①
(――あら? 旗が変わっているわ……)
領都の城下町で買い物を楽しみ、馬車で帰宅したアナ・オルコックは馬車から降りるなり目を見張り、灰色の屋根に翻る旗を見上げていた。
旗が掲揚されているのはオルコック城、今は古びて不便な為と放棄されたが先代の時代までは使われていたというオルコック侯爵家の「元」居城だ。今はそのすぐ裏手にあるこじんまりとした、しかし温かみのある屋敷で当主と妻子は暮らしている。
オルコック侯爵家はアヴィラント王国東北部に領地を賜る家でアヴィラント王国貴族序列は第九位、同格の侯爵の中では第二位の地位にある立派な大貴族である。アナはそのオルコック侯爵家の二女だ。
父はオルコック侯爵、母は父が前妻と死別した後に迎えた後妻。父と前妻の間には娘が一人いて彼女はアナの異母姉だが、生まれてこの方アナはこの異母姉とは会った事が無い。
使用人達の話を聞くに、異母姉は王都にある母方祖父の家で厳しく育てられているとのことだ。会った事の無いこの異母姉の事を、アナは「家族と離れて暮らすお可哀想なお姉様」と思っている。アナは優しい娘なのだ。何時か会う機会があれば、優しくしてあげなければと思っている。アナは優しい娘なので。
それはともかくとして、アナは屋根に翻る旗を再度見上げる。普段其処に掛かっているのはオルコック侯爵領の領旗だ。しかし今は見知らぬ旗に替わっている。
古びて放棄されたとはいえオルコック城は未だに使用人達がせっせと手入れをしている。日常的に居住はしない物の何かの行事の際は利用する予定だとアナも父から聞いている。アナは、もし万が一にも自分の結婚式がこの古い城で行われるとなったらそれは嫌ね、と思っているのだがそれはさておき、使用人達が誤って別の旗でも掲げたのだろうか。だとすれば指摘し、戻させなくてはならない。
(お父様にお伝えしなくちゃ)
アナは足元に気を付けながら屋敷へ戻り、書斎へと向かった。
「お父様」
「おお、可愛いアナ。街はどうであった? 気に入るものは見つかったか?」
「ええ!」
アナが書斎に入ると満面の笑みを浮かべたアナの父、クリフトンが立ち上がり腕を広げた。アナはクリフトンにとても愛されている。常々、手元から離したくないと嘆かれている程だ。
しかしアナの結婚までは実はそう時間が無い。何せ、既にアナのお腹の中には愛する人との赤ちゃんがいる。お腹が目立つまでに結婚式を挙げねば、とは思っているのだが少々の問題があって結婚式をまだ挙げられていない。
今日アナが買い求めに行ったのは赤ちゃんの為の品々、それから間もなく挙げる結婚式に入用の物だ。
「ねぇお父様、お姉様からは、お返事はまだ……?」
「う…む、そうだな」
アナが縋る様に上目遣いにクリフトンを見上げるも、クリフトンは歯切れ悪い返事を返す。
アナがお腹の子の父、オルコック侯爵家に隣接するハワード伯爵家次男トラヴィスと結婚式を挙げられない「少々のトラブル」とは、トラヴィスがアナの異母姉イヴァンジェリンの婚約者であるという事だ。アナがトラヴィスと結婚するためには、まずイヴァンジェリンに婚約破棄に同意して貰わねばならない。
クリフトンからはアナが身籠ったと知った直後にイヴァンジェリンに婚約破棄をするようにと書いた手紙と婚約破棄の手続きの書類を送ったと聞いているのだが、未だにそれらが返送されて来ないのだ。
『イヴァンジェリンは拗ねているのかもしれないわね……』
貴族の娘としては、幾ら愛の結晶とはいえ結婚前に身籠る事は余り宜しくない。その為アナの母ヒルダは何とかしてアナのお腹が大きくなるまえに式を挙げさせてやりたいのに、と溜息を吐いていた。
トラヴィスがイヴァンジェリンという婚約者がありながらアナに惹かれたのは仕方が無く、当然の事だろう。アナは光り輝くように美しく優しい娘だ。
イヴァンジェリンがどういう娘なのかアナもヒルダも知らないが、いずれにしろ婚約しておきながら王都から離れず、十数年一度も顔を出さないような薄情な娘は婚約者の心変わりも咎められないだろう。そして其処にアナのような見目麗しい娘がいれば惹かれ合うのも当然の事。
『いっそ私が王都に行って、直接サインを貰って来ようかしら』
『! ヒルダ、駄目だ! それだけはいけない!!』
アナを心配するヒルダがそう零せば、慌てた様子のクリフトンがすぐに止めた。王都は危険が沢山あり、ヒルダのような美しい女性が行けばいらぬ危険を引き寄せる、愛する妻にそのような危険は冒させられないと熱弁するクリフトンの姿にアナは思わず両親の愛にうるっとしたものだ。同時に私がドレスを着られなくなったらどうするの、と小さく思いもしたのだが。
アナがトラヴィスの子を身籠ったと両親に打ち明けた時、両親はそれはそれは狼狽えた。優しい両親は身重になったアナを叱る事は無かったが、トラヴィスには呼びつけ土下座をさせる程だ。
両親の、特にクリフトンの怒りの前に床に額を擦りつけながら詫びるトラヴィスをアナは庇った。
『お父様、これ以上トラヴィスを責めないで! 私が彼を愛してしまったからいけないの!!』
トラヴィスを打ち据えようとしていたクリフトンはアナが懇願すれば呻き声を上げながらもステッキを下ろしてくれた。
『……トラヴィス。未婚の娘を疵物にし、あまつさえ身籠らせたのだ。この落とし前は必ずつけてもらうぞ』
『ひ、……は、はい……』
そしてクリフトンはトラヴィスに、生まれた子は必ず認知する事、準備が整い次第アナと結婚する事を命じた。ハワード伯爵家はオルコック侯爵家からしてみれば格下で、その命令は絶対だ。
(――早く王都からのお返事がくればいいのに)
幸いアナは悪阻も無く元気だ。今ならまだお腹が目立たないから好きなドレスを選べる。
うっとりとすぐそこにある明るい未来に想い馳せたアナは、ふと思い出して父に伝えた。
「そういえばお父様、古城の方ですけれど……先程戻った時に見ましたら、屋根に見た事が無い旗が揚がっていましたの。使用人が間違えたのかしら」
アナの言葉に、クリフトンはひゅっ、と息を呑む。
「――、――!?」
そしてみるみるうちに青ざめていく父の顔色に、アナはえもいわれぬ不安を抱いたのだった。