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初めて財布を盗んだ相手はマフィアの若頭でした

作者: 涼暮月


 生まれた場所は選べない。

 センジュはスラム街というこの街の最下層で生まれた。

 弱い者から死んでいく。そんな場所で母と二人慎ましく暮らしている。



 母はこんな生活でも優しくて強い女性だった。

「センジュよく聞きなさい。どんなに貧しくても心まで貧しくなってはいけません」

 あまりの空腹で自分より年下の子の食べ物を奪ったとき、母はそう言って私を叱った。


 その後母は三日間自分の食べ物をその子に渡していた。


 申し訳ない気持ちと、どうしてこんな場所でそんなに強くいられるのかずっと不思議だったが、結局その理由も分からないまま母は死んだ。

 日課である空き缶拾いの仕事の最中、暴漢たちの争いに巻き込まれて命を落としたらしい。


 冷たくなった肌。

 開かない目。


 もう私には頼れる人などいない。

 強い母も、叱ってくれる母も、優しい母も。

 誰もいなくなってようやく思い知った。


 やはり弱いから死ぬんだ。

 生きていたければこんな場所から出なくては。


 スラム街から二つ先の大きな本通りにいけば、綺麗な服を着た裕福な人間たちが道を歩いている。


 母は、こんなところで簡単に命を落としていい人間じゃなかった。


 だから、私は母の分まで生きてやる。

 こんなゴミ溜めのような場所から出て生きていくんだ。


 母が亡くなって一週間。

 私はそう覚悟を決めて生まれ育ったスラム街を飛び出した。




 汚い恰好をしている私に世間の目は冷たい。

 だから一瞬で終わらせなければならなかった。


 建物の陰に隠れて街行く人を物色する。女の方が力も弱いし追いかけられても逃げ切れる気がした。だけど、金を持っているのは男だ。

 なるべく背が大きくなくて、力がなさそうで、一人で歩いている男。


 しばらく通りを眺めてようやく一人の男に目を着けた。


 ちょうど買い物が終わったのか店から出てきた男は片手に財布、片手に鞄を持っている。

 がっしりした体型でもなく身長も標準だ。少し髪が長いだけでガラが悪いようにも見えない。


 スラムを抜けて生きるためには金が要る。


 私はごくっと唾を飲み込んで大きく息を吸い込んだ。

 そのまま男が目の前を通り過ぎるのを待つ。


 一歩また一歩と男が近づくのに比例してどくんどくんと大きく心臓が鳴った。

 建物の影から男の横顔を見つめて覚悟が決まる。


 心の中で十秒数えて一気に背中めがけて走り出した。

 まずぶつかってから、男が片手で持っている財布を奪う。

 そうしたらあとは逃げるだけだ。


 路地に入ってしまえば私の勝ち。

 表側に住む人間はスラム街に続く路地に詳しいはずがない。


 どんどん近づく距離。いよいよぶつかると思って体を固くしたが、男は突然くるりと振り返った。全力で走っていたせいで急に止まることなど出来ない。


 あっと思った時には男に首根っこを掴まれていた。咄嗟に伸ばした手はしっかりと財布を掴んでいるのに抜き取る事が出来ない。


「な、何するんだっ。離せっ」

「ん?……君は女の子だね?」


 柔和な笑みを浮かべた男はクスッと可笑しそうにそう言った。でもこっちはそれどころじゃない。力が弱そうだと思った男はビクともしなかった。


 髪も短くして、ボロボロの服を着て、肌だって汚れている。

 性別なんてすぐに分かるはずもないのに。


「離せ。僕が女だったら何だって言うんだ!」

 伸ばされた手を爪で引っ掻く。

 爪が当たった場所は皮が薄くめくれてじわっと血が滲んだ。


 あ、と思ったけど今さらひけない。

 噛み付くようにそう言うと、男は面白い物を見るように目を細めた。


「威勢の良い子猫だね。……うん、気に入った。サネカ」

「は?何……」


 男が誰かの名を呼んだ。

 全く気が付かなかったがいつの間にか背後に誰かいる。

 それを確認する前に口元を布のようなもので覆われて瞼が重くなった。



 ――――――― 



 初めて見る夢。

 空に浮かぶ雲を見て、ただ浮かんでいるだけなら食べられたらいいのに、と思っていたスラム街にいたときの自分。


 ふわふわと柔らかそう。

 食べたらどんな食感だろうと手を伸ばしたらすぐに手が届いた。


 夢の中の自分は驚くことなくその雲の端を掴んで引き寄せる。口に入れるのかと思ったら、そのまま顔を埋めた。


 ふわふわとして。

 柔らかくて。


 想像通りの感触と、それと同時にぶわっと感じた。


 暖かさと、安心感と、ふわっと香る太陽の匂い。「起きて」そう言う声は母の物だった。



「っ!」

 パチッと目が開く。酷い動機に額から汗が垂れた。

 ここはどこ。

 何も見えないと思っていたが自分が布を頭から被っていることに気が付く。


 起き上がって布から顔を出すと見知らぬ部屋の中だった。パッと明るくなった視界に慣れなくて何度か大きく瞬きを繰り返す。


 ふぅと大きく息を吐き出して自分の見ていた夢が夢じゃないと知った。

 これだ。

 こんなふわふわとした上質な布は生まれてから一度も触れたことがなかった。


 適度に重たい布をもう一度手に取っていると、突然扉が開いた。

「あっ起きた?」

 入ってきたのはさっき財布を盗もうとしたあいつ……と同じ顔の別人?


 街で見かけたときは全く普通の男だったはずだったのに。

 今目の前で笑う男は、サイドを編み込みオールバックにしている。露わになった耳には大小様々の耳飾りがついていて、首の横から後ろにかけて刺青が入っていた。


 あ、死ぬな。


 死ぬ前にせめて良い思いと夢が見られて良かったが、自分の運の無さにほとほと嫌気がさす。あんなにたくさんの人がいたのに、よりによってこんな人の財布を盗もうとしたのか。


 分かっていたら近づかなかったのに。


「ボーっとしてどうしたの?まだ気分悪い?」

「はっ?な、なんだよ」


 突然間近に迫った顔に背中をのけ反らせると男は「なぁんだ元気じゃん」と笑う。

 どういうつもりなんだろう。

 呆気に取られてポカンと口を開けていると男は私が寝ていたところに腰を掛ける。


「ベッドの寝心地はどうだった?」

「ベッド?」

「そうこれはベッド。ちなみに君が握りしめているのは布団ね。どっちも最高級の物だよ」


 ベッドに、布団?

 男から目を逸らして視線を下に落とす。


 どちらも耳馴染みのない言葉。それもそうだ。私がいたスラム街では自分の家すらなかったんだ。雨が降れば容赦なく体を濡らし、泥だらけの場所で体を固くして目を閉じるしかなかった。


 時間よ早く過ぎてくれ。

 そう願うしかなかった。


 明日になったら、もう少し生きやすくなっていればいいのに。


 そう思って眠り目を覚まして落胆することを繰り返していた。


「僕をどうするつもりだよ」

「うーん……どうするっていうか、飼おうかなって思って」


 かう?


 かう、とはどういう意味なのだろうか。こんな汚い自分に学があるハズがないだろう。もっと分かりやすく喋ってくれないと意味が分からない。

 男は私の顔をジッと見つめて「うーん」と唸る。


「飼うじゃないか……えっとね。簡単に言うと、そうだなぁ……ご飯も寝る所も着る物も全部俺が面倒見るから、絶対に俺のことを裏切らないで側にいて」


 ね?と首を横に傾けた男の顔はとても優しいのに、何故か全身に鳥肌が立った。


「お、お前は怖い奴だろ。僕は何も出来ない。学もないし結局盗みも出来なかった。役に立つとは思えないんだけど」

 自分のマイナス部分を口にするのはあまり好きじゃない。けど、何か勘違いされていても困る。


 男は一瞬キョトンと目を丸くして急に背中を丸めた。


「なっ。なんだよ。どうした?大丈夫か?」

 具合が悪いのだろうか。よく見れば肩と背中が少し震えている。

 スラム街ではそうやって小さく小さく体を丸めて耐えるしかなかった。それを思い出して思わず体を近づけると急に男が顔を上げた。


「はぁ……見る目ありすぎ。やっぱり俺天才だな」

「お前、笑っているのか?」


 心配して損した。睨みつけると涙が滲むほど笑いながら男が急に手を伸ばしてきた。


「良い子。あとでご褒美に美味しいチョコレートをあげる」

「やめろっ!」

 頭を撫でられてゾクゾクと背中が震える。振り払うように頭を激しく振った。


 というかチョコレートって何。


「あーあ、あんまり頭を振っちゃ駄目だよ。髪がボサボサになる。あと、俺はお前じゃない。イースって呼んで」

「なんで僕が」

「嫌なの?」


 表情は変わっていないハズなのに。目の奥の光がなくなった。

 ピリッとする空気に嫌なのに嫌と言えない。


「どうする?またスラムに戻る?」


 それは脅しじゃないか。

 膝の上で強く拳を握りしめると手のひらに爪が突き刺さる。そういえばさっきこの人のことも引っ掻いたっけ。

 チラッと顔を上げるとまだその部分は赤く色づいている。


 グッと喉の奥が詰まってしまって、首を横に小刻みに何度も振った。

「イ、-ス?」

「そう。良い子だね。君の名前は?」

「……センジュ」


 さっきからイースが言う「良い子」が体をゾクゾクとさせる。頭の芯まで痺れるようにクラクラとしてきた。ずっと母と二人で生きてきて男と関わったことがないからだろうか。男の声に馴染みがないからかもしれない。

 イースの声は鼓膜を震わせる。


「センジュか。良い名だ」


 イースの腕が伸びてきて大きな手の平がそっと自分の頬に添えられた。

「センジュよく聞いて。これから君は俺に絶対に嘘をつかない。絶対に俺を裏切らない。約束出来るね?」

 頷いたら後には戻れない。


 けど、結局私にはもう戻る場所も、戻りたい場所もなかった。


 それなら、この人についていくのも一つの生きる道だろう。

 スラムを出て暮らしたいと思った夢は叶うのだから。


 手を添えられたまま首を縦に振ると、イースは浮かべていた笑みを消す。

「ちゃんと口にしなさい」

「……僕は嘘つかないし、裏切らない」

「良い子」

 また褒められた。

 頬から離れた手は一度頭をクシャっと撫でる。


「それなら今日から君は正式に俺の家族だ」

「家族?」

「そうだよ。センジュが約束を破らない限り俺が君を全力で守る。君の安全は俺が保証しよう。ただ何度も言うようだけど約束は絶対に破らないこと。いいね?」


 言っている意味はよく分からなかったがニッコリと微笑みかけられ曖昧に頷く。



 ――――――――― 



 私がその言葉の意味を理解するのはもうしばらくしてから。


 そのあと貰ったチョコレートの美味しさにすっかり騙された。

 甘い蜜には毒がある。


 その毒は幸か不幸か。

 未だに私も分かっていない。


たくさんある作品の中、最後まで読んで頂いてありがとうございます!

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