ハグレモノ(1)
夕暮れの船着き場。
ざざと静かに波音が響く。
藍と橙の色合いの空を背に、今日も仕事を終えたゴンドラ乗り達が戻って来る。
遠くからの喧騒を耳にし、ぴくりと木箱で寝そべる猫のそれが動いた。
暇だったと言わんばかりに、くわあと怠そうにあくびをひとつ。
彼女は寝そべっていた木箱から飛び降りた。
流されぬ様にとゴンドラをしかと固定し、運河沿いに家路へと急ぐそんな彼らへ、愛想を振りまきに行くのは暇つぶしだ。
みゃーん。甘く声を上げて足元へ擦り寄れば、大抵の人らは相好を崩して撫でてくれる。
「おー、ミケじゃねぇかい」
一人の男が膝を折って屈むと、よしよしと彼女の喉元を撫で始めた。
三毛猫だからミケ。何とも安直な呼び名だといつも思う。
けれども、この男の手は嫌いじゃない。
仕事柄ゆえか大きく、ごつとした硬い手ではあるが、撫でる手付きは繊細で手練れである。
うっとりと目を細めて喉を鳴らす。
「お前、ホント懐っこいよなあ」
さらに男が相好を崩した時。
「なんだ、またミケを撫でてんのか」
彼女を撫でる男の後ろから、通りかかった別の男が声をかけた。
「おうよ」
「しまりのない顔しやがって」
振り返った男の顔を見、呆れて苦笑したその男も、ぽつぽつと家路へとつく人の流れから外れ、彼女――猫を撫でる男の隣へ並び立つ。
「ミケってよく夕暮れにふらっと現れるよなあ」
「ああ、そーだな」
「野良かな」
「うーん、野良じゃねぇとは思うよ」
と言いながら、猫を撫でる男は指を猫の片耳の方へ滑らせる。
しゃらん、と軽やかな音を奏でたのは、猫の左耳を飾る耳飾りだ。
猫のカッパー色の瞳と同じ石を耳飾りへと施した意匠。
こんな洒落たものを身に着けているんだ。
こういった類いのもので、対としてもう片方もあるのを目にしたことはある。
きっと、仲間の猫かあるいは飼い主自身か。
「お前、大事にされてんだなあ」
男は朗らかに笑い、猫が喉を差し出すので撫でてやる。
満足そうにごろごろと喉を鳴らす猫を撫でる毛並みも、艷やかで滑らかに手を滑る。
きちんとされているだからだろう。
「ミケはホント、懐っこくてめんこいよなあ」
だらしなく顔を崩す同業仲間に、その横に立っていた男はそろそろ飽いてきた。
膝で同業仲間の背をつつき。
「おい、今夜は立ち飲み屋行くって話だろ」
早く行こうやとせっつく。
既に他の同業の者の姿はなく、船着き場に残るのは彼らだけだった。
ざさと変わらず響く波音が、少しだけ寂しげに聞こえる。
気が付けば藍と橙の色合いだった空は、藍の色を深め星を抱いていた。
運河を流れる水音に、橙の灯りが灯り始める。
路地の方からは、路地通りに軒を連ねる立ち飲み屋が賑わう声。
漏れ聞こえて来るその声に、男は仲間をつつく膝に強さを乗せる。
まるで早く早くと急かす子供のようだ。
猫を撫でる男が苦笑混じりに振り返る。
「仕方ないなあ」
そして、猫に向き直った男は、ぽんと軽く頭を撫でてから。
「じゃあな、ミケ。また撫でさせてくれや」
立ち上がった。
隣の男がやっとかと肩をすくめ、彼の肩へ腕を回しながら、連れ立って路地へと消えて行く。
猫がみゃあんと甘える声を出すも、男らは、じゃあな、と振り返らずに片手を上げるだけだった。
猫は男らが消えた路地を見つめ、やがて諦めたように空を仰ぐ。
深まる藍の空に、まあ暇つぶしにはなったかと思い直す。
気怠げにくわあとあくびをひとつ。
風に吹かれ、片耳の耳飾りがしゃらんと軽やかな音を奏でた。
「――……オ。――……オ」
自分を呼ぶ声に猫の耳がぴくと跳ね、木箱に寝そべっていた彼女は顔を上げた。
「シオっ! 悪い、遅くなった」
シオと呼ばれた彼女の前で、少年が膝に手を付き、はあはあと疲れたように息を継いでいた。
暑く蒸れたのか、彼が常に頭に巻いているターバンを解けば、汗ばんだ銀灰色の髪が広がる。
「あちぃー……」
そんな彼を労るように風がそよぐ。
ふいーと息をつき、心地よさそうにする様はまるで。
「あんたそれ、湯上がりのおやじみたい」
「は?」
少年の返しに構うことなく、シオは木箱から高く跳躍。
きれいな弧を描き、その頂点でくるりと一回転する様は、周りに人の姿があったのならば、その見事な身軽さに歓声が上がったのかもしれない。
けれども、この時分にこの辺りを通る人はいない。
着地に合わせ、しゃらんと片耳の耳飾りが鳴る。
「俺、おやじじゃねぇし、年頃の男の子だし」
「自分で年頃の男の子とかいう?」
斜に構える少年に、シオは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
ゆらりと妖しげに尾を揺らし、少年を振り返る。
「それより、さっさと行くわよ。ジル」
ほら、抱えなさいよ。
後ろ足で立ち上がり、シオは前足を上げる。
抱きあげろという彼女の催促だ。
少年――ジルは、ターバンを肩にかけると、やれやれと嘆息ひとつしてからシオを抱えあげる。
「……お前、冷えてんじゃねぇか」
彼女が抱きあげろと言ったのは、ぬくもりを得るためかと納得する。
春とは言え、まだ冬の寒さを残すその始め。
「あんたが遅いからよ」
「……それは、ホント悪い。言い訳すると、店閉めて片すのにシシィもティアも手伝ってくんなかったし、フウガは面白がって笑ってるだけだったし――」
運河沿いを歩く。
どこかの路地からはグラスを打ち合う音と、人々の陽気な声が聞こえて。
時折思い出したように、運河で魚が跳ねる。
「そうだよ。予定があるってのに、シシィはティアに何かちょっかいかけ始めるし、ティアも始めはいなしてたけど、その内あいつに追い詰められてたし……」
フウガはフウガで、その様を眺めて笑ってるだけだし。
結局はジルだけで片すことになったのだ。
見かねたのか、途中で小さな身体のばななが手伝ってくれたのは嬉しかった。
だんだんとジルの声音が愚痴のような響きを伴っていく。
その時のことを思い出したらしいジルの、その紅の瞳が不機嫌にきらめいた。
ジルに抱えられたシオの尾が、彼を慰めるためか優しくとんと叩く。
「……あんたも苦労してんのね」
「否定はしねぇ」
「前から思ってたけど、職を他に探してみたら……?」
シオのカッパー色の瞳がむすとむくれたジルを見上げる。
途端。彼の歩みが止まった。
ひょおと風が運河を走り抜ける。
「ジル?」
「……俺みたいな奴、雇ってくれるとこなんてねぇさ」
力ない声。
シオが、あ、と息をもらした。
ジルの紅の瞳が仄かに翳る。
「――この瞳の色の意味を、知ってる奴は知ってるんだからよ」
力無げに細めれた紅の瞳はどこを見ているのか。
「……ごめん。軽率だった……」
ジルに抱かれた腕の中。シオが身体を丸める。
彼らの背から吹き抜ける風は、冬の余韻をはらんで冷たい。
「……いや、いいよ。俺がハグレモノなのは変わらねぇから……」
石畳を歩く靴音だけが、運河を流れる水音に混ざる。
ジルが歩く度、その振動が彼の腕を通してシオにも伝わった。
その振動がひどく頼りない気がして、シオは彼に身を寄せるようにさらに身体を丸くした。
「…………それなら、あたしだって……ハグレモノだよ……」
自分も、とうに猫の時間からは外れているのだから。
いや、とうにではない。それは、始めから――。
*
幅広の運河に架かる石橋。
その欄干にシオは飛び登り、ジルは背を向け寄りかかる。
欄干から見下ろせば、街中を照らす橙の灯りが運河に浮かびたゆたう。
「……今日も、集まりはあたし達だけだね」
辺りを見回したシオが口を開く。
人影は彼女ら以外になく、気配もない。
別段、そういった取り決めのある集まりではない。
何となく気分が乗れば、ふらりと集まり語らうだけのもので、その時々によって集まる顔ぶれも変わる。
だから、皆が集まる機会の方が珍しいくらいなのだが。
「この頃減ってきたなあとは思ってたけど。……他の連中は、みーんなこの街を出てっちまったんかなー?」
欄干にもたれながら、ジルは星を抱く空を見上げた。
それにしても、この頃は集まり具合が悪かった。
それは徐々に徐々にの緩やかな変化で、気付けば彼と彼女だけになっていた。
もともとが少ない顔ぶれではあったけれども。
彼らの他に三、四別の顔があるくらいで。
見上げた空は、いつの間にか藍の色合いを深め夜闇へと。
瞬く星がこの日ばかりは心もとなく思えた。
「そうなのかは」
シオの声に、ジルの紅の瞳が向けられる。
「あたしも知らないけど。――この間から姿を見せないグレイのさ……」
グレイ。彼はシオと同じく猫であり、そしてシオと同じく猫の時間からは外れた存在だった。
グレイもシオも、外れた存在だとしても、普通の猫として人に飼われる生活をしている。
「その飼い主――彼の家族が、今日は探し回ってた。……グレイの奴、黙っていなくなったのかな」
シオが俯く。
石橋の下を流れる運河の水面に、頼りない姿が浮かんでいた。
「……他の皆も黙っていなくなってさ。他の場所ならって、希望を持って海を渡ってくのかな」
そう言うと、シオは遠くを見晴らす。
運河を滑って眺めやる海に、ぽつりとゴンドラが浮いていた。
頼りなさそうな灯りひとつを共に、そのゴンドラはだんだんと小さくなって行く。
もしかしたら、あのゴンドラに乗っているのかもしれない。
夜の航海は危険をはらむと、この街に住む者ならば知っているはずなのに。
それでも、目立たぬ夜にひっそりと出ていきたいものなのか。
誰にもその行き先を告げずに。
「どこに行ったって、居場所なんてねぇのにな。……俺達みたいな、半端な魔族には」
シオと同じように遠くを見晴らしたジルの呟きは、濃くなる夜の気配に溶けていった。




