犬と猫と人間
二ノ宮和樹が死んだのは月曜日の深夜のことでその日はとても月がきれいだった。二ノ宮は僕のクラスメイトで髪の毛を薄茶色に染めていてちょっとヤンキーチックに制服を着崩していてバイトしていて煙草を吸っていたけれど、面倒見がよくてちょっと前までは弟と手を繋いで買い物してる姿だとかちょっと居心地悪そうなクラスの誰かに気を使ってる様子が散見されて「あいつ、ヤンキーの皮を被ってるだけだよな」とか言われたりするふつうのいいやつだった。168㎝なのを気にしていて身体測定のときに「あと二センチのびねーかな」、「先生、おまけして! あと二センチ! 記録上だけでもいいから!」とか言っているような。女子の中で孤立しがちだった体型がぽっちゃりしている皆島さんとアニメの話題で盛り上がってそのまま付き合いはじめて皆島さんはそれからびっくりするほど明るくなり他のクラスメイトとも馴染み始めた。
そんな二ノ宮が暖かい春の日に廃ビルの隙間で原型がわからなくなるほど顔を叩き潰されて死んだ。火曜日は緊急で休みになり水曜日の今日の朝会でグラウンドに整列させられた僕らは校長先生がうんたらかんたら喋って「おそらく不審者の仕業」ということだけに二十分を費やすのを片耳で聴く。朝には緊張して学校にきていたはずの生徒たちが延々と続く無駄話に逆に緩み切ってしまって、教室に戻る頃にはうんざりした気分だった。
担任の佐川先生は、それでも二ノ宮の席が空席なのを改めてみるとなにかこみあげてくるものがあったらしい。ホームルームをはじめようと教壇に立った佐川先生は女性にしては背の高いりりしいいつもの顔つきでぼくらの見渡してなにか言おうとして、言葉にならなくてあわあわと口を動かして「ごめんなさい」と涙声で言ったきりで突っ伏しておいおい泣き出してしまった。さっきも言ったけど二ノ宮はヤンキーの皮を被っていて煙草とか吸っていたから教師たちからは評判の悪い人物だったけれど、そんな二ノ宮がいなくなったことを佐川先生が悲しんでいることがこの人ちゃんと二ノ宮のことを見てたんだなと思って僕は少しうれしかった。
クラス委員の後藤さんが職員室から副担任を呼んできて、副担任の加古って若い男の先生は二ノ宮に思い入れなんか少しもなかったから「佐川先輩が泣いてる。ははっ」てなふうに鼻で笑うようにして、「今日から一週間は四限迄の授業になります。そのぶんの授業は夏休みに補講を行います」と事務的に伝える。うえ。と僕は思う。クラスメイトの命の次くらいに夏休みが大事だった。
それから授業がはじまったのだけれど、どの先生も浮足立っていてぼくらだって勿論平常心ではなかったからとてもじゃないけど授業にはならなかった。
とくに佐川先生のダメージは深刻でとてもじゃないが使い物にならなかった。
思いのほか平気そうな顔をしていたのが皆島さんだった。
そんなこんなで放課後になって皆島さんが真っ先に教室を出ていく。僕もさっさと教室を出ようとすると葛原遠子が僕の手を掴んで「一人は危ないよ、一緒に帰ろ」と言った。僕はその手をなるべく優しく振り払い「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」と言って歩き出した。
「待って待って、わたし、とてもビビってる、一緒に帰りたい」
葛原さんが半ば縋り付いてくる。
ああ、今日の放課後はやりたいことがあったのに。
仕方ない、葛原さんを片付けてからにしよう。
僕らは並んで歩き出す。
「犯人、どんなやつなんだろ」
「さあ。きっと二ノ宮に親しいやつじゃないかな。もしかしたらどっかで授業受けてたのかも。平気な顔して。頭の中では二ノ宮の死体のことを思い出しながら。またやりたいなーなんて思ってさ。教室を見渡して次の獲物を吟味してたんだよ。おや。こんなところに若くてきれいで美味しそうな女の子がいるね?」
「うわ。やめてよ」
葛原さんが僕の腕をがしがし叩いてくる。
自分のことを若くてきれいで美味しそうな女の子だと思える葛原さんの自己評価の高さを見倣いたいなと思う。
「まあ一つだけ言えるのは、わるいやつだね」
「言われるまでもなくそうだねー」
幼馴染で家まで徒歩圏内の僕らは、コンビニやスーパー、本屋さんが立ち並ぶ大通りを通ってそこから段々と奥まった路地に入っていく。昼と夕方の間の時間帯なのに人気は少ない。街の死角っていうのはわりとありふれているんだなと僕はなんとなく思う。
最後に危険だからと滑り台やブランコが撤去された空き地同然の公演を横目にして、葛原さんの住む立派な一軒家に彼女を送り届ける。
「そういえばクロちゃんは、柔道部はいいの?」
その呼び方をやめろと何度も言っているのだがやめてくれない。
僕はため息をつきながら「元々義理で行ってただけだから」と言った。
「むう。サボっちゃダメでしょー」
「帰ろって言ったのは誰だっけ」
「誰だね、その子は。ひどい子だなー」
すごく自然に自分のことを棚上げにできる葛原さんの性格を僕はとても羨ましく思った。
「あんまり悪い子になっちゃいけないよ?」
残念ながら手遅れだ。
「もうなってるかも」
「なんと。じゃあ遠子さんがクロちゃんのわるいこりょくを吸い取ってあげよう」
どうでもいいけれどなぜ自分は「遠子さん」で僕のことは「クロちゃん」なんだろう。
葛原さんは僕の肩に手をあてて「はああ」とか「ふうう」とか唸りだした。
その様子はインチキ気功士とかそういうものを思い起こさせた。YouTubeで見た気功士を名乗る手を触れないで人間を吹き飛ばさせる男が、格闘家と試合をして一分もしないうちに一方的にぼこぼこにされて降参する動画を思い出して噴き出しそうになった。「これでよし!」葛原さんが言い、手を離す。
「でもそのわるいこりょく、どうするの?」
僕のわるいこりょくは半端じゃないから影響された葛原さんがわるいこになってしまわないか心配になる。
「こうするのだ」
葛原さんは両てのひらをあわせて腰だめに構えた。
それから「さーめーはーめー、ハー!」と言って、空に向かって架空のオーラを放った。
それは架空の虹の線を引いて空に向かって一直線に伸びていき、やがて消えた。
「一件落着!」
葛原さんが笑った。
僕も笑った。
葛原さんと別れてから、僕は小学校の近くの児童公園に向かった。こちらの公園にはまだブランコや滑り台が息をしていて、小学生達がそれらで遊んでいたり、ドッジボールをしている。彼らの数は近所で殺人事件が起こったせいでいつもよりもまばらだった。数人の親か先生と思われる大人がお喋りに興じながらも彼らを見守っていた。少なくともこの場所の平穏は守られるように思えた。
そんななかで見慣れた制服の女の子がベンチに腰かけてどこを見るわけでもなく座っていた。
僕は「皆島さん」と彼女に声を掛けた。ぴくんと体を震わせて彼女が振り返る。伸ばした髪で丸い顔の頬の線を隠した皆島芳子さんがけだるい目で僕を見る。「石黒くん」呟くように言う。僕は彼女の隣に腰かけた。
「や、ごめん。たまたま見かけたから」
と、僕はウソをついた。
皆島さんは曖昧に笑った。
「部活、いかなくていいの?」
「いいんだよ、あんなの」
「石黒くん、細身のわりにすごく強いって聞いたけど」
「そんな大したものじゃないよ。別にインターハイで一位が取れるとか、そういうレベルじゃない。県体会で一回か二回ぐらい勝って、もっと強いやつに叩き潰されるくらいのものさ」
「県大会で二回勝てるくらいって、特に取り柄のないわたしには結構なことのような気がするけどなぁ」
「皆島さんこそ、絵がすごく上手いって聞いたけど」
皆島さんは怪訝そうに眉を顰めた。
「誰に?」
「二ノ宮」
「ああ」
曖昧に微笑むような顔つきに戻る。
彼女は僕が隣にいることに戸惑っているように見えた。この公園は二ノ宮と皆島さんがよく二人で来ていたらしい。きっと彼女の隣には二ノ宮の形の空白が寄り添っていて、それをどうすればいいのか皆島さんにもよくわかっていないのだろう。
僕らは適当に当たり障りのないことを話した。
中間テストのこととか、クラスメイトの誰それのこと、「葛原さんってちょっと変わった子よね?」(僕は完全に同意した)、最近は梅雨が随分と遅れていること。少し向こうで行われているドッジボールの勝敗について。「どっちが勝つと思う?」訊かれて僕は適当に左側を指さした。内野に残っている人数が多かったから。六対二だった。さらに右側の子が一人アウトになって外野にかけていく。風前の灯に見えた。「じゃあ私は逆で。100円賭けない?」いいよ、と僕は言った。結果、右側が勝った。最後に一人だけ残った女の子が軽々とボールを避け続け、つかみ取り、たくさん残っていた左側の子供たちを駆逐していった。僕は財布を取り出して皆島さんの手のひらに100円玉を一枚置いた。「さっきから見てたらあの子、一人だけめちゃめちゃ上手いんだよね」皆島さんがにんまりと笑った。
話しているうちに皆島さんが二ノ宮のことに触れないように気を払っていることがわかったから僕もそれに倣ってどうでもいい話を振る。しばらくして話題が尽きたころに僕は「帰った方がいいよ。親が心配する」と言った。
「うん、そうだね」
皆島さんが立ち上がる。
「送っていくよ」
「いいよ、一人で帰る」
彼女は遠慮したが僕は言外に「あんなことがあったあとだから」と示して、半ば無理矢理隣を歩いた。相手に強く出られると断れない性格の皆島さんは、それ以上は拒否しなかった。
「二ノ宮くんは」
ぽつりと皆島さんが呟く。
「私のどこが好きだったんだろう」
ほら、私、ふとってるし。と、付け足す。
二ノ宮はそれなりに見た目がよくて女子に人気があったし、その二ノ宮と皆島さんが突きあっているとわかったときにはクラスの女子たちは「ヤらせてるんでしょ、きっしょ」と陰口を叩いていた。発音までおもいだせる。きっしょ(半音あげる)。あー。
「たぶんだけど」
僕は眉間をおさえた。
あいつはね、えーっと、食べるときに幸せそうな顔をするのが好きで、授業を聞いてるときのちょっと真剣な横顔が好きで、照れたときに口元を隠す仕草が好きで、背筋を伸ばして姿勢よく歩くのが好きで、字がきれいなのが好きで、先生やクラスメイトに仕事を押し付けられても断れないのが好きで、手伝おうかって言ったら控えめに「ありがとう。でも大丈夫」って断るのが好きで、でもごり押してどうしても手伝うって言ったら「正直助かった」ってくっきりはっきり笑うのが好きで、要するに。
「性格じゃないかな」
二ノ宮の語っていたその内容のあまりの糖度の高さに胸やけしながら、僕は言った。
「性格?」
「そう」
多少の欠点があるからってそんなに気にすることないんだよ。
見てる人はちゃんと見てるし。
だいたいきみのことを太ってると批難するするやつらだって、そんなに立派な顔や体型をしてるわけじゃない。だまれよ、ブサイク。くらい言ってやればいいんだよ。
「石黒くんって、二ノ宮君と親しかったんだね?」
「面倒見のいいやつだったからね。僕にもおせっかいを焼いてくれたことがあったんだよ」
「へえ。聞きたいな」
「また今度ね」
と、僕はその話題を躱した。
家の前まで来て、「じゃあまた明日。学校で」彼女が言い、玄関のドアに手をかける。
それからふと僕を振り返って「どうして二ノ宮くんだったのかな」と言った。
「いいひとだったのに」
「どうしてだろうね」
ああ、きみの言う通り二ノ宮はいいやつだったよ。きみを孤立から救ってくれたし、僕にも随分と世話を焼いてくれた。でも誰にとってもそうなわけじゃない。教師たちは二ノ宮を嫌っているし、世の中には人間よりも犬猫の方を尊ぶような人たちもいる。二ノ宮はぶっきらぼうな性格だったし、口下手だったし、髪を染めていたし、未成年のくせに煙草を吸っていた。
でもいいやつだった。
僕らはそのことを知っている。
この街の誰かはそのことを知らない。




