犬と猫と人間
家に帰る前にコンビニによって雑誌を立ち読みした。懇意にしていた漫画が来週で終わるらしい。ある程度の場所まで進んでからはジェット・コースターみたいな勢いで進んでいって突然終わる漫画だった。人気はあったから打ち切りというわけではないのだろう。もっと描きたい話ができたのかもしれない。あるいはこんなふうに終わることを最初から決めていたんだろうか。終わり方が決められるというのはいいことだなとなんとなく思う。
読み終わると、冷蔵ケースからペットボトルのコーヒーを取り、食品棚からサンドウィッチを取った。どうでもいいけれどサンドウィッチというのは人の名前だそうだけど、変な名前だな。挟まれた魔女。
のっぺりした顔立ちのやる気のなさそうな男の店員にお金を払ってそれら二つを買い、店の外で壁に背中をつけて食べて、飲んだ。コーヒーは甘すぎて、サンドウィッチは見える部分にしか具が入っていなかった。僕はよくできた詐欺にあった気分になった。
「あれ、あんちゃん?」
コンビニの前の道路を通っていた男の子が僕を見て人懐っこい笑顔を見せた。スポーツ刈りにした短い髪の下に人懐っこい笑顔。中学校の制服を着ていた。小柄なのは遺伝だろうか。二ノ宮の弟の、義人くんだった。小走りで駆け寄ってくる。汗の匂いがした。
「どしたの? こんなとこで」
「ちょっと用事があってね」
「俺はねー、部活帰りー」
聞いてもないのに嬉しそうに今日あったことを話し出す。
野球部の七番バッターで、ポジションはレフト。今日は守備練習を重点的にやってくたくたなんだそうだ。僕は義人くんの様子がいつもと変わらないことを少しだけ思う。
「あんま実感ないんだよね」
表情を読んだのか、義人くんが先回りして答えた。
「ほら、カズキ、あんま家にいなかったから。最近はそんなに喋ることも多くなかったし。いないほうがあたりまえー、って感じでさ」
僕は頷いた。そういうこともあるのだろう。
「あんちゃんから見たカズキってどんなやつだったの?」
僕から見た二ノ宮か。
「鬱陶しいやつだったよ」
と、僕は言った。
義人くんが頷く。
「頼みもしないのにやたらと世話を焼いてきてさ、おかげで僕は部活の顧問に練習だー、どうだーってせっつかれるハメになった。僕はわりと一人が好きな方なんだけどさ、あいつと一緒にいるうちに僕のイメージまでカドが取れてきたみたいで、葛原さんみたいな変なやつに絡まれることになるし。まあそれはそれで悪くなかったけどさ」
「ていうか、あんちゃん、カズキのこと結構好きだったの?」
「どうやらそうらしいね。あんまり認めたくないけれど」
僕はしぶしぶと言った。
義人くんは「ほもー」と言った。
「誰にその言葉教わったの?」
「クラスの女子」
「それ、軽々に使うべきじゃない言葉だから覚えとこうね?」
とりあえず僕は異性愛者だ。
少なくとも二ノ宮のことは恋愛対象ではなかった。
「えー。わかったー」
素直な子だな。
こほん。
「少なくとも、あんな殺され方をするべきじゃなかったと思うよ」
「ノーミソぐっちゃぐちゃのどろどろだもんね」
僕は義人くんを見た。
義人くんは小首を傾げた。
まあそういうこともあるのだろう。
それからしばらく当たり障りのない会話をして、僕らは分かれた。
家に帰って「ただいま」と言う。
返事はなかった。だれが描いたのかわからない絵が飾られた廊下を抜けて居間を除くと母さんがソファーでうたたねをしていた。起こさないように足音を忍ばせて階段を上がると、上から僕を見下ろしている彩智と目があった。どうやら僕よりもかなり前に帰ってきていたらしい。中学校の制服を脱いでだぼっとした灰色のパーカーを着込んでいた。最近の流行りなのだそうだ。片手に英語のロゴの入ったバッグ (マーダーVSシリアルキラーと書いてあった。僕は妹のセンスがよくわからなかった)を引っ掛けている。どうでもいいけれどマーダーとシリアルキラーはどう違うのだろう? あのロゴ、B級映画かなにかのタイトルなのかもしれない。
「出かけるのか?」
彩智は険のある表情で頷いた。“クチも聞きたくない”という様子が見てとれて、逆に構いたくなってくる。反抗期なのだ。こうして世間の兄と妹の関係は悪化していくんだろーなと思いながらも僕は「殺人犯が出てるんだからやめとけよ」と言った。「行く。どけ」彩智が短く言う。
「だいたい、おにぃだってどっかうろついて帰ってきたんでしょう? あたしにだけ、どこにも行くなってのは筋が通らない」
「そりゃ僕は男でおまえは女だから」
「殺されたの、男じゃん」
そりゃそうだった。
妹の言うことの方が筋が通っている。
「誰かと一緒?」
「教えない」
「言わなきゃどかない」
「うっざ」(半音あげる)
その発音は同じクラスの女子が皆島さんに影で「きっしょ」と言っているのと酷似していて、ああ、我が妹もあんなふうになっていくのかと僕はすこし悲しくなった。
「僕はおまえとにらめっこしてるのは結構楽しいけどな、誰かと待ちあわせしてるならこの状況はまずいんじゃあ? 素直に答えた方が身のためだぞ」
「おにいが犯人なんじゃないの」
彩智が言った。
「殺されたやつ、知り合いなんでしょ。喧嘩して、やりすぎちゃったんじゃないの」
「そんなまさか」
僕は軽く笑った。
まさか実の妹に殺人犯と疑われるなんて!
「疑われるようなやつなのがわるいんだ」
その通りだった。
僕と妹では大抵妹の言うことの方が筋が通っているのだ。
「えい」
彩智は階段の上から足を延ばして思いっきり体重を載せて僕の肩を蹴った。僕は転げ落ちそうになる寸前で手すりを掴んだ。死ぬほどびっくりした。その隙に彩智が僕の脇を擦り抜けてトットットットッと軽やかに階段を駆け下りる。「だっさ」振り返って僕の醜態を笑う。玄関を開けて出ていく。
ひでえやつだ、と思いながらも僕の方ももう少し妹の自立心とかそういうものを認めてやるべきなのかもしれないと考えなおす。でもやはり心配だったのでスマホを取り出して「一時間に一回メールいれないと探しにいくからな?」と送信する。「バーカ」と返事が返ってきた。
「んん? 彩智、出てったの」
母さんが居間から顔を出して瞼を擦った。
「じゃあユウでいいや。晩御飯、なにがいい?」
「カレーとシチュー以外ならなんでも」
母さんは深遠な命題を問いかけられたような顔をした。
この人はカレーとシチューしか作れないのだ。
諦めて僕は「いいよ、ぼくが作るよ」と言った。
それから一時間おきにちゃんと妹から「バーカ」、「バーカ」と送られてきて、僕はうちの妹はほんとうにかわいいやつだなぁと思う。
翌朝の学校には佐川先生の姿がなかった。加古によると有給休暇を取って休んでいるらしい。二ノ宮の机を見て泣き崩れた昨日の佐川先生の姿を思い出して、きっといまは休んだ方がいいんだろうなと思う。隣の席から「佐川、プロ意識足りねーよな」と聞こえてくる。プロ意識が足りない。ふーん、へー。そうなのか。
葛原さんが「クロちゃん、おはよー」と僕の机を叩いた。
「おはよう」
「今朝はどうだったんだい?」
「別に普通だよ」
葛原さんの絡み方はよくわからない。
「私はね、クビ締められる夢で目を覚ましたよ。私の五倍くらいでっかい男がねー、顔はわからないんだけどさー、こう」葛原さんは座っている僕を見下ろして両手をクビに伸ばした。両てのひらで僕のクビを包む。きゅ。と指先に力を込めた。気道が少し締まった。「ぐぐぐー、って。私、最初しんどくてやめてーと思ってたんだけど途中から」、「やめろよ!」隣の席の山田くんが言った。
「え?」
葛原さんは自分のやっていたことの何が問題だったのかよくわかっていない。周囲を見渡して怯えのある目で自分が見られていることに納得していない。葛原さん的にはただちょっと夢の話をしていただけだったのだ。それが二ノ宮が死んでから神経過敏になっているクラスメイトの琴線に触れてしまった。僕は山田をプロ意識が足りないやつだなーと思う。よくそれで佐川先生を笑えたもんだ。
「なんかごめん?」
葛原さんが小首を傾げる。
山田が舌打ちしてカバンを掴み、教室から出ていく。
いまさら恐くなったらしい。
「クロちゃんのクビ締めたの、そんなに怒るかなぁ。クロちゃん、山田くんとそんなに仲良かったっけ」
僕は小さく首を振った。
授業がはじまっても山田は戻ってこなかった。
僕は放課後に葛原さんに聞いてみた。
「途中から、どうなったの?」
「ん? んん」
葛原さんは一瞬なんのことを訊かれているのかわからなくて???マークを飛ばしていたけれど「ああ!」と思い起こして「私ね、途中から気持ちよくなってきちゃってなんか私のクビ締めてる人のこと愛しくなってきて、手ぇー伸ばして顔に触れたのね? そしたら真っ暗だったそいつの顔がパッと明るくなって、そいつの顔がクロちゃんだったのだ! わたし、そこで目ぇ覚ました! なんか目覚めよかった。ばっちりだった」と言った。
そうか。
きみのクビを締めてたのは僕だったのか。
校門を出たところで、すぐそこに止まっていた車の窓が開いて「石黒さん」と声が掛かった。聴取のときに散々にらめっこした姫鶴さんの整っているのを目の下にクマをひっつけて片頬を釣り上げるみたいにしたどことなく厭味な顔があった。長い前髪が目元に影を作っていて雰囲気を陰鬱にするのに一役買っている。黒いスーツもこの人が着ているとどことなく不気味に映る。僕は眉間に皺を寄せた。
「乗っていきませんか?」
「……乗らなかったらどうなるんですか」
姫鶴さんは胸ポケットに指を突っ込んだ。そこに仕舞われた縦長の黒い手帳を暗に示す。学校の前でこれを振りかざしてこれみよがしに声をかけておまえの評判を落としてやるぞ? と、脅してくる。僕は諦めて息を吐いた。助手席に乗り込むとムッとするような煙草の匂いがした。直前まで吸っていたのを捩じり消した直後なのか、細い煙が灰皿から上がっていて空気に溶けていく。灰皿には吸い殻が溢れんばかりに積み上がっていた。
車がのろのろと走り出す。車内に視線を置きづらくて僕は窓の外を見る。いつも通っている通学路の風景が、車のガラスに仕切られただけでまるで違う場所を見ているように感じた。
「もうお話しできることないと思うんですけど」
僕はげんなりして言った。
「まあまあ」
姫鶴さんは上機嫌で「喧嘩してたそうですね」と言った。
わざわざ会いにきた理由はそれをどこかで聞きつけたかららしい。
「誰と誰がですか」
「あなたと和樹くんが」
「そうでしたっけね」
「原因はなんだったんですか」
「さあ。覚えてないですね」
「非協力的ですねえ」
「痛くもない腹を探られていい加減にうんざりしてるんですよ」
「そうですか」
「そのうち身に覚えのない自供までしてしまいそうです」
「お待ちしていますね」
片頬だけを釣り上げて厭味に笑う。
この人の笑顔が嫌いだ。
「だいたい、“ここだけの話、犯人の目星はついてる”って言ってませんでしたか」
「ついてますよ?」
それはあなたです、とでも言いたげな口調だった。
姫鶴さんがズボンのポケットを左手の指先でとんとんと叩く。そこには煙草の箱らしきふくらみがある。
「吸ってもいいですよ?」
「いえ。やめておきます」
僕はあくびをした。
「ああ、思いだしましたよ」
「というと?」
「親のことですよ。喧嘩の理由」
「へえ」
「流れは忘れましたが、うちの親がカレーとシチューしか作れない、って話をしたんです。そしたら、二ノ宮が怒ったんですよ。どーしてですかね」
「どうしてでしょうね」
姫鶴さんは右手でハンドルを握ったまま左手でカバンに手を突っ込んで手帳とペンを抜き、ボールペンの先を唇の端で押し出して僕が話した内容をさらさらと書き留めた。「余所見運転って危ないですよね」と試しに僕は言ってみた。「まったくです。誰か取り締まらないものですかねえ」これだけ図太いと生きるのが楽そうだなぁ。
「犯人の目星はついてるんですよ」
姫鶴さんは僕を見ずに呟いた。
「ただ決め手がないのです」
「動機・凶器・第二の犯行」
適当に並べてみる。
「最後のがわかりやすくていいですね。誰か襲われてくれないでしょうか」
「おい、警察」
くすくすと陰気に笑う。
僕はこんなに魅力のない美人を人生ではじめて見た。
「第一発見者なんか、あやしいですかね? 疑ってかかった方がいいでしょうか」
「そーですね」
そうこう言っているうちに車が僕の家の前に着いた。
さっさと降りようとした僕の手を「あ、ちょっと待ってください」姫鶴さんが掴んだ。強く引かれて僕はバランスを崩した。運転席の側に倒れこんで、姫鶴さんの胸と右腕の間に収まる。腰にシフトレバーがあたって痛かった。姫鶴さんは片頬を釣り上げた笑みを浮かべて僕を見下ろして、左手で僕の髪を撫でた。子供でもあやすような手つきだった。子供でもあやすつもりだったのかもしれない。
「そんなに気を張らなくったって、別に取って食いやしませんよ」
「……」
「泣いてもいいんですよ?」
「まさか」
「そうですか」
やられっぱなしなのがなんとなく悔しくて「胸ないですね?」と言ってみた。ぱちん。デコピンされた。痛かった。姫鶴さんが手を離したので僕は手をついて体を起こした。スーツ越しに太ももに触れてしまってそのやわらかさにちょっとギョッとする。姫鶴さんは全然余裕で平坦な声で「あん」と取って付けたように言った。からかわれている。
今度こそ助手席のドアを開けて、外に出た。
「それではまた」
「ええ、犯人が捕まったときにでも会いましょう」
車が走り去っていった。
僕は家に入り「ただいま」と言う。家には誰もいなかった。妹もまだ帰ってきていない。僕はカバンの中から教科書とノートを抜き取って部屋に置いて軽くしてから、家を出た。
児童公園に向かう。
ベンチにはやはり皆島さんが座っていて、小学生が遊んでいるのを眺めていた。僕はやはり偶然を装って声をかける。少し話をする。去り際に皆島さんが「ごめん。一人になりたい気分なんだ。イヤなわけじゃないんだけど、次からは声をかけないでくれるかな」と言われる。僕はそういうことならば仕方ないなと思い「わかった。そうするよ」と言う。
僕は帰り際にもう一度児童公園に戻った。
皆島さんのよくいるベンチからは見えなくて、そのベンチがよく見える位置を探す。
ベンチの後方の木陰にそれらしい場所を見つける。




