抱える気持ち、その行方
スイレンとヴィヴィがシシィの残滓を追いかけ、その姿をようやく見つけた頃には、すっかり日は暮れていた。
建ち並ぶ石造りの家屋、その切妻屋根に上がった彼らの視線の先に、件の家があった。
橙に染まる家壁に伸びる影。
屋根伝いにくるりと回り込むように移動すれば、窓から室内の様子が伺えた。
屋根と屋根を飛び越えたスイレンは、腕に抱えたヴィヴィを静かに下ろす。
気配は絶っている。余程の敏い者でないと気付かないだろう。
眼下の家路へと急ぐ人々が屋根上のスイレンらに気付く様子はない。
「スイレン、居ましたっ! あの子ですっ!」
歓喜にも似た叫びがヴィヴィから上がった。
はしゃぐ子供のようにスイレンの服を引く彼女に僅かに苦笑して、スイレンもそちらへ目を向けた。
カーテンが開けられた窓から、その側に配されたベッドが見える。
そして、そのすぐ側にあるサイドテーブル。
その上にクッション。そして、そこに眠っているのは、両翼をたたんで埋まるように眠る小鳥の姿。
「……あれは、ティアちゃん?」
そうか、あの散った赤は彼女のものだったのか。
目を細めて眺めやるスイレンがぽつりと呟く。
その声を聞き留めたヴィヴィが彼を見上げ、また視線を戻す。
確かにあの子の近くにはいつも、あの小鳥の姿が在ったなと思い出す。
精霊界へと帰ったのちには、彼女にもきちんとお礼を言おう。
知らず握り拳をつくり、ぐっと握って決意をしていた。
と。
「……あ」
吐息のような声がスイレンからもれる。
小鳥の傍にあの子、白の子狼の姿をスイレンもようやく認めた。
はあと深い深いため息。安堵の息だった。
元気そうだ。無事だった。よかった、本当に。
それなら、早く連れ帰らないと。精霊界へ。
ヒトの世は、あの子にはまだ早い。
そう思ってスイレンが一歩踏み出した時だ。
「ヴィー……?」
その彼を制するように、ヴィヴィが片手を上げて行く手を遮った。
訝しそうに見やるスイレンには気付かず、ヴィヴィの瑠璃の瞳が見開かれていた。
「……あの、女の子は――」
視線の先。シシィの近くに、栗色の髪をしたヒトの子がいた。
ヴィヴィには、そのヒトの子の魂の色に覚えがあった。あの色は――。
シシィが前の旅を終え、眠りに就く際に垣間見えた。
彼がもう一度と願った、あの魂の色だ――。
◇ ◆ ◇
「――……!」
小鳥の傍に寄り添う子狼を心配そうに見つめていたジャスミンは、唐突に感じた視線にぱっと顔を上げた。
視線を感じたのは窓から。すぐに金の瞳に剣が宿った。
こちらの様子を見張るような視線だった。
思わず腕をさする。
あの類いの視線は嫌いだ。あまりいい思いをしたことがない。
ふう、と。嫌な気持ちを吐き出すように息をついたとき。
ふいに、窓から見える民家の屋根上に人影が見えた気がした。大きいのと小さいの。
たっと駆け寄り、ベッドへ乗り上がる。
ぎしと軋む音を伴って、ジャスミンが窓辺へ手をかけた。
だが、その刹那に風が吹き込み、カーテンを大きく煽る。
反射で顔を背け、目をつむってやり過ごせば、風はすぐにおさまった。
ゆっくりとまぶたを持ち上げ、ジャスミンがそこへ視線を投じた時には。
「……いない」
そこに人影はなかった。
気のせいだったのだろうか。
不思議そうに瞳が瞬き、ジャスミンは小さく首を傾げた。
きゅん、くん。犬のような鳴き声でジャスミンは振り返る。
『――……』
彼女が振り向いた先で、シシィはずっと繰り返していた。
ティアに身を寄せて、全てを感じ取ろうと。
上下するティアの背。息をする音。体温。その、全てを。
それらを感じる度に、ティアはここに在るのだと、シシィは自分に言い聞かせる。
そうしないと、不安で不安で仕方がなかった。
大丈夫だと安心したいのに、シシィの中に在る“彼”がそれを掻き乱す。
少しだけ眠るだけ。疲れたから眠るだけ。
そう言って“彼”が眠った先がシシィだから。
かたかたと身体が小刻みに震える。
思い出すのはあの感覚だ。あの光景だ。
抑えても抑えても、溢れ、漏れ出る光。薄れゆく存在。
心が急速に冷える。
『…………っ』
ふいに視界の端にあの光が掠めた気がして、それから逃れるようにぎゅっと目をつむった。
急速に冷えた心は、やがてそれを凍らせる。
あの光が、あの光景が、あの感覚が。
脳裏に焼き付いて消えない。消えてくれない。
鼓動が大きくなる。それは痛いほどに。
凍った心が叫び出しそうになった時だ。
『――……!』
唐突に体温を感じて、はっとしたように目を見開いた。
はあはあ、と自分の荒い息の音がやけに耳につく。
震える瞳がのろのろと横を向いた。
『……ルゥ』
自分からもれた声は思ったよりも細かった。
もそと身動いで身を寄せる。
とにかく今は、すがれるぬくもりが欲しかった。
彼女がここに在るという事実が欲しかった。
細く息をつき、四肢を折りたたんで目を閉じる。
ぬくもりを直に感じ取れるこの瞬間が、ひどく安心する。
シシィが眠りの淵に落ちる間際、彼の耳にくるぅと鳥のさえずった声が届いた気がした。
それが心に沁みこむようで、あたたかな心地のままに、シシィは眠りの淵へと落ちて行った。
そんなシシィを見ていたジャスミンは、口をきゅっと引き結んだ。
手で胸を抑える。よくわからないけれども、胸がざわつく。
彼には笑っていて欲しいと思った。
見たことがないはずなのに、自分は彼の笑った顔が好きだから。
見たことがないのに好き。矛盾しているなと自分でも思う。
けれども、好きなのだ。
ジャスミンの金の瞳が瞬いた時、そこに確かな光が宿っていた。
たぶん、彼が心を痛めている理由はあの小鳥だ。
ジャスミンから見ても、とても大丈夫そうには見えない小鳥。
左目に痛そうな傷がある。あれを治すことが出来れば。もしかしたら。
「……ジャスミンはおみずのせいしつじゃないから」
己の手を見下ろし、落胆をはらんだ声で小さく呟く。
扱うものが水の性質を持っていたら治癒の効果も期待できるのに、残念ながら自分は土だ。
それに、それ以前の問題でもあった。
ジャスミンは陣を知らない。
魔法というものには陣を用いいらないといけないのは知っている。
けれども、その陣を知らないのだ。
「でも」
顔を上げる。
母に訊けば何か力になってくれるかもしれない。
そう、薬とか薬草とかそういうもので。
よし、と意気込んだところで、ジャスミンはとあることを思い出し、意気込みが萎みかける。
ああ、そうだった。と、だらりと腕を下ろす。
面倒を最期までみれる覚悟がないのなら、生き物を連れ帰ってはいけない。
それは母が様々な場面で幾度も言っていたこと。
仮に連れ帰ってしまった場合は、きちんと母に伝えること。
これも母としたお約束事のひとつだった。
それを、今回は――。
「……いって、ない……」
力なく項垂れた。
帰宅した際、母は眠っていた。
そんな母を起こすのは申し訳なくて、そっと彼らを自室に招いたのだ。
それをまだ、伝えていなかった事実を思い出した。
「…………」
小言をもらうだろうなと思うと、重いものが凝って気持ちも急下降する。
だが、ジャスミンは、でも、と気持ちを奮い立たせる。
よしと握り拳をつくって覚悟を決める。
小言をもらっても、たとえ叱られても、それは自分に非があるのは確かだから。
それに今、大切なのは彼だから。
やっと逢えた彼なのだ。その力になりたいと思うのは、自然な流れに思う。
けれども、同時にジャスミンの心に寂しさも降り積もる。
彼は自分がそれだと気付いていない様子だった。
やっと逢えたと伸ばした自分の手を受け入れたのは、単に本能で敵意がないことを察したに過ぎない。
彼の行動に彼女はそう感じた。これもまた、彼女の人ならざるものの本能がささやいたことだ。
寂しいと思う。探していたのは、求めていたのは己だけだったと。
それでも、こうも思うのだ。
自分が覚えているから、いいよ。なら、またもう一度始めればいいのだから。
だって、自分達は“ジャスミン”と“彼”なのだから。
ひとつ頷き、ジャスミンの金の瞳に力強い光が宿った。
ジャスミンはベッドから飛び降りるなり。
「おかあさーん」
階下に居る母を目指して部屋を飛び出した。
ジャスミンが飛び出したのち部屋には静寂が満ちて。
それを時折、シシィの穏やかな寝息が揺らすだけ。
ではなく、ジャスミンがきちんと閉めなかった窓の、その隙間から吹き込む風が、それまた時折カーテンをなびかせる。
気が付けば日は暮れ、部屋を満たす静寂は夜のそれに塗り替えられていた。
『――――』
そんな夜の静寂の中。
誰かがほおと細く、息を吐き出した。
薄闇の中できらめく琥珀色の瞳。
すうすうという寝息を耳にして、ティアはシシィへ瞳を向ける。
だが、そこに感情の色は伺えない凪いだ瞳だった。
そっとティアが身を引けば、ことんと静かにシシィが倒れ込む。
余程疲れがたまっていたのだろう。
それで彼が目を覚ますことはなかった。
ぱさと小さな音を立ててティアが窓辺へ羽ばたくと、僅かに開いた窓にその身をねじ込んだ。
ひゅっと風が吹き上がって。
『…………』
誘われるように、ついと空を仰ぐ琥珀色の瞳は、静かに揺れ動いていた。
一度ティアは部屋を顧みてシシィを一瞥したのち。
星が瞬き出した藍色の夜空へ、ばさりと翼を広げて飛び立って行った。
部屋に再び静寂が戻る。
その中で。押し開けられた窓の隙間。
そこから吹き込んだ風が、大きくカーテンをなびかせた。




