第五話「ヴュルテンゲルツ王国物語」
ストレス解消のため、俺はファンタジー小説を書き始めた。
小説の題名は何にするか……きっかけは些細なことだった。
ふと目に入った古い地球儀。小学生の頃に買ってもらったそれに向けて、机の上にあったダーツを何となく投げてみた。
ダーツは弧を描いて飛び、ドイツのヴュルテンベルク州に刺さった。
「ヴュルテンベルク……いや、ヴュルテンゲルツの方がファンタジーっぽいな」
そんな安直な発想から、タイトルは『ヴュルテンゲルツ王国物語』に決まった。
舞台は絶対王政が定番の中世だ。王女キャラを出すからには、この時代がベストだろう。シュライン・イーグルのような、いかにもファンタジーらしいキャラ名をつけても違和感がない。現実世界の中世ヨーロッパとは違う、剣と魔法の世界——そんな王道ファンタジーの舞台設定にした。
もちろん、設定にはこだわるつもりだ。
いくらファンタジーとはいえ、あまりにもでたらめな世界観では読者——といっても今のところ父さんだけだが——に馬鹿にされてしまう。中世の文化や風習は丹念に調べて書く。騎士制度、封建社会の仕組み、当時の生活様式。曖昧な知識で書きたくはない。
最初はネットで調べていたが、やはり限界がある。時には図書館に行って、専門書を読み漁った。西洋史の本、騎士道に関する研究書、中世の城塞建築についての資料。司書の人に「随分と専門的な本を読むのね」と驚かれたほどだ。
ネットの情報が正しいかどうかの裏付けも重要だった。特にウィキペディアの情報は、必ず複数の資料で確認する。間違った知識を元に書いた小説など、説得力のかけらもない。
調べれば調べるほど、中世ヨーロッパの複雑さと興味深さに引き込まれていった。農奴制度の実態、教会の権力構造、十字軍の影響——現実の歴史は、どんなファンタジーよりもドラマチックで残酷だった。
そうした知識を土台にして、俺は自分だけのファンタジー世界を構築していく。
世界観の次はキャラクターだ。
一章の主要キャラクターは三人。ヴュルテンゲルツ王国の王女「レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツ」、悪逆王侯貴族「シモン・ゴールド・エスカリオン」、そして、レイラ王女に仕える従僕であり、本作の主人公でもある「ショウ・ホワイスト」だ。
名前を決めるのに、かなり悩んだ。
ショウ・ホワイストは俺こと白石翔太がモデル。「ショウ」は翔太の「翔」から、「ホワイスト」は白石の「白」から連想した。少しひねりを加えて、英語圏風の響きにした。
王女レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツは草乃月麗良がモデル。「レイラ」は麗良の「レイ」から。「グラス」は草乃月の「草」を英訳したもの。王家の名前「ヴュルテンゲルツ」は、国名と同じにした。現実の王家でもよくあることだ。
そして悪逆王侯貴族シモン・ゴールド・エスカリオンは、小金沢紫門がモデル。「シモン」は紫門の「シモン」をそのまま。「ゴールド」は小金沢の「金沢」から。「エスカリオン」は、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダから取った。まさに裏切り者にふさわしい名前だ。
他のサブキャラクターはクラスメートたちだ。
悪い奴は国を売る敵側に、いい奴は国を守る味方側とする——そう決めた時、俺は改めてクラスメートたちの顔を思い浮かべた。
いくらぼっちとはいえ、高校生活を二年近く過ごせば、クラスメートの性格の多少は分かってくる。誰が性格が良く、誰が性格が悪いのか。特にいじめられるようになってからは、それが顕著に分かるようになった。人間の本性は、弱い者に対する態度に表れる。
例えば紫門の腰巾着である佐々木と宮本は、性格の悪い部類にあたる。
佐々木は一見人当たりが良いが、実は計算高い。紫門に取り入るために、率先して俺をいじめてくる。「あ、白石のシャーペン折れてるじゃん」と、わざとらしく大きな声で言って皆の注意を引く。そして紫門が笑うのを確認してから、自分も笑う。そんな奴だ。
宮本はもっと直接的だ。体格が良いのをいいことに、俺に肩をぶつけてきたり、教科書を床に落としたりする。「あ、ごめん、気づかなかった」と言いながら、まったく悪びれた様子がない。むしろ楽しそうですらある。
奴らは底辺カーストになった俺をあざ笑い、率先していじめてくる。奴らからのいじめはひどい。徹底的な悪役に仕立て上げてやる。
物語の中では、佐々木は「サザキ・ブラック・ベルゼブル」という名前の腐敗した貴族にした。ベルゼブルは悪魔の名前だ。宮本は「ミヤーノ・ダーク・デモーニオ」。デモーニオもやはり悪魔の名前から取った。
二人とも、シモンの配下として王国の富を貪り、民衆を苦しめる悪徳貴族という設定にした。最後はショウによって処刑される予定だ。それも、できるだけ残酷な方法で。
逆に性格の良い人は、隣のクラスの石橋君だ。
石橋君は俺とほとんど話したことがないが、いじめが始まってから何度か助けてくれた。武道の時間、皆にボコボコにされていた時、ひそかに助けてくれたのが最初だった。
あの日のことは今でも鮮明に覚えている。
柔道の授業で、組み手の練習をしていた時のことだ。先生が少し目を離した隙に、何人かのクラスメートが俺を取り囲んだ。表向きは練習だが、実際は一方的にボコボコにされていた。
投げられて、抑え込まれて、関節技をかけられて——先生が見ていない間は、やりたい放題だった。俺は必死に耐えていたが、もう限界だった時、石橋君が現れた。
「先生、白石君が怪我をしているみたいです」
嘘だった。怪我なんてしていない。でも、石橋君の機転で、先生が駆けつけてくれた。それでいじめは中断された。
紫門に目をつけられる危険があったのに、石橋君は俺を助けてくれたのである。
俺は忘れない。
物語の中では、石橋君は「ブリッジストン・ヴァリアント」という名前の騎士にした。ヴァリアントは「勇敢な」という意味だ。ショウの数少ない味方として、最後まで戦い抜く設定にした。
他にも表立っては無理だが、陰で庇ってくれる人も少数ながらいる。
例えば、図書委員の田山さん。彼女は直接的に助けてくれることはないが、図書室で俺が一人でいる時、さりげなく本を勧めてくれたりする。「これ、面白いよ」と言って、ファンタジー小説を貸してくれたこともあった。
また、保健委員の光安君は、俺が保健室で休んでいる時、無言でスポーツドリンクを置いていってくれたことがある。別に体調が悪いわけではなく、ただ教室にいるのが辛くて逃げ込んでいただけなのに。
そういう人たちは正義の味方、王国の忠臣として扱う。田山さんは「タヤマ・ホワイト・セイビア」という女騎士に、光安君は「ライト・グリーン・ヒーラー」という僧侶戦士にした。
まあ、ショウ側とシモン側のグループ分けをした結果、ほとんどの奴が国を売る屑野郎になってしまったが……。
それが現実だ。いじめが始まってから、俺の味方をしてくれる人間がいかに少ないかを痛感した。大多数は見て見ぬフリをするか、積極的にいじめに加担するか、どちらかだった。
でも、それでいい。物語の中では、少数精鋭のショウの仲間たちが、数の力に頼る悪役どもを打ち破るのだ。
★☆
キャラクター設定が固まったところで、次はストーリーの構成だ。
あらすじを考えながら、俺は現実の状況と重ね合わせていく。
主人公ショウは幼少の頃より王国に仕える忠臣だ。王家への忠誠心は人一倍強く、特にレイラ王女への想いは純粋で一途なもの——これは俺の麗良への気持ちそのものだった。
しかし、ひどい濡れ衣を着せられながらも、懸命に王女レイラのために尽くさなければならない状況に追い込まれる。これはまさに、いじめを受けながらも学校生活を続けなければならない俺の現状と同じだった。
シモンはレイラの婚約者だが、実は帝国の手先という設定だ。表向きは王国の利益を考えているように見せかけながら、実際は帝国に王国を売り渡そうとしている。これは紫門が、表向きは優等生を演じながら、陰で俺をいじめている状況とよく似ていた。
レイラは言葉巧みなシモンに騙され、国政を誤らせる。美しく心優しい王女だが、世間知らずで人を疑うことを知らない。そのため、シモンの巧妙な嘘に騙されてしまう——これも麗良の状況と重なった。
麗良は紫門の話を信じて、俺を問題のある生徒だと思い込んでいる。紫門の影響があるからだ。
物語の中では、ショウが民衆を飢えから救った功績も、すべてシモンの手柄とされてしまう。
俺は実際に起こった出来事を思い出しながら、この場面を書いた。
一年生の時、文化祭の準備で、クラスの出し物の企画を考えていた時のことだ。俺が提案したアイデアが採用されて、結果的に大成功を収めたことがあった。しかし、紫門が途中から「俺がアドバイスしたおかげだ」と言い出し、最終的には紫門の手柄ということになってしまった。
悔しかったが、誰も俺の味方をしてくれなかった。それどころか、「紫門のおかげだよね」と口を揃えて言うありさまだった。
飢饉の際、シモンとその仲間たちは酒池肉林を繰り返しただけだというのに、民衆の前では慈悲深い指導者として振る舞う。シモンは贅を尽くした食事を揃え、逆らう者は皆殺しにしながらも、表向きは「民のために尽くしている」と嘘をつく。
これも現実の状況と重なった。紫門たちは放課後にファミリーレストランで騒いだり、休日にはカラオケで遊んだりしながら、学校では「クラスの和を大切にしている」「皆で協力していこう」などと善人ぶった発言をする。
佞臣に囲まれたレイラには真実が見えない。側近たちは皆、シモンに買収されているか、脅されているか、どちらかだった。王女に真実を告げる者は誰もいない。
シモンはやりたい放題だ。
シモンたち売国奴の讒言によって、一人また一人と国の忠臣たちが失脚していく。まず、古参の重臣「オールド・ワイズ・カウンセラー」が謀反の罪で処刑される。次に、民衆から慕われていた将軍「ノーブル・ブレイブ・ジェネラル」が左遷される。そして佞臣たちが要職に就き、権勢を振るっていく。
この流れを書きながら、俺は現実のクラスの変化を思い出していた。
いじめが始まる前は、俺と普通に話してくれていたクラスメートたちが、一人、また一人と離れていく様子。最初は田中が、次は佐藤さんが、そして山下が——皆、紫門の影響力を恐れて、俺から距離を置くようになった。
重鎮たちの政争、国王の暗殺、将官の謀反。
王国は揺れに揺れる。
物語が進むにつれて、状況はどんどん悪化していく。シモンの陰謀は巧妙で、ショウがいくら真実を訴えても、誰も信じてくれない。それどころか、ショウ自身が謀反の疑いをかけられてしまう。
そんな中、ショウは数少ない仲間たちとともに必死に国難に立ち向かう。
ブリッジストン、タヤマ、ライトといった忠臣たちと秘密の会合を重ね、シモンの悪行の証拠を集める。時には命懸けの潜入調査を行い、時には敵の罠にかかって絶体絶命の危機に陥る。
しかし、ショウたちは決して諦めない。王国への愛と、レイラ王女への忠誠心が、彼らを支えている。
そして、ついに決定的な証拠を掴んだショウたちは、シモンとの最終決戦に臨む。
戦いは熾烈を極める。シモンは強力な魔法と、数の力でショウたちを圧倒しようとする。しかし、正義の力は強く、最終的にショウがシモンを打ち倒す。
悪逆王侯貴族シモン・ゴールド・エスカリオンは、これまでの罪状が明るみに出て、民衆の前で公開処刑される。腰巾着のサザキとミヤーノも同様だ。
レイラ王女もようやく真実に気づき、ショウに深く謝罪する。そして、王国に平和が戻る——とはいかなかった。
それが帝国の罠とも知らずに。
ショウもレイラも気づかない。
実は、シモンを倒すこと自体が、帝国の計略だったのだ。シモンは確かに悪人だったが、彼がいることで王国内の不満分子は一箇所に集まっていた。シモンを排除することで、その不満分子たちが散らばり、より統制が困難になる。
さらに、シモンとの戦いで王国の軍事力は大幅に削がれた。民衆の間にも不安が広がっている。まさに帝国が侵攻するには絶好のタイミングだった。
帝国の魔の手は王国に迫りつつあった……。
筆を置く――マウスをクリックし、メモ帳を閉じる。
一章はこんなところか。
プロットを書いてみて分かった。
ショウ、まじで大変。こんな詰みの状態で王国を本当に救えるのか?
チート能力を持たせれば簡単だろう。ショウを魔法剣士にして、伝説の武器でも持たせれば、どんな敵でも倒せる。現実にはあり得ない圧倒的な力で、すべての問題を解決できる。
だが、それはしたくない。
小説の主人公ショウは俺の分身として書きたい。俺の分身がシモンを倒し、レイラの目を覚まさせ、国を救うから良いのだ。主人公が俺とあまりにもかけ離れた設定だと現実味が薄れる。
ショウは、レイラ王女に仕える従僕という設定までしか決めていない。細かな性格はこれから考える。でも、基本的には俺自身をモデルにする予定だ。
俺と同じように悩み、苦しみ、それでも諦めずに戦い続ける——そんな主人公にしたい。
およそのプロットができたので、キャラクターの詳細を決める。
まずは主人公からだ。
ショウは俺の分身だ。できるだけ俺に似せたほうがリアルになる。
外見から決めていこう。身長は170センチ。俺と同じだ。体重は少し軽めの58キロ。俺は60キロあるが、ショウはもう少しスリムにした。髪は黒髪で、少し長め。俺も最近髪を伸ばしているので、それに合わせた。
顔立ちは「普通」と表現するのが一番適切だろう。特別イケメンでもなく、特別ブサイクでもない。どこにでもいそうな、平凡な少年——いや、この世界では青年か。ショウの年齢は18歳に設定した。俺より少し上だが、これぐらいが騎士としては適当だろう。
考え事をする際に鼻を掻いたり、食事の際に迷い箸をしたり、よく親に注意された悪癖をショウの癖にした。
「ショウ、また鼻を触ってる」とレイラ王女に注意される場面を想像すると、なんだか微笑ましい。迷い箸については、この世界では箸を使わないかもしれないが、フォークやナイフでも似たような癖はありそうだ。
他にも、緊張すると足をそわそわと動かす癖、考え込むと髪をいじる癖、照れると耳が赤くなる癖——俺の特徴をそのままショウに移植していく。
性格については、自己分析が苦手だから、ネットの無料性格診断テストを何度もやってみた。
「エニアグラム診断」「ビッグファイブ診断」——無料で受けられる診断は片っ端から試した。時には有料の詳細診断も受けてみた。お小遣いの大部分を使ってしまったが、より正確な結果が知りたかった。
主観的にならないように、自分をよく知っている親や妹にも俺の長所、短所を聞いてみた。
「翔太の長所? うーん、真面目で責任感があるところかな。あと、優しいし、約束は必ず守る」母さんはそう言ってくれた。
父さんは違う角度から分析してくれた。
「翔太は観察力があるな。人の気持ちをよく理解している。ただ、その分考えすぎてしまう傾向がある。もっと直感的に行動してもいいんじゃないか」
妹の美咲は遠慮なく言った。
「お兄ちゃんは優しいけど、優柔不断。あと、自分のことになると全然ダメ。他人のことはよく気づくのに、自分のことは見えてない」
まじめ、几帳面、優柔不断、心配性、観察力がある、責任感が強い、優しい、自信がない——それらの評価を参考に何度も推敲して、ショウの性格を固めていく。
ショウは「勤勉」であり、「誠実」であり、何より「勇気」がある。一見弱気であたふたするところはあるが、いざとなったらやる男だ。
俺自身は「勇気がある」とは思えないが、ショウには勇気を持たせた。物語の主人公には必要な資質だからだ。
でも、その勇気は最初から完璧なものではない。怖いものは怖いし、不安になることもある。それでも、大切な人を守るためなら、恐怖を乗り越えて行動できる——そんな勇気だ。
ショウの過去も詳しく設定した。
孤児院で育ったという設定にした。両親は幼い頃に亡くなり、王国の孤児院で育てられた。そこで読み書きや基本的な教養を身につけ、12歳の時に王宮で働く機会を得た。
最初は雑用係だったが、真面目で誠実な性格が認められ、次第に重要な仕事を任されるようになった。そして16歳の時、レイラ王女の専属従僕に抜擢された。
この設定には、俺の実体験も反映されている。
俺も中学時代は目立たない存在だったが、委員会の仕事などを真面目にこなしていたら、先生や一部のクラスメートから信頼されるようになった。高校に入って——いじめが始まるまでは。
ショウの王女への想いも、俺の麗良への気持ちをベースにした。
最初は主従関係として始まった関係だが、王女の優しさや美しさに触れるうちに、次第に恋心を抱くようになる。しかし、身分の違いから、その気持ちを表に出すことはできない。
これは完全に俺の状況と同じだった。麗良への気持ちは、とても彼女に伝えられるものではない。クラスのマドンナと、いじめられっ子では釣り合わない。
でも、ショウは違う。物語の最後で、きちんと王女に想いを伝える予定だ。そして、身分の差を乗り越えて結ばれる——これは俺の願望でもあった。
ショウは俺の理想だ。
俺の長所を抽出しているが、最大限に良さを引き伸ばしている。
俺が頑張って頑張って、死ぬほど頑張ってやっと到達できるかどうか——こんな俺であったらいいという願望そのものだ。
現実の俺は優柔不断で自信がなく、いじめられても反抗することすらできない情けない存在だ。でも、ショウは違う。困難に立ち向かい、仲間を守り、最終的には悪を打ち倒す。
物語を書くことで、俺は理想の自分になれる。少なくとも、文字の世界の中では。