フウガと姪とねずみ
『お前ら、探したぞっ!』
突として降り落ちた、怒気はらむ声。
ばさりと強く羽ばたく翼の音と共に、風が叩きつけられた。
それを琥珀色の瞳を鋭く細めたティアが立ち上がり、風を巻き起こして衝撃を殺す。
シシィも、ジルもシオも動くことが出来ず、呆然とするだけだった。
起こった出来事はそれだけ、瞬の出来事だった。
大きな影が彼らへ落ちる。
ばさりと大きく打った翼の音に、その影が舞い降りる頃には、鳥だった影は人の姿に転じていた。
そして、その前に立ちはだかったティアの瞳には、怒をはらむ咎める色が滲む。
『おじさん、危ないわっ』
『それはお前がなんとかすると思ってたからな――つか、そーれーよーりー』
枯れ葉色の瞳を据わらせたフウガは、ティアのこめかみを両拳で挟むと、それをぐりぐりと押し当て始める。
『痛い痛い痛いおじさん痛い』
『あったりめぇだろぉ? 痛くしてんだから』
『なんで――!?』
琥珀色の瞳を潤ませながら、ティアはフウガの腕を叩いて抗議するが、彼は意に介さない。
彼らがぎゃんぎゃん騒ぐ中、呆気にとられていたシシィははっと我に返る。
こんなに騒いでいたら、さすがにシシィの認識阻害の効果では意味を成さないのでは。
どっと冷や汗が噴き出す感覚に、彼は慌てて周囲を見回して、すぐに気付いてしまう。
複雑な色を碧の瞳に滲ませて、フウガを振り向いた。
変わらずティアの頭をぐりぐりしている彼に、シシィは悔しげに口をへの字にする。
シシィの展開した認識阻害の効果に、さらに上から濃密な認識阻害が展開されていたのだ。
これだけ濃く丁寧に働かせていれば、このくらいの騒ぎも人々の目から隠してくれることだろう。
それがシシィには面白くなかった。そして、ティアを好きにイジっているのも面白くなかった。
「――……それで、フウガさんは何しに来たの」
事態が飲み込めず、ただ成り行きを見守ることしか出来ていなかったジルとシオが、己らも解る言語に緩く息をつく。
「何しに来たも、さっき言ったじゃねぇか」
ぐりぐりの拳を解き、フウガはティアの肩に肘を乗せる。
ティアの顔が目に見えてしかめっ面に変わっていく。
「お前らを探してたんだ」
お前ら、と口にしつつ、シシィとティアを指さしたフウガに、指されたシシィは目を丸くした。
「え、僕達?」
「そうだ。探せというのが王の仰せだったからな。なのに、風に居所訊いても知らぬ存ぜぬの一点張り。ようやっとばななに会えて、お前らをみつけたとこだ」
不機嫌増しで目元に剣を宿すフウガの肩口に、小さく風が渦巻き、ばななが顕現する。
シシィらが屋敷の外に出た際にどこかへ飛んで行ったが、フウガを探しに行っていたのか。なるほど、とシシィは頷いた。
「ティア、お前」
ティアの肩に肘を乗せたまま、フウガは彼女を睨めつける。
「風に場所を教えるなと操ったのか」
その言葉に、今度はティアがフウガを睨めつけた。
自然を操る。それは気軽に行なっていいことではない。
それを彼は、目の前の大精霊は、ティアが行ったと思っているのか。
彼女の瞳に明らかな怒気が滲む。
「そんなわけないわ。操るということがどんなことなのか、それを私に教えたのはおじさんじゃない」
「まあ、だよな。操ったにしては、ここに風の動きはあるもんな」
じゃあ、と。フウガの瞳がふいに揺れる。
「風がお前の存在を秘匿するほど、弱ってたのか」
「……」
「――ティア」
「シルフ様から課せられた役目は果たせたと思っています」
フウガは口をつぐんだ。
それはつまり、駒の役割は果たせた、ということだ。
ティアはフウガから目を逸らすと、自身の肩に置かれていた彼の腕を払った。
背を向けて離れる彼女を、すっくと立ち上がったシシィが背に庇う。
「……ちあが弱ってた理由は、フウガさんならわかってるでしょ」
責めるような瞳を、シシィはフウガへ向ける。
「――ああ、そうだな。シルフはよぉーく知ってる」
シルフ。その音に、ティアが肩越しにちらりと振り返った。
フウガの口が何事かを呟く。
シシィはその声を拾えず訝しむが、すうと小さく吹いた風がティアに声を運んだ。
小さく目を見張った彼女に、フウガは切なく笑った。
「――てことだ。許せ、ティア」
何の話をしているのかと、シシィはフウガとティアを交互に見やり、最後にティアを振り返る。
「なに、何の話してるの?」
「……それならまあ、しょうがないかもって話。――でも、かもって話だからね」
最後の方はティアからフウガへ向けた言葉。
ティアがべぇーと舌を出して見せると、フウガは困ったように苦笑を浮かべるのだった。
――シルフとしては、役目を果たしたことを褒めてやる。けどな、フウガとしては、心配したんだ。……元気な姿で、安心した。
そう言われてしまえば、ティアもこれ以上は怒れない。
心配していた、という言葉は、確かに風の長シルフではなく、ティアの叔父であるフウガの言葉だったから。
でもやはり、怒っていることには違いのだから、心配してくれてありがとう、とは絶対に言わないのだ。
それくらいは、許して欲しい。
*
「……ちあがいいなら、僕は別に構わないけどさぁ」
口調は納得した風情でも、口をへの字にしたシシィの顔は、未だ納得はしていない顔だった。
そんな彼を宥めつつ、ティアは彼の手を繋ぐと転移して行った。
ティアが転移の主導を握るかたちならば、シシィが転移で見知らぬ場所へ旅立つこともないだろう。
「さて、あいつらはスイレンの方へ向かわせたし、俺は――」
そう言ってフウガが振り返れば、少女の姿へと変じたシオが、彼を見上げていた。
その顔はどこか誇らしげで、胸を張りそうな勢いだった。
「大精霊様。あたし、ちゃんと頼まれたわよ」
「ああ、ありがとな」
柔く目を細めて笑う。
そして、話が見えなくて紅の瞳をぱちくりとするジルを見やる。
なんの話だよ、と困惑げにシオを見やっていたジルは、自身に向けられるフウガの視線に気付いて眉根を寄せた。
「……なあ、フウガ。なんの話だ――って、なんだよっ!? いきなり!」
突然フウガの手が伸び、ぐわしがしとジルの髪を掻き回す。
慌ててジルが逃れようとするも、フウガの力は強く振り払えない。
「俺は、お前も心配だったっつー話だよ」
降り落ちる声に、抵抗で足掻いたジルの動きが止まる。
そこに言い知れぬ温度を感じ、抵抗する気も一気に失せてしまった。
「……んだよ、今更。んじゃ、始めからそう言えばいいじゃねぇかよ」
「そうだな。始めから言葉にしてりゃ、また違ったのかもしれねぇなぁ……」
途方に暮れたような、落ち込んだような。普段の彼らしくない、細い声。
ひとしきり掻き回されたジルの髪はぼさぼさだった。
落ち着いたフウガの手を払い、ジルは乱れた自身の髪を手ぐしでなおしていく。
その最中にちらりとフウガを覗うも、目が合った彼からは楽しげな気配しかなく、先程のは気のせいだったのだろうか。
でも、これだけは伝えないといけない気がした。
だが、その言葉は少しだけ恥ずかしく、ちょっと口が固まり、目を逸らす。
「……心配、あんがと」
思ったよりも小さく、ぽそりとした声になってしまった。
ちゃんと聞こえたただろうかと、ちらりとジルはフウガを見やる――見やって、驚きで紅の瞳を見開いてしまった。
どうしてか。それは、フウガの枯れ葉色の瞳が見開かれていたから。
次いで、柔らかな感情の色が滲み、ほるりと笑みの形に変わる。
「……ああ」
応えはそれだけ。それだけだが、たぶん、言葉にしてよかったのだと思えた。
そして、頃合いを見計らっていたのだろうシオが、表情を緩めていたジルの眼前に付き出した。
ジルはぱちくりと瞳を瞬かせ、シオの顔を見やる。
「これ……」
「あんたのターバン。落ちてたの拾ってたから返す」
「そーいや、ずっとお前が首に巻いてたな」
「そうよ。あたしの匂いもしっかりしてるから」
ふふと妖艶にカッパー色の瞳を細め、服の隙間から覗く二又の尾をゆうらりと揺らめかす。
少女の姿だというのに、きゅっと絞られた瞳孔は、間違いなく彼女は人ならざるものだという証で。それでも、今はお互いに人の姿をしている姿形は同じで。
もう、逃げられない。ぞくりとジルの背に悪寒が走るのは、捕食される側ゆえの己の本能か、それとも――。
シオの手からターバンの布を受け取ったジルは、慣れた手付きで頭に巻いていく。
そうすることでようやく、ジルも居たい場所に戻って来られたのだなと思えた。
つんっと鼻奥が痛い気がするのは、きっと気のせいだ。