稲羽の海
「そのな、ばばばば、わはき、ばばばば、れんのか、ばばばば?」
おそらく、天照はその縄は切れんのか?と聞いているのだろうが、超特急で進む素戔嗚のせいで、口に空気が入って、上手く喋れていない。
「だいじょ、ばばばば、ぶ!しめな、ばばばば、わはぜった、ばばばば、いにきれない、ばばばば!」
確かに、素戔嗚は木々や岩をなぎ倒しながら走り、とてつもない勢いで進んでいるが、注連縄はこの世界で最も頑丈な紐である。ましてや新品の注連縄ならまず切れることはない。
ブチッ……ブチブチブチ……
素戔嗚と俺達をつないでいる注連縄は嫌な音を立てていき、手の指から藁が一本一本が切れていく感触が伝わってきた。そう思ったのも束の間、注連縄は切れ、素戔嗚は瞬く間に遠くへ進んでいった。俺は慣性に従うのままに、注連縄を掴んだ手から前に投げ出されてしまった。
俺は空中で体をひねり、抱き着いている二人の頭を両腕で守るように抱きしめて、背中から受け身を取るように地面に身を降ろした。受け身をとっても、素戔嗚を勢いは殺すことができずに、そのままごろごろと何回転かした。
頭の中がぐるぐるとかき交ぜられて、正常な思考などできていなかった。だから、途中で二人を抱える手が少し緩んでしまい、その緩みから二人は俺の体から離れてしまった。俺は二人が手から離れた後、軽く、小さくなった体は、回転数と速度をまして転がった。
ようやく回転が止まり、そのまま地面に倒れ込んだと思い、何の考えもなく息を吸うと、口の中に生温い水が入り込み、気管に水が入った。俺は反射的にむせ込んだが、気管に入った水が勢い余って、鼻に入ってしまったので、痛みを感じた。
そもそも、この水は何か塩辛い味がする。ここくらいまで考えると、俺は今、海の中に顔を付けていることが分かった。俺は咳を止め、息を止めると、水の浮力の感じない後頭部に向かって、顔を上げた。
案の定、顔を上げると、普通の空気があって、思いきり呼吸をした。俺は顔を拭いて、目を開き、辺りを見渡すと、一面に海が広がっていた。海面には視界を邪魔するものなど何一つない空と海と太陽だけの景色だった。
しかし、その薄い色の景色の中に、何か赤いものが頭上から降ってきた。
「あー!あっ……あっ、あ……。」
俺は魂を抜かれていくような声がする方を振り向くと、砂浜の上に座る見覚えのある女性が顔をあげて、倒れ込んでいた。彼女は俺の視線に気が付いたからか、顔を赤らめて、目線を逸らした。彼女は照れ隠しのように、顔に付いた砂を払った。俺は揺れる頭の中から何とか彼女の情報を引っ張り出した。
天照の素顔だ。
鬼の仮面をつけた姿に慣れ過ぎて、仮面を取った姿の顔と性格を忘れていた。と言うことは、さっき頭の上を飛んでいった赤いものって……
俺は再び海の方に振り返ると、赤い鬼の面が海面にぷかぷかと浮いていた。転がった反動で、仮面の紐が取れてしまったのだろう。もう一度、天照の方を見ると、中指同士をつんつんさせながら、ちらちらとこちらの方を物欲しそうに見つめている。
俺は息が上がって、そろそろ体が動かなくなりそうだったが、こっちの天照の頼み事なら、溺れてでも、叶えるべきだろうと思って、少し重くなった体に鞭を打って、海の中に動き出した。
すると、突然、天照の仮面が浮いている近くの海がこんもりと大きく盛り上がり始めた。俺は呆然と自分の身長の数倍はある盛り上がりを見つめていると、海水が落ちて見えたものは、強大な魚の頭だった。
俺は太陽の光がさえぎられてしまう程の魚の大きさに驚いていた。確かこの魚は、和邇と言った名前だった気がする。和邇は大きく頭を出した後、きょろきょろと周りを見渡した。そして、あるものに目線を合わせた。
そのあるものは、天照の仮面だった。和邇は牙を持つ大きな口で、その仮面を咥えた。
「……あっ、あの和邇さん、……そ、その口にくわえているものは、私のだから、……か、かえしてほしいなあ、……なんて、思ったり……。」
天照は顔に出る恐怖を無理やり笑顔で押し込みながら、言葉が通じるはずのない和邇に向かって話しかけた。しかし、和邇は天照の言葉を聞いているかのように、口に仮面を咥えたまま、止まっていた。もしかしたら、和邇は仮面を返すために、仮面を取ったのかもしれない。そう思い始めた頃だった。
和邇は口に咥えた仮面を口の中に入れ、飲み込んだ。そして、すぐに海の中に潜り、背びれを海面に出しながら、遠くに泳いでいった。俺はゆっくりと天照の方へ振り返った。天照は真顔で突っ立っていた。
「……あっ(困惑)、……あっ(認識)、えっ(驚愕)、……あっ(理解)、……えっ(疑念)、えっ(確認)、えっ!(怒り)、えっ!(憤慨)……
……あっ(虚無)……、あ~(後悔)、……あ~(絶望)……あ~(喪失)……
……あああぁ~~~(号泣)。」
天照は人間の表情を少ない言葉で全て表現した後、わんわんと顔を覆いながら、泣き出した。俺は泣き崩れる天照が不憫でならなかった。




