花弁散る
『チチィ――……』
白い霧。白闇の如く深い濃霧の中。
ばさと翼を打つ音と、誰かを呼ぶ声が響く。
『チチィ――……』
それは幾度も。
声を重ねる毎に、必死なそれが色濃くなる。
『チチィっ――……』
必死に呼ぶ声に、応える声はない。
ばさと幾度目の羽ばたきののち、声の主はふわりとその場に舞い降りた。
一歩先も見えない濃霧の中。
空気が変わったのがわかった。
琥珀色の瞳が睨む先。前方から吹く風が、不快なそれを運んでくる。
彼女は自身の淡い黄の羽毛を震わせた。
『マナ溜まり……』
ぽつりと言葉をもらす。
『早くチチィを見つけて、連れ戻さないと――』
吹き付ける風がねっとりと彼女――ティアに絡みついて。
瞬間。ぞわりとティアに悪寒が走った。
まるで、見えない何かが皮膚の下を這い回るような。
気持ちが悪い。冷や汗が噴き出す感覚がする。
無意識のうちに足を引いていた。
離れろ、この場から。戻れ、精霊界へ。
本能が警鐘を鳴らす。この先に進むなとティアへ訴える。
だが、と。
『わたちは、チチィを見つけないと』
ふるふると首を振る。
彼を見つけないと。
もしかしたら、一匹だと気付いて泣いているかもしれない。
ううん。泣かない子だから、泣いてはいないかもしれない。
でも、寂しい思いをしているかもしれない。
寂しいとは口に出来ない不器用な子だから。
彼は“自分”とどこか似ているなと感じてしまう。
そして、あの子と重ねてしまう。
もう遠い、記憶の奥底に埋もれてしまったあの子。
過ぎた時間の記憶。
哀愁はらむ何かが、胸中に燻る。
『――――』
ほおとティアは息を吐き出した。
目を閉じて波をやり過ごす。
ああ、呑まれるな。その記憶は、ティアであってティアではないもの。
あの子は既に過ぎ去ったものだ。
それに。シシィはシシィ。
今すべきことはなんだ。見失うな。
『――チチィを見つけて、連れ帰る』
よし。大丈夫。
開いた琥珀色の瞳に、確かな意思が垣間見えた。
ばさりと翼を広げ、ティアは再び舞い上がる。
*
自身のばさりと羽ばたく音が己の耳朶を打つ。
いつの間にか霧はなく、景色が流れていた。
ティアは森にいた。
空気の感触から、そこが“外”の森だと判断する。
空は辛うじて木々の隙間からそれが伺える程度。
それだけ枝葉が茂って伸びているのだ。
光の差し込まないことから、それなりの奥地だろう。
『何なのよ……この、濃度……』
思わず言葉をもらしてしまう程の、経験のないそれ。
ゆっくりと羽ばたきながら、きょろと周囲を伺う。
と。突如、血が下がった感覚に襲われ、くらりと目眩がした。
ねっとりと絡みつくそれが身体を重くし、羽ばたく翼も重さを伴い始める。
空気も重く、呼吸の度に比例して重くなるようだった。
瞬間、ぐらと身体が傾ぐ。
視界がぶれて、あ、と思った頃には、地は眼前にまで迫っていて。
痛みを覚悟して、ぎゅっと目を瞑る。
だが、ティアを包んだのはふわりとした柔らかな感触だった。
『……?』
不思議に思いながら、重い頭を持ち上げると。
『ちあ、だいじょーぶ!?』
碧の瞳を大きくゆらしたシシィの顔が飛び込んで来た。
今にも泣きそうなその瞳に、泣かないで、と力なく笑いかけながら。
安堵にも似た気持ちがティアの胸中に広がって。
彼女はそのまま意識を手放した。
* * *
清冽な空気が頬を撫でる。
その感触が彼女を覚醒へと誘う。
喘ぐように息をして、次いで吸い込んだ空気の軽さに、のろのろと目を開けた。
焦点の定まらない視界の中。
彼女は泣きそうな目を向ける彼を見つける。
目が合うと、シシィが悲痛な声で叫んだ。
『ちあっ……!』
涙で濡れた碧の瞳が、安堵で大きくゆれる。
ずっと傍に寄り添ってくれていたのだろうか。
『ちあ……ちあ……ちあぁ……』
確かめるように何度も、同じ名を情けない声音で口にする。
ティアは、先程よりも軽くなった身体をゆったりと起こして薄く笑った。
『ちゃんと、聞こえているわよ……』
ほっと短く息をついたティアが、小さく翼をひとつ打つと。
周囲の空気が震え、風の層を作り出した。
遮断された空間。
風の層に阻まれ、周辺のマナ溜まりは彼女らに近付けない。
これは一種の結界魔法のようなもの。
周囲から遮断された風の層の内部は、シシィから溢れ出る清冽なそれで満たされる。
ひんやりとしたそれは、彼から溢れる水の気をはらんだマナ。
それが流れをつくり、風の層内の濃度を下げていく。
徐々に身体が軽くなっていくのを感じて、ティアはほおと深く息をついた。
風の層を張った範囲内ならば、自分でも何とか持ち堪えられそうだ。
『……ちあ、もうだいじょーぶ?』
ずっとティアの様子を伺っていたシシィが心配そうに問う。
『ええ、何とか』
『……ほんと?』
『まあ、この風の層の中なら。……チチィのおかげよ、ありがと』
ティアが礼を口にすると、シシィはきょとんと首を傾げた。
何のことかと目が問うている。
『チチィが浄化をちてくれているから』
『じょーか?』
『浄化は浄化よ』
『って、なーに?』
こてん。今度は反対の方向へ首を傾げる。
ぱちくりと琥珀色の瞳を瞬かせて、ティアは話題を変えることにした。
説明が面倒だとは思っていない。
ただ、彼が心配だったから。
『チチィは何ともないのかちら?』
急な話題のすり替え。
けれども、シシィに気にする様子はない。
『あ、うん。ぼくはなんともないよ』
ほら、と。その場でくるりと回って見せた。
ティアはそれに、そう、と返して、ふむと考えを巡らせる。
ティアとシシィ。同じ上位精霊ではある。
ちらりと風の層の外へ視線を滑らせ、可視できるどんよりとしたそれを見つめる。
マナ溜まり。だが、ここまでの濃度のものは馬鹿げている。
いくら上位精霊といえども、長時間晒されれば、その存在自体の維持も危ぶまれる気がする。
今でもティアの本能は警鐘を鳴らし続けている。
と、突然。彼女の視界に白が広がった。
『……ちあ。やっぱり、まだだいじょばない?』
シシィがティアの顔を覗き込んだのだ。
目の前で揺れる白の体毛。それに自然とティアの視線は惹きつけられて。
ああ、そうか。と納得する。
彼が、シシィが“白”を持つから。
だが。
否。と、彼女は胸中で唱えた。
それは、己が不完全な精霊だからだ。
『ちあぁ……』
ティアからの反応がなく、訝ったシシィがもう一度彼女を呼ぶが。
その声がまた情けなさをはらみ始めて、ティアは苦笑をもらした。
『――戻りまちょ、チチィ』
そう告げると。
目に見えてシシィの身体が強張った。
気まずそうに逸らさせる碧の瞳に、琥珀色の瞳がきろりと睨む。
戻りたくはない雰囲気だ。
『チチィ――』
咎める響きを聞き留めて、観念したようにシシィが口を開いた。
『だって、だってさ。ここをぼくはしっているんだ』
シシィの碧の瞳は、今度は真っ直ぐにティアを射抜く。
力強い何かを宿すその瞳に、思わず彼女は気圧される。
が。何かを辿っているように、だんだんとその色は薄らいでいく。
『ぼく、たいせつな……たいせつななにかを、わすれているきがする……』
ティアを真っ直ぐ射抜いていたはずのそれ。
しかし、今はどこか遠くを見つめているように感じて。
また、あの目だ。ティアに焦燥が滲む。
『そう。わすれられない、わすれたくない、わすれちゃだめなこと』
熱にうかされたような口調。
彼は一体、何を言っているのか。
ティアの焦燥から不安がうまれる。
『……なにを? ――……ああ、そうだ。やくそく……やくそくを、したんだ』
『チチィ』
堪らず、彼女は彼を呼ぶ。
たが、その呼ぶ声に応えはない。
けれども、言葉はぶつぶつと紡がれ続ける。
『……だれと? ――……おもいだせない。でも、だいすきなあいてと』
『チチィ……?』
それは誰のことか。
それはシシィの想いなの――?
『……どんな? ――……。……みつけなくちゃ、さがさなくちゃ』
自問自答を繰り返したのち。
やがてシシィの目が、何かを求めるように彷徨い始めた。
『チチィっ……!』
焦れて叫ぶも、その目にティアは映らない。
彼がティアから顔を逸し、背後を振り返る。
両の耳をぴんと立て、時折鼻をひくつかせる様は、まるで何かを探しているようだ。
その背が遠い。彼が、シシィが遠い。
彼は確かに目の前にいるのに、その彼を遠く感じる。
同時にティアは既視感を覚えた。
それが焦燥、不安に繋がる。
『――チチィも、何かを抱えてうまれてきたの?』
自分と同じように。
“それ”と自分との境は随分と朧気で。
油断すると呑まれそうになる。見失いそうになる。
確かに“それ”は自分が得てきたものだろう。
でも、それは決して“ティア”が得てきたものではない。
そこは間違えていけない。取り違えてはいけない。
だがそれを、自分が“ティア”だからという理由だけでは切り捨てられない程には、その境は朧になってしまっている。
『チチ――』
再度、ティアが彼の名を呼ぼうとしたとき。
彼女の皮膚が粟立った。
この濃度の中でも、はっきりと感じ取れる程のマナの揺らぎ。
濃度が高すぎるゆえに、微弱なそれは揺れ幅が小さく覆い隠されてしまう。
だから、例え精霊といえど、まだ幼い精霊の身では揺らぎの振れ幅も小さい。
ゆえに、他者からは気付かれにくいだろう。
それ、なのに。
その中でもこれだけ感じ取れる揺らぎの正体など、一つしか考えられない。
それだけの力を蓄えた――魔物。
その時だ。ふらりとシシィが風の層から足を踏み出した。
『チチィっ! その先はダメよっ!』
彼の足は止まらない。
『チチィーっ!』
悲鳴にも似た声が必死に呼ぶ。
名は一番短い呪。つまりは、呪い。
名は小さいながらも、それを縛る力を持つ。
ならば、それを正しく紡げれば。
『チ……――シシィっ……!』
瞬間。ぴたと彼の足が止まった。
はっとしたように碧の瞳が見開かれ、振り返る。
『――ちあ……?』
今度はしっかりと己を映すその瞳に、ティアは肺が空になるまで息を吐き出した。
そして、とてちとシシィへ駆け寄る。
『戻りまちょ。ううん。とにかく今は、ここから離れまちょ』
『はなれる……?』
どうして、とシシィが訊ねる。
だが、今は説明する時間すら惜しい。
ざわざわと木々が不穏にざわめく。
そのざわめきの中にティアは別の音を聞き留め、琥珀色の瞳を大きく震わせた。
――近い……!
そして。がさっと。
シシィの背後。大きな音を立ててそれが飛び出したのと。
『はぁっ!』
ティアが裂帛の声と共に、張っていた風の層を押し広げたのはほぼ同時だった。
押し広げられた風の層は、飛び出してきたそれを押し退けようとするも。
それを一瞬、踏みとどまらせただけで終わる。
己の背後の騒ぎに気付いたシシィが振り向いた。
眼前に迫る、植物の成りをした魔物。
逃げなきゃと思うのに、恐怖が先立ってその場に縫い留められる。
魔物は本能で生を貪る。貪欲に。
魔物が何かを振り上げた。
きらりと光を弾く様は、鋭利なそれを意味する。
それが己へと迫る様が、何故だか、シシィにはやけにゆっくりと見えていた。
ティアがシシィの名を呼ぶ。
肉を裂く音が鮮やかに聞こえて。
ぱっと散る赤は、まるで散りゆく花弁の様で。
そして、鉄の匂いが鼻を突いた――。