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第四話「いじめのストレス解消法」

 教科書を隠された。


 昨日までいつものように机の中にあったはずの数学の教科書が、忽然と姿を消していた。慌てて机の中を探り、床に落ちていないか確認したが、どこにもない。机の中身を全部出して、一つ一つ確認してもやはり見つからない。


 代わりに机の奥から出てきたのは、生ゴミだった。


 昨日の給食の残り物らしき魚の骨と、腐った野菜の切れ端。鼻を突く悪臭が立ち上り、思わず顔をしかめる。クラスメートたちがこちらを見て、くすくすと笑っているのが聞こえた。


 筆箱を開けると、中にあるシャーペンが二つに折られていた。まるで意図的に力を込めて折ったかのように、プラスチックの破片が散らばっている。愛用していた0.5ミリのシャーペン。去年の誕生日に父さんが買ってくれた、少し高級なやつだった。


 「勉強頑張れよ」と言って手渡してくれた時の、父さんの嬉しそうな顔を思い出す。そのシャーペンが、無残に破壊されている。胸の奥が痛んだ。


 消しゴムも細かく刻まれ、定規には油性ペンで汚い落書きがされている。「死ね」「消えろ」「キモイ」といった文字が、黒いマジックで書かれていた。


 後ろからゴミを投げつけられた。


 授業中、集中して黒板を見つめていると、背中に何かが当たる。振り返ると、紙くずがいくつも床に落ちていた。消しゴムのカスを丸めたものや、使い古したティッシュ、鼻をかんだ汚いティッシュまで混じっている。周りのクラスメートは皆、知らん顔をしている。


 授業中にも関わらず、先生は気づかないフリを続けている。山田先生の視線がこちらに向いた瞬間もあったが、すぐに黒板の方を向いてしまった。見て見ぬフリ。それが一番楽な対応なのだろう。


 休み時間になると、上履きがなくなった。


 下駄箱を探しても見つからない。校舎内を裸足で歩き回り、ようやくトイレの個室で発見した。便器の中に沈められ、水浸しになっている。


 手で取り出すのも躊躇われるが、他に履くものがない。泣く泣く洗面所で洗い、濡れたまま履くことになった。一日中、足が湿った感覚に悩まされ続けた。


 昼食時には、弁当に虫が入れられていた。


 母さんが愛情込めて作ってくれた弁当を開けると、大きな虫が卵焼きの上に鎮座していた。あまりの衝撃に、思わず弁当箱を落としてしまう。中身が床に散らばり、せっかくの母さんの手料理が台無しになった。


 周りからは笑い声が聞こえてくる。計画的な嫌がらせだったのだろう。


 エトセトラ、エトセトラ……。


 要するに、俺はいじめを受けている。


 南西館高校。偏差値70を誇る県内有数の進学校だ。制服を着て街を歩けば、周りから「あ、南西館の子だ」と一目置かれる。進学実績も素晴らしく、毎年多くの生徒が有名大学に合格している。


 しかし、そんな学校でもいじめはある。いや、表面化していないだけで、いじめは人間社会のどこにでもあるのだろう。進学校だからといって、人間性が保証されるわけではない。


 もう誰も信じられない。


 小金沢紫門――クラスの中心人物にして、俺の人生を地獄に変えた張本人。


 そんな紫門の扇動で、クラスメートが一人、また一人とひっそりといじめの輪に加わっていく。甘かった。紫門の影響力はわかったつもりだった。でも、本当の意味で俺は、何一つわかっていなかった。


 カースト上位が動くとここまで凄いのか。


 俺と一言でも話をしたクラスメートは、即座にハブにされる。それが日直や委員会などの業務上最低限必要な連絡さえも対象だ。「おい、今日の体育は外だぞ」と教えてくれた基山は、翌日から紫門グループに無視されるようになった。昼休みには一人で過ごす羽目になり、困惑した表情を浮かべていた。


 「プリント配るね」と声をかけてくれた佐藤さんは、その後女子グループから仲間外れにされた。昼休みに一人で弁当を食べる姿を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。俺のせいで、善意の人たちが巻き添えを食っているのだ。


 誰だって我が身がかわいい。当然のことだ。


 次々とクラスメートがよそよそしくなっていき、次々と攻撃的になっていく。昨日まで普通に話していた奴らが、今日は俺を見る目を変える。まるで病気が感染するのを恐れるように、俺に近づこうとしない。


 それどころか、積極的にいじめに加担し始める者も現れた。紫門に媚びるため、俺をいじめることで自分の立場を守ろうとする者たち。人間の本性の醜さを、嫌というほど思い知らされた。


 つらい。胸の奥に重い石でも詰まっているような感覚が続く。


 朝、目が覚めた瞬間から憂鬱だ。「今日もまた学校に行かなければならない」という現実が、重くのしかかってくる。ベッドから起き上がるのも億劫で、何度も二度寝を繰り返してしまう。


 日本では年間の自殺者数が年々増加しているという。テレビのニュースで見た時は、そんなに死んでいるのか、という他人事のような疑問を持った。統計的な数字でしかなかった。


 だが、なるほど今ならわかる。何もかもが嫌になる。朝、目覚ましの音で起きた瞬間から憂鬱で、今日一日をどうやって乗り切ろうかと考える。生きることが苦痛になる。統計の向こう側にいる人たちの気持ちが、今なら痛いほどわかる。


 やめたい、つらい。もう学校なんて行きたくない。


 でも、学校に行かないと家族が心配する。特に母さんは心配性だ。少しでも体調が悪そうだと、熱を測り、額に手を当て、「大丈夫?」と何度も聞いてくる。そんな母さんに、息子がいじめられて学校に行けなくなったなんて言えるはずがない。


 母さんは毎朝早起きして、俺の弁当を作ってくれる。「今日は翔太の好きな卵焼きよ」と嬉しそうに言いながら、弁当箱に詰めてくれる。その愛情を、虫を入れられることで踏みにじられる。母さんには絶対に言えない。


 だから、学校に行く。


 そして、いじめられる。


 歯を食いしばって耐える。そして、なんとか一日が終わる。


 この繰り返しだ。


 まるで拷問である。今日もなんとか終わった。六時間目の終了チャイムが鳴った瞬間、心の底からほっとした。


 長かった……。

 一日が本当に長かった……。


 時計を見るたびに、針がほとんど動いていないように感じられる。まるで時間が止まっているかのように感じられた。授業中は地獄の時間。休み時間はさらなる地獄の時間。昼休みは最悪の地獄の時間。


 何も考えたくない。ただただ泥のように眠りたい。現実を忘れて、夢の中に逃げ込みたい。ぼろぼろの精神で帰宅する。玄関の鍵を開ける手も震えていた。


「あ、父さん」


 リビングに足を向けると、父さんが帰宅していた。いつものスーツ姿のまま、テーブルに夕刊を広げて読んでいる。ネクタイは少し緩められ、一日の疲れが顔に現れている。夕食ができるのを待っているようだ。


 今日は帰宅が早いな。いつもなら残業で夜九時を過ぎるというのに、まだ六時半だ。


 父さんは草乃月財閥の系列会社に勤務するサラリーマンだ。草乃月財閥の系列会社というと聞こえはいいが、父さん曰く実態は違うらしい。系列の系列のそのまた系列の会社で、要は普通の中小企業だという話だ。


 それでも社員は数百名を超えているし、福利厚生も充実している。大学生の働きたい企業ベスト百にもランクインしたことがあるし、世間から見ても優良企業だと思う。父さんはその会社で、真面目に働き続けてきた。


 そんな会社で一昨年、三十九歳の若さで父さんは課長に昇進した。給料は増えたけれど、その分責任も増えて大変だと言っていた。部下が十名ほどいて、彼らの管理や指導、取引先との交渉など、やることは山ほどある。


 時々、部下の愚痴を聞かされることもある。「最近の若い子は根性がないなあ」とか、「責任感が足りない」とか。でも、決して悪く言うわけではない。「みんないい子なんだけどね」と必ずフォローを入れる。それが父さんの人柄だった。


 俺も大変だと思うし、すごくかっこいいと思う。


 家族四人を養い、一戸建てのマイホームも購入して、毎日残業続きでも嫌な顔ひとつせず、家族のために働いてくれるんだから。時々、疲れ切った表情を見せることはあるけれど、家族の前では常に明るく振る舞ってくれている。


 休日でも、俺や妹の真理香の相手をしてくれる。キャッチボールに付き合ってくれたり、真理香とお人形遊びをしてくれたり。本当は疲れているはずなのに、嫌な顔ひとつしない。


 俺は、どれだけ父さんに甘えていたか身に染みてわかった。


 人は苦境に陥って初めてわかることがある。それは、自分がどれだけ恵まれて生活していたか、ということだ。もっと勉強をしておけばよかった。成績がもう少し良ければ、クラスでの発言権も違っていたかもしれない。


 もっと運動しておけばよかった。体力があれば、もっと堂々としていられたかもしれない。逃げ足も速くなったかもしれない。いざとなったら反撃できる筋力もあったかもしれない。


 もっとクラスメートと話をして友達を作っておけばよかった。本当に信頼できる友人がいれば、こんなことにはならなかったかもしれない。一人でも味方がいれば、状況は大きく変わっていただろう。


 そうすれば、このいじめも違った結果になったかもしれない。でも、今更後悔しても仕方がない。


 俺が自己嫌悪に陥っていると、父さんが俺の帰宅に気づいたようだ。新聞から顔を上げて、いつものように声をかけてくる。


「おかえり、翔太。どうした? 早く上がれ。もうすぐ飯だぞ」


 しかし、その声にいつもの明るさはなかった。心なしか心配そうな表情を浮かべている。父さんの観察眼は鋭い。課長として部下を管理しているだけあって、人の変化を敏感に察知する。


「うん……」


 力のない返事をしながら、靴を脱ぎリビングに向かう。通学カバンはそのまま廊下に置き、テーブルの自分の席へと座る。いつもなら母さんに「カバンはちゃんと部屋に持って行きなさい」と注意されるところだが、今日はそんな気力もない。


 台所からおいしそうな匂いがしてきた。玉ねぎを炒める香ばしい香りと、スパイスの香り。


 今日はカレーか。


 母さんが作るカレーは俺の大好物だ。ルーから手作りで、野菜もたっぷり入っている。人参、じゃがいも、玉ねぎを大きめに切って、じっくりと煮込んでくれる。隠し味にチョコレートを入れるのが母さん流だ。


 いつもなら匂いを嗅いだだけで食欲が湧いてくるのに、今日は胃が重たい。弁当に虫を入れられた衝撃で、食べ物を見るのも辛い。


 家に帰ってきたんだ。ここは安全な場所なんだ。そう実感すると、涙が出そうになる。こんなところで泣くわけにはいかない。ぐっとそれを堪え、代わりにふーっと大きくため息をついた。


「学校で何かあったのか?」


 父さんが新聞をテーブルに置き、真剣な表情で声をかけてきた。さすがに大きなため息だったか。それとも、このところ俺の顔があからさまに暗いのに気づいているのだろうか。父さんは忙しい人だが、家族のことはよく見ている。


「べ、別に……」


 言葉が詰まる。嘘をついているのが自分でもわかる。声も上ずっているし、目も泳いでいる。これじゃあ嘘がバレバレだ。


「本当か? 翔太、最近元気がないぞ。何かあったら話してくれ」


 父さんの問いに答えられない。


 いじめられているとはとても言い出せない。親に心配をかけてしまう。父さんだって仕事で疲れているのに、息子のことでさらに悩ませたくない。かといって、「なんでもないよ」と言えるほど精神に余裕があるわけでもない。


 つまり、答えられないのだ。


 長い沈黙が続く。壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。リビングの蛍光灯の音も、普段は気にならないのに今日はやけに耳につく。


 いつまでも息子が返事をしないことに、父さんは疑いの目を強めていく。課長としての経験からか、部下の異変を察知する能力に長けている父さんだ。息子の嘘なんて簡単に見抜いてしまうだろう。


 これはさすがに、いじめられているのがバレたかもしれない。


 父さんも事情を察したようだ。立ち上がると、ズボンのポケットから携帯電話を取り出そうとする。


「先生に父さんから言う」


 担任の先生に直接電話で抗議をする気だ。父さんの正義感の強さは昔から知っている。理不尽なことは許せない性格なのだ。会社でも、部下が不当な扱いを受けていると聞けば、必ず上司に掛け合ってくれるという。


「い、いや、ちょっと待って」

「息子が悩んでいるのなら、解決するのは父親の役目だ」


 父さんの手が携帯に伸びる。本気だ。父さんの正義感は本物だが、それが今回は逆効果になってしまう。


「やめて、そんなことされたら余計にひどくなるよ!」


 思わず大きな声で制止する。


 担任を頼っても解決にならない。それどころか事態は悪化するだろう。担任の山田先生は、いじめを見て見ぬフリをしている。というより、見て見ぬフリをせざるを得ない立場にいる。


 なにせ紫門の父親、小金沢グループの会長小金沢潤平は、親バカで有名だ。息子が通う南西館高校にも多額の寄付をしている。噂によると数千万円だっけ? それこそ、校長をはじめ教職員が最敬礼で迎えてもいいぐらいのとんでもない額だ。


 新校舎の建設費用の一部も、小金沢グループが負担したという話まである。体育館の改修工事、グラウンドの整備、最新のコンピューター室の設置。すべて小金沢グループの資金が投入されている。


 学費を払うだけで、成績もパッとしない俺と比べるまでもない。学校側は紫門を完全に贔屓している。教師たちも紫門には腫れ物に触るような態度だ。


 いじめを訴えても、聞き入れてくれないだろう。逆に名誉毀損で訴えられるかもしれない。


 必死に父さんを止める。一つ一つ、学校の事情を説明する。大企業の子息がどれほどの力を持っているか。教師たちがどれほど及び腰になっているか。紫門がどれほど学校で優遇されているか。


 はじめは学校に乗り込んでいく気まんまんだった父さんも、俺が詳しく説明すると、考えを改めたようだ。携帯をポケットに戻し、深いため息をつく。


「そうだな。翔太の言う通りだ。こういう問題は、親が出しゃばって解決するものじゃないよな」


 父さんの肩が少し落ちる。息子を守りたいのに、守れない歯がゆさが伝わってくる。課長として部下を守ることはできても、息子を守ることはできない。その現実が、父さんを苦しめているのがわかる。


「……うん」

「転校するか」


 父さんがポツリと言った。真剣な表情で、俺の目を見つめている。


「別に今の高校が人生のすべてではないんだ。そこで躓いても、他でやり直せばいい」


 父さんの言葉に、一瞬希望の光が見えた。しかし、現実を考えると無理だとわかる。


「他って、この時期じゃ無理だよ。少し調べたことあるけど、近くの高校は編入の募集はしていなかった」


 実は密かに調べていたのだ。県内の高校の編入状況を、インターネットで片っ端から調べた。しかし、どこも年度途中の編入は受け付けていない。


「なら遠くでもいい。県外まで探せば募集しているだろう」


 父さんは本気だった。遠くでも、今の家を売って家族皆で引っ越しをしてもいいと言ってくれている。


 うちは新築だ。俺が高校に入学すると同時に買った。三十五年ローンを組んで、父さんと母さんが何度も話し合って決めた念願のマイホームだ。


 家を探すのも大変だった。土地の値段、交通の便、学校区、近所の環境。すべてを考慮して、やっと見つけた理想の家。母さんは「やっと自分の家ができた」と泣いて喜んでいた。


 近所には便利なスーパーもあるし、隣近所とも仲が良い。向かいの田中さんは野菜を分けてくれるし、隣の山田さんは庭の手入れを手伝ってくれる。妹の真理香も自分の部屋ができて友達を呼べるって、はしゃいでいた。


 両親は「やっと安住の地を見つけた」って喜んでいる。引っ越しは絶対にしたくないだろうに。


 家のローンもたっぷりある。まだ二年しか経っていない。今売ったら確実に損をする。父さんの給料だけでは、新しい土地で家を買い直すのは困難だろう。


 俺が一人で遠くの学校に下宿するという手もあるが、それでもお金がかかる。下宿代に食費、光熱費。月に十万円以上は必要だろう。父さんの給料では、そんな余裕はない。


 これ以上、親に心配をかけたくない。これ以上、父さんたちに甘えてどうするんだ。


 心を奮い立たせろ。何でもないように言うんだ。それが家族にとって一番いい選択だ。


 笑顔を見せろ。根性を出せ、俺!


 腹に力をぐっと入れ、表情筋をフル活動させた。作り笑いでもいい。とにかく父さんを安心させなければ。精一杯顔に笑顔を張り付け、父さんに向かって言う。


「あはは、冗談だよ。転校なんて、父さん深刻になりすぎ。確かにクラスメートと喧嘩して、少しブルーになってたけど、ただそれだけだから」

「本当か?」


 父さんの目が俺を見つめる。疑っているような、それでいて安心したいような、複雑な表情だ。課長として部下の報告を聞く時の、真剣な眼差し。


「うん、喧嘩しただけだよ。そいつがこれからつっかかってきても、無視すればいい。そうだよ、いちいち反抗してたから喧嘩になってたんだ。これからは無視する。大丈夫。クラスには嫌な奴もいるけど、俺を心配してくれる友達も大勢いるんだ。俺は一人じゃない、大丈夫だから」


 嘘だ。全部嘘だ。でも、言わなければならない。


 友達なんていない。俺を心配してくれる人もいない。みんな紫門の顔色を窺って、俺を避けている。でも、父さんにそんなことは言えない。


「本当なんだな?」

「本当だ!」


 俺も男だ。はっきりと父さんの目を見て断言する。嘘でも、この瞬間は本当だと自分に言い聞かせる。


 父さんは俺の言葉を頭の中で反芻しているようだ。腕を組み、目をつむり、じっと考えている。課長として部下の報告を聞く時の表情だ。俺の言葉の真偽を見極めようとしている。


 俺は、そんな父さんに向けて必死で説得する。表情を明るく保ち、声にも張りを持たせる。演技でも何でも、父さんを安心させなければならない。


 そして十分ほど経って、根負けしたのかしぶしぶではあるが、父さんは納得してくれた。


「わかった。でも、どうしても我慢できなくなったらすぐに相談しろ。転校していい、逃げるのは恥じゃない。父さんと母さんは、いつでも翔太の味方だから」


 父さんの言葉に、また涙が出そうになる。


 よかった。これでいい。父さんを安心させることができた。もう心配をかけることはない。


 ほっと胸をなでおろす。ただ、父さんからは念を押すように、何度も「困ったら相談しろ」と言われた。父親としての愛情と責任感が痛いほど伝わってくる。


 あれから二週間が過ぎた。父さんとは毎晩のように話をしている。


 父と息子のコミュニケーション。父さんは、最近仕事が忙しくて息子と話ができなかったことを悔いていたみたいだ。どんなに疲れて帰ってきても、どんなに遅くなっても、俺と話をする時間を作ってくれる。


 久しぶりに楽しい時間だ。


 学校での地獄のような時間とは対照的に、家での父さんとの時間は心の支えになっている。仕事の話、昔の学生時代の話、将来の夢の話。何気ない会話が、こんなにも心を温めてくれるとは思わなかった。


 父さんは学生時代の話をよくしてくれる。


「父さんも高校時代は、それなりに悩みがあったんだ」と言いながら、当時のエピソードを話してくれる。勉強についていけなくて悩んだこと、好きな女の子に振られたこと、友達とのけんかのこと。


「でも、そういう経験があったから今の父さんがある」と言ってくれる。人生に無駄な経験はないのだと、教えてくれる。


 そんなある日の夜、父さんが意外な提案をしてくれた。


「翔太、悩んだ時やストレスを溜めた時は、日記を書くのが良いぞ」


 父さんは自分の体験談を交えながら、文章を書くことの効果について話してくれた。新入社員の頃、上司との関係で悩んでいた時期があったらしい。その時に日記を書き始めて、心の整理ができるようになったという。


「最初は嫌な上司の愚痴ばかり書いていたんだ」と父さんは苦笑いしながら言った。


「でも、書いているうちに、自分の気持ちが整理されてきた。なぜイライラするのか、どうすれば状況を改善できるのか、客観的に考えられるようになったんだ」


 興味深い話だった。でも、俺には少し抵抗があった。


「日記は、なんか宿題みたいで少し億劫だな……」


 正直な感想を言うと、父さんは少し考えてから、意外な提案をしてくれた。


「それならば、小説を書くことを勧める」


 小説? まったく思いもしなかった提案だった。


 父さんの趣味は小説を書くことだった。休日にノートパソコンを使って何か書いているのは知っていた。リビングのテーブルで、時々真剣な表情でキーボードを叩いている姿を見かけることがあった。ただ、恥ずかしいからと今まで内容は教えてくれなかった。


 「何書いてるの?」と聞いても、「まあ、ちょっとした趣味だよ」と言ってはぐらかされていた。母さんも「お父さんの秘密の趣味よ」と言って笑っていた。


 それが、とうとうその内容を教えてくれたのである。


「父さんは、職場のストレスを小説を書くことで解消しているんだ」


 父さんの説明によると、嫌な上司を悪役にして、性格の良い同僚や部下を正義役にした物語を書いているらしい。現実は非情で、正義が必ず勝つとは限らない。理不尽なことがまかり通ることも多い。でも、小説の中でなら勧善懲悪できる。


「悪い奴らを思い切り懲らしめて、いい人たちが報われる話を書くんだ。そうすると、現実のストレスも少し軽くなる」


 なるほどと思った。確かに現実では、紫門みたいな奴が我が物顔で振る舞っている。教師たちも見て見ぬフリだ。でも、小説の中でなら違う。


 俺も紫門たちを悪役にして、奴らをコテンパンにする小説を書きたい。想像するだけで、少し気持ちが軽くなった。


「具体的には、どんな話を書けばいいんだろう?」


 俺が興味を示すと、父さんは嬉しそうに詳しく説明してくれた。


「まず、舞台設定を決めるんだ。現代でもいいし、過去でも未来でもいい。ファンタジーの世界でもいいぞ」


 父さんの小説は現代のサラリーマン社会を舞台にしているという。でも、俺にはファンタジーの世界の方が魅力的に思えた。魔法や剣が存在する世界なら、より劇的な勧善懲悪ができそうだ。


「主人公は自分をモデルにするといいぞ。そうすると、感情移入しやすくなる」


 父さんの主人公は、正義感の強いサラリーマンという設定らしい。無能な上司や卑怯な同僚に囲まれながらも、持ち前の誠実さと努力で困難を乗り越えていく。


「最後は必ず正義が勝つようにするんだ。悪い奴らは必ず報いを受ける。それが小説の醍醐味だ」


 父さんの目が輝いていた。小説を書くことが、本当に好きなのだとわかる。


 それから数日後、俺は初めて小説を書き始めた。


 主人公の名前はショウ。どこか遠い国の王国を舞台にした冒険ファンタジーだ。


 ショウは、王国の忠実な騎士として仕えている。身分は低いが、持ち前の正義感と勇気で多くの人から信頼されている。しかし、王国には悪しき王侯貴族シモンがいた。


 シモンは自分の権力を使って庶民を苦しめ、王様すらも騙している。表向きは王国のためを思っているように振る舞いながら、実際は私腹を肥やすことしか考えていない。


 麗良という名前の王女も登場させた。美しく心優しい王女だが、シモンの甘い言葉に騙されて、ショウを疑うようになってしまう。シモンの巧妙な策略により、ショウが王国を裏切っているという嘘の情報を信じ込まされてしまうのだ。


「レイラ王女は悪役王侯貴族シモンに騙され、王国は滅亡の危機に陥る。そんな王国の危機に立ち向かうのは、主人公ショウだ。ショウは、佞臣が蔓延る王宮で孤軍奮闘する」


 うん、イメージが湧いてきた。


 この調子で、いじめに加担した奴らは徹底的に悪役にしてやる。いじめを見て見ぬフリをした奴らも同罪だ。


 クラスメートたちも次々と登場させた。紫門に取り入ろうとする卑屈な貴族たち、強い者に媚びへつらう商人たち、正義を見て見ぬフリをする役人たち。みんな実在のモデルがいる。


 宮本は「ミヤーノ・ダーク・デモーニオ」という名前の狡猾な商人にした。デモーニオは悪魔を意味する言葉だ。佐々木は「サザキ・イービル・クルエル」という残忍な騎士にした。


 それぞれの悪役に、現実での嫌な行動をそのまま移植した。ゴミを投げつける、持ち物を隠す、陰口を叩く。すべてをファンタジー風にアレンジして物語に組み込んだ。


 最後は、正義の忠臣ショウの活躍で悪臣たちを滅多切りにする。王侯貴族シモンは、これまでの大罪が明るみに出て極刑に処そう。


 火あぶり? いや、磔もいいかも?


 おぉ、いいね、いいね!


 紫門たちがざまあみろになる光景を想像したら、胸が少しスッとした気がする。これは、いいストレス解消法だ。


 キーボードを叩く手が止まらない。物語の世界では、俺は無敵のヒーローだ。どんな困難も、どんな敵も、すべて乗り越えることができる。


 父さん、ありがとう。息子に自分の趣味を告白するのは恥ずかしかっただろうに、包み隠さず話してくれた。俺を思ってのことだ。涙が出る。


 学校でのストレスは、小説を書くことで軽減できそうだ。


 それにだ。よくよく考えれば、何もいじめが一生続くわけじゃない。高校を卒業すれば、奴らとは縁が切れる。


 それまでの辛抱だ。


 小説の世界で正義を実現しながら、現実でも希望を見つけていこう。きっと、いつかは報われる日が来る。


 父さんが教えてくれた小説執筆という新しい武器を手に、俺は明日からも戦い続ける。

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