ハグレモノ(2)
幅広の運河に架かる石橋。
その欄干に飛び登った猫と、肘を付いて寄りかかる少年の姿。
シオとジルは同じ様に遠くを見晴らし、頼りない灯りひとつを共に海へ出て行くゴンドラを眺めていた。
「どこに行ったって、居場所なんてねぇのにな。……俺達みたいな、半端な魔族には」
ジルがぽつりと呟くも、すぐに何かを思い直したようにゆると頭を振る。
「――いや、お前には帰る場所があったな」
苦く笑いながら、くしゃりとシオの頭を撫でる。
が、当の彼女は鬱陶しそうにその手を払った。
「そう言うなら、あんただって帰る場所ならあんじゃん」
シオは器用に狭い欄干の上でくるりと振り返り、真っ直ぐに彼を見据える。
と。数拍ののち、ジルは胡乱な目付きになった。
ちょっと待て、ちょっと待て。と。
「……お前さっき、職を探したらとか言ってなかったか?」
少し前と言っていることが違うではないか。じとり、シオを見やる。
すると彼女は、そうだっけとあっけらかんと首を捻るではないか。
彼は反射的にそーだよと返してしまった。
「…………」
しばし彼女のカッパー色の瞳が瞬き、ふいに笑った。
「んー、そうだったかも?」
これまた、あっけらかんと。
「まあ、あれじゃん。あんたから職の愚痴はわりと聞くけど、一緒に暮らしてる奴らへの不満は聞かないから」
そこからゆったりと立ち上がったかと思えば、すりと頭をジルに擦り当てる。
猫が人に甘えるそれ。
「それってつまり、好きだからそこに帰るんでしょ?」
みゃーん。シオはひとつ鳴き、ジルの懐に潜り込もうとする。
夜が濃くなり、風も冷たさが少し増し始めた。
寒いらしく、ぬくもりを求めるように擦り寄るシオに。
「…………」
ジルは黙り込んだまま、彼女を抱き上げる。
その表情はなんとも言えないような複雑なもので。
抱き上げられたシオは、カッパー色の瞳を細めて彼を見上げた。
その瞳にからかうような色が滲む。
「黙るってことは図星なんだ」
くすと薄く笑った彼女は、ぬくもりを求めるように彼の腕の中で身を丸めた。
そんな彼女をジルは睨めつけ、やがて諦めたように嘆息をもらす。
「……嫌いじゃ、ねぇよ」
ぶっきらぼうに呟かれた言葉。
シオが静かに顔を上げる。
「てことは、好きってことだ?」
「好きとかは……正直わかんねぇよ。けど、あいつらの隣は……居心地がいい」
「じゃ、やっぱそこが、あんたの帰る場所だ」
ふふっと。シオが嬉しそうに声をもらす。
「…………そう、なんのか……?」
どこか戸惑うようなジルの声。
彼の紅の瞳が頼りなさそうに揺れる。
「そうなんのよ」
シオがすまして答えてやれば、ジルは口を引き結んで唸った。
「……ゔーん。……フウガの奴には、マナ溜りから生残ちまった俺を拾ってもらった恩があるし……? その恩を返すまでは居なきゃだし?」
唸り続ける彼を見上げ、シオは苦笑を噛み殺す。
素直に認めればいいものを。何をそんなに意地を張っているのか。
そう思いながら、小さく吹き抜けた風に身を震わせ、シオはさらに丸くなるのだった。
「――……」
シオの意識が浮上する。
いつの間にかジルの腕の中で微睡み、気づかぬ間に深くなっていたらしい。
彼は石橋から過ぎ、通りの側を流れる運河の淵へ足を投げ出して座っていた。
水音が少しばかり寒々しい。
ジルの腕の中で身動げば。
「お、起きたか」
声が降ってくる。
自身を包む暗闇の中でもがき、ぷはと息を継ぐように顔を出す。
今夜は少し冷えるゆえか、どうやら、ジルの上着に包まれていたようだ。
彼の何気ない気遣いに、ぽつと心にぬくもりが灯る。
「猫は夜に活動的になるもんだと思ってたけど、シオは眠くなるんだよなあ」
どこか可笑しそうに笑うジルに、少しばかりむっとしてシオは答える。
「猫は猫でも、あたしは一応の魔族だもんっ。……そりゃ、人の姿にはあんたと違って化けられないし、人の言葉を解して操れるだけで、あとはその辺の猫とほぼ同じだけど……」
言葉尻になるにつれシオの声はしぼみ、不貞腐れたように俯けば、ひょんと尾を揺らす。
「……いや、悪い。落ち込ませるつもりはなかったんだ」
申し訳なさそうな声をもらすジルに、俯いたままのシオはカッパー色の瞳を悪戯にきらめかせる。
ぱっと顔を上げた彼女のその表情は、にんまりと笑っていた。
まるで悪戯が成功した子供のそれだ。
「なんちゃって。あたしはそんな繊細な心をしてませーんっ」
またもやすまして答える彼女に、ジルはしばし呆気にとられたのち、やがて口をへの字にした彼は。
「このヤロウ」
顔をしかめ、感情に任せてシオの頭をわしゃわしゃと撫で回し始める。
それに慌てたのはシオだ。
自身の頭を撫で回す彼の手を払おうとするも、いなされ避けられ、その上に彼の上着に包まれたままでは身動きも取れない。
先程までの余裕そうな振る舞いから一転したシオの慌てる様は、ジルの気分を良くさせた。
からかわれた腹いせには充分だろう。
ジルの無意識下で、彼の口端にはにししと悪い笑みが乗っていた。
思う存分撫で回してジルの気が済んだ頃には、彼女は彼から一定の距離を取って背を向けていた。
ぱしんっと。石畳を尾で叩き、乾いた音が響く。
どうやら機嫌を悪くさせてしまったらしい。
だが、これは先にからかった彼女の方が悪いのだ。
ふんっとジルは鼻を鳴らす。
ちょっとすっきりとした気持ちだ。
と。その刹那だった。
単なる偶然か、はたまた気紛れか。
少しばかり強い風が吹き付けた。
その風は細路地に入り込み、奥で悪戯に物を倒す。
どんがらしゃんと随分と賑やかな音を響かせながら、風は何食わぬ顔で去って行く。
「な、なに……?」
不機嫌に石畳を尾で叩いていたシオは、なんだと訝しげに辺りを見回し。
「――……?」
ふと気配の違いを感じて振り返った。
「――――」
途端。シオはぱちくりとカッパー色の瞳を瞬かせる。
「……あんた、何してんの?」
「……………………驚き中」
呆れを多分に含んだシオの呟き。
それにたっぷりの間を置いて答えたジルは、腹を上に引っくり返っていた。
ねずみの姿で。
「…………」
「…………」
ふたつの沈黙が重なる。
何とも言えない複雑な色を滲ませたカッパー色の瞳と、目を合わせられない紅の瞳が泳ぐ。
ジルのあまりに情けない姿に、やがて堪えきれなくなったシオが吹き出した。
「ふっくぅっ……ふはっ、……ははは、ははははっ――」
堰き止めていたそれが決壊し、怒涛の勢いで流れ込む水の如く。
彼女の愉快な声はしばらく続きそうだ。
それに思いっきり渋面になりながら、ジルの視界の端にきらめきが揺れた。
運河を流れる水面に浮かぶ通りの灯りだろう。
揺れる灯りを横目に、ジルはよっこらせと反動をつけて起き上がろうする。
が、何度試みても、腹がつかえて起き上がれない。
それがさらに彼女の笑いに拍車をかける。
「ははははははは――」
目尻を前足で拭う彼女のしぐさが余計に腹ただしい。
それに段々と水面に揺れる通りの灯りにすら、その揺れぶりがジルには小馬鹿にしているようにしか見えなくなり、小さなねずみの身体がぷるぷると震える。
そして、何度目かの挑戦の末にようやっと起き上がることが出来た。
だが、ジルは立ち上がるなりすぐに人の姿へと変じ、彼女に背を向けると歩き始める。
「あっ、ちょっとジル! どこ行くのさっ!」
「もう帰るっ!」
ずんずんと遠ざかって行く背を、シオは慌てて追いかけた。
すぐに彼の横に並ぶと、その足へ身をすりと擦り寄せる。
みゃーんと甘える声も忘れない。
これでゴンドラ乗り達はイチコロなのだ。
が。
「…………」
上目でジルの顔を見やり、そして一瞬にして無言で彼から離れた。
冷たく紅の瞳が見下ろしてくるだけだった。
ちょっと笑い過ぎた自覚はあるだけに、その冷たさが少しだけ痛く重い。
「えっと、ごめん」
窺うようにもう一度上目で見やると、くすと忍び笑いの気配がシオの耳をくすぐった。
次いで紅の瞳に面白がる色が滲み、シオはからかわれたことを悟る。
仕返しされた――!
一気にシオの尾が跳ね上がった。
勢いに任せ尾がひゅんひゅん揺れるのは、やり場のない気持ちを持て余したから。
だから、代わりにどんとジルの足へ身体事どついた。
軽くよろめいた彼から、非難めいた視線が落ちるもシオは気にしない。
「あたしを家まで送ってくれるなら許してあげる」
すまし顔で言ってのけると。
「はあ?」
不満が多分に含まれた声が返ってきた。
「あら? 女の子を夜道に一匹で帰らせるなんて、男の子がすることじゃないわ」
「どこに女の子がいんだよ」
「ここにいるじゃない?」
ゆらりと魅惑的に尾を振り、シオは自身の存在を示す。
「……猫じゃねぇか」
肩をすくめたジルは、ほんの気持ち足を速めた。
「あー! あんた、こんないたいけでかわゆい猫ちゃんを置いてく気なの!?」
抗議の声を上げながらシオも足を速めるも、そこは人と小さな獣、歩幅が違う。
せこせこと、人と比べると短な足を懸命に動かしながら、シオの抗議の声は続く。
「動けないなら、あたしがあんたを送って行ってやろうって思ってたのに」
「それじゃ、俺が捕食されるみたいだろ」
可愛らしい、小さな銀灰色のねずみを咥える三毛猫を想像してしまい、ジルはぶるりと、思わず身を震わせてしまった。
無意識に腕を抱いてしまったのは、獲物になる恐怖を思い出したからか。
「それにだ。何がいたいけだっつーの。お前は魔族の猫で、ただの猫じゃねぇだろ」
「なっ!? あたしは先祖返りなだけで、血筋的にはただの猫よっ! ご先祖の魔族の血だって、もう殆どないに等しいくらいには薄いんだからねっ!!」
「んなこと言ったら、俺だってたまたまマナ溜まりから生き残っちまっただけで、血筋だけで言えばただのねずみだぜ!? 先祖をどんだけ辿ってもねずみなんだから、そんなら俺の方がいたいけだろ!?」
と。
ぎゃいのぎゃいのと言い合いながら、少年と猫の姿は深まる夜の海街に溶けて行く――。




