートに視線を移した。リカルドの表情は固い。精神魔法に何か嫌な記憶でもあるのだろうか。
それとも、精神魔法がかけられる事に対して思うところでもあるのだろうか。
思わず見つめ返したエルフリートは、そのまま彼が口を開くのを待った。
「あの……この方向音痴、一時的にでもなかったことにできるんですか?」
「私が適切な条件を考える事ができれば、可能だけど……」
精神魔法は、魔法をかけた相手を制御するものだ。感覚を麻痺させたり、思考を捻じ曲げたり、嘘をつけなくしたり。リカルドの行動を制御するのならば、特定の条件で作業に対する忌避感なりを植えつけるのが最前になるだろう。
地面と壁面の境目に加工をして、その線を超えないようにするか、リカルドの頭が下に向く行為をすべて禁止するか。
「このままだと、誰かが俺を監視していないと予定通りに進まないと思います。ひと思いにやってもらえませんか?」
「ひと思いにって……言い方が不穏なんだけど」
いったい精神魔法を何だと思ってるのかな。
「フリーデ、こいつは単にカリガート領のあれを見て怖がってるだけだ」
「え?」
「言うなよ! 恥ずかしいんだから!」
カリガート、と言われて過去の記憶を思い浮かべる。ガラナイツ国の兵士を仲間同士で戦わせ、結果としてアイマル以外が全滅した戦争の事である。
全滅させる為に、ロスヴィータとエルフリートは精神魔法で敵兵を撹乱させた。その話をしているのだろう。
「あの戦法はえげつなかったな。それを思いついたのが女性騎士団だって知って、驚いたさ。リカルドは囮組にいたから、その効力をまざまざと見る機会があったってわけだ」
「……もし、俺が“される側”だったら、と思うと怖くなったんだ」
そっか。そうだよね。エルフリートは身を震わせて腕をさする男を見て得心した。
エルフリートだって、好き好んで作戦を行ったわけではない。どれほど恐ろしい事になるのか、分かった上で実行したのだ。
自分の引き起こした結果を確かめるべく、そして戦禍に残っているロスヴィータや仲間の安全を確保する為に戦場へ向かい、実際の光景を目に焼きつけた。
だからこそ、リカルドの恐怖が決して大袈裟なものではないのだと分かっている。
「その気持ち、分かるよ。でも、今回のはそんなに強いものにはならないから安全だよ」
精神魔法がすべてを壊す瞬間を見てしまえば、補助魔法のような効果しかないものであっても、恐ろしく感じるに違いない。
エルフリートはそう考えた末に捻り出した言葉であったが、この言葉が正しいかは分からなかった。
「魔法をかける前に、どんな魔法なのかちゃんと解説するよ」
「それは、安心できる。助かる」
ほっとして目をゆるませる彼に、エルフリートは微笑んでみせる。
「ところで、下を見て体を動かす事がしたくなくなる精神魔法と、一定の囲いを超えて作業したくなくなる精神魔法。どっちが良い?」
「え?」
「前者は、囲まれた部分からはみ出て作業するのがとことん嫌な気分になる感じ。後者はとにかく下を向きたくなくなる感じ。
選ばせてあげる」
エルフリートが説明すると、リカルドは小さく唸り声をあげた。
「全然、どっちが良いのか分からん」
「俺のおすすめは前者。後者はふと足元みただけで不快感が押し寄せる事になりそうだから」
「な、なるほど」
さすがオズモンド。エルフリートの説明でさくっと理解したらしい彼は、リカルドにおすすめを伝えてくれる。
彼のおかげでリカルドも、施される魔法の方向性について考えがまとまったようだった。




