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第五話「ヴュルテンゲルツ王国物語」

 小説を書くことが日課になった。


 学校から帰ると、まず自分の部屋へ直行する。パソコンを起動して、昨日の続きを開く。真っ白だった画面が、少しずつ文字で埋まっていく。


 その瞬間が、たまらなく好きだった。


 最初は何から始めればいいのかわからなかった。小説なんて書いたことがない。作文や感想文とは全く違う。でも、父さんが言っていた。「最初は何でもいいんだ。思いついたことを書いてみろ」と。


 まずは舞台設定から考えることにした。


 きっかけは些細なことだった。ふと目に入った古い地球儀。小学生の頃に買ってもらったそれに、机の上にあったダーツを投げてみた。


 ダーツはドイツのヴュルテンベルク州に刺さった。


「ヴュルテンベルク……いや、ヴュルテンゲルツの方がファンタジーっぽいな」


 安直な発想だが、響きは悪くない。タイトルは『ヴュルテンゲルツ王国物語』に決まった。


 舞台は中世の王国。剣と魔法の世界だ。


 設定にはこだわりたかった。でたらめな世界観では説得力がない。ネットで調べ、図書館で専門書を読み漁った。騎士制度、封建社会、当時の生活様式。調べるほど、中世ヨーロッパの複雑さに引き込まれていく。


 現実の歴史は、どんなファンタジーよりも残酷だった。


 *


 世界観が固まると、次はキャラクターだ。


 名前は現実の人物をもじった。


 主人公「ショウ・ホワイスト」は俺。王女「レイラ」は麗良さん。悪役「シモン」は紫門。佐々木と宮本も、シモンの腰巾着として登場させた。名前には悪魔の意味を込めてやった。


 悪い奴は敵側に、いい奴は味方側に。そう決めて、クラスメートの顔を思い浮かべる。


 いくらぼっちとはいえ、二年近く過ごせば誰が性格が良くて、誰が悪いかは分かる。特にいじめられるようになってからは、それが顕著になった。人間の本性は、弱い者への態度に表れる。


 隣のクラスの石橋君は、俺を助けてくれたことがある。柔道の授業でボコボコにされていた時、先生を呼んできてくれた。紫門に目をつけられる危険があったのに。


 俺は忘れない。


 石橋君は「ストーンブリッジ」という騎士にした。ショウの数少ない味方だ。


 図書委員の田山さん、保健委員の光安君——陰で俺を気遣ってくれた人たちも、味方として登場させた。


 結果、ほとんどの奴が敵側になったが……それが現実だ。


 *


 キャラクターが決まると、ストーリーが動き出した。


 主人公ショウは王女レイラに仕える騎士。身分は低いが、忠誠心は誰にも負けない。——俺の麗良さんへの気持ちそのものだ。


 しかし、シモンの嘘によって、ショウは濡れ衣を着せられる。いくら真実を訴えても、誰も信じてくれない。


 俺の現状と同じだった。


 シモンはレイラの婚約者だが、実は帝国の手先。表向きは優等生を演じながら、陰で悪事を働く。——紫門そのものだ。


 レイラは言葉巧みなシモンに騙され、ショウを遠ざける。美しく心優しいが、世間知らずで人を疑うことを知らない。——麗良さんも、紫門の本性に気づいていない。


 物語が進むにつれ、状況は悪化していく。シモンの陰謀は巧妙で、忠臣たちが次々と失脚する。


 でも、ショウは諦めない。


 数少ない仲間と力を合わせ、シモンの悪行の証拠を集める。そして決定的な証拠を掴んだショウは、最終決戦に臨む。


 悪逆王侯貴族シモンは、大罪が明るみに出て公開処刑。腰巾着どもも同様だ。


 この場面を書いている時が、一番楽しかった。


 火あぶりか、磔か。処刑方法をあれこれ考える。憎い奴らへの復讐。現実では絶対に叶わない、完璧な勧善懲悪。


 キーボードを叩く手が止まらなかった。


 *


 ショウは俺の分身だ。


 外見も性格も、できるだけ俺に似せた。考え事をする時に鼻を掻く癖、緊張すると足をそわそわ動かす癖——俺の特徴をそのまま移植していく。


 ただし、勇気だけは俺より強くした。物語の主人公には必要な資質だから。


 怖いものは怖い。不安になることもある。それでも、大切な人を守るためなら、恐怖を乗り越えて動ける。そんな勇気だ。


 ショウは俺の理想だった。頑張って頑張って、死ぬほど頑張ってやっと届くかどうか——こんな俺になりたいという願望そのものだ。


 現実の俺は優柔不断で、いじめられても反抗できない。でもショウは違う。困難に立ち向かい、仲間を守り、悪を打ち倒す。


 物語を書くことで、俺は理想の自分になれる。文字の世界の中では。


 *


 気がつくと、朝になっていることがあった。


 カーテンの隙間から光が差し込む。時計を見ると、六時を過ぎている。一晩で数千字も書いていた。


 目が乾いている。肩が石のように固い。指先が冷たい。


 でも、疲れは感じなかった。胸の奥が温かい。


 物語の続きが気になって眠れない。ショウは次にどう動くのか。シモンの陰謀をどう暴くのか。考えているうちに、また手が動き出す。


 学校から帰ると、まず小説の続きを書く。宿題は後回しだ。ショウとレイラの物語の方が、数学の問題集よりずっと大事に思えた。


 小説を書いている時だけ、俺は現実を忘れられた。


 いじめのことも、明日の学校のことも、頭から消える。教室では透明人間の俺が、物語の中では英雄になれる。ショウとして生きている間だけ、息ができた。


 キーボードを叩く音だけが部屋に響く。画面の光に照らされた自分の手を見る。この手が、もう一つの世界を作っている。その事実が、たまらなく嬉しかった。


 数週間で、原稿用紙百枚を超えた。


 父さんも俺の変化に気づいたらしい。


「最近、生き生きしているな」


 目を細めてそう言う。小説を書くことで、俺の心に凪が戻ってきたのだ。


 *


 ある日のこと。


 書き上げた原稿を読み返していて、あの思いがまた浮かんだ。


 ——この小説、誰かに読んでもらいたい。


 書き始めた頃にふと思った疑問。数週間経った今、それは確かな願望に変わっていた。


 父さんに見せるのは恥ずかしい。家族に読まれるのは照れくさい。でも、誰かの感想を聞きたい。自分の作品がどう見えるのか、知りたくなった。


 俺の書いた物語を、面白いと思ってくれる人はいるだろうか。


 教室では誰にも相手にされない。話しかけても無視される。存在を認めてもらえない。


 でも、小説なら——文章なら、俺の言葉を読んでもらえるかもしれない。顔も名前も知らない誰かが、俺の物語に心を動かしてくれるかもしれない。


 そこで思いついたのが、ネットでの公開だった。


 ネット小説というものがあることは知っていた。素人でも作品を発表できる場所があるらしい。そこなら、見知らぬ人に読んでもらえる。


 でも、本当に公開する勇気があるだろうか。自分の作品を晒すなんて、考えただけで指先が震える。


 酷評されたら。誰にも読まれなかったら。笑われたら。


 それでも——期待している自分がいた。


 俺の小説を面白いと思ってくれる人がいるかもしれない。俺の存在を、認めてくれる人が。


 画面を見つめる。


 『ヴュルテンゲルツ王国物語』——俺の分身が活躍する物語。


 この小説が俺の人生を変えることになるとは、まだ知らなかった。

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