助力
『――頃合いかな』
スイレンの呟きを合図に空気が入れ替わった。
そして、パリスは唐突に思い出す。
「……あ。そうだ、隊長達」
その感覚に首を傾げた。
あれ、どうして思い出したんだろう。
これではまるで、今の今まで忘れていたみたいではないか。
そんな奇妙な感覚にパリスは怪訝な顔をする。
彼の横顔をちらと見たヒョオが、はあと息を吐き出した。
『スイレンよ。お主、認識阻害をかけていたな。気付かなんだ』
『……認識、阻害?』
何だろうと思って、そうだと思い出す。
文字通りに認識を阻害する魔法の一種だ。
だが、それは高度魔法ではなかっただろうか。
思わずパリスの視線がスイレンの方へ向けられた。
『懐かしい声に気配だったんだ。ちょっと邪魔されたくなくてさ』
スイレンが悪びれた様子もなく告げる。
パリスの視線に気付いた彼は、いたずらっ子のような顔で笑った。
『悪かったなー』
悪いとは全く思ってなさそうだった。
けれども、そんな高度魔法も扱えるとは、やはりスイレンは上位精霊なのだなと妙な感心もうまれた。
上位精霊なのに、どことなく近しく感じてしまうのは、彼のこういうところなのだろうか。
パリスは既に彼に対して親しみすら覚えてしまっていた。
それは上位精霊を喚んだ身としてどうなんだ、と思わないでもないけれども。
ははっと苦笑がもれた。と。
「――パリス」
緊張した、硬い声音が彼を呼ぶ。
パリスが振り返れば、隊長を先頭に騎士隊の面々が集まっていた。
騒ぎを聞きつけ、他の騎士達も天幕から出てきたのだろう。
彼らの視線は一同にスイレンへ向けられている。
ざわざわと喧騒が広がった。
「おい、本当に精霊だ」
「でも、上位精霊なのか……?」
「獣の姿だ。中位精霊じゃないのだろうか」
「そうだよな……。魔法師でもないのに、精霊召喚なんて難しいだろ」
おい、そこ。それ、聞こえてるぞ。
と、あちらこちらから聞こえるざわめきに、パリスが渋い顔をした。
だが、その中でより声を上げる騎士がいた。
「……いや、でも。ちょっと待てっ……俺、あの色を知ってるぞっ」
驚愕。はたまた衝撃か。
彼は一歩後退ってこぼした。
「――あの色は、“白”だ」
その場にどよめきが広がった。
*
“白”だと。“白”といえば、上位精霊の中でもさらに上の位だろと。
そんなどよめきが広がっていた。
ああ、まあ、そうなるよね。
と、パリスはスイレンと出会った瞬間の衝撃を思い出す。
自分だってまさか、こんな大物が出てくるなんて思わなかったのだし。
今ではすっかり緊張なんて抜けてしまったけれども。
ちらと振り返りれば、目が合ったスイレンは、人の良さそうな笑みを浮かべた。
いや、この場合は精霊のよさそうな笑みか。
そんな、どうでもよいことを考えていたパリスに隊長が再度声をかけた。
「――パリス」
その声に改めて振り返る。
隊長は真剣な眼差しで、パリス、そしてスイレンへと滑らせ、もう一度パリスを見やる。
「そちらは上位精霊様、か……?」
どことなく丁寧な物言いなのは、上位精霊ゆえ。
隣人と呼ばれている精霊だが、神聖な存在という意識も広がっている。
人は精霊の恩恵を受けて生活している節もある。
そんな存在の上位となれば、存在するだけで背筋も伸びてしまうものだ。
だから自然と、物言いも丁寧なそれとなってしまう。
「そッスね。みたいッス」
だが、すっかり気を許してしまったパリスは普段通りの返答をする。
その物言いに、ちょっとそれは軽すぎやしないか、と隊長が眉をひそめた。
「スイレンさんっていうみたいッス」
「……パリス。いくら何でも、上位精霊様に対しての振る舞いとは思えないが」
さすがに不興をかうのはまずい。
精霊だって意志あるもの。
積み重ねてきた歴史の中には、人へ牙をむいた精霊の記述もある。その逆も然り。
それでも、今日まで隣人として歩んで来れたのは、互いにとっての距離感を掴んできたから。
それを壊すのはよくない。
そう思い、隊長もパリスへ苦言をもらす。が。
「――ああ、構わない。私が許した」
厳かな声が響いた。
皆の視線が一斉に向いた先にいたのはスイレン。
「私に対して緊張する必要もない」
くすくすと笑うスイレンに、皆が呆気にとられる。
「……精霊が、人の言葉を……?」
誰かが呟いた。
けれども、皆もおそらく胸中は同じだろう。
そんな胸中を察したスイレンが口を開く。
「私にもかつて結んだ者がいた。その時に言葉を得たのだが、今でもこの言葉で通じるだろうか?」
「……ええ、問題ありません」
先に衝撃から抜け出した隊長がその問いに答える。
「そうか。ヒトの文化は目まぐるしいからな、まだ通じるようでよかった。――と」
と。区切りのように一音をこぼせば、スイレンのまとう雰囲気が変わった。
凛としたそれに変わり、肌で変化を感じった者達は身を引き締めた。
目の前に座するのは上位精霊の“白”。
敏い者は気付いている。
彼がこの場に降りてから、じわりじわりとその範囲を広げていたマナ溜まりが、何かを嫌がるようにさあと下がっていったのを。
その場に存在するだけで、圧倒的な何かを発している。
そして、その精霊の姿がぶれた。
だが、そう思った瞬間には精霊の姿はなかった。
代わりにその場に在ったのは、青年の姿だった。
ざんばらな白の髪。目を丸くする一同を愉快そうに眺める瞳は空の色。
顎に添える手も、指もすらりとし、線の細い身体をしているよう。
だが、まとう風格が強者のそれゆえに、油断はならぬと本能が告げる。
突然現れた、その場に似つかわない風体の青年。
その場に一気に緊張が走り、中には剣の柄へ手を伸ばす者もいた。
そんな誰しも警戒する中で、いち早くそれを解いたのは。
「……あれ? スイレンさんッスか?」
パリスだった。
反射的動作で剣の柄へ手を伸ばしたが、全く警戒する様子のないヒョオを訝しんで、そこではたと気付いたのだ。
放つ気配が同じだと。
『あ奴。ただ単に、見栄を張りたいだけなのだろうな』
呆れたように呟いたヒョオは、冷めた眼差しでスイレンを見やる。
『いやだなあ、見栄だなんて。上位精霊たるもの、そういう風に振る舞わないと』
それを受けた青年がにこりと笑う。
けれども、なぜだろう。顔は笑っているのに薄ら寒いものを感じる。
パリスは無意識下で肌をさすった。
このやり取り、しばらく続くのかなあと彼が遠い目をしかけたとき。
「――……上位精霊様」
意を決した、というような声が、青年の姿をしたスイレンを呼んだ。
空の瞳が声の方を見やる。
びくりと集う騎士達の肩が跳ねた気もする。
彼のまとう風格が、強者のそれなのだ。
これは彼の警戒なのか、威嚇なのか。判別はつかない。
が、その中で隊長だけは普段通りだった。
「スイレンで構まん」
スイレンが口を開く。
「それで? 私に何の用だろうか」
にこりと笑う。貼り付けただけの笑みを。
警戒するように隊長の目が細められる。
ぴりついた両者の間に挟まれる形になったパリス。
居心地が悪い。それはもう、物凄く。
それにやっぱり何だか肌寒いぞ。
さすと両腕を抱いてさする。
パリスの様子に気付いたヒョオが咎めるようにスイレンを見やった。
ヒョオの鱗から火の気がもれて、瞬間、パリスの周囲を仄かな熱が覆った。
パリスが驚いたようにヒョオを見やるも、ヒョオはスイレンを見やったままで。
スイレンが彼を、否、パリスを一瞥してから、隊長の方へと歩みを進めた。
パリスを背後へやるように。
そして、対峙する隊長とスイレン。
と、はらはらするパリスと我関せずのヒョオ。
と、少しだけ離れてどきどきと見守る騎士達。
その図が落ち着かないのか、森が小さくざわめいた。
「――さて。もう一度問うが、私に何の用だろうか」
「…………」
すっ、と細められたスイレンの空の瞳。
その中に見定めるような色が一瞬だけ滲んだのを、隊長は見逃さなかった。
がばりと。流れるような精錬とした動作で、彼はその場に膝まづいた。
半瞬遅れ、後ろの騎士達も隊長の動きに合わせるように膝まづく。
取り残されたのはパリスだけで。
当の彼は、え、と戸惑いの表情を浮かべおろおろとする。
だが、そんな彼に苦言をもらす者はいなかった。
彼はかの精霊に許された。だから、良いのだ。
張り詰めた空気。
え、ちょっ。と一人慌てていたパリスも、ヒョオに背を叩かれ押し黙った。
しいん、と静寂が降る中で、隊長が静かに口を開く。
「――スイレン様に、助力を請いたいのです」
「……ほう」
空の瞳がすっと細められる。
「何をだ?」
「この地の、マナ溜まりの浄化をお願い申し上げます――……」
スイレンが視線を滑らせた。
息をひそめるようにふよふよと浮かぶ光の粒達。
スイレンの視線に気付くと、どびゅんと一度大きく跳ねてから身を寄せ合う。
ぷるぷると震えているように見えるのは、気のせいではないだろう。
小さく苦笑をもらす。
上位と下位だ。彼らのその反応も仕方ない。
次に肩越しに背後を顧みる。
ヒョオと目が合った。彼はふるふると首を横に振る。
なるほど。大体の事情は把握した。
そして、再び膝まづく隊長らへ視線を落とす。
上げる気配のない頭。スイレンの口端が上がった。
線引きはされている。お互いの領域は侵さない。
「――理解した。その嘆願、私が引き受けよう。何より、私を喚んだ声はかつての私の縁。応えぬわけにはいかない」
「――っ! ありがとうございます、スイレン様」
隊長が顔を上げる。
そこに安堵の色が広がっていた。
「なに、それが精霊に課された役目、存在の意味。それに――」
スイレンが一度言葉を切る。
瞬きひとつ。
スイレンの姿が青年から狼へと転じていた。
途端。張り詰めていた何かがゆるりと解ける。
騎士達がほっと息を吐き出した音が幾つもした。
「……もとは私の役目だ」
「? スイレン様、何か?」
「いや、何でもない。気にするな」
頭をひとつ振って見せたあと、さて、とスイレンが立ち上がった。
何処へ行くのかという視線が幾つも彼へ向けられる。
「浄化だ」
一言告げ、くるりとスイレンが振り返る。
たったそれだけの動作で、既に変化は生じた。
じわりじわりと少しずつ、でも確実に、それを広げていたマナ溜まりがさあと退けていく。
否。退けたのではなく、霧散したように見えた。
その様子をじいとスイレンは凝視する。
視線を滑らせ、範囲、状況、様々なものを確認して。
再びくるりと振り返る。
立ち上がって様子を伺っていた騎士達が、身体を強張らせたのがわかった。
だが、それには一瞥することなく、彼は真っ直ぐ隊長を見やった。
「私が思ったよりも範囲が広い。私も背負う役目があるゆえ、あまり長居もできない」
「……ですが、スイレン様……」
彼の言葉にさすがの隊長でも狼狽えがちらつく。
が、早合点するなとスイレンがそれを遮る。
「だから、代わりの者を喚ぶ」
「代わりの、者……ですか?」
「ああ、少々……いや、かなり煩い奴だが――」
端切れの悪さ、泳ぐ視線。
そんな様子のスイレンに隊長が首を傾げる。
ついと横目でそれを見やり、スイレンはあははと乾いた笑みを浮かべた。
あ、この反応は素だな。
と、成り行きを見守っているパリスは思った。
おほん、と誤魔化すようにわざとらしい咳払いをする様も、何だか人間くさいな、とも。
「――代わりの者を喚ぶ」
あ、取り繕った。
パリスがそう思っている間にも、物事は進んでいく。
上位精霊が喚ぶ存在とは何だろうか、と騎士達の間に仄かな好奇心が渦巻く中。
『――ミナモ』
ぽとんと言葉が落ちた。
精霊が扱う、精霊の言葉。
凪いだ水面に波紋が生じたかの如くな響き。
誰かがごくりとつばを飲み込んだ。
それを別の誰かが肘で小突き、静かにしろと訴える。
その場の誰もが自然と口を閉じた。
波紋が広がれば、水面はまた凪ぐように。
その場は静寂に包まれる。
が、その静寂が満ちた時。
凪いだ水面にどぼんと投石したが如く。
『すーさまああああっ!!』
スイレン曰く、煩いあれが飛び込んで来た。