カタチ
ひどく、懐かしい音を耳にした。
◇ ◆ ◇
『《ルイ――……》』
シシィが言の葉にてそれを紡いだ瞬間。
『――……』
ティアのまぶたが震えた。
はっとしたシシィが彼女を見やれば。
のろのろとそのまぶたが持ち上がって、琥珀色の瞳が覗き彷徨う。
それはやがてシシィを見つけると、薄ら笑みを浮かべた。
『……随分と、懐かちい……名を、喚んだ、わね……』
『……っだって、だって……《ルイ》がっ、《ルイ》がっ……!』
震えるシシィの声に、彼の瞳には涙の膜が張っていた。
それが次第に厚みを持ち始め、重みに耐え切れなくなったそれは。
碧の瞳から重力に身を任せて落ちる。
その様が何だかきれいだなと、薄らぐ意識の中で思いながら。
ティアの思惟は薄闇に落ちていく。
『《ルイ》っ……!』
シシィの声が響き渡り、余韻は虚空に溶けていった。
*
ティアが目を覚ました時、隣でシシィが身を寄せ合うようにして眠っていた。
寄りかかられた彼の重さに安堵する心地を覚える。
その安堵の息か、ほっと息をついた時。
呼吸がずっと楽になっていることに気付いてきょろと辺りを見渡した。
目覚める前の場所とは違う場所のようだ。
日は暮れて、夜の気配に満ちた周囲。
それを水の膜に覆われていた。
とぷん。たぷん。時折たゆたう水の音が静かに響く。
水の中では音が遮られてしまうように、この膜も内から外へと音を遮断する。
その証拠に、音には敏感なティアでも膜外の音は拾えなかった。
どうやらあれから移動させられたらしい。
同時に少しだけ驚いた。
今まで、こちらが示してから動くことの多かった彼が、自ら判断して行動した。
そこに少しだけが驚いたのだ。
遮断された空間。その中を清冽な空気で満ちる。
彼が浄化をしてくれたそれ。だから、楽に呼吸が出来る。
ふう。何となしに息をつく。
生き繋いでしまったことに、なぜか落胆にも似た気持ちが燻った。
身動ぐ。痛みの方はまだ残っているものの、無理なく動かせる身体。
身体に入っていた亀裂はそれ以上の広がりはないようで。
そして、そこから広がる様子もない。
左目も開いた。目が瞑れなかったのは幸いだろうか。
己という存在は、何とか保たれたらしい。
否。保たれてしまった、と言うべきか。
――《ルイ――……》
ひどく懐かしい音。
それがまだ、耳の奥に残っている。
それは彼女の真名。真名は魂を示す。
だから、きっと彼は知ってしまっただろう。
不完全なカタチをした、ティア、という精霊のことを。
魂まで見通す“眼”を持つとは、次代候補に選ばれなかったとはいえ、さすがは精霊王の血を継ぐ者だ。
ふうと身動ぎと共に息を吐き出した時。
『……ううーん』
隣から呻く声がした。
ティアがちらりと見やると、とろんとした目と合う。
それはしばしの間ぼんやりと彼女を見つめ、しぱしぱと瞬き、やがてはっと見開かれた。
ティアはそこに広がる安堵の色を見つけ、ちょっと落ち着かない心境になる。
くすぐったいような、痒いような――痛いような。
彼女をじいと見つめる、シシィの碧の瞳。
それが瞬き、歪んだ。じわりと滲んで、揺れ動く。
『《ルイ》、《ルイ》、《ルイ……》』
シシィが何度もティアの真名を口にする。
ああ。ティアから吐息がもれた。
それは諦めにも似た境地で。
彼はあれから何度それを口にしたのだろう。言の葉にて紡いだのだろう。
もうすっかり、彼のそれに馴染んだ様子のティアの真名。
彼が喚ぶ度に、紡ぐ度に。その度に。
ティアの奥の奥、その最奥が。
歓喜するように震える。
それに応えるように、震える。
彼が求めている。応えてと求めている。
『《ルイ》、きえないで……』
――死なないで
彼の声の裏に、別の言葉が見えた。
真名は、魂を縛る。
それは時に繋ぎとなる。
ならばそれは。
己という存在の、繋ぎ留めたるものにもなるのだろう。
『――消えないよ、シシィ』
――生きてるよ
観念したように、ティアが小さく呟いた。
不完全ゆえに不安定。存在としては曖昧だった。
だから、簡単にこの身を投げ出せたのかもしれない。
けれども、彼は願うのか。消えないでと願うのか。
願いは祈りに似ている気がする――。
刹那。かちりとどこかで、何かが噛み合わさる音がした。
諦めにも似た心境で、ティアは観念する。
――いいよ。あなたになら、いいよ。
真名は魂を縛る。
それは、真綿のような優しくて柔らかな呪縛――。
ひどく心地のよい、それ。
不完全ゆえに、という考えはやめよう。
彼が“ティア”という存在を願うのならば。
* * *
あれからシシィは、ぴとりとティアにくっついている。
寄り添うと言えば聞こえはいいが、その実最早密着である。
既にティアは彼を鬱陶しいと思い始めていた。
『《ルイ》《ルイ》《ルイ》《ルイ》』
そして、ずっと連呼するティアの真名。
さすがに自分の真名とはいえ、もう聞き飽きた。
うんざりとした空気をまとう。
『チチィー……そう何度も、私をそれで呼ばないで。真名なのだから、他に知られたらさすがにまずいわ』
そう彼女が訴えれば、シシィからはむすっとした気配がただよう。
『だってぇぇ……』
ヒトならば、口を尖らせているところだろうか。
不貞腐れたような、拗ねたような。そんな雰囲気。
はあとティアが深く息をついた。
彼女はわかっている。彼は不安なのだ。
彼はその“眼”で、ティアという不完全だった精霊を視た。
だから、またいつ、その存在が薄らいでいってしまうのかと不安なのだ。
真名は魂を示す。そして、ティアの持つ真名が示すのは――ヒトの魂。
精霊の身体にヒトの魂を抱える精霊。
それがティアという、不完全な精霊だ。
ヒトの魂の廻りと、精霊の魂の廻りは異なる。
その理を違えた代償が彼女という存在の脆さだった。
だから、上位精霊にしてはマナ溜まりへの耐性が低かったわけだ。
それで少しばかり無茶をしたから、まあ、危うく消えかけたわけだ。
本能は行くなと、危険だと忠告してくれていたのに。
それでも無茶をしてしまったのは。
自分が自分を楽観して見ていたこともあるけれども。
『――ルゥ』
ちらと横目でシシィを見やって、ティアはひとつの音を紡いだ。
『ん……?』
ティアがこぼしたその音に、シシィが首を傾げる。
彼女の意図が掴めないようだ。
『だから、ルゥ。あなたに、そう呼ぶ権利をあげるってことよ』
『え』
『私の真名を知って、私を縛ったあなただもの。それだけでも、私を繋ぎ留める効力には十分ではないのかしら?』
ティアの真名を知り、そして、既に彼女を縛ったシシィなのだ。
それはつまり、彼は彼女の“名”に対して、確かな影響を与えてしまうそれを得たということ。
だから、真名からの別称を用いることで、彼女へ与える影響の軽減。
と。小さいけれども、それでも、その確かな影響を与えるための、謂わば愛称。
彼だけに許した、愛称。
そう思うと、何だかむず痒いけれども。
ちらと様子を伺うようにティアが彼を見やれば、目が合った。そして。
『――ルゥ』
シシィがそれを紡いだ。
瞬間。ティアにぞくりとしたものが走る。
悪寒に似たそれは、けれども、痺れに近かったのかもしれない。
シシィが破顔する。
それにティアが息を呑み、微かに胸が鳴る。
だって、それがあまりに嬉しそうだったから。
『――……?』
刹那。ティアは胸に違和感を感じた。
え、と彼女は戸惑いを覚え、思わずさすった。
けれども、そんな彼女の様子に気付かずにシシィは言葉を続ける。
『じゃあさ、ルゥ。ルゥもぼくのこと“シシィ”って、ちゃんとよんで?』
『ふぇ?』
戸惑う最中に不意に呼ばれたからか、ティアから間の抜けた声がもれた。
『……ぼく、ちゃんときづいてるよ? ルゥがちゃんと、いえるようになってるって』
何を、とは言わなかった。
それはシシィも、ティア自身も気付いていることだから。
ティアが以前言っていた。
この身体に引っ張られるから、どうしてもそれをその音として発せられないと。
でも。今はもう、魂を縛られ、繋ぎ留められたから。
だから。不安定だったそれは、確かなものとなって。
精霊ティアとして、確かにここに存在している。
そんな今はもう、身体に引っ張られることもない。
『ねえ、ぼくのこと“シシィ”ってよんでよ』
ぐいっと。迫る勢いで身を寄せてくる彼に、ティアはたじろいでしまう。
『……な、なんでよ』
『ルゥが“シシィ”ってよんでくれるたびに、ぼくはちゃんと“ぼく”でぼくなんだっておもうから』
ティアの脳裏に過るのは、あのどこを見ているのかわからない碧の瞳。
それを思い出す度に、きゅっと胸が軋むように小さく痛む。
そう、自分が無茶をしたのは、彼が彼で居て欲しかったから。
『ねえ、だめ……?』
碧の瞳が上目で見やってくる。
まさにそれはおねだり。
控えめに揺れ動くそれが、いかにもあざとい気もする。
どこでそんな技を覚えたのかと言いたい心境になりながら。
『――……っ!!』
ティアはもごもごと口ごもったのち、声にならない声を発する。
そんな彼女へ、再度訴えるようにシシィは身体を寄せて、揺れ動く瞳。
――そして。
『……………………わ、わかったわよ』
数泊のち。
観念したティアが声に音を絡ませる。
『…………シシィ』
すると。
『うんっ!』
シシィはその日一番の、とびっきりの笑顔をティアへ向けた。
『――――』
瞬間、ティアの心が振れた。
そして、彼女は気付く。
己の心の振れ幅が変じたことに。
今までとは違う、その振れ幅に。
戸惑い、そして納得もする。
けれども、それに名を付けては呼ばない。
まだ、呼ばない。
だって、名を付けるにはまだ遠い。
そんな淡い想いだから。
その日。
彼と彼女の。
シシィとティアの関係は、少しだけカタチを変えた。




